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私が日本人だから
こんな考えが生まれてくるのかもしれません。

神を信じなければ戦争だって起らなかったかもしれないのに
どうして人は神を信じるのですか?

A 回答 (24件中1~10件)

神様が戦争の限定になってるものもありますけど、関係ないものも多いと思いますけど、第二次世界対戦て神様関係ないと想うんですが。

天皇を神のように崇めてたというだけですよね。織田信長は神様信じてないけど戦争しまくったし、家康も占いすら信じてませんでしたけど天下取りましたよね。
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そもそも神をどう言ったものとしてとらえているか



どのようなものと解釈しているかによって考え方は全く違う物になりますよ

ザックリ言うと日本人は先祖(お墓など)を大事に考えている民族です。
それとは別に神(棚)があり、先祖は先祖、神様は神様と分けて考えていますが

自分の起源は先祖があってのもので、その先祖を大事に思う気持ちは、死者の魂があると考えるならば大事にされる先祖は自身の子孫を大事に思い守ってくれる
逆に先祖に手を合わせない、供養しないと守られない

何て話は聞いたことがありますか?

自分を守ってくれる存在=守護霊(守護神とも言いますね)

それは神と繋がるものがあります。

かなり掻い摘んだ話になりますが、それを辿るとお釈迦様に行きつき、お釈迦様は神様?仏様?とどちらととらえるのが正しいのか
どちらも正しいのか

そして、世界的に神様と呼ばれている、代表的なところでキリストの神もイスラムの神も仏教の神も、元をたどると面白い事に実は始まりは1人の神様だったり

それが、色々な人の解釈や都合で独自に変化していった、独自の信仰(考え方)を持ち、わかれて行った

信仰心をもたらす神は事の善悪の教えを説く上で、神と言う存在を置く事で、人を導く時に教えを説きやすい例になるのでしょう。

時にそれは、国や場所によってはその国やその場所の都合によって、都合のいい解釈にネジ曲げられ正しく導くことなく、偏った考えの人間を生み出すことにもなりえるため、とても危険とも言えます。

なので、漠然と神を信じること、ではく、自身でことの善悪を見極める、物ごとの本質を見極めることが大事になります。

その上で、正しい判断と決断、行動を示せるかどうか

自分の行いを正当化するために神の名を利用する物がいる、だとすると神を信じることだけでは戦争は無くなりません

それと神を信じることとは繋げて考えるのではなく、各々の意識下の問題と考えられます。

私は幸いなことに、祖母の家系のおかげで神の存在、またそれ以外の霊魂の存在、神でも人でもないものの存在も信じる事が出来ます。

ですが、けして揺らぐことなく常に良心的な気持ちを持ち続け、完璧な存在であろうとすること、そう努力すること、そこに近づこうと模索し続ける事は容易ではないことと思います。

自身が人を正しい方へ導ける手本となる姿を見せられる存在、常に正しい者で有り続けようとする事は、信じるだけではなく、日々の努力であり己自身の修行にこそあるものと考えてます。

人はけして強い存在ではありません。

でもそうなりたい、または救われたい、色々な人の思いを具現化したものが神であり

また、実在する神は、それとは別な存在でもあり

自分自身さえ信じる事が出来ない人が多い中、唯一無二で信じる事が出来る(すがることが出来る)存在、それが神なのかもしれません。

また、九十九神と言うように、色々な物には魂が宿っており、様々な神がいると考えられます。

また、己自身の中にも神は存在する、己の中に宿る神を見出すこと(精進し正しくあること)
偽物は所詮偽物、圧倒的な本物の前では人は認めざるをえず何も出来ないこと、そんな時、そこに神的な存在を感じたり

人は見えずとも、どこかしらでその存在を感じる事が出来るから、神の存在を信じるのではないでしょうか

素直な心と思いやりの気持ちを持ち、正しくいられる時、日々の精進を積んで来ると、様々な力と不思議な現象を見る事が出来るのだと分かります。

自分はたまたま恵まれた環境に生れ落ちたことから、それらに近い、それらに触れられる環境下で精進する事を考えながら育つことが出来たおかげで、それらの存在はあると分かります。

キレイな魂は正しくある時、それらを見る事、触れること、感じる事が出来ますが、精進することなく落ちぶれ自身で自身の魂を汚す者、汚れた魂ではそれらに触れる事はなかなか叶いません。

信じるとするならば、それに触れることが出来ることを信じ精進するという事かもしれませんね。
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僕もかつて、同じような思いを抱いた経験があります。



神といえば思い出します。10年位前にイランから来た留学生に「日本人には神を必要としないのに、なぜ信仰するのか?」と聞かれたことがありました。彼にしてみると、人とはずるく自分本位に振る舞う存在であり、社会形成を阻害する本性を持つ。それでも社会を形成する(させる)ためには、人智を超えた存在をもって統率が可能になるのだそうです。

