朝日新聞をメインにカメラマンとして活躍されている様子の「鬼室黎」さん(男性か女性か不明なり)は「鬼室福信」「鬼室集斯」を先祖とされる方なのでしょうか? もしご存じであれば教えて下さい。 何れにしろ、「鬼室」(きしつ)とは極めて珍しい姓かと。質問としては渡来系の名前としてどのような姓が千五百から二千年近くの時を経て現在の日本に残っているのでしょうか?

備考:「朝日新聞」にも問い合わせましたが、「判りません」と木で鼻を括った様な返事、サイトにも「鬼室」「姓」ではごく僅かな情報しか無かった。

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A 回答 (3件)

「あとは、「渡来人」に特有の「姓」、、、「秦」さん、なんかは有名ですが、他にありませんでしょうか?」



飛鳥時代から大化の改新の頃の日本(倭)は、高句麗および百済と同盟関係にありました。両国が唐と新羅の挟撃によって滅亡した後、両国から逃れてきた人たちがいました。(高句麗滅亡は668年、百済滅亡は660年)

そのうち、高句麗(日本での通称はコマ 高麗)の王族の高麗(コマ)若光を中心とする一団が、武蔵国に集団入植して高麗郡が設置されました(716年 武蔵国高麗郡設置)。現在の埼玉県日高市の辺りです。
高麗神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97% …
からリンクを辿ってください。

高麗神社の社家(高麗若光の直系子孫)は1000年以上経った今も「高麗家」として続いているそうです。また、「コマ」と読む苗字(駒、狛など)はこの系統に属すると見てよいみたいです。

東京都に狛江(コマエ)市がありますが、これも、高麗郡からさらに移住した高句麗出身者に由来する地名と聞いています。日高市から狛江市はあまり遠くなく、戦国時代まで関東の主要道だった上野から鎌倉までの「鎌倉街道」に概ね沿っています。

なお、百済の王族には亡命後に日本の貴族と同等に扱われた者もおり、

百済王敬福
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88% …

は、「日本で最初に砂金が発見された時の陸奥国司」として歴史に名を残しており、従三位刑部卿という高位に上っています。この人の子孫は何らかの形で残っているでしょうが、詳細は存じません。

百済や高句麗からの亡命者を全て貴族扱いするわけにも行かないので、近江や武蔵に、それぞれの王族をリーダーとして集団入植させ、自活の道を与えたわけですね。
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この回答へのお礼

連続のご回答深謝です。あとでじっくりと「wiki」読ませて頂きます。当時の高度な人的交流(戦争由来とは申せ)の名残りが面々とこの日本各地に受け継がれているとは、門外漢の私にはとても新鮮でありました。

お礼日時:2007/08/07 12:22

buchi-dog様のご回答にある『街道をゆく 韓のくに紀行』


手元にあるので読んでみましたが、
「鬼室集斯の子孫が現在も続いているか否か」は書いてありませんでした。

渡来人の「姓」で、今も続いている姓といえば、
「村主」さんを「すぐに」思いつきました。
「半月城通信」というHPに出ています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm119.html#No.892

「百済王敬福」については、司馬氏の街道シリーズ「砂鉄のみち」に
岡山県津山市の「百済」さんを訪ねたときの話が出ています。
その「百済家」の家系では、
「敬福から25代の孫の馬之丞という者が南河内(大阪府南部)の狭山で
鋳物をはじめた。その馬之丞から10代目の又四郎というのが、
美作国に移住し長岡庄に住んだ。」
さらに話は続きますが、「百済」さんも渡来人の姓ですね。

ついでに、「新羅」について。
播磨国風土記の餝磨(しかま)の郡に
「新羅訓(しらくに)となづくるゆえは、昔、新羅の国の人、来朝せるとき
この村に宿りき。故、新羅訓となづく。山の名も同じ」とあります。
今の地名は、「白国」です。
「白国」さんも渡来人系ではないでしょうか。

