映画のエンドロール観る派?観ない派?

伊藤氏が凶弾にたおれたことは誠に遺憾なことだと思います。
しかし、伊藤氏の家族(遺族)が選挙に出て、弔い選挙だというのはおかしくありませんか?
伊藤氏が死去したことと、長崎市の市長を選ぶことは関係ないはずですよね。伊藤氏の婿が長崎市長としてふさわしいかどうかは、市民が選挙で判断すればいいことで、そこに恩情がないからといって泣き叫ぶ必要はないはずですが・・・。

A 回答 (4件)

suttenさんのお考えに基本的に賛成です、“伊藤氏が凶弾にたおれたことは誠に遺憾なことだと思います”この書き込みを前提に賛同するとゆう意味です、いかなる事情が起きても長崎市長を選ぶのは長崎市民です、ただ遺族の方の感情として、故人の遺志を継ぐ、無駄にしないとゆう考えが出るのは、当然だと感じ、残された方々の行動を私は批判しません、“泣き叫ぶ”←この光景をテレビで見ましたが、これは肉親の方を亡くし、その後の選挙の状況や結果を冷静に受け止める、状況では無かったと思います、テレビ等はありのままを伝えますが、それは本当の伊藤氏のご家族の考えや、結果に対する全てでは無いと私は思います。

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娘さんについては、お父様が普通ではない亡くなり方をして日が浅いですし、落選という事も重なりましたから、少々思慮の足りない発言があっても仕方のない部分はあると思います。


まあ、落ち着いたら自分の発言についてよく考えてほしいとは思います。伊藤市長の葬儀に多くの人が集まった事や、霊柩車に手を合わせようと沿道に多くの人が並んだ事。そして落選したとはいえ多数の票が入ったのですから。

そもそも選挙は立候補者の政策で争われるべきものです。そういう意味では失礼ながら、あの娘婿さんはあまりにもお粗末でした。出馬の記者会見を見ましたが、政策について記者に質問された時、故伊藤市長の政策を知らず、自らの政策もまだ無いと発言していました。隣にいた後援会の人が「政策はこれから勉強させます」とフォローしているのです。故人の意志を継ぐ筈の人が、その政策すら知らないとは・・・
市長の地位は世襲によって決まるものではありません。長崎市は故伊藤市長家族の私物ではないのです。
故伊藤市長の不当な死に怒り、その死を悼む事と、長崎市の市政を担っていく事は別物です。
あまりにも甘い考えの、民主主義、選挙制度の根本を理解していない出馬だと、記者会見を見て感じました。
だから落選しても驚きませんでした。彼らも時が経ち落ち着けば、そういう事はわかると思います。もしわからなかったら、例え次の選挙に出ても同じ事の繰り返しとなるでしょう。
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世に言う「弔い選挙」というのは」遺族の意思からではないことが多いものです。

集票機能を持つ後援会なる利権組織が自活のために行うものと考えてよいものです。
茨城七区に郵政民営化の狭間で自殺した永岡洋冶という代議士がいましが、妻が小選挙区では敗れたものの、比例区で当選を果たしています。
とかく「弔い選挙」は大勝ちすることが多く、あっさりと二世や妻が当選するものです。伊藤氏の遺族が後援会におだてられていたとしたら、落選の報に泣き叫ぶことは至極当然のことです。それだけ人格が卑しかったということです。おそらく「政治家」としての覚悟や政策がなかったのでしょう。恩情で市長になってどうするつもりだってのでしようか。市民は正しい選択をしたというべきだと重いマス。
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同感ですね。


田上氏と娘婿の素質の問題であって、
前市長はなーんにも関係ないと思います。
日本人は死人の悪口を言いませんが、
前市長の政治が良好なものであったとも限らないですしね。

今は伊藤氏の冥福を祈るばかりです。
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