
A 回答 (4件)
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No.4
- 回答日時:
日本の法務省がやっているで現在ネットで公開されている最新のものが2017年6月の数字なのだが、それによると福岡県糸島市の在留外国人は765人、うち韓国人は131人。
(同統計を見ると、ベトナム人148人、中国人147人と、そっちの方が数は多い)
福岡県糸島市の全人口が約9.6万人なので、比率で考えても在日韓国人は少ないと考えられます。
参考)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/database?ts …
No.3
- 回答日時:
糸島市の怡土地区は、魏志倭人伝に登場する倭国北九州沿岸の大拠点「伊都国」に比定されている。
ここエリアからは円周が八咫の長さになることから、伊勢神宮の「八咫鏡」と同じものだという説もある鏡が出土しているなど、半島と日本を結ぶ重要都市だった。後の大宰府と同じような対大陸の外交・軍事拠点のような機能も持っていたのだろう。
可也山の「可也」は、半島南部の伽耶地方の「伽耶(加羅)」に通じている。伽耶地方は半島の三韓時代の弁韓に相当するエリアで、日本府があったとされる任那もこのエリアだ。
そして三韓時代の任那や伽耶では鉄資源の採掘が盛んに行われていた。日本人や中国人も多数いたと中国の史書に記されている。当時の日本は鉄資源を伽耶地方から供給していた。
任那日本府の実在を否定するしないに関わらず、日本にとって伽耶地方は非常に重要な地域だったことは間違いない。半島南部から多数出土する日本産の勾玉や前方後円墳は日本の影響力がかなり強かったことを物語っている。
半島側からの文化的影響も、当然、日本に、特に北九州には強く及んでいただろう。
古代における半島の窓口だった伊都国には半島人も多数住んでいたかもしれない。半島よりは北九州のほうが気候も温暖だ。水稲耕作も進んでいた。漢帝国や北方民族の圧力も受け、日本よりも戦乱が多かったこともある。比較的平和で豊かな日本に移住してきた半島民も多かったかもしれない。
伝統文化が温存されるには、ある程度の集団がまとまっている必要がある。おそらく戦乱の影響で半島南部の部族が丸ごと移住して伊都国周辺に住み着いた名残りが今の糸島市に残っているのではないだろうか。
「在日韓国人」は明治以降の移住者のことを意味する。有名なのは太平洋戦争終結後、韓国李承晩大統領時代の済州島大虐殺事件で日本に逃げてきた済州島民たちだ。
彼らの影響がどの程度だったのかは不明だが、「可也山」という名称については古代からの話だろうから在日韓国人の影響とは考えられない。
No.2
- 回答日時:
古代中世の渡来人としての朝鮮半島や中国大陸から来た人びとなど東北アジア文化の影響と、明治時代以降の近代になってからのアジアからの移住者---このケースでは朝鮮半島に住んでいた、現在につながる韓国朝鮮の人びと---の文化習俗の影響、あるいは新たに創造された日本の多文化社会的なさまざまなもの、を全てごっちゃに混同して考えてしまうのは、どうなのかなと思います。
地名や史跡の多くは、古代の渡来人の習俗文化の影響で、日本全国のあちらこちらにあることで、近代以降現在に至るまでの人びとのエスニシティとは、直接関係の無いことです。
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