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古代の朝鮮の一部は倭国だったと聞いたことがあります。
朝鮮にある前方後円墳は朝鮮へ行った倭人の墓であるとか。

この説の根拠となる文献がいくつかあったと思うのですが、
ご存じでしたら教えてください。

※この説の真偽を問うのが質問の趣旨ではありません。
文献名とその内容が質問の趣旨です。
しかし、この説についての意見等もありましたらお聞かせください。

ただし、嫌韓の方は嫌韓の感情を排除した冷静な意見をお願いします。
反日の方は半日の感情を排除した冷静な意見をお願いします。
根拠のない回答はうんざりしてしまうのでご遠慮ください。
根拠のない回答はスルーさせていただきます。

A 回答 (6件)

「後漢書巻90鮮卑傳」「山海経巻十二・海内北経」「後漢書巻85」「魏書韓傳」「魏書韓傳」「漢書地理志燕地の條」「山海経巻12海内北経」「魏志倭人伝」「広開土王碑文」


では韓国の地続き、半島の南部に倭国があるようです。
日本書紀には地理的表現はないようです。勘違いでした。
『百済本紀』の記述から、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないとの意見もあります。
もっとも、前方後円墳は全羅南道に11基、全羅北道に2基らしいですが、木浦あたりです。
半島の西南に位置し、他地区出身の韓国人の差別対象地域です。理由は知りません。仕事、結婚に支障あると聞きます。かの国では昔日本領だったと思われているのかもしれません。
同じく差別対象の済州島は李王朝の流刑地だったので理由はわかります。
かつて、釜山から木浦まで自転車で行こうとした時に簡単に調べた物から基礎文献抜き出しました。体調崩した上、韓国でも自転車が普及したので、やめました。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
調べてくださったのですね~。
頭が下がります~。


回答をもとに調べてみました。

●魏書韓傳
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=184427
弁辰は辰韓と雑居す。亦、城郭あり。衣服居処は辰韓と同じ。言語法俗あい似たり。鬼神を司祭するに異なるあり。施竈(しそう:かまどの意味)みな戸の西に在り、そのトク盧国(とくろこく)は倭と界を接す

これは半島南部に倭があったととれますね。

●海内北経
http://kamodoku.dee.cc/sengaikyou.html
蓋(がい)国は、強大な燕の南、倭の北にある。倭は燕に属している。朝鮮は列陽の東の海、北山の南にある。列陽は燕に属している。

これは地続きなのかどうかよくわからないですね?

●五漢書85http://classic.music.coocan.jp/_book/furuta/goka …
倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百余国。

これは倭国は島国のように読めます。

●漢書地理志燕地の條
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kanjo/kanj …

樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う。

これも倭国は島国。

●魏志倭人伝
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。

同じく島国。

●公開土王碑文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA% …

ウィキには倭国の地理が公開土王碑に記されているとは書かれていないような?

ざっとナナメ読みしただけなので、見落としがあるかもしれません。

漢文なので難しいですね。
漢文の知識がないと。
日本語でも古文は難しいですもんね。
当時の習慣とかがわからないと意味がちんぷんかんぷん?

読み方のちがいで、いろんな意味にとれるんでしょうか?

前方後円墳がある地域差別対象地域なんですか。
おっしゃるように昔日本領だったと思われていて、それで差別されているのかもしれませんね。

済州島は李王朝の流刑地だったんですか。
済州島のトルハルバンでしたか、飛鳥にある猿石になんとなく似てるなあ、と思ったりもします。

>釜山から木浦まで自転車で行こうとした時に簡単に調べた物から基礎文献抜き出しました。

そうなんですか!
貴重な調査結果を教えてくださってありがとうございました。

これはとても難しい問題ですね。
漢文の知識があって、読み下せないことには
素人にはなかなか判断できないことだと感じました。

でも大変勉強になりました。

お礼日時:2013/10/07 11:52

有り難うございます。


各資料は古中国語ですが意味は現在でも十分に通じる筈です。
翻訳者の思想で変わるようです。
古事記、日本書紀しかりです。
個人的には、古墳が一級の資料と思います。
墓、陵は現世の延長と考えられたと思われますので、
陵の形式は同一文化の人の可能性が高く、
韓国の古墳が日本より100年遅いのが事実であれば、
埋葬者が日本人の可能性が非常に高いです。
残念ながらそのような考えは余り公表されません。
高松塚古墳、キトラ古墳の壁画は明らかに中国
又は韓国の文化です。
埋葬者はその文化圏に属した人間になります。
即ち、天皇が渡来人になります。
当時世界的に文化だけが伝播した例がないです。
出典は焼失し、脳味噌にも残っていません。
比較文化論???
又探します。
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この回答へのお礼

