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  Aをしないとだめだから、Aをするのがよいと思ったんですが、Aをするのもだめじゃないかと思ってしまいました。
 とりあえず、Aをするのがよいのに賭けようと思いましたが、その賭けも間違っているのかもしれないと思ってしまうんです。
 どうすれば、Aがよいと納得できるのでしょうか?
 なんか、100%Aがよいということはないのではないかと思ってしまうせいだと思うのですが。

A 回答 (15件中1~10件)

No.9です。

前回とは別の視点から回答します。

「Aがよい」と100%納得したいのなら、「これしかない」という納得が必要だと思います。

100%のよい選択は無いと考えているのですよね。
では、100%のよい選択は無いということが100%言えるのではないですか?
それでも100%のAを選択したいと考えるのなら、
「そのAが100%よいから選択しようとしているというわけではない」ことになると思います。

それでも「よい選択をしたい」と考えるのなら、
何にとってのよい選択をしたいのでしょうか。
その先に自分が100%納得できる選択が存在する可能性があるような気がします。
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この回答へのお礼

>では、100%のよい選択は無いということが100%言えるのではないですか?

ああ、確かに気分的にそうですね。これでいいっすね。

>それでも「よい選択をしたい」と考えるのなら、
何にとってのよい選択をしたいのでしょうか。
その先に自分が100%納得できる選択が存在する可能性があるような気がします。

 納得できればいいってことですね。回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/18 12:06

私もよく最初の質問文に似た状態に陥ってしまいます。


「私は臆病で欲張りなんだろうな、だから完璧主義者なんだ」と思います。

でも、「完璧」ってなんでしょうね。
「○○が完璧」「○○が良い」と自分が勝手に思ってるだけで、
自分が知らない情報が他に存在したら、自分が思っている「○○」は完璧でないかもしれません。
結局、「完璧」もまた「不確かなもの」「推測」に過ぎず、また「思い込み」なんだと思います。
完璧を求めるという行為は時にして、推測に推測を重ねて堂々巡りを繰り返しているだけで、
100%の状態に近づく行為になっていない場合があると思います。
簡単に言えば、100%なんてものは無いと考えるのが賢明かと思います。

>「このように行動するのがいい。」って言葉を発したときには、
>「このように行動するのがいい。」というのが表している実感は存在しない気がするんですよ。
>そうすると、なんか、本当に決断しているのかやらなんやらになってしまうんですが、

「良し悪しを探る」→「これが良いと感じる」→「これに決める」
という風に段階を踏んでいくわけですよね。
もちろん、決めるその瞬間に良いという実感を伴っているほうが好ましいと思います。
でも、例え決める段階に良いという実感が伴わなかったとしても、
「決める」段階の前に、「良いと感じる」という段階はすでに成功して済ませたのですから、
もう問題は無いと考えてもいいのではないでしょうか?

でも、そもそも、「実感は存在しない気がする」というのもまた”不確か”ですよね。
「気がする」わけですから。
spitzer3さんの場合、例え実感を得られたとしても、
その実感でさえも推測の類として疑ってしまうのではないでしょうか?
ですから、ご自身もNo1, No2で返答されているように、
「実感のありなし」よりも「可能性の高さ」に着目して、
可能性の高いものを選ぶという行為自体を自信と捉えたほうが、
spitzer3さんは納得されるのではないでしょうか?

結論としては、
「完璧もまた推測と同じ。100%は存在しないのだから模索し続けても堂々巡り。」
「可能性の高いものを選ぶのだから自信がある。」
「良いという実感を得る段階はすでに経た上で選んだのだからもう問題はない。」
という考え方はいかがでしょうか?

以上、長くなりましたが、私自身の反省の意味も込めて、回答させて頂きました。

この回答への補足

>その実感でさえも推測の類として疑ってしまうのではないでしょうか?

おっしゃるとおりなんですが、全部推測だと、なんか決断もできなくなってしまうと思うんです。何々がいいという決断もできなくなると思いますよ。
 何々がいいという決断も推測なんじゃないんでしょうか?