「巨智部」さん。
播磨国風土記に出てきますが、百済からの渡来氏族である「巨智(こち)」
と関係あると思います。

ここまで書いてきて、それなら「新撰姓氏録」諸蕃の項に出ている姓を
調べるとすれば、まだまだありそうです。
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この回答へのお礼

グー・パーさん、どうも有り難うございます。調べれば調べる程奥深いものですね、質問者本人にはそれほど深い興味はないので、これ以上の質問する素地もありませんが、「村主」(すぐり)ムラコソ)さんなどの記述はとても興味深いものでありました。「新撰姓氏録」も後で見てみます。

お礼日時:2007/08/08 12:59

その方が、日本に移住した鬼室集斯の末裔である可能性は高いでしょう。

鬼室という「日本人では思いつかない文字の組み合わせ」の苗字を、無関係な者が名乗るということはまず考えられません。

司馬遼太郎著「街道をゆく~湖西のみち・韓のくに紀行~」
では、鬼室集斯を祀る「鬼室神社」について書いてあるようです。その中で「鬼室集斯の子孫が現在も続いているか否か」が書いてあるかもしれません。今ほど個人情報保護に神経質でない時代に書かれた本ですから。

なお、企業や役所への問い合わせは、「個人情報保護」という名目であまり成果が得られないでしょう。
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この回答へのお礼

本件如き些細な質問にご回答頂きまして誠に有り難うございます。実は身近な縁者からの質問に対して「ナーに、直ぐに判るから、インターネットで調べてあげる」と安請け合いしたものの、中々見つけられませんでした。
あとは、「渡来人」に特有の「姓」、、、「秦」さん、なんかは有名ですが、他にありませんでしょうか?

「鬼室集斯」をお祀りした「鬼室神社」は調べました、滋賀県日野町ですね、わざわざ訪ねても手掛かりは、、、?

お礼日時:2007/08/07 09:13

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Q徳川姓と松平姓の関係

徳川一門でも、徳川を名乗ったり、松平を名乗ったりしていると思います。
親族でこの2つの姓名はどのように使われているのでしょうか(2つの姓のボーダーラインはどこで切られているのでしょうか)?
又、松平姓は、徳川の遠縁を含んで、皆、徳川家の親戚なのでしょうか?
親戚の中で2つの苗字を分けるのは何の為なのでしょうか?理由があるとおもうのですが・・・。
教えて下さい。m(__)m

Aベストアンサー

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他の兄弟は次男秀康は結城家に4男忠吉は東条松平家に、5男信吉は武田家、6男忠輝は長沢松平家…と養子に出されてました。
つまりたとえ家康の子でも一度他家へ養子に行ったものは徳川姓は与えられなかったと言う事です。

同様に秀忠の4男保科正之も高遠藩主、保科正光の養子となっていて兄忠長と異なりのちに与えられたのは松平姓でした。
徳川家宣の弟・松平清武も越智家の養子となっていたため、のち松平姓が与えられています。

御三卿に関しては吉宗長男・家重に障害あると言うことで、そのスペアとして次男・宗武、4男・宗尹を江戸城内に住ませたのが起源ですので、存在目的が「将軍継嗣」でしかないと言う事もあり、将軍継嗣の条件である徳川姓が与えられたと言う事情によるものです。

なお水戸頼房に関しては徳川姓が与えられたのは徳川忠長死後であり、それまでは松平頼房と名乗っていました。
水戸家に関しては将軍継嗣になれないと言う事柄は公武応勅法制十八ヶ条を根拠としています。しかしこれは偽書であり実際にはこう言う規定はありませんでした。事実水戸綱条が将軍候補者としてに名前が上がった事もあり、水戸光圀も綱条が尾張・紀伊がダメなら水戸が将軍になると発言しています。

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他...続きを読む

Q二・二六事件で朝日新聞が襲撃された理由

昭和11(1936)年2月26日、東京で陸軍の一部の将兵が反乱を起しました。彼らは首相官邸のほか、東京警視庁や東京朝日新聞社を襲撃しました。(⇒クーデター未遂。二・二六事件)

