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世界を東洋と西洋にわけて文化を論ずることがありますが、東西にわけて論ずることの意味、又は無意味さはあるのでしょうか?

日本は東洋で、ヨーロッパは西洋でまったく違うものであるということを当然のごとく思っていたので、まったく考えられません。


みなさんはどう思いますか?
よろしければ考えをお聞かせください。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

歴史学の観点から言うと、辿ってきた歴史の相違が分かります。


そして、その背景となった文化の違いというのも分かりますね。
もちろん、似た部分も明らかになるでしょう。

従来の歴史学は、西洋史なら西洋史、東洋史なら東洋史、日本史なら日本史というように分断されて研究されてきました。
また、時代も古代史は古代史、近代史は近代史というように分断されていたと言えます。
この傾向は、西洋の歴史学を入植させた日本に著しくまだまだ抜け出せずにいますね。
一方、西洋では徐々に全体を見ていこうという気運が少しですがあるみたいです。
特に、他の方の回答にある「オリエンタリズム」の反省から、西洋からみた東洋史が見直されつつあります。(もっとも、まだまだ専門家レベルでなされている感じで政治や一般人にまで広がっているかは疑問は残りますが)

また、研究主題の関連で自ずと比較しなければならないことも出てきます。
例えば、何故「産業革命」は西洋で起こり、東洋では起こらなかったのかを明らかにしようとすれば、やはり背景となる歴史や文化を比較しなければなりません。
しかしこの時、「産業革命は素晴らしかった」とか「産業革命をやった西洋はやはり文明力が上だ」といった「価値判断」を持ち込むと、研究の意義が薄れる気がしますし、ただの民族主義や人種主義に陥る無意味な行動であると言えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

西洋と東洋の区切りをつけると、文化的背景にもやはり違いは出てくるのですね。でももともとは西洋の歴史学からもきている。難しいですね。参考にさせていただきます。

丁寧な回答、どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 15:13

世界を「東洋」と「西洋」に分け、西洋が東洋よりも優れたものであり、東洋と西洋は異なったものだと考えるのが「オリエンタリズム」という考え方です(噛み砕いて書いているので、厳密に言うと違うかもしれません)。



オリエンタリズムについて研究していた学者としては故人ですがエドワード・サイードが世界的に有名です。

サイード曰く、東洋(オリエント)と言うのは西洋(オクシデント)が専制的な意識(サイードはオリエンタリズム的な考え方が「西洋が東洋を支配し、教化する」という帝国主義に繋がっていったと唱えている)の元に一方的に押し付けた概念であるそうだ。

つまり、私達が無批判に「日本は東洋、ヨーロッパは西洋」という考え方を使うと言うことは無自覚に「西洋に押し付けられた概念」の上で考えているわけであって、思考方式として健全ではない、と私は考えます。

とりあえず、オリエンタリズムは名著中の名著なので、読みにくくはありますが、一度読んでみてはどうでしょう?
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そもそもの概念が西洋が発端なのですね。サイードのオリエンタリズム読んでみようと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 15:10

おいら達は 偉い「西洋人」だ!違う奴らは東洋人だ!


というのが、欧州人の世界観です。
オチデント にたいする オリエントです。

東西に分ける意味
19世紀~20世紀前半くらいの帝国主義世界において、列強が存在するのが西洋で、植民地・半植民地にされたのが東洋という分類で考えるのは、ひとつの世界理解としては成立します。

東西に分ける無意味
世界史の成立(モンゴル帝国の成立)を考えた場合、ヨーロッパ半島の西洋と、ユーラシア本体、および日本から台湾東南アジア、そしてインドからアフリカ東部海岸までの海洋世界と仮に東洋として、三分類するのであれば、世界史の成立という視点で考えると意味がある。
西洋=欧州世界と他の東洋というのは、全く意味がない。
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この回答へのお礼

とても分かりやすい回答ありがとうございます。

三分類するという視点があるのですね。分けるか分けないかしか頭になかったので、新しい視点です。

参考にさせていただきます。ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/27 00:16

文化論を単に比較と捉えれば、相違の羅列に終わってしまいます。

これはあまり意味がありませんね。比較するのはなぜ違うのかを考えるから意味があるのです。
また、関係論として捉えれば、なぜその文化を取り入れたのかという点で、より深くお互いの文化を知ることが出来るのではないでしょうかね

中国の麺が、イタリアのスパゲティになったなどというのは、面白いと思いますが・・・。そのイタリア料理をもととしてフランス料理が発達しました。フランス料理の原点はラーメンなんですね??
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なぜ違うのか、そこから考えることの大切さがあるのですね。文化を知り合うための方法としてのひとつということでしょうか。

どうもありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2007/07/26 22:57

まず、「まったく違うもの」では全然ありませんよね。

現に日本だって500年も前からヨーロッパ人と交流があったし、「東洋」という枠で考えたら更に昔からシルクロードがあったわけで、例えば、「16世紀の長崎とローマの違い」よりは「17世紀の京都と蝦夷の違い」のほうが大きかったと思われます。

なので、東西に分けて論ずることが必ずしも無意味だとは思いませんが、「論じ方」という点で「ここまでは東洋、そこからは西洋、二つは全然違う」などという論じ方をしだしたら、かなり危ういですね。

ですが、「そこは東も西も似ているよ」「いや、案外と違うさ」などという論議も含めて、両者を比較するのは、何かと意味があるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

東西に分けてしまえば危ういけれども、論じることに意味がある。

なんだか難しいですね(;´д`)ゞ違いが存在するからこそ分けた訳ですし…

参考にさせていただきます。ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/26 22:56

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