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純然たる観念論というものは決して存在し得ない

目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。
しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。
なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。
つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。
すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。
従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。
さて皆さんはどう思いますか。
 

A 回答 (2件)

真実の世界は目の前に、厳然たる事実として存在しています。

そこにおいて事実を見ているのか(おにぎりを、腹が減ったら食う)か?

湧き上がる感情を事実に即して体現するのは、宗教の本来性で、

湧き上がる感情を、事実と出来ない事が妄想です。目の前の事と、頭に湧き上がる事が一致しない場合です。事実に即して湧き上がる事柄を事実として認められない事を言います。

現実に目の前にないものを恐れたり、現実に手に出来ない事を祈ったりする事です。

永遠の命を願う事は『命としての、又人間としての』本来性です。既に『命』は永遠で出来ているからです。この事を疑う事から、不安や恐怖心が湧き上がります。心は元々、安心で出来ています。疑う事から不安は湧き上がるようになります。

疑う時に『心』が二つに分かれるからです。二つになった心が争いを始めます。この事を『知恵が付いた』と言います。意識する心と、無意識な心が戦う現象を『心を病む』と言います。

意識する心と、無意識な心が一つになった時を、心の矛盾が解消すると言います。幼子が誕生するからです。心が一つになった世界を『天国』と形容しています。『二度と心が戦わないからです』
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この回答へのお礼

>永遠の命を願う事は『命としての、又人間としての』本来性です。

人は永遠の命など求めはしません。
人が永遠の命を求めるならばその瞬間から地獄が始まるのです。
 

お礼日時:2010/07/14 06:13

「空」という真理から見れば、質問者様のおっしゃる通りの観念論となるでしょう。



ところが「有」という真理から見れば、物質や欲にとらわれるこの世界こそが純然たる観念論を満たしているということになります。

そもそも真理というのは「空」でも「有」でもなく「中道」なのですから、両極端であってはならないはずです。

宗教というのは本来、崇高な理念と物質的な制約の兼ね合いをどこに取るかということを問題としなければなりません。理念がどんなに素晴らしくても、手の届かない餅であってはいけないわけですね。

純然たる観念論だなんて「言葉」で誤魔化すのは、やめましょう。
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この回答へのお礼

>真理というのは「空」でも「有」でもなく「中道」なのですから・・・・

中道とは理念を持たず、その場その場を自分の都合の良いように解釈し、世間を渡り歩くというもの、つまりは風見鶏であり最も卑しむべきものの考え方です。
真理の探究を放棄したもの、それが中道です。


>理念がどんなに素晴らしくても、手の届かない餅であってはいけないわけですね。

物欲の塊である宗教(中道)とはこのような考えの上に居座るものです。
しかしこれでは真理の探究には程遠い。

お礼日時:2010/07/14 06:07

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