わーー、こちらこそありがとうございます。
どちらにお住まいの方か存じませんが
足を向けて寝れないです。感謝感激でーーす。

>翻訳者の思想で変わるようです。

これが問題ですよね!
北朝鮮と日本の研究者では全く正反対の意味になってしまうというのが??

>陵の形式は同一文化の人の可能性が高く、
韓国の古墳が日本より100年遅いのが事実であれば、
埋葬者が日本人の可能性が非常に高いです。

古墳の場合は築造年代の算出の難しさがありますよね~。
土器編年法でわかるのは、土器がつくられた順番だけで、絶対年代はわからないし、炭素14法は誤差が大きすぎて信用できない。
年輪年代法は古墳から木材が出てこないことには使えないし。

>高松塚古墳、キトラ古墳の壁画は明らかに中国
又は韓国の文化です。
埋葬者はその文化圏に属した人間になります。

個人的には高松塚古墳は蘇我入鹿、キトラ古墳は蘇我蝦夷の古墳じゃないかなあと思っています。

両古墳壁画は高句麗壁画古墳のものにそっくりですが、蘇我高麗という人物がいるとかで、蘇我氏は高句麗人だったという説があるようです。
また高松塚古墳の被葬者には頭蓋骨がなかった。
これは蘇我入鹿の首が皇極天皇の御簾にくらいついたという伝説を思わせるので。
(とんでも説だと笑って聞き流してください~)

>即ち、天皇が渡来人になります。

蘇我入鹿が天皇だったという説がありますよね!

前方後円墳は不思議な形ですが、
http://www.abysse.co.jp/nations/europe/ge-images …

これにそっくりだと思いませんか。
(サンピエトロ寺院の広場かな?)
(とんでも説だと笑ってよみとばしてください~)

お礼日時:2013/10/08 09:42

任那のこと?



これは論争になっています。
任那があったことはあったでしょうが、倭国と言ってよいのかどうか、
現在の大使館のようなものだった、と言うのが正解ではないですかね?

当時、交流は活発だったようですから、朝鮮、日本に類似の出土品はキットたくさんあるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>現在の大使館のようなものだった、と言うのが正解ではないですかね?

こう思われる理由を教えていただけますか?

お礼日時:2013/10/07 09:58

一部が倭国だったというか,南朝鮮に大和朝廷の前線基地が置かれていたのではないかとする説があります。


戦後,第二次世界大戦と並んで韓国朝鮮との歴史問題化が懸念されたためにあまり表には出てきませんが,「「任那」問題」として歴史学で論争が続いています。
この問題にのことかと思われますので,以下纏めてみます。


「任那(にんな)」と言うのは,5~6世紀頃に大和朝廷の前線基地となったと考えられる朝鮮半島南端部分の地域のことです。
その様子は,日本書紀にも書かれ「百済記によれば」という記述が散見されます。
「百済記」というのは,嘗て存在したとされる朝鮮側の歴史書です。
今では失われてしまいその真偽は分かりませんが。
そうした記述から

「大和朝廷は4世紀後半、朝鮮半島に出兵し、新羅を服属させて加耶諸国を平定し、そこを天皇の直轄地「ミヤケ(官家)」として支配・経営するようになり、その統治のために任那日本府なるものを置いた。最初は金官国に置き、後に安羅国に移した。そうした支配は562年、新羅に敗られるまで続いた」

というのが通説となっていました。
その事実は「広開土王碑文」を通して裏付けられたと考えられていました。
この碑文は,高句麗の王を称えたもので,その中に百済が倭と内通したとか,撤退する倭軍を追って
任那・加羅まで追い詰めたが,逆に倭軍が隙をついて王都を奪ったなどが記されています。