この反乱は、結局、成功しませんでしたが、反乱軍はなぜ、新聞社を襲撃したのでしょうか。クーデターを意図していたのですから、首相官邸や警視庁などの公的機関を襲ったのは理解できるのですが、民間の団体である新聞社を襲った理由が解りません。ご存知の方、教えて下さい。

Aベストアンサー

ちょっと古い本ですが、憲兵隊にいた大谷敬二郎氏が戦後に出した「二.二六事件 流血の四日間」(図書出版社.1973年初版発行)という本があります。
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E2%80%95%E6%B5%81%E8%A1%80%E3%81%AE%E5%9B%9B%E6%97%A5%E9%96%93-%E5%A4%A7%E8%B0%B7-%E6%95%AC%E4%BA%8C%E9%83%8E/dp/4809900169/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1246204523&sr=8-1

この本の31ページに朝日新聞襲撃の理由として次のような記述があります。
「なぜ朝日新聞社だけがこんな被害を受けたかということである。それは当時の朝日新聞が最も自由主義的色彩がつよく、反軍的でつねに陸軍の政治態度、革新的態度に批判的であったことから、青年将校の憤激を買っていたからである」

ちなみに朝日新聞を襲撃に来たのは50名の兵士であり、朝日新聞社側が社員を全員退出させた後、兵士達が乗り込み印刷局の活字ケースなどをひっくりかえす等の狼藉を1時間ほどし、決起趣意書を貼り付けて引き上げたそうです。
その後、この部隊は、東京日日新聞、時事、国民、報知の各社、電報通信社を回って決起趣意書の掲載を要求して引き上げたそうです。暴力行為を行ったのは朝日新聞社だけだそうです。

つまり新聞各社へ決起趣意書の掲載を求めるついでに、これまでの記事内容が気に入らない朝日新聞社にだけは、お仕置きをしたという事でしょう。

また、決起した部隊には、抵抗する者以外は敵といえども危害を加えてはならない。市民、特に老幼婦女には手をふれてはならない。という命令がだされていましたから、敵視された朝日新聞の社員も全員無事だったのでしょう。

ちょっと古い本ですが、憲兵隊にいた大谷敬二郎氏が戦後に出した「二.二六事件 流血の四日間」(図書出版社.1973年初版発行)という本があります。
http://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E2%80%95%E6%B5%81%E8%A1%80%E3%81%AE%E5%9B%9B%E6%97%A5%E9%96%93-%E5%A4%A7%E8%B0%B7-%E6%95%AC%E4%BA%8C%E9%83%8E/dp/4809900169/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1246204523&sr=8-1

この本の31ページに朝日新聞襲撃の理由として次のような記述があります。
「なぜ朝日新聞...続きを読む

Q日本の姓と苗字:姓と諱の間に「の」が入るが苗字と諱の間には「の」が入らないことについて

古来、日本では姓と苗字は別です。姓と諱の間に「の」が入るが苗字と諱の間には「の」が入らないですよね。さて
1)「豊臣」は天皇から賜わった「姓」ですよね。苗字とは違います。だったら「とよとみひでよし」ではなく「とよとみのひでよし」というのではないのですか。
2)江戸時代は姓で呼ばれる人はあまりいないようですが、荷田春満 は「かだのあずままろ」、賀茂真淵は「かものまぶち」というからには荷田と賀茂は姓ですか。かれらは苗字でなく姓で呼ばれてたのですか
3)江戸時代で他にも「の」がついてる人はいますか
全部でなくても部分回答でもいいのでよろしくおねがいします。

Aベストアンサー

 
 慣例や原則に関する学説は、誰もが自由に述べることができますが、
人名辞書においては、表記統一のため、二者択一を迫られます。
 どちらが正しいかは別として、わたしは辞書の凡例を重要視します。
 