ところが日本人は、心に既に神を持っているとのこと。だからわざわざ、新たに神の存在を設定する必要がないではないかという言い分でした。確かに日本には「お天道さまが見ている」という言葉にあるように、自然(宇宙)を神として捉える宇宙観を持っていると思います。太陽信仰ではありませんね。この宇宙観は、日本が形成される神話の時代から持ち合わせていたようです。天津神と国津神も邪馬台国と葦原中国も、人間の都合で衝突すれば天罰が下るかもしれないと畏れ、大規模な戦争は起こさなかったようです。

質問者様への回答としては色々と考えられますが、人間は大脳新皮質が極端に発達している生き物だからということになりますか。他の生物と違い、人間はいろいろなことを考えますね。いろいろ考えて、つき詰まると神を感じるのかしら。ニュートンも、エジソンも、ニコラ・テスラも、アインシュタインも皆、晩年には神や霊界といった超自然界を研究対象にしています。

科学はつき詰まると哲学になり、哲学はつき詰まると宗教になる

と聞いたことがあります。余計なことを考える人間だからこそ、辿り着く思索の境地なのかもしれません。答の出ないようなことに答えを得ようと、命をかけて取り組んでも人間の無力さに直面して、それでも諦めず目を瞑らずに対峙する人には、神が現れるのかもしれません。

残念ながら神を信じなくても、戦争や略奪は起きます。人は妬んだり恨んだり虐めたりする、心に闇を持つ生き物ですから。宗教はその心の闇に光を照らし、人を救いますね。一方で一神教などは排他性が顕著です。だから戦争の理由になったり、口実として使われたりもします。一概には言えないかな、と思います。
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>神を信じなければ戦争だって起らなかったかもしれないのに



逆です。
神(=善や愛、平和)を信じていないから人殺しや戦争(=悪意)に加担するのです。


人の生命を創ってくれた神に感謝しないから
簡単に人の命を奪おうとするのです。

人の心を癒し、愛してくれる神を愛さないから
人の心をもてあそんで、傷つけて喜ぶのです。
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「どうして神を信じないのか?」という疑問を持つ人もいるでしょう。


人の数だけ考え方があります。
その日の気分次第で考え方も変わるし。

私も、神なんていねーよと思ってます。
神を信じてる人のことは、どうも信頼しにくいです。
日本人って、暗黙の了解で物事を推し進められるほどに、
よそものと向き合うチャンスが少ないから(対立しないように振舞ってるから?)
神云々に限らず、疑問を持たずにぼんやり生活してるのかな、とも思います。

と、ここまで書いて、
ふと思いました。

神って何だ?

回答者によって、その定義が違うので、
回答はバラバラだけど、全て正解なんでしょうね。
回答者の性格・生き方が見えてきそうで、面白いです。
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No13です。

お礼に感謝します。再度失礼いたします。
>>しかし、全てを理解できない、とは私は思いません。
そして、立場の違くとも、想像はできるのではないか、と思います。

そうですね、すべてを理解できないというのは
語弊があったかもしれません。
理由としては、聖書があります。
聖書は神様の御言葉です。すべて読めば神の考えている事、
人間への想いが大体わかると思います。
とても不思議な書物です。
「聖書は生きている」という事をよく聞きませんか?
この体験をしている方はかなり沢山おられるはずです。

理解できない、という意味は、今現在の自分が何を選択すれば
神の御旨に従う事なのか、正しい選択なのか、すぐには理解
出来ないという意味で言いました。
神を信じて、御言葉に従い、祈りをささげ、神を見上げて
応答する事によって初めて神に祈りが聞き届けられ、
祈られた事が神の御心のままに動かされます。
それが良い事でも悪い事でも、御心ならば正しい選択なのです。
それが理解できるのは後になって自分の中で「理解」という
結果でわかる、という事です。
「祈ればすべては益となる」いわゆる結果の途中に
どんなに不条理な事柄や苦しい試練があったとしても
それは祈った結果がでる為に必要な、忍耐や鍛錬で、
それを乗り越えて初めてあなたは祈りが手に入れられる。

ただ祈ればすぐに聞かれるものではない、その願いによって
その人自身が人間として成長できるプロセスを、神様は
すべてご存知で試練なり、安らぎなり、祝福を
一人一人に正しく与えられて、結果、祈りは聞き届けられた、
と感じることができます。

ですので、想像はできても必ずしも正しいとは言えませんね。
後になって理解ができる、と言う方が正しいと思います。
そして、その体験をする人は神を信じて、
神の言葉に従って生きている人だけが理解できる事です。

人間の範疇で理解しようとしてもそれは出来ないこと、
神の考えは、人間には計り知れないところにあるからです。
だからこそ「神を畏れよ」という言葉もあります。
勝手に「神はこれを私にしろ、と言っている」などと
考える事は危険だ、と言う意味で畏れる事も必要です。
いつでもどんな時でも自分の考えで決めるより、
神の御心に従います、という気持ちが大切なのです。
「わたしはある」と言われている神様を信じるか、
信じないか、も、神様が選ばれている事です。
これは聖書にはっきりと書かれています。
信じない人がいてもまったくおかしくないという事ですね。