ところが,1960年中頃に北朝鮮の歴史学者金錫亨が「分国論」というのを発表しました
「分国論」というのは、日本書紀に出てくるく韓国朝鮮の地名は,朝鮮半島のものではなく日本国内にあった朝鮮側の分国だとする説です。
つまり,朝鮮勢力が日本を植民地支配しており,日本書紀に出てくる名前は全て日本列島内のことだと主張したわけです。
さらに,「任那日本府存在説」側が頼りとする『日本書紀』には,朝鮮との関係について度々記述されているのに,「任那日本府」という言葉も欽明紀に出てくるだけで,不自然だとしました。

当然,日本側ではその説を積極的に支持する動きはありませんでした。
しかし,当時では常識となって誰も検証しようとしなかった「任那日本府」の問題について精査しようというきっかけにはなりました。
『日本書紀』を見直し,記述を率直にみると「日本府」というのは朝廷側が派遣した官人、つまり大使館みたいなものだったのではないかという説も出されました。
また,考古学分野でも研究が進み,日本との関係性を伺わせる土器などの出土品の多くが「任那」とされる地方から出土していること,日本で発展したと考えられる前方後円墳「松鶴洞古墳」が発見されたりとそれなりの成果が上がっています。(「松鶴洞古墳」については重なりあった円墳で前方後円墳ではないとする説もあります)

「任那日本府」については,まだまだ謎だらけなのですが,何らかの形で日本側の勢力が朝鮮半島に影響力を及ぼしていたというのが大方の意見でしょうか。
それに対して,韓国側が主に政治的・民族意識などを背景として必死に批判しているという感じかと思います。

以下は,参考資料です。

・井上秀雄 著 『古代朝鮮』 日本放送出版協会
・田中俊明 『大加耶連盟の興亡と「任那」 加耶琴だけが残った』 吉川弘文館、
朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』 同志社

史料として
『日本書紀』
『三国志』魏書東夷伝
『三国史記』
好太王碑(広開土王碑文)

などなど。

ではでは、参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
嬉しいです~!

日本書紀に「百済記によれば」と引用があるのですね。
「広開土王碑文」の内容からしてもそれが裏付けられると考えらえていた。


「分国論」というのは初めてききました。

日本書紀に出てくるく韓国朝鮮の地名は,朝鮮半島のものではなく日本国内にあった朝鮮側の分国だとする説ですか。

朝鮮勢力が日本を植民地支配しており,日本書紀に出てくる名前は全て日本列島内のことである・・・

どういった理由でそう主張されているのかが気になりますね。

>日本で発展したと考えられる前方後円墳

これも気になりますよね~。
本当に日本で発達したのだろうか、日本の古代には多くの渡来人がやってきて大陸の文化を伝えています。
案外、前方後円墳は朝鮮から伝わったものなのかもと思ったりします。

参考資料や史料をたくさんあげてくだたってありがとうございます。
図書館で探して読んでみます。

感情的なものを廃して論理的・科学的に考えるということは
口でいうのは簡単でも、実際にすることは難しいことなのかもしれないですね。

お礼日時:2013/10/05 12:07

古田武彦さんが、その説を述べておられましたね。



帝紀(三少帝紀)と韓伝に記述があるようです。
  ↓

 (6) (弁辰)其の賣*盧国、倭と界を接す。
     賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006

 弁辰賣*盧国と倭は国境で接している。
 明白に「倭地」が朝鮮半島内にあったことをしめしています。このことは、倭人伝を考察する場合に非常に大切になることです。こうした六例を背景に倭人伝ははじまっています。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku8/koyu …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
うれしいです~。

古田武彦さんの説にもあるのですね。


史料は帝紀(三少帝紀)と韓伝ですか。

賣盧国は釜山周辺、と書いてありました。↓

http://www.geocities.jp/pikupopodemi/rekisi/ronb …

とても参考になりました!

お礼日時:2013/10/05 11:31

日本書紀と漢書だったと思います。


調べます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
うれしいです~。
日本書紀と漢書ですね!
私も調べてみます。何かわかったら補足のところに書きますね!

お礼日時:2013/10/05 11:22

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