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なぜ神様を誰も見たことないのに
信じるのでしょうか?

私は神様を信じでいません。
ですが神は要ると言う人はいますね。

誰も見たことなくて神が居ることを証明できない=「いない」
なのに
なぜそれが「いる」と決めつけられるのか不思議です。

度言う言う心理なのかわかる方
よろしくお願いします。

A 回答 (24件中1~10件)

私論ですが、いなくても居ると思えばきっといるんです。


存在しなくても心に想像すればとりあえずは心の中には存在しているということになりますよね。

そうやってどうしようもなく救われない物事を
実際は存在せずとも理解してくれるよりどころになってくれる
そういった自分に必要な『支え』を求めているから信じている人がいるのではないでしょうか。

私は別に宗教などをしているわけではないですが
もしも神様が目の見えないところに居てくれたなら
自分が誰にも気付かれず苦しんでいたとしても
神様は何もしてくれないけどただ、その苦しみは理解して見てくれてるんじゃないかな
など想像します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:31

積極的行動するためであると思います。


神に祈ることにより「神が守ってくれるから大丈夫」という気持ちになれるからです。

また、悪い事があったからといって、神を憎んでネガティブな事を考えていれば、自分に悪い事が降りかかってくる事でしょう。
私も悪い事があった時に神を憎んだりしておりましたのでこの事に関しては反省しております。

因みに私は神を信じるようにしております。
「信じる者は救われる」の信じる対象は神であるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:30

貴方でも確認できます、その方法とは、困難に出会った時、『肯定的に考える貴方です』同時に『否定的に考える考え方も貴方です。



その否定的に考える心、が貴方の自我意識です。肯定的に考える心が貴方の『神』です。 

或は、何も考えていない時に始めて湧く心『一念』が神です。その次に湧き上がる心『二念』が貴方の自我意識です。一念は肯定する心で出来ています。ニ念は否定する心で出来ています。

或は、物事が順調に運んだり、行動に無駄が無くて、はかどっている場合、自我意識が出ている隙がなくなっています。自分が自分を忘れている時に働いている働きが『神』です。『没我とも、我を忘れた時』とも言います。この時の、自分の心も身体も支配している者です。

何事も上手くゆかない時、自身の自我意識のみの行動になっています。自身の神とうまく行っていない時です。

独りぽっちなのに、孤独を感じないで満たされた気持ちになれる時、自分自身の『神』と共にいます。

大勢の中にいても、家族や、友達と一緒であったとしても、孤独感を感じたり、不安を感じたりする場合、『自身の中に存在する神と』仲違いしています。

心を病むと云う場合や、神経症になって、身体も心も思うようにならないと感じる時は、神と仲違いしたり、心の矛盾を感じている事を言っています。

心の中で肯定する自分と、否定する自分が戦う様を、天国と地獄と表現しています。医学的には『強迫観念』とも言います。

否定する自分は、顕在意識である自我意識ですが、肯定する自分の心は『無意識の中に封印された形で存在しています。』

否定している心は左脳の分別から出来ている機能です。何事も『言葉と云うフェルターを通してから感情として認識しています』

肯定する心は、現実をそのままに、見たままに、脳梁を通して意識に伝えています。精神科医が処方する薬は、右脳の意識、識られざる神からの、言葉では無い情報を伝え難くする働きを持っています。

薬の効果が時間の経過によって、弱くなった時点で、右脳の意識は又『生きてゆく為に有用な情報を発信します』

幾ら長い間『薬』を飲み続けたとしても根本的な解決にならない事を意味しています。その時押さえ的な働きしか、効果が出来無い事を意味しています。

心を病む事や、神経症や、自律神経失調症の原因は『心の矛盾』を自我意識が、違和感として感じている事を意味しています。従って、寛解を通り越した『完治』を望むなら、『心の矛盾の解消』が完治の条件となります。

それが、『一切皆苦』の解消を唱えたお釈迦様の言うとおり『悟り』と云う事を意味しています。或は聖書の中に書いてある通りとなります。『神と和解する事』です。

人間の苦しみとは『心の矛盾』を身体や心に感じている事を意味しています。神と和解する事や、悟りを開くと云う意味は、『自身の心を圧迫している者と出会う事によって、その苦しみの根源が分かる事』を意味します。

自身の心が二つある事が分かる事によって、もう二度と、自身の心が仲違いしなくなる、と云うほどの意味です。その事によって『戦っていた自身の心には平和が訪れる事』を意味します。

心が、限り無く静かになると云う意味ですが、その境涯を『涅槃』といっています、右脳の意識と左脳の意識にホットラインが通じた事を意味します。その事で、もう二度と仲たがいしなくなると云う意味になります。

