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 以前から気になっていたのですが、中国では早くから統一王朝が成立していたのに、欧州ではなぜ統一王朝ができなかったのか疑問に思っています。
 何か地政学的な理由や民族的な理由があったのでしょうか。
 それとも統一王朝ができたことの方が特異なことだったのでしょうか。

A 回答 (16件中1~10件)

15ですが


ヨーロッパの支配は境界線によって決まりますが、中華での支配は城です。城から離れると支配力が薄まります。人は城内に住み、夜は城門が閉じられます。
つまり、城からある程度の距離までは支配地域。城と城の中間あたりが境界線かな?という感じです。そしてそういう所は基本的に居住地ではないので、支配してもあまり意味がないということです。
ヨーロッパのように、要害が境界線となり、その内側を支配地域とした考え方とは基本が違います。(違っていたらごめんなさい)
戦国時代の日本は、この中間ですね。城からこのくらいの距離は支配できるよね、ちょうど大きな川もあるし…ということです。ですから、境界に建造物はなかった。出城を作れば、その大きさと地理を踏まえて、支配地区が決まったということです。
ですから、城を落とせばその周辺は支配できるという攻城戦が多く行われたのだと思います。

あと、落とした城の支配者一族は殺す。中華では当然のように行われてきましたが、ヨーロッパの貴族は、国をまたいで、血縁関係があったので、皆殺しとかを行いにくかったのではないですか?こうした勢力を残してしまったことが反乱をおこしやすい支配体制になったように感じます。
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アジアの統一王朝の多くは北方騎馬民族です。


そして、人口の多くを占める、被支配層は漢民族でした。
漢民族は、戦争が下手で隋、唐、宋、元、清は鮮卑、モンゴル、女真といった漢民族ではない民族が漢民族を支配していたのです。
漢民族の統一王朝は、漢と明だけではないでしょうか?
統一される側が弱くてたくさんいるのですから、広大な地域と、大量の人間を支配するのは簡単?です。

ヨーロッパですが、狩猟民族である強い民族が割拠していましたので、勝ったり負けたり、前を攻めている間に後ろから攻められる、といった一進一退の攻防を繰り返さざるをえませんでした。
そのため、なかなか全ヨーロッパを統一するほどの力を持つ民族(王朝)は育たなかったのではないでしょうか?

ただし、全く無いわけではないですよね。ローマ帝国とか… 
それに、ヨーロッパの北の方は、かなり寒くて住みにくかったはずですから、わざわざ、統一する必要はなかったのかもしれません。
オスマントルコのように、地中海周辺の住みやすく、資源も多く、移動のしやすいところだけを支配したほうがメリットがありますからね。

全くの私見です。
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色々な方の意見が面白いですね。


ただ基本的には中国と欧州の地図を見比べてみると分るのではないでしょうか?
中国の国土が基本的に丸い(四角い)のに対して、欧州はギザギザです。

地図を見て適当に国境線を引こうとすれば、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ドイツ、スカンジナビア、ギリシャ辺りに分けられますよね?
また、欧州はアルプス山脈やピレネー山脈などがさらに地理的条件を複雑にしています。

対して中国は、中国、朝鮮以外の区分けは難しいと思います。
さらに、長江黄河という二大河川が陸と海を結び、隋の時代に作られた大運河が南部と北部を結んでいます。

このことによって
1.欧州は軍事力による征服が困難
 ナポレオンがイギリスを征服できなったとか、そんなのですね。
 ローマ崩壊後の秩序が完全に回復するまで時間がかかったのも、欧州の地理が影響していると思います。
2.欧州は地域間の人々の交流が乏しい。
 つまり、別々のコミュニティーに凝り固まりやすいということです。
 基本的にそれぞれの国は凝り固まったコミュニティーの上に立つのですから、小さいコミュニティーがバラバラに存在するのであれば小さい国がバラバラに分立しやすいのかと。
 つまり、中国は基本的には漢民族の国であり、その漢民族を誰が仕切るかという戦いであるのに対し、欧州の場合はあらゆる民族を征服しなければいけなかったということです。