補足日時:2007/04/17 15:59
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No10の者です。

いろいろ考えてしまいました。その結果ですが、

これからする事に対して、「100%Aが良いと納得する」事は出来ないと思います。これは、単なる希望的観測ではないでしょうか?
「100%Aが良い」という事は、結果論であって、これからの事(未来の事)についてどうなるのかは誰も分かるはずがないからです。
「100%Aが良い」と考え行動しても100%ダメな時もあるでしょうし、「100%Aが良いとは思えない」と考え行動してみたら100%満足出来たりする事もあると思います。
ようするに、予期せぬ事態が起こり結果を左右する事もあるわけです。

それから、「自信がある事」と「100%Aが良いと決断する事、納得する事」では少し意味が違うと思います。
自信というのは、これからの事について「100%Aが良い(であろう)」といった、希望的観測をする事ではないと思います。
「自信がある」とは、これからの事についてどうすれば良いのかという事を、平常心で、リラックスして、落ち着いて、普段と何ら変わる事無く冷静に考え対応出来るという心理的、そして気持の余裕の事ではないでしょうか。
気持に余裕を持てれば「自信がある」事になり、気持に余裕が無ければ「自信が無い」事になります。
自信があれば、何ら迷う事無く「Aの方法でやろう」と決断・納得出来るのではないでしょうか?
しかし、自信がなければ「Aにしようか???・・・・でもBの方が良いような???」といった迷いが生じると思います。
そして、この心の余裕(自信)とは様々な事を経験し体験する事によって、形成されるものだと思います。
自信がある人は、これからの事に対して、100%満足出来る結果を出そうと考えているとは思いません。
過去の経験に基づいて、過去の結果に基づいて、最良の決断をして行動を起こしているのだと思います。良かったか、悪かったかは、結果論にすぎません。自信のある人は、結果の良し悪しに関係なく、さらに自信になっていくのだと思います。

質問者さんの現在の状況は、これからの事について自信が無いのに結果だけ求めているのではないでしょうか?
それも、100%満足出来る結果だけ求めているのでは?
「ダメでもともと。少しでも満足できれば良しとする」といった、考え(心の余裕?)が必要ではないでしょうか?
今は、結果を恐れず考えず、現在の質問者さんが出来る範囲、考える事の出来る範囲で行動されたら良いのではないでしょうか?多くの事を経験されたら良いのではないでしょうか?
やがては、自信という形になってくると思います。

という事を考えてしまったのですが、回答になっているのでしょうか?
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この回答へのお礼

>「ダメでもともと。少しでも満足できれば良しとする」といった、考え(心の余裕?)が必要ではないでしょうか?

 こういう考えも自信と言えるんですね。勉強になりました。回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/04/17 12:22

#5なんですが、補足が付いていましたので再来しました。



> 覚悟して、それでいいやと思えばいいんですね。
>  そして、「それでいい」というのは将来の予測ではなくて、今現在のことを言っているんでしょうね。 
>  しかし、 現在に対して「それでいい」とか言えないもしれないし、Aがあるとは言えないかもしれないんじゃないんでしょうか?

おっしゃっていることがよく分かりません。たとえ話でもいいですから、具体的に書いてもらえませんか。「Aをしないとだめ」「Aがよい」「Aがあるとは言えないかもしれない」……Aってなんですか? イメージできないので、何か当てはめてください。

別に「覚悟しなければならない」わけではないんですよ。ただし、「今は判断できないからどちらも選ばない」というのも、一種の決断なんです。自覚がないかもしれませんが。また、選択時とは前提条件が変わったために、決断しなおすことはよくあります。今、納得できないなら、「これこれこういうところが納得できない」と、自信を持って表明し、選択を保留すればよいのではないですか。

何を迷っていらっしゃるのか皆目見当が付きませんが、一度選択を間違えたらといって、二度と取り返しが付かなくなることって、(生死に関わるようなことは別にすると)実は意外と少ないですよ。

この回答への補足

>今、納得できないなら、「これこれこういうところが納得できない」と、自信を持って表明し、選択を保留すればよいのではないですか。

 「これこれこういうところが納得できない。」って現在のことを言っているんだと思いますが、この言葉が指し示している現在というのはもうすでに過ぎ去って感じることはできないと思うんです。
 そうすると、「これこれこういうところが納得できない。」っていうのは存在しないかもしれないことになるんでしょうか?

