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三千石以上の寄合は守名乗りすることが出来たということですが、これは寄合なら誰でも守名乗りを許されていたということでしょうか?

浅野内匠頭の弟・長広は三千石の寄合で、「大学」と称していたようですが、どうして「大学頭」と守名乗りをしてなくて官名風の「大学」なのでしょうか。

A 回答 (2件)

>寄合なら誰でも守名乗りを許されていたということでしょうか?



誰でもという訳でなく、幕府(将軍家)朝廷の気分次第でした。
もちろん、官位によって守名は決まります。
室町時代中期(後期)には、「守名」は何ら意味もなく名目上の存在です。
足利幕府14代将軍の子孫(と、その配下)は、江戸時代を通じて代々「独自に官位・守名」を名乗っていましたよ。
ただ、幕府(将軍家)朝廷の気分次第とは言うものの「幕府の推薦を受け朝廷が任命する」というルールは守られていた様で、旗本は「せっせと賂(賄賂)」を行っています。

浅野長広の場合は、松の廊下事件がなければ「大学」から「大学頭」・「守名」を拝領した可能性があります。本家は「芸州の大藩・浅野家」ですからね。

余談ですが。
武蔵守・三河守は将軍家、上野守・上総守・常陸守は皇族が名乗る暗黙の了解がありました。
そこで武蔵守・三河守は永久欠番となり、上野・上総・常陸は「守」でなく次位である「介」を用いました。曰く上野介・上総介・常陸介です。
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この回答へのお礼

五位諸太夫の役職についた場合は従五位下○○守となりますが、寄合は無役でも位階なしで○○守を名乗れたのかと思っていたのですが、そういう訳ではなかったのでしょうか。
寄合の中から守名乗りを許される者がいたということだったのすね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/22 19:38

守名乗りですが、旗本の場合、それなりの役職に付き、布衣を着すことを許されたものとなるようです。


それも許されてすぐに叙任するのではなく、みな時間を見てなっています。
浅野長広は布衣も許されていませんですし、叙任の記事もありません。たぶん、長矩の件がなければ3千石の寄合であったわけですので、そのうち布衣を許され叙任していたのかもしれません。閉門になるのが30代になったばかりですので早すぎたのでしょう。
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この回答へのお礼

三千石以上の寄合だと、無役でも守名乗りを許されていたのかと思っていましたが、そうではなかったのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/22 19:32

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