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人の道徳的善性は、内在的自己中心的との戦いによって勝ち取られるものである。それは真に可能なのですか!?(人は自己中心性をこえられるのですか!?)

A 回答 (2件)

善性とは?貴方が何を「善」とするのか分かりません。



戦いではなく、選択です。衝動を抑制すると苦しみが生まれます。

自己中心性を超える?自己中心性がなければ生きていけません。

ここでは意識と道徳性の関係の幾ばくかを取り上げてみるだけにしよう。既に1871年にダーウィンは『人類の起源』の中で、道徳的生物は自らの行動について省察し、評価することができねばならないと述べている。彼の意見では、空腹や情欲などの短期的な欲望は、長期的な価値観によって抑えねばならない。ダーウィンは予期計画者が直面するジレンマを認識していた。将来の様々な必要を見越せる人間の能力は、二種類の複雑な状況に至る。まず、将来の様々な可能性を考えねばならないので選択肢の数がずっと増えてしまう。第二に、自らの選択について省察することができるので異なった種類の評価を互いに比較検討するということである。これら二つの複雑さは選択者に大きな不確かさをもたらす──甚だしい場合は存在上の不安を。この不安を緩和するために、人間には選ぶ際の手引きとなる原理が必要になる。
興味深いことに、ダーウィンは道徳性、すなわち自らの行動を省察し判断する能力を、進化の結果だと考えている。この考えは、殆どの人が道徳的な導きを得るのに宗教的な教理に頼っていた時代にあっては革命的であった。道徳は神によって与えられたものと見られていたからである。
道徳の原理は分離型の価値観であるといってもよい。動物も様々な目標──必要や欲求──を持ちうるし、それを満たそうとする意志も持ちうる。しかし、目標の分離型の表象を持てないので、その目的を達成したいのかどうかについてはハッキリした態度をとることができない。集団で暮らす動物は、ある種の社会的な規則、とりわけ集団内の序列に関する規則に従っている。しかしながら、それらの規則は個体にとって分離型の表象としては存在していない。動物は規則に気付かずに従っているからである。
ピアジェの主張によると、子供の道徳的価値観は、親や権威者に従うことからくるのではなく、他者に感情移入できる能力、すなわち他者の状況に自らをおくことができる能力からくるのだという。そのような役割の交換は、子供が他者の感情という概念をもっていることを前提としている。しかし、これだけでは道徳が生まれるには十分ではない。私が貴方に対して単に感情移入するだけでなく道徳的であろうとするなら、私は意識的な選択をしなくてはならない──つまり私の目標の分離型の表象をもち、それを他の可能な目標と比較できなくてはならない。従って、道徳的であるためには、自己意識と自由意志とをもっている必要がある。マーク?トウェインは、「人間は唯一顔を赤らめる動物、そうする必要がある動物である」と言っている。
道徳的な選択は個人的なものでありうる。しかし、我々が、他の誰かが同じ状況をいかに経験するかを省察することで、成すべきことを決断したのなら、他者が同じことをすると期待するのは自然なことである。従って、我々は言語を用いて、他者がすべきだと思うことをさせる。予期計画力に関する私の議論では、人間のジレンマに焦点をおいた。これは「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからだ」という使徒パウロの言葉がその一例である。道徳的な規則は、長期的で全体的な目標を、今現在の自己中心的な欲求との格闘の中で支えていくために必要である。社会はそのような規則を、法律や宗教的教令としてハッキリ打ち出すことで成り立っているのである。
長期的な目標のために協力するか、今したい気分のことをするのかの選択は、しばしばゲーム理論では「囚人のジレンマ」と呼ばれる葛藤につながる。囚人のジレンマは、全員が協力すると全員が利益をうるが、自分以外の全てが協力する状況では、一人だけ利己的になって協力しないとより利益をうる。しかし、誰も協力しないと、結果は全員にとって最悪なものとなる。
経済学者ロバート?フランクは、恥や愛などの感情と信頼や誠実さなどの社会的価値は、囚人のジレンマにおける短期的な利益をうることを避けるために、進化の過程を経て生まれてきたと論じている。例えば、税金を払わないなどの、他人に対してズルをすることで得をしようとするなら、その結果としての恥のために得がさほどのものに感じられなくなり、次からはそのような詐欺的行為は避けるようになるであろう、ということだ。感情が我々に、短期であれ協調することに利があるということを経験させるのである。
社会生物学者は、遺伝子はそもそも利己的で、できるだけ多く再生産しようとする、と言っている。とすると、自分の子供や親戚に対しては時には利他的であるべきだ、ということになる。自分の遺伝子の再生産を促進するわけだからである。
多くの形態の利他的行為は、長期にわたる主体な関わりを必要とする。利己的でない者の戦略は、信用を築き上げるために、短期的な自分本位の選択をしないでおく、というものだ。信用は、将来の様々な協力関係に発展するだろうし、それは一時の儲けよりも価値のあるものとなるからだ。そのような戦略は、通常は意識的な選択ではない。言い換えると、人は自分の評価を気にするために利己的ではなくなる、というこだ。良い評価が得られれば、将来に利益があるかもしれない。つまり短期的に利己的でないのは、長期的に利己的なのである。
こうした、信用が通貨である、というような投資モデルをもとに考えると、日常の良識的振る舞いの合理的な説明が得られる。しかし、注意すべきことは、この議論は二つの前提に基づいている。一つは、予期計画力で既に今、将来の選択の状況のために計画しているのである。利己的な短期の選択の価値と、将来の協調から得られるかもしれない利益とを比べることができなければならない。動物は今に生きていて、良識的振る舞いの戦略に必要とされる予期をうまく扱うことができない。同様に、小さな子供は先のことを考えるのが難しく、可愛い盛りに大いなる利己主義なのである。
二つ目は、この投資モデルの前提である。すなわち、利己的でない個人は社会に住んでいて、そこでは同じ人々に長期にわたって会うことが期待でき、従って信用から発展する有益な協力関係をずっと続けていくことが可能となる、というものだ。人間は存在し始めてから殆どの間、小さな部族や村で暮らしてきたので
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これはむしろ哲学の問題ですね。


おっしゃるような自己中心性の問題そのものが近来の
動物行動学では疑問視されています。利他行動です。
また、法哲学の観点からすると、善とは必ずしも内的
な相克によって得られるものではなく、自然に発生する
ものであるとされます。でなければ、法の正義が成り立
たないからです。
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