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必然なんてものは何一つない
どんな出会いもどんな出来事もただの偶然にすぎないと その結論に帰結しました。
必然論は 出来事に何かしらの意味を見い出さないと あまりに辛い出来事や理不尽な出来事にひたすら不幸をかみしめるしかないからだと思う。起こることは必然などと考えているのは自己欺瞞であり、惨めな慰めでしかないように思える。

皆様はどう考えるか?

A 回答 (6件)

同意見です。


具体的には下記です。

何故、運の強い人、弱い人がいるのか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5514257.html

の、No.13の私の回答から引用します。

> 私が学生の頃、周囲ではいたずらに蟻を踏み潰したり、あるいは生きた蝶を動けなくして蟻の巣の穴の近くに置いたりと残酷な遊びで楽しんでいました(ちなみに自分はそうした行為に引いていたので加わりませんでしたが)。
> 蟻や蝶達は「運が悪い」とか「どうしてこうなるんだ」と思っていたに違いありません。
>
> しかし当の我々にとっては、虫達の運がどうのというよりも、人間が行ったただの事象に過ぎません。
> その事象に該当する虫達がいたかどうかです。
>
> これを神様視点で言い換え、例として落雷を考えれば、雷が落ちたという事象の範囲に人間がいたかどうか、という事になります。
> ここから言いたい事は、運命というのは一番基礎的な部分では単なる確率論にすぎない、という事です。運命というのはその確率的に言える事象に遭遇してしまった人の主観的な意見だというのが私の考えです。
>
> あるものごとを主観的に捉えるか客観的に捉えるかで運命か事象かという観点の違いなのですが、それでは神様ではない人間はそれにどう対処すれば良いのか、結論としては「人間が虫達に運命を辿るストーリーを用意していないのと同じに、神様は人間に運命を辿るストーリーを用意していない(大体60億人もいるのに面倒見切れないでしょう)、悲観も達成感も大局的に見れば本来は存在し得ず、運が良い悪いというのは人間の主観的な観測である。ならばその基準を人間で作ってしまって人間が勝手に達成すれば良いのではないか」と考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
引用された質問頁も拝見しました。ご回答者様と№21の方のご意見がピンときましたね。

私は徹底したアンチクリストですし、人生で起こることに、スピリチュアルな意味合いを見出すことに違和感を覚えるのです。どんな生まれ、どんな性格、幸運、不運。不慮の死、仕事での成功。
全ては「たまたま」そう生まれ、「たまたま」そうなったに過ぎないと考えます。

同じ努力をしても成功する者はするし、しないものはしない。
良い行いをしても、人から好かれる者もいるが、嫌われる者もいる。
客観的幸せをどう感じるか、価値観の差、気質の違い。

どんな家柄、学力、容姿、性格、メンタルタフネス、仕事の能力。運の強さ。
これらは本人の努力とは別のところで、
どんな「個」で生まれるかの確率 でしかないと思います。

ちょっと話がずれてしまった感がありますが・・・
失礼しました。
有難う御座いました。

お礼日時:2010/01/09 10:08

#4再投稿。



>おなかの調子が悪くなるかどうかは、本人の意思とは違うところで「偶然」に支配されていると思います。

この例で言えば、
お腹の調子が悪く、受験失敗したおかげ(原因)で、
別な道を選び、大成功した。

大成功した原因が、受験失敗であれば、
受験を失敗しなければならない。
イコール、受験失敗は必然と考える。

この考えの根本は、因果論と言ったけど、
「原因が結果をつくるのでは無く、その結果には原因がある」
という結果を先に考えている事なので、
質問者との考え方と違うのは、当然ではあるのだけど。

「成功するには、成功した結果からその原因をつくれば良い」
 by 俺
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因果論で言えば、



「過去」の原因で「現在」の結果があり、
「未来」の結果は「現在」の原因で作られる。

であれば、

「未来」の結果になる為には、
現在に起きるべき事は全て起きないと「未来」とならない。

よって、起きる事は全て起きる、
イコール、起きることは必然であると考える。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうすると「原因」にも「原因」が必要ということになりますね。
「因果」の「因」がつくられるのはそもそも、偶然ではないのでしょうか?

