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私が日本人だから
こんな考えが生まれてくるのかもしれません。

神を信じなければ戦争だって起らなかったかもしれないのに
どうして人は神を信じるのですか?

A 回答 (24件中11~20件)

信じるのは実際に体験したからだと思います。


私は目に見えて神よ!!祈りよ!!なんて考えて無いですが、信じています。ちょっと。
なんというか、見られてるなーって思うんですよね。幻覚とか被害妄想とかじゃなくて、自分がやったことは因果応報、本当に全部返ってくるので。
あと受験生のとき「高校での運全部無くしていいから第一志望に受からせてください」
と願ったら傷害事件の被害にあったりちっさいことでも運が無いなーということばかりあって結果第一志望に受かったという経緯があり(笑)
そのせいでちょっとだけ信じてます(笑)
神を信じてる人は実際にそういう偶然だろうけど不思議な体験をしてるから信じているのではないですかねー
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この回答へのお礼

そんな不思議なことがあったのですね。
たしかにこの話を聞いていると、神がいるのかな、と思ってしまいますね。

なるほど。偶然起こったこともあるかもしれないが、不思議な体験をすれば神を信じるかもしれないですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/13 02:31

「どうして神を信じるのか?」という質問に


神を信じていない人の回答でわかるはずもなく、
色々な意見があると思いますが、そもそも
神様の考えている事が人間にわかるはずもありません。
なので、どうして人は神を信じるのか、も人が理由を
言える訳がありません。
ただ、神を信じる事ができた人だけが知っている事かと思います。

特に神社にお参りをする方々は本当に信じていると思いますか?
お参りはするけれど、宗教には入っていない、と
言う人は沢山いますね。

神を信じる=宗教、と捉える事自体が日本人の
悪い価値観だと思います。
だから新興宗教などがどんどん出て、神と言う存在が
悪と化して、信じない人たちが寄ってたかって
ありもしない虚偽を言う時代になってしまいました。

その一部始終をご存知の方は、何を思うのでしょう。

どんなに信じられなくても、反対意見があろうとも、
救ってくれるだけの、愛である神を
敵に回すような事をわざわざ言わない方が良い、
とだけは言えると思います。
神が戦争をさせているのではなく、
人間がしている事。
それもすべて神はご存知で、
天の国で憐れんでいるのかもしれません。
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この回答へのお礼

なるほど。
立場の違うものが、当事者、神もしくは神に仕える方の考えや感覚を理解できるわけがないですね。
しかし、全てを理解できない、とは私は思いません。
そして、立場の違くとも、想像はできるのではないか、と思います。

その想像が近いのか遠いのかは誰にもわかりません。

話が逸れていますね、申し訳ないです。

戦争は人間がしていること、おっしゃる通りです。

すべてを存じている神は
何を思い、人間を見ているのでしょうね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/13 02:27

No.10の追加です:



日本にも多くの国が対立・戦争する戦国時代がありました。
国ごとの、強制力をもった統一ルールがないため、争い続けたのです。
「天下統一」によって、はじめて強制力をもった統一ルールの施行が可能になるのです。

現在、国家間で戦争の可能性がまだあるのも、いまだ「天下統一」の途中だからです。
それまで、人類は、何百年・何千年の時が必要なのです。

思想や宗教の対立というよりは、制度的・政治的なアプローチで捉えることが、現実的と思われます。
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この回答へのお礼

強制力をもった統一ルールがないと争いが起こる。
未だ天下統一の途中だが、その天下統一という強制力のあるものにより、今も平和が保たれている
ということでしょうか。

しかし、天下統一(日本のみではなく、世界を含めた意味)を成し遂げるのは不可能に近いのではないか、
と私は思うのです。
つまりそれは、戦争を無くすことは不可能、、、ということでしょうか。
こんがらがりました。申し訳ないです。

2度も回答していただきありがとうございます。

お礼日時:2015/10/08 16:33

最近ニュースで、殺人があったのだけれど:どうも動機がわからないというのや、鉄道放火をしているのは確からしいけれど:なんでそんなことをするのかサッパリわからないというのがあります。