── 長音符号、中黒(・)は無視し、清濁については、清音、濁音、
半濁音の順とした。
── 《新潮日本人名辞典   19910305 新潮社  》P0007/18000名
 
── 「蘇我・藤原・源・平」など古代から中世にかけての人物の読み
仮名などでは、多くの場合慣例により「うじ名」あるいは「姓」と「名」
の間に小文字の「の」をつけて表記し、「おおとものやかもち」のよう
にした。この「の」は中黒「・」と同じ扱いとして項目配列の際には無
視している。
── 《朝日日本歴史人物事典 19941130 朝日新聞社》P0003/13000名
 
 新潮:ふじわらの「藤原 顕季~藤原 ●子」(●=才+侖)
 朝日:ふじわらの「藤原 顕季~藤原 麗子→陰明門院」
 いずれも「藤原 惺窩=ふじわら・せいか」が孤立しています。
 
 方法論としては、上記の姓と生没年代を抽出し、「の」の有無を分別
すれば、慣例や傾向を知ることができます。回りくどいようでも、諸説
を照らしあわせるよりも、簡明な成果が得られると思います。
 
── 本書は明治十九年に初版刊行以来、学者や専門家だけでなく、広
く一般教養人に支持されて多くの版を重ね、更に増訂を繰り返し、不朽
の名辞典として定評を得た。遠く記紀神話の神々から昭和初年の重要人
物まで、日本歴史上の主要人物は完全網羅。ことに古今の文献を博捜し
た精細な記事は、読んでおもしろいとの評判を呼んだ。
 さらに本最終巻には、名家系譜・歴史年表・刀剣鍛冶叢伝など、他に
類を見ない貴重な歴史資料をも収録した。(カバー)
── 《大日本人名辞書(五)19800810 講談社学術文庫》約10000名?
 

 
 慣例や原則に関する学説は、誰もが自由に述べることができますが、
人名辞書においては、表記統一のため、二者択一を迫られます。
 どちらが正しいかは別として、わたしは辞書の凡例を重要視します。
 
── 長音符号、中黒(・)は無視し、清濁については、清音、濁音、
半濁音の順とした。
── 《新潮日本人名辞典   19910305 新潮社  》P0007/18000名
 
── 「蘇我・藤原・源・平」など古代から中世にかけての人物の読み
仮名などでは、多くの場合慣例により「うじ名」あるいは「姓」と...続きを読む

Q金さんや朴さんのように、韓国人の姓が1字になったのはいつ頃から? そして日本で最初に姓をもった人は誰?

今の韓国人の99%以上の人の姓は1字で表しますよね。 ごくたまに日本人のように2字の姓をもった人がいるようですが、ほとんど見かけないようです。

金や朴、あるいは李といった姓が多いと思うのですが、これは数百年前 (?) に当時の中国王朝の真似をして1字の姓をもつようになったから、という話を聞いた事があります。 それ以前にはこのような姓は朝鮮半島には存在しなかったようです。

質問ですが、彼らが姓を1字にするようになったのはいつ頃の事ですか?

それ以前の古代朝鮮人の一般的な姓にどのようなものがあったのでしょうか?

それと1字だけの姓が、歴史的に日本に根付かなかったのはなぜでしょうか? だって日本も相当、中国の影響を大きく受けていた時代があったと思うのですが ・・ 

もちろん、一般庶民が姓を持つようになったのは明治以降であるのは知っていますが、たとえば蘇我氏や物部氏など古代日本でもやはり2字の姓が普通だったように思います。

それとすみません、もっと古代の邪馬台国の時代には姓という概念がなかったのかもしれませんが、日本で最初に 「姓」 をもった人は誰ですか? そしてその姓とは?

詳しい人がおられたら教えてください。

今の韓国人の99%以上の人の姓は1字で表しますよね。 ごくたまに日本人のように2字の姓をもった人がいるようですが、ほとんど見かけないようです。

金や朴、あるいは李といった姓が多いと思うのですが、これは数百年前 (?) に当時の中国王朝の真似をして1字の姓をもつようになったから、という話を聞いた事があります。 それ以前にはこのような姓は朝鮮半島には存在しなかったようです。

質問ですが、彼らが姓を1字にするようになったのはいつ頃の事ですか?