地理的要件以外だと
1.キリスト教
キリスト教っていう強大な権力機関が世俗権力である王の権力を制限していました。
2.文字
No13さんと同じですね。
漢民族は漢字が作ったといっても良いのではないかと思います。
3.ゲルマンの支配方法
ANo.2さんと同じですね。
ただ、財産分割は王だけの話ではなく、王の土地も部下に分け与え、その部下も分割相続って形になったため、欧州の封建制度は国内を統一することすらままならないほど、国土を完全に分断してしまったようです。
国内統一に一定の目処がつくのが1400~1500年辺りですから、1000年近く時間をロスしてしまったわけです。
ローマを滅ぼした民族たちがオスマントルコのように、中央集権的な民族だったら、もっと早く欧州統一戦争が起こっていたかもしれません。
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 最も大きな要因の一つは、漢字とアルファベットの違いです。

同じアルファベットを使っていても、英語しかできない人間にフランス語やドイツ語は読めません。一方漢字は表意文字なので、北京語で書かれた文章を広東語で読むこともできます。漢字のこうした特性が、統一国家を維持する上で大きな役割を果たしたことはたしかでしょう。

 もっとも、漢字を統一したのも秦の始皇帝なので、「始皇帝がいたかいなかったか」という要素も非常に大きいのですが。
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 No.5です。

大河について。

 大文明と大河の関係のように、大河は文明の収束力となることが多く見られます。

 特に乾燥地帯に流れている大河の場合、不足する灌漑用の水を安定的に供給するほか、日本人が普段見る河川とは異なり、大陸の大河は流れがゆっくりとしていて、船による物資輸送が容易で、地域の統一的な経済活動に欠かせない、大量輸送ルートとなります。

 古代における強力な巨大帝国には、情報伝達の早さと強力な物資輸送能力が必要です。
 乾燥地帯であることによって、情報伝達が早くなり(馬を十分に活用できる)、大河によって物流の大動脈が確保されるのです。
 四大文明はこの条件に見事に合致しています。

 中世においては、ライン川やドナウ川の水運が、段々と流域の一体化に効果を及ぼして生きますが(本来の川の歴史にあたえる性格がでて来ます。)、数百年に渡ったローマ帝国の防衛線としての、人工的な地域分断線の性格は、相当長く後世の歴史に影響を与えます。

 『川』には、輸送の大動脈としての地域を一体化する基本的性格と、お互いに異なる政治的集団の境界となる両面性がありますので、注意してください。 
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No.7です。



軍制についてですがローマから遡ると変化が著しいです。
古代ローマは相当に省略しますが徴兵制度(市民権・税制と密接な関わりあり)から志願制へと変わりゲルマン人を始めとする傭兵制へと転換しています。志願制についてですがこれはあの領土の広さと比べて極小数の30万前後で推移しています。今の日本の陸上自衛隊で定数が18万だということを考えるとこれは出鱈目に少ない人員だと言う事が分かるかと思います。
これで外敵からの国防と内部の治安維持を賄えたのか?と言うとこれはYESということになります。答えは他の回答者さんが述べている街道網の整備です。これによって迅速な戦力の集中と分散を可能としました。それともう一つは防衛戦略にあります。ローマは領土と近隣諸国や部族との間に緩衝地帯を設定しそこまで出撃してから相手を叩く方法を取っていました。もっともこれは東方から来たフン族等に相手が変ると失敗するようになります。勿論これは実力の違いが第一に着ます。ローマ人はケルト人を蛮族と言い、ケルト人はゲルマン人よりもマシだと主張。ゲルマン人はフン族は筋金入りのワルだと言ってました。フン族の主張は残ってませんが見つかったらきっと「エイリアンよりも紳士的だ」とでも主張したかもしれません。最後は冗談ですけどね。
私はもう一つの理由として馴れ合いがあったと思います。お互いに利益の落とし所というか交渉のネタとしての側面もあったと思います。しかしこれはそんな事情なんて知らないフン族に無視された形もあるのでは?という個人的な創造を超えません。つまりは「空気読んでない」という訳です。