日本で昔、平氏と源氏の戦い、川中島の戦い、桶狭間の戦い、関ヶ原の戦い、維新戦争というのがあったみたいですが、神を信じていたから戦争が起きたということではなかったのではないかと思います。殺し合いや放火、戦いがあっても、その原因が何か一つということもないのだと思います。また、神を信じていたいないということが原因になっていることもあるでしょうが、そうではないことも多いでしょう。食べ物や土地、石油資源などを持っている持っていないとか、権力を持っているとかいないとかが原因になっていることもあるのでしょう。
なにかを一つの原因に結びつけて考えるのは、ちょっと無理があると思います。

ヒトがカミを頼りたい、念じたい気分になるのは、人知では及ばないことがわかっているから、ということが多いのだと思います。 恋の相手とうまくいく、試験に合格する、病気や怪我が早く良くなる、自分の子供が無事健康に育って欲しい、仕事がうまくいく、戦争もなく無事で豊かで安全な環境が続いて欲しい、明日の旅行先は天気がイイことを願う、パチンコで大勝ちしたい、宝クジが当たるようになど、つよく願いたいとき、「かみさま・ほとけさま・ごせんぞさま・天の神様・トイレの神様・・・」と願いを実現してくれる主体をとりあえず唱えるのではないでしょうか。

参拝や祈願式などは自分を落ち着かせるために行ってるともいえますが、スポーツの試合開始の直前に行われる行動は落ち着くためというより気合いを入れる・最高の闘争力を出せる身体状況にする・交感神経を高める・アドレナリンを分泌させるための行動であることが多いです。
www.youtube.com/watch?v=qdH5aPeoSLQ
https://happylifestyle.com/11469
修祓という神前の儀式も「ただの儀式」「心を落ち着かせるため」「もっともらしい体裁をつくる一種のデモンストレーション」「真剣に取り組む気分を高めて内分泌や神経系の状態を戦いに有利な状態に造り上げる準備」とも考えられます。


そう考えると、戦うときにはだらだらした状態を早期に転換して、ぐっと引き締まった気分や体制にするには、祈るという集団行動をした方がいいのかもしれません。
つまり、カミや信仰があって戦いが起きやすくなるのではなくて、戦いを有利に展開し進めるには祈るという行動を組み込んだ方がいいことも多いのだと思います。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおりです。
戦争の原因をすべて宗教や神に結びつけるのは間違っていました。宗教や神を信じるがゆえに起こった戦争もあれば、権力などといったことが原因で起こった戦争もありますね。

(神に?)とりあえず唱える、、ですか。
その他のこととして、自分を落ち着かせるためや、モチベーションをあげるため、などですね。

そのような考え方もあるのだと思わことができました。ありがとうございます。
戦いを有利に行うために祈るという言動を起こすことがいいこももある。なるほど、、、。

ありがとうございました!

お礼日時:2015/10/08 16:41

神を信じる宗教も様々です。


兵役にも良心的拒否をするクエーカーや、インドのアヒンサーの実践者その他の宗教もあれば、反対に好戦的な宗教など、、、いろいろあります。
だから、ひとくくりに「神を信じるー>戦争」は、無理があります。

また、戦争の根本原因は、宗教にあるのではなく、異なる共同体間で、利害の対立を調整するしくみが十分ではなく(例:国際間では強制力をもった公式ルールが不備)、戦争を手段とする可能が残ってしまうからです。

一旦戦争になれば、正活と密着する考え・思想の立場からすれば、共同体存続のために、戦争を支持していくものがでてくるのは自然なことでしょう。これは宗教に限らず、共産主義でも同じです。

また、宗教と対立する共産主義勢力のほうが、特定の宗教の立場によるものよりも、殺人数ははるかに多いと言われています。
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この回答へのお礼

戦争の根本原因は宗教ではなく、利害の対立を調整する仕組みが不十分なことにより起こる、、
なるほど、と思いました。

宗教と対立する共産主義勢力のほうが殺人数が多いとは知りませんでした。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/08 16:23

自分を超える何かにすがったり、そのもののせいにしたりしないとやっていられない不条理が数多く存在するから。

色々な意味合いにおいて、生き方を楽にしたり、落とし所として使う一つの手段です。
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この回答へのお礼

納得できます。
生きることがどうしようもなくなったとき神にすがることで救われる気持ちになる、と聞きました。

ご回答ありがとうございます

お礼日時:2015/10/05 21:16

例えば、すごろくで「3」の目が出れば上がりの時、サイコロを振るときに“願ったり”はしませんか?