それ以前の古代朝鮮人の一般的な...続きを読む

Aベストアンサー

朝鮮の1文字姓は、新羅(前57-676)ですでに見られるようです。
日本書紀には、帰化人の名前で、1字姓ではない人も見られますが、それ以後はほとんどいなくなるようです。
その頃、百済では「扶余豊璋(ふよ・ほうしょう)」とか「鬼室福信(きしつふくしん)」という名前がありました。

日本が1字姓を取り入れなかったのは、儒教を制度のみ取り入れたからだと思います。
当時の中国は、すでに何千年も文化の栄えた大文明国でした。
朝鮮も日本も自分の国を立派にするために、何でも取り入れることをしていました。(平安京も東大寺大仏も、当時の日本の国力では相当無理して作りました)
しかし儒教はその本質に、祖先祭祀「孝」という考えを持つために、日本の婚姻制度に合わなかったようです。
なぜかというと祖先祭祀のためには、名前を絶やすことが出来ず、そのため父と母の名前が違うのが当然になります。(現に韓国・中国は今でもそうです)また、血統が絶えるのが一番困るので、親族での婚姻は絶対のタブーとなりました。(韓国では今でも名字・本貫が一緒だと結婚できない)
それに比べて日本は、いとこ同士が結婚するのは当たり前のような婚姻体系(源氏物語ですね)でしたから、そのまま儒教的なものを取り入れるのが困難だったのではないかと思います。

ちょっとこの文字数ですべてを書けないのですが、とにかく祖先祭祀のためには、家系を残すシステムを作らなくてはならず、そのために1文字性を取り入れるのが一番簡単なのですが、そんなことをすると、やっと出来た大和朝廷(貴族社会で親族婚)が崩壊してしまうために、取捨選択をして、ほかに取り入れなかった文化と共にあっさり捨ててしまったのでしょう。
しかしこれは当時としてはとても勇気のいる選択です。だって2文字以上の名前は野蛮人だといっているようなものですから、せっかく平安京などを作っったのに、当時の文明国からはそうとうバカにされたはずです。

その後日本の名字は、地名や官職などから多岐にわたっていきます。豊臣秀吉の刀狩以後、農民身分は名字を使うことを禁じられますが、もともとはみんな名字をもっていたのです。

日本最初の姓はだれかというとむずかしいですね。姓とか名字とかいう概念は、村程度の集落が出来れば、親戚を表すために必ず必要になります。家名が同じ集落なら、ミドルネームで上田んぼの○○さん、などと表現しますので、これもそのうち名字として認めれられていきました。
強いて言えば、日本武尊(やまとたけるのみこと)あたりなのでしょう。

朝鮮の1文字姓は、新羅(前57-676)ですでに見られるようです。
日本書紀には、帰化人の名前で、1字姓ではない人も見られますが、それ以後はほとんどいなくなるようです。
その頃、百済では「扶余豊璋(ふよ・ほうしょう)」とか「鬼室福信(きしつふくしん)」という名前がありました。

日本が1字姓を取り入れなかったのは、儒教を制度のみ取り入れたからだと思います。
当時の中国は、すでに何千年も文化の栄えた大文明国でした。
朝鮮も日本も自分の国を立派にするために、何でも取り入れることをしてい...続きを読む

Q渡来人で成功

渡来人(帰化人)で戦国期に有名になった人物を教えてください。
大名では大内氏が帰化人を出自に持つようですが、他にいましたでしょうか?

Aベストアンサー

戦国時代に陸奥国田村郡を支配していた田村家は、本姓「坂上氏」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%B0%8F
田村家は、豊臣秀吉の奥羽処分によって所領を没収された後は伊達家の中に入