前置きが長くなりましたが中世以降はローマ街道の整備が行われなくなり消耗しとても大群の移動に適しなかった事情もあります。これだと元々自己主張の激しい彼らは都市国家レベルから大きくても数カ国程度でしか制圧が困難となります。実際ローマ時代の城砦は平地が多く中世になると山や丘陵に城砦を築くケースが多いです。ヨーロッパ規模での引き篭もり時代とも言えます。

軍制としては騎士団(といっても時代が下ると生活のために同時に複数の主君と主従関係を結ぶ傭兵みたいな騎士も出てきました。)が主流となり弱体化(貨幣経済の復活と火薬による軍事技術の向上)し傭兵が主流となりました。
傭兵と言ってもピンからキリがあり現在のフランスやスペインのような国が抱えるレベルと都市国家が可能なレベルは当然差が出てきます。この点は食料生産能力の向上もあるのですがもう一つは「金」です。そして金を稼ぐ方法としてポピュラーなのは特産品の売却利益=貿易です。これだと何も食料生産のみに労力を集中しなくとも輸入すれば同じ意味を持ってきます。それから都市国家間の同盟も有効です。何も食料生産・交易・国防その全てを一都市だけで賄わなければならないルールはありませんしね。

多々関係ない部分にも触れましたが私なりの答えです。
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No6です。


追加のご質問にお答えします。

道路網というのは軍隊の移動に重要な意味をもちます。
大部隊の移動も補給の為の便宜を考えても道路は重要です。
ジンギスカンは道路もない草原を疾走出来る機動力と補給システムをもって大帝国を建設しました。
しかし彼もヨーロッパ大陸に入ると進撃速度は低下せざるをえませんでした。  これは地形的影響を受けやすい地形であったからとおもいます。
草原地帯とは異なる大河に遭遇したからではないでしょうか。

始皇帝の車軸間規格の統一は当時の戦車、輸送馬車をどの地方にも輸送出来るからです。  中国の大河は国境線の役目もしましたが舟運の発達も促しましたから特に越えられない事はありませんでした。

周辺の居住民にとっては舟運は生活に密接な関係を持っていました。
少し時代は下りますが孫権の呉国や魏の曹操も大規模の水軍を編成しています。

ローマの道路網は有名ですが軍用道路も兼ねた幹線道路は排水も考慮された舗装道路で天候の影響なく大部隊の移動が可能でした。
これにより軍の派遣、増援、がスムースに行われました。 これなくして大帝国の建設は不可能でした。  またライン河への架橋技術による大部隊の渡河は北岸の蛮族を驚かせ戦わずして四散させたのも有名です。  トンネルの土木技術もありました。
反面地形の影響をうける隘路は後世でも色々な障害があったのも事実です。 徒歩や馬匹による他なかった時代と近世とは時代が異なります。
ローマがライン河を国境として利用したのは既に十分な版図があり防御が容易かったからで、また北岸に進攻すべき利点が乏しかったのも一因とかんがえます。
利点を発見した場合はドナウを越えてダキアに進攻していますから。
反面地形の制約をうける地方では
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地形的要因が大きいと思います。



フランス・ドイツ・イタリアの三ヶ所に限定しますと
フランス・ドイツ間はアルデンヌ高原があり、オランダ・ルクセンブルク・アルザス回廊の何れかしか通れません。
オランダ回廊はワーテルロー・マーケットガーデン作戦で知られる回廊で細い1本道です。
ルクセンブルク回廊はやはり細い回廊で、途中にルクセンブルク要塞・リージュ要塞などが存在します。普仏戦争、1940年のフランス侵攻、44年のバルジ作戦はこの回廊が使われています。
アルザス回廊も細い回廊です。30年戦争でのフランス軍事介入や普仏戦争で使われました。

ドイツ・イタリア間にはアルプス山脈がありますので踏破が困難です。迂回するか地獄のアルプス越えをするしかありません。
フランス・イタリア間もアルプスがあるため細い回廊を抜けるしかありません。