私達が力を込めて神に祈っても、その通りに
聞き届かない事もある、という事です。
それは、神様の本当の正しい祈りではない、という事を
教えてくれます。
そこを私たちは勘違いをして、祈ったのに聞かれなかった、
神様なんているものか、と思うか、独りよがりな祈りを
してしまった、すべて受け入れます、と思うかで、
その後の人生も大きく左右します。

神を信じる理由は、神様の御心を体験すれば理由は
自ずと出てきます。
馬鹿にする人にはいつまでたってもわかりません。
何故なら、そういう人間に、神は見向きもしないからです。

「神は愛である。誰も見捨てません。でも神を畏れよ」
ここに多くの気持ちが詰まっています。
「どうして愛を信じるのか」と言う質問にすれば
神を信じる理由も出てくるかもしれませんね。
何故なら「神は愛」だからです。
神様の御旨は宇宙よりも広く、計り知れません。
イエス・キリストは、それをよりわかりやすく
してくださった方です。

長くなり申し訳ありませんでした。
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どうして神を信じるのか。

つき詰めて言えば、それは死への恐怖を和らげるためです。

人間も含めて動物には二つの本能があります。それは死にたくないという本能と、自分は偉いと考える本能です。なぜ、そのような本能があるかというと、逆説的に言えばその本能を持たない動物は絶滅してしまい、生き残れないからです。人間も例外ではありません。

ただ、人間がほかの動物と違うのは、自分が「いつかは死ぬ」ということを知識として知っているということです。これは死にたくないという本能とは矛盾するため、非常に大きな恐怖心となって現れます。そのため、死んだら天国に行くとか、別の生き物に生まれ変わるとか、いろいろ口実を付けて死への恐怖を和らげているのです。これが宗教です。

一方で、動物は「自分は偉い」と考える本能を持っています。人間も同じですが、実際にはほかの人と比べて必ずしも偉いとは限らない。学校の成績にしても、社会的な地位にしても、自分が偉いとは限らないという現実があります。

このため、自分が偉いという感情を満足させる何かを探そうとします(補償行為)。たとえば自分自身ではなく自分の所属する団体が優れているということでも、その感情を満足させることができます。自分の好きな球団が優勝するとか、オリンピックで自分の国の選手が金メダルを取るとかで、満足するのです。

(ちょっと考えてみてください。オリンピックで自分の国の選手が良い成績を取ったとしても、それはその選手個人が優れているということであり、その国が優れている、あるいはその国の人がみんな優れているというわけではありません。それでもその国に属する人たちは喜ぶのです。それは「自分が優れている」と思う本能が満足されるからです。)

あるいは自分の所属する国が優れていると考える場合(つまり「愛国心」)もあり、自分の信じる宗教が優れていると考える場合もあります。この考えが突き進むと、お察しの通り、戦争となっていきます。
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神様を信じる心が過剰すぎると生きにくいと思います。


かといって軽んじると、それもよくない。
戦争は神を信じるからではなく、都合よく利用しているだけです。
土地にこだわり、恨みを末代まで引きずり、負けを認めない。
戦争の為に生きるから戦争に参加せざるを得ないのです。

日本人であっても、職を失ったとき、金はおろか居場所も
肩書がなくなります。弱い人は命さえも絶とうとします。
銃でうたれず、虐殺されない日本であっても戦争がない国
ではないと思います。
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人間が拠り所を求める存在だから。


社会や個人が未熟で限界を越えやすいほど
追い詰められる状況が多くなり
その傾向は強くなります。

人類進歩のもっと始めの方の段階で
世の中が未熟で限界を越えやすい状況が
現代と比べてより頻発しやすい中で
様々な拠り所の模索から淘汰されて
伝統を築きながら生き残ってきているのが
神に対する信仰ということになると思います。
そして風土や社会環境によって生じる
具体的な部分の違いに対する非寛容が
宗教的対立という争いの一つの根源だと思います。

どこまで世の中が進歩しても続く未知の深淵に直面したとき
その説明に神に類する存在を否定しきれるものではありません。
そして伝統的に微妙な違いを必然的に包含しなければならなかった経緯の中で
それぞれにとって大事なそれぞれの多様な拠り所という存在。
それらを多様でいい範囲内で認め合うことで
精一杯この種の争いのない世の中を実現していけるのではないか、
とは思います。
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いる、いないは置いといて、神がいる、あの世があると考える人生観の方が、心を豊かにし、社会の安定に資すると思う。

神はいない、あの世はないと考えると、これは、今さえ、自分さえよければいい、という人生観につながりやすく、結果、今よりもっと戦争、紛争が増え、社会不安は大きいと思う。
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この回答へのお礼

とても端的に書いていただきありがとうございます。
まずはそこにとても感謝です、、。


すごく納得できます。

神がいると信じていたほうがいいのかもしれませんね。


ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/13 02:35

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