例:学力寸分の差もないA君とB君が同じ大学を受験 
因 しゃかりきで勉強したA君とB君 受験時にも寸分の差もない実力があった
果 だが、大学に合格したのはA君のみ

ということは、現実にはありえるわけですが
同じ学力で同じ努力をして同じレベルで受験したにもかかわらず
B君が落ちたのは偶然(当日腹の調子が悪くなった・・等)ではないのでしょうか?
おなかの調子が悪くなるという原因があって受験に失敗するというのはわかりやすい因果ですが、
おなかの調子が悪くなるかどうかは、本人の意思とは違うところで「偶然」に支配されていると思います。

となると、やはりすべての根本は「偶然」としか思えないのです。

お礼日時:2010/01/09 09:20

「必然」は「存在する」「存在しない」どちらとも言えると思います。

それこそ、意識の特性「フッサール…………在らぬところ在るような、在るところの在らぬような存在」だと見出だされました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとございました。
丁度、「フッサール」を読もうと思っていたところなのです。また考えてみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/09 09:25

必然なんてものは何一つない>


というのは現代物理学の成果である「量子力学」と現代生物学の「進化論」(ダ-ウィンのものではない)が明らかにしているところです。

人間は「偶然」猿から進化してきたのであり、特別な理由はなかったのです。
必然論は「神」「創造者」といった宗教的な文脈と最近ではガリレオ・ニュ-トンを始とする近代物理学があまりにうまく世界の事を説明出来、かつ人間の役に立ったからです。
質問者様や私が使っているコンピュータは近代物理学の頂点に立つ製品です。これはすべてが必然的に動作する前提にたっているのですが、半導体という「現代物理学の成果」も使っているので、「偶然に」動くことがあるためフリ-ズしたり突如ダウンしたりするのです。(コンピュータ内ではこれを予防するために色々な誤り検出、誤り修正の仕組みが入っています。)

しかし「必然」であっても「偶然」であっても個人に降りかかってくるのは同じ事柄ですから、悩み苦しむのは同じことだと思います。この点、質問者様のように偶然だったら苦しまないのでしょうか?まあ後悔はしなくて良いようですけど・・・。

特に神を信じる人たちは悪人が苦しむのは神による罰、善人が苦しむのは神による試練ととらえて死後の天国を代償として考えました。
・・・これってやはり「偶然」こうなったと考えた方がいいと思いませんか?

仏教には無を観じたら因果(必然こうなるという事です)もなくなるという考えかたがあります。
無を観ずる事と「すべては偶然だ」とおっしゃる質問者様の見解が同じであればこれは一つの悟りと言えるかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
私も、生物の進化という点ではご回答者様と全く同意見です。

前述しましたが、質問の仕方から広義な観点からのご意見を誘発してしまったようです。
おかげさまで大変考えるヒントをいただけました。

有難う御座いました。

お礼日時:2010/01/09 09:49

それは、必然の一部の要素にすぎないのではありませんか?



たとえば、「明日会おうね」と約束して、明日ふたりが出会う。壁に激突寸前の車が、それから0.1秒後に壁と激突する。イチョウはイチョウの葉をつけ、ポプラはいつまでもポプラ。そういったある一定の整合性や論理性……これはつまり、必然と解釈してもいいかと思いますが、それを一切否定することはできないでしょう。

出来事に何らかの意味を見いだすことが必然論だとするなら、そこから生まれるのは必ずしも、自己欺瞞や惨めな慰めだけではありません。明日への希望も、楽観的な見通しも、厳格な数値予測も、すべて含まれるはずです。

というわけで、ぼくは個人的には、この世界には偶然と必然が入り乱れている、と考えています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

おっしゃるとおりですね。質問の仕方から広義な観点からのご意見を誘ってしまい、誤解を生みました。
一方、それが返って考えるヒントとなりました。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/01/09 09:31

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