つまりこの三国を統一しようとすると、細い回廊を行くしかないため敵への攻撃が難しいのです。また攻略に成功しても援軍を送り込むのが大変なので前線部隊がレジスタンスなどにやられてしまう可能性が高いのです。

あとは考え方でしょう。オーストリアのグーテンホフ伯爵家に光子が嫁ぎ、その子供が汎ヨーロッパという考えを持つようになって経済的にアメリカや日本に対抗するには大団結が必要という意識を西欧に広めた結果EUが生まれたのです。どうも原典は明治維新のようですが…
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この回答へのお礼

 地理的障害の存在と欧州統一という意識がなかった(あるいは生まれにくかった)ためと理解しました。特に、フランス・ドイツ・イタリア間の地理的障害を詳しく説明していただき、ありがとうございます。また、グーテンホフ伯爵家については知りませんでしたが、PENPENMAKKYさんの以前のご回答(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1397067.htmlのANo.4)からその一端を窺うことができ勉強になりました。

 上記3国間の地理的障害を拝見して思いましたのが、中国の三国時代です。蜀も地理的障害で阻まれていたのに国力の差から統一されたことを考えますと、欧州では地理的障害に阻まれた地域の国力が互いを凌駕するほど大きくなれなかった(あるいは逆に小さくならなかった)ことも一因かもしれないと考えております。また、蜀が大きな抵抗運動もなく支配されたことを考えますと、欧州ほど大きな文化的差異がなく支配されることに精神的な抵抗が差ほどなかったのかもしれないとも考えております。

 各地の回廊と戦争を対応付けて地理的障害の大きさを具体的に解説していただき大変ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/08 14:55

No.3です。



すいません。あまりにも大雑把な書き方をしてしまいました。
字数が多い回答は、避けたいという気持ちが強く出てしまいました。

>大西洋からの刺激
アトランティス伝説や実はアメリカ大陸との交流があったとかいう
話ではもちろんありません。
アングロ・サクソン人のイギリスへの移動、ノルマン人・バイキング
の侵入、フランスでは度重なるイギリスの侵略等を指します。
大西洋ではなく、北海・ビスケー湾とした方が正確だったですね。

>原始的な技術でも渡航に適していた
原始的技術でも渡航に適しているという事は、国家や為政者が事業と
して行わなくても、個人や数人規模で勝手に交易や移住が可能という
事になります。
つまり、渡航に強大な組織を必要としない事です。
実際、ギリシャの各ポリスは各々中東に渡航していましたし、
イタリアの部分的な勢力であるローマやヴェニスは、カルタゴ侵攻
や巨大な貿易を行いました。
ヨーロッパ全体がまとまらなくても、渡航は充分可能だったという
事です。
十字軍遠征もそうですね。統一国家が無くてもちょっと連合を組めば
軍隊を中東に送れました。

一つ、忘れていけないのは「原始的な技術でも渡航に適していた」事
で大帝国を作れたローマ帝国ですが
ヨーロッパにあれほどの統一国家を作れたのはローマが最初で最後
です。(ナポレオンやヒトラーは統一していません)
ローマ帝国は、原始的なヨーロッパ人に地中海程度の海を渡航できる
ぐらいの技術(文字、宗教も含)を広めました。
結局、それが二度と大帝国をヨーロッパに誕生させない要素を
与えたとも思えます。

中国は、侵略して利益の出る文明や国家が、周囲に無かった事が
(国家プロジェクトとして)海外渡航に消極的だったのが主因
(ただし、インド洋への交易活動はのぞく)ですが
そのため、それが海外からの刺激も少なく結果的に統一に寄与した
のではないかと考えます。

でも、他の方の回答を読ませていただくと
アルプスやいくつもの河川、自然環境(フランスのなだらかな丘陵、
ドイツは起伏に富んだ深い森等)も大いに関係してますね。
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この回答へのお礼