今まで主導権争いしていた者が、うまく行かない原因が分かって、『一歩引いて』付き合う術が身に付いた事を意味しています。キリスト教的な表現方法ならば『神の僕となる』

仏教的な表現方法をするならば、(自我意識)の我を捨てる事になります。我を捨てた時に働いている者に任せる事を意味します。他の表現方法で言うなら、『在るがままに、』在りて在る者に従うと云う意味です。

どちらにしても、心的内容は同じです。自身の我が下になって、神の方が上になって働くと云う意味です。宗教の目的は『心の矛盾の解消』です。今はその役目を『精神科医達』が賄っているようですが、
その根本原因が分からないままに『薬』だけが専攻している様に感じます。

医学が完治と云う概念を打ち出せないでいる事は、『心が如何して苦しくなるのか?』と云う事の原因がわかっていないことを意味しています。

もう2,000年以上も前に、人類はその原因が分かっているにも拘らずにです?人間は不思議な生き物と云う方が当たっているかも知れません?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:30

それでは、物理学を研究して、


何もない状態から、現在の宇宙や地球が出来る
確率を計算してください。

私は、0になると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:30

肉眼で見えない=実在しない、という前提は非科学的で非現実的です。


見えなくても実在が証明されているものは数多く存在しています。

空気は見えませんが、吸い込むと肺がふくらみ、送り込むとボールや
タイヤ内に充満します。
風は見えませんが、涼しさを感じたり、カーテンがゆれたりして
存在がわかります。
肉眼では何も見えない夜空の暗黒の部分に天体望遠鏡を向けると、
実際には無数の星が見えていて、存在が確認できます。

信仰は見た見ないで生じるような単純なものではありません。
むしろ根拠の有無によって強められるものです。

例えば質問者さんは5代前の先祖を見たことがありますか?
会ったことはないはずです。では実在したことを疑いますか?
自分が見たり会ったり触れたりしたことがなくても、
自分が存在していること自体が先祖の実在を裏付けていることに
なります。

今お住まいの住宅は誰が建てたのでしょう?
その人に会って話したことがありますか?
建物が現にそこに建っているということが、建設者や建設会社の
存在を裏付けていないでしょうか?

神に対する信仰も同じです。
神が実在しなければ説明のつかない物事が根拠となって
信仰を抱く人がいるわけです。

キリスト教の聖書によると、神とは万物の創造者です。
「家はすべてだれかによって造られる。すべてのものを
造ったのは神である」と書かれてあります。

自然界に存在する生命体をはじめあらゆるものの造りは
設計者と創造者の存在を裏付けるに足る十分な証拠です。
すべてはひとりで偶然にできたという進化論と比べて、
製品(自然界のもの)には設計者と製作者(創造者)が
必要という考えはばかばかしいですか。

質問者さんが使っているパソコンや携帯は幾つの部品数が
あってどんな仕組みでしょうか。簡単な造りですか?
恐らく複雑なので自分では仕組みがわからないでしょう。
ではだれかがそのパソコンや携帯はひとりでにその完成形に
仕上がったというのを聞いたらどう思われますか?

ではパソコンを打っている自分の手や見ている目、
考えている脳の造りとパソコンではどちらが緻密で精密で
複雑でしょうか?
驚異の人体は果たして偶然に進化して完成するものでしょうか?

考え方はいろいろです。自分の受け入れやすい考え方をする
固有の権利もあります。信仰を否定する人もいるでしょう。
でも根拠に基づき違和感なく確固とした信仰を抱く人もいるのです。

軽信や盲信ではない確信です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:29

神様を見た人が過去にいたからだと思います。


見える人と見えない人がいるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:29

「神の存在を証明する」というピンポイントなことではなく、



「目に見えないこと(肉眼で確認できないこと)を証明する」ことについて。

大昔は地球が丸いことが「信じられないこと」でした。
古代ギリシャ(紀元前3世紀頃)では南中高度等いろんな資料・計算を駆使して地球が丸いことを証明していたそうですが、こんな大きな世界を目で確認することが出来なかったから、普通の人達は理解できず信じませんでした。

一番の功績は、大航海時代(15世紀頃~)に世界を廻った冒険家達でしょう。彼らの航海によって地球が丸いことが大々的に証明されたので。
いや、もしかしたら、衛星写真で地球の姿を見ることで信じるようになった人も沢山いるかもしれません。
そうなると20世紀になってからの常識なのかもしれませんね。


また地球が太陽の周りを廻っている(地動説)も17世紀には異端とされました。
こちらに詳しく書いてくださっているので、参考に。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
ちなみにこの時は目で見る(地球が太陽の周りを廻っているのを俯瞰して見る)ということではなく、計算や天体現象から導いた結果の提示です。