補足日時:2007/04/16 22:10
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やっと分かりました、spitzer3さんは仏陀になりたいのですね。


今の苦しみはその過程で起きている試練なのですね。
つらくなったら中庸という言葉を思い出してください。
では。
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この回答へのお礼

>つらくなったら中庸という言葉を思い出してください。

 確かに完璧を求めすぎたみたいなんで、いい加減で行っていきたいと思います。
 回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/04/16 10:51

質問者さんの話を伺っていると、いつになったら行動するの?って感じます。


自信というのは、多くの失敗・経験によって生まれてくるものだと思います。ですので、まずは行動を起こさなければ話が始まらないのではないかと思います。行動した結果、良かったのか悪かったのか、100%満足出来たのか出来なかったのか、という判断が出来、満足できれば自信になっていくと思います。そして、満足出来なかった場合、次はどのように行動すれば満足できるのか?を考え、さらに積極的に行動を起こす事が、最も大切な事ではないでしょうか?
私が思うには、失敗を沢山する事によって多くの考え方・多くの方法・多くの行動を経験する事が出来、どのような状況下においても適切な対応、ようするに100%満足出来る結果に近づくような行動が出来るようになると考えていますし、それが自分の自信になると考えています。

自分自身が多くを経験・体験する事により、その時その時の状況をしっかり見極める能力と、多くの経験の中から、どの方法を選択すれば現在の状況下で100%満足出来る結果を得られるか、という決断をする事が出来るのでは?と考えます。
他の人が行動して100%満足出来る結果が出たとしても、質問者さんが同じ行動をして100%満足出来る結果を得られるとは限らないと思います。なぜなら、他人と質問者さんとでは、経験・考え方・ライフスタイル等すべて同じではないからです。
特に、質問者さん自身が何の行動も起こしていないのでは?と思われますし・・・。
質問者さんが少しでも行動を起こして、思うような結果が得られなかったという事であれば、経験者の助言・アドバイス等は、ある程度参考にはなると思いますが・・・。

> どうすれば、Aがよいと納得できるのでしょうか?
他の方に頼るのは出来るだけ最終的な事として、とにかく質問者さん自身が何に対しても積極的に行動を起こし、失敗でも成功でも良いので、沢山の経験を積まれる事です。
そうすれば、新たな出来事に対しても「このように行動をしよう」といった決断が出来るようになると思います。
このような考えが出来るようになれば、結果的に失敗したとしても「今後成功する為の一つの経験だ」と納得出来るようになっていると考えます。何事も成功する事は良い事だと思いますし、成功する事が自信に繋がると思います。
しかし、「自信を持って失敗する」「失敗した事についても自信を持つ」という事も大切ではないかと考えます。

これで、適切な回答になっているのでしょうか?

この回答への補足

>そうすれば、新たな出来事に対しても「このように行動をしよう」といった決断が出来るようになると思います。

 「このように行動しよう」っていうのは「このように行動するのがいい。」ってことですよね。
 これは今のことを表す言葉だと思うんですが、「このように行動するのがいい。」って言葉を発したときには、「このように行動するのがいい。」というのが表している実感は存在しない気がするんですよ。
 そうすると、なんか、本当に決断しているのかやらなんやらになってしまうんですが、現在も推測になってしまうのでしょうか?
 決断もまた推測になってしまうんで、決断ができなくなるような気がしてしまうんです。

補足日時:2007/04/15 17:26
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No.4さんへの「この回答への補足」で書かれていた疑問内容について考えてみました。