 再度ご回答頂きありがとうございます。
 特に、今回は丁寧に解説していただき痛み入ります。お陰さまで「大西洋からの刺激」と「原始的な技術でも渡航に適していた」ことを得心することができました。
 海からの刺激については、中国でも倭寇による侵略がありましたが、バイキングがシチリア王国を建国したことなどと比べると、改めてその規模が小さかったことを理解することができます。また逆に、刺激が強すぎるとインカやアステカのように滅亡の憂き目に遭ってしまうわけですが、欧州の場合は刺激がほどほどの加減だったのだろうと思っています。
 また、欧州ではローマ帝国が渡航技術や文化を各地に広めたことが統一の阻害要因になったのに対し、中国では技術や文化を広めても渡航に消極的であったことが統一を阻害するほどの独自文化が生育しなかった点も興味深く思います(無論、中国では地理的障害が差ほど大きくなかったということも影響していると思いますが)。もし、江戸時代に鎖国政策を採らなかったら、各地の大名は各々の思惑で他国と交易を行って独自色を強め、さらには国内分裂の萌芽を作っていたのかもしれないなどと勝手に空想しています。
 詳しく解説していただき大変ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/08 14:33

面白い質問ですね。



私の意見は農業です。
ヨーロッパは今でこそ豊かな農業生産能力を持ちますが古代は荒地や密林で覆われていました。気候も支那の南方に比べて寒冷であり全体的に見ても麦や放牧しか出来ません。土地も痩せていて連作は不可能でありエジプトのナイル河の様に定期的な氾濫による豊かな土壌も他所からは来ません。

これでは支那の様な高密度の人口は養えないのです。となってくると大規模な軍は編成できません。欧州ではせいぜい10万が一ヶ所でしかも短期間で養える軍人の限界となってきます。これでも相当無理している人数でありここまで集めると他所に置いておく護りの戦力が足りなくなってくるんです。
これ以上の人数があつまる戦争はフランス革命で徴兵制が流行り鉄道網や蒸気機関の発達で輸送力が底上げしなければ実現しない規模となります。そしてそれが実現した頃には国民国家が成立した時代に当たります。フランスはフランス人、ドイツはドイツ人、イギリスはイギリス人の国と言う常識が支配する時代では征服してもすぐに叛乱が起こって鎮圧しなければなりません。実際ナポレオンはスペインでの抑えの兵力を相当に裂いてからロシア遠征してますし(仮にそれが無かったとしても敗北が伸びただけでしょう。)キリスト教やギリシア・ローマ文明といった共通の価値観は早い段階で共有し長時間持続することでやっと威力を発揮しますからそういった面でも統一王朝は困難だったと思います。
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この回答へのお礼

 まずは質問をお褒め頂きありがとうございます。(勘違いでしたら恥ずかしいですが。)
 欧州では農業的に不利だったため長期間や大規模な軍の編成/遠征が困難であり、そして、各地での独自色が強く人工的に長期間、共通の価値観の下に置かないとその価値観を共有できなかったためと理解いたしました。特に、農業生産力が差ほど大きくなかったとのご指摘はまったく気づかなかったものであり、貴重なご見解をいただけたことをありがたく思います。
 この点を、今年見たインカ帝国の成り立ちを紹介する某公共放送局のドキュメント番組の内容(農業生産に不利な土地ながら、逆に高低差を生かした農業生産に専念した小国家が他国と友好関係を結ぶことで平和的に統一を果たした)ことと照らし合わせてみますと、欧州では平和的な統一が図られなかったのは何故だったのかと新たな疑問が湧いてきます。(短絡的に、欧州人が戦闘的だったとは考えたくはありませんが。)
 ところで、確認なのですが、欧州では国民国家による徴兵制が導入されるまで傭兵が一般的だったと思うのですが、これは、農業生産力は大きくはなかったものの都市国家を防備する程度の小規模の軍隊であれば保持することができたということでよろしいでしょうか。
 お時間があるときにでもお教えいただけたら嬉しく思います。
 示唆に富んだご見解を示してくださり大変ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/08 14:03

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