それを考えると、今でも「実際に」地球が太陽の周りを廻っているのを俯瞰して見た人はいません。
それでも私達は地動説を信じています。


祈りや怨念、霊を信じる人がいます。
祈りに関しては、米国の臨床実験によって「祈りの力はある」という結果が出ましたが、「そんなの偶然だろう」と一蹴することは簡単です。逆にこの結果を「臨床実験で証明された!!」と信じることもできます。何しろ地動説や地球が丸いことを肉眼で(俯瞰して全体像を)見てもいないのに「証明」によって私達は信じているのですから。

ちなみにこの臨床実験の内容は私は別の箇所で見たのですが、下記のサイトに概要が載っています。
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51567 …
(ブログ中ほどの「元カリフォルニア大学の心臓学教授ランドルフ・ビルドは」という箇所です)


魂を肉眼で見たことがある人は「いません」。
勿論「いや、私は見た」という人はいると思いますが、大概の人は見たことがありません。

それにも拘わらず、私達は生き物には魂があることを「知って」いて「信じて」います。
目に見えないのに、です。
それは「感じる」ことができるし、「魂はある」とずっと聞いているからです。
「臨終の人の体重が死後○g減ったから、人間の魂は約○gだ」ということを言っている人(多分科学者)がいましたが、魂の存在を信じない人、魂に重量があることを信じない人は「だからどうした。死後○g水分が減っただけかもしれない」と一蹴するでしょう。


神が目に見えなくとも信じる人。
その人は「感じる」ことができる人、あるいはそう「ずっと聞いて育った」人だからです。
これは肯定的(神は見えなくとも存在はする)にも否定的(見えないのに信じ込む愚かさが人間にはある)にも読み取れると思いますが、私は肯定的に書いています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:29

神様は宇宙人です。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/10/24 07:28

神様を実際に見たという話を聞いた事がありますので、ご参考にお話します。


今から約30年くらい前に聞いた話です。
話をしてくださった人の体験で、その出来事が起きたのはさらに約10年くらい前だと思われます。
実話を皆様がどう受け取られるかは分かりませんが、私はその話を聞いた時には大変驚きました。
そして神様というものは確かにいるのかもしれないと思ったものです。

知り合いのその方は、若い時に材木商の人と共に私の住んでいる町にやってきた人でした。
大工職人まがいの仕事をして細々と暮らしている人でした。
町の中に古いお稲荷様の神社があり、その境内の隅に借家住まいをしていました。
境内には大きなケヤキなどの木が沢山あって、落葉も沢山落ちるので毎日掃除をしていたそうです。
掃除をしながら、お稲荷様に供えられたお餅などのものを、お稲荷様に手を合わせてから頂いていたそうです。
ある日の朝、いつものように掃除をしていると、社の扉が少し開いていたそうです。
不思議に思って近くに行って見てみると、何と開いた扉の前に、大きな髭もじゃの大男が立っているのがはっきりと見えたそうです。
背中には大きな四角い箱を背負っていたそうです。
これには、腰がぬけるほど驚き、慌てて近所へ駆け込んで話したそうです。
近所の人も見に来て、やはりはっきりと見えるので、これは神主さんにお話しなければいけないという事になり
神主さんに来ていただいたそうです。
神主さんの話だと、以前にもこうした、お稲荷様のお姿が出た事がありお祓いをした事があったそうです。
近所や氏子の人達も集まり、神主さんにお祓いをしていただくと、徐々に神様のお姿が薄らいでいったそうです。
それからは、別段変わった事もなく、悪い事も起きなかったので皆安心したそうです。

以上が顛末なのですが、
この話をしてくださった方は今も存命中でして、決して作り話ではないようです。
神様はやはりいるのではないでしょうか。
お姿は滅多に現さなくてもです。
神主さんに聞けば、もっといろんな話があるかもしれませんね。
それでは。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/23 11:04

こんにちは。


人間が神様を信じるのは怖いからです。宗教や信仰は文化ですが、基本的には理由はこのひとつしかありません。
神様といいますのは大昔、人間に理解できないことを説明するために生み出されました。神様がいるから収穫があり、神様が怒るから災害が起きるのです。これでは逆らうことなどできません。ですから、信じていれば安心なんです。これが、人間が神様を信じる心理です。
いると決め付けているひとはどうか分りませんが、神様といいますのは基本的には信じるものではなく、恐れ敬うものなんです。これは誰にとっても同じことだと思います。私も神様を見たことはありませんが、仏壇や神棚を壊すことはまずできません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/10/23 11:03

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