それは“何に”、もっと意図的に言えば“誰に”願っているかです。

おやつであれば、おやつを管理している親に自分の善行を報告することで、思惑通りのご褒美が出ます。
しかし世の中のこと全ては“おやつ”ではなく、その善行に対する報酬が人間が管理しきれないものがあるのです。

普段からいいことをしている人はいいことが多く、普段から悪い人はいつかツケを払わされるのは、経験的に知っていることです。しかし例外もありますし、統計学的に検証するにもサンプル数が足りません。
でもやっぱり、「いいことをすることはいいことだ」なので、神さまが保証をするのです。
日本でも「もったいない」なんかも、絶対的唯一の神さまでは無く、物に宿る神さまや想いを引き合いに出しますが、それと同じです。

また日本では生きていきていくことを妨げられるという理不尽なことはあまりありませんが、世界や日本でも稀にそのようなことがあります。
しかしそれはその人の個人責任にするには、あまりに理不尽です。
その保障も誰にもできません。
だから保障を保証するために神さまがいます。

よく、神が…宗教戦争が…といいますが、それはそれを利用する人間側の問題です。
つまり他の要因でも戦争が起きますが、人間が実行しなければ戦争は起きないのです。
経済が理由で戦争が起きれば戦争は悪かと言われればそうではありませんし、経済を理由に侵略戦争を仕掛けられないから宗教の大義のもとに行うこともあります。

家での孤独から救うのは親ですし、犯罪から救い出すのは警察ですし、事故から救い出すのは救急です。
質問者さまは困難な状況におかれたら、自力解決もするでしょうが、救済だって然るべき存在に望むでしょ?
然るべき存在がいなければ、頼るのは神になります。
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この回答へのお礼

善行の管理を神が担っている と考えようとした、ということでしょうか。

そうですね、戦争は人間が起こす行うものですから、人間側の問題ですね。
少し私は勘違いをしていました。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/10/05 21:14

神を信じる人は、基本的に、神は絶対的な能力を持つ存在だと信じ込んでいます。


人間に絶対的な能力がないことは、人間は嫌というほど知っているわけですが、この事実にがまんできない人が神を信じるわけです。
一番は、死に対する恐怖が大きいと思います。
神を信じれば、死後も幸せを約束されると信じて安心したい。
自爆テロなどは、この心理をたくみに利用したものです。

自らの弱さを知るゆえに人は神を信じる。
神にすがる。
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この回答へのお礼

人間は未知のものに興味を持ち、恐怖を感じるものですからね。
死に対する恐怖が神を信じる心を生み出したという考えに納得できます。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/10/05 21:09

人間には本能がありません。


だから、食べるためでなく快楽のために動物を殺します
赤ん坊は、食べ物の見分けがつかずタバコや刃物を口に
入れます。

本能を失って生きる規範がないので、どう生きればいいかわからず
いつも手さぐり、不安でいっぱいです。
そこで、絶対的なもの疑いようがないものを心の支えにしようと
神を発明したんです。神以外では、国家、理性、家族、世間、天皇など
いろんなものを絶対視して、それに頼ることで不安をなくそうと
悪あがきをしています。
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この回答へのお礼

本能とは、生き物元々備えてある行動様式のようなものですね。人間には本能がない、納得できます。
本能について考えていると、
人間には精神があるため人間の本能は本能らしくなくなってしまった、と考えることもできるな、と気づかせていただきました。感謝いたします。

心の支えとなったのが神、ということですね。
人生不安がつきものですから、納得できます。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2015/10/05 21:06

おじさんです。


どんな国の人でも、日本人でも、神を信じるのは自由でしょうね。
「神を信じる」ということを誤解されているように感じます。
例えば、多くの日本人は神社にお参りします。
特に、元日には新年のお参りをします。
実は、この参拝は神ということよりも、自分の気持ちを落ち着かせるためなのです。
受験勉強をせずに、大学受験合格するようにと毎日参拝しても願いが叶うはずはないのです。
一生懸命に努力している自分を元気つけるために参拝しているのです。
そのための場所として神社があるのです。
パチンコ屋の中で祈願しても駄目ですよね。
参拝には、心が落ち着く、鎮守の森そして静寂な祠というものが必要なのです。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りです。神を信じるのは自由あり、また、神を信じなくてもいいのだ、と考えたいです。

指摘していただいた、神を信じるということを誤解している、ということが「難しいな、どういうことだろう」と思いました。申し訳ないです。

たしかに、参拝などは自分を落ち着かせるために行ってる、という考えが正しいと思います。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2015/10/05 20:55

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