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宋書倭国伝によれば、倭王武は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東太将軍倭国王」と自称したのですけど
宋は武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」という称号を与えましたよね?

ここでどうして百済をはずしたのですか?
教えてください。

A 回答 (2件)

倭と同様に百済が朝貢国だったからという説が一般的です。


「宋書百済伝」によれば、百済は早くから宋に朝貢し、宋は百済の王に「百済王」や「鎮東大将軍」の称号を与えています。倭の五王の始めの王、讃の時代には既に朝貢していた模様です。
宋では、敵対する北魏と高句麗の背後を脅かして対抗する必要性からも、百済を大事にしたと言われています。
その為、倭の王に百済の称号を与えなかったと言われています。

ただ、倭の武に称号を与えた478年には、百済が危うくなっていた年でした。
百済王であり鎮東大将軍の称号をえていた「蓋鹵王」は、475年に高句麗に攻められ亡くなり、首都の漢城も落城しています。「蓋鹵王」の子「文周」が即位し、遷都して百済を再興し、宋に援助を求めようと使者を出しますが、その使者は辿りつけなかったようです。一説によるとその遷都した地は倭の国が与えたとも言われます。477年には、その「文周」も暗殺され、「三斤王」が後を継ぎました。
このような状態を、宋がどこまで正確に把握していたかはわかりませんが、少なくとも百済が平穏ではない状態である事はわかっていたでしょう。このような不穏当な状況の時に、倭の希望を聞き入れ、軽々しく称号を与えるような事は、それまでの百済との関係もある事ですから、できなかったと思います。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。
これからもまた何かありましたら、どうぞ宜しくお願いします。

お礼日時:2007/07/17 19:50

百済は倭に先んじて南宋に朝貢し、冊封体制に入っていたことが原因と思います。


要は南宋は北魏に対抗するために朝鮮半島諸情勢を勘案しており、百済は割りと南宋と仲がよく、早々と冊封体制に入ったので、独立国と認め、新羅は南宋の言うことを聞かないので、倭王の下においてあわよくば倭が攻めないかと考えた。
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この回答へのお礼

どうも有難うございました。
これからもまた、何かありましたら是非お願いします。

お礼日時:2007/07/17 19:50

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