物事を断定的に言ったり、思わなくなるために、
日常的に「自分はこう思う」をいう言葉を使うようにしてはどうでしょうか。

この回答への補足

>物事を断定的に言ったり、思わなくなるために、
日常的に「自分はこう思う」をいう言葉を使うようにしてはどうでしょうか。

 しかし、「自分はこう思う」も断定的に言っているような気がするんですが。

補足日時:2007/04/15 11:38
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spitzer3さんは自分に対してずいぶん客観的というか他人行儀ですね。


ご自分の感情、感覚、行動をリアルタイムに自覚できていない感じがしますがどうでしょうか。それ故に最初の質問にある”自信”を求めていのでしょうか。

・焼き魚定食がいいと自分が感じていると確信できない。
・焼き魚定食を食べていると自覚できない。
・心とは裏腹に焼き魚定食がいいと言っていないかもしれない。

意識と無意識は別のようにも思いますが、海に浮ぶ氷山と同じで、水面下と海面上とに分けたとしても同じ氷であることには変わりは無いと思うんですがどうでしょうか。

この回答への補足

>意識と無意識は別のようにも思いますが、海に浮ぶ氷山と同じで、水面下と海面上とに分けたとしても同じ氷であることには変わりは無いと思うんですがどうでしょうか。

言葉を発したときには、その言葉が示す感じというのがないので、本当に合っているのかと思うのです。
 また、Aがあるというのが現在であると言っても、将来、その現在がAがあるときであったと言えなくなるのではないのではないのでしょうか?
 そうすると、現在も、可能性になってしまうような気がしてしまうんです。

補足日時:2007/04/15 11:36
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だんだん哲学的になってきましたね。



>「皆さんの助言はどっちだっていい。」というとき、それがあると思っているんですが、それも間違っているかもしれないと思うんです。

ちょっと意味が分からないのですが、しょうが焼き定食と焼き魚定食は確実に目の前にあるからこそどちらかを選ぶという行為が生まれるのではないでしょうか。未来を選択することはできません。選択できるのは現在のみではないでしょうか。原因(選択)が結果(未来)を生み、その結果が次の事象の原因となります。これが因果ですね。
選択しないという選択肢もありますが、そのことを言っておられるのでしょうか。具体例を挙げてもらえると分かりやすくて助かるのですが。

この回答への補足

>ちょっと意味が分からないのですが、しょうが焼き定食と焼き魚定食は確実に目の前にあるからこそどちらかを選ぶという行為が生まれるのではないでしょうか。未来を選択することはできません。選択できるのは現在のみではないでしょうか。

 おっしゃるとおりでして、焼き魚定食がいいというのは未来のことではなく、現在の自分の選択というか、そのいい感じのことを言っているんだと思います。

>選択しないという選択肢もありますが、そのことを言っておられるのでしょうか。具体例を挙げてもらえると分かりやすくて助かるのですが。

現在において、焼き魚定食がいいと自分が感じているといっても、本当は現在において焼き魚定食を食べているとは限らないんじゃないかと思うんです。現在において、焼き魚定食がいいと言っていないかもしれないと。
 現在に対しても、焼き魚定食がいいかもしれないということになってしまうんじゃないんでしょうか?

補足日時:2007/04/13 13:10
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#1です。


まだお悩みのなのですね。

昼休みに食堂に入ったら、しょうが焼き定食と焼き魚定食しかなかったとします。どっちを食べますか?
皆さんの助言はどっちだっていい、ただ早く食べないと昼休みが終わっちゃうよという事です。

この回答への補足

>皆さんの助言はどっちだっていい、ただ早く食べないと昼休みが終わっちゃうよという事です。

 どうも私は将来のことを絶対にいいとかよくないかもしれないとか言っていたようです。
 ここで、皆さんの助言はどっちだっていいというのは、現在のことを言っていると思います。つまり、現在のことを言えばいいんだと言う感じになりました。
 ここで、疑問なんですが、現在のことというのは絶対にあるのでしょうか?
 「皆さんの助言はどっちだっていい。」というのは絶対に現在にあるといえるのでしょうか?
 「皆さんの助言はどっちだっていい。」というとき、それがあると思っているんですが、それも間違っているかもしれないと思うんです。

補足日時:2007/04/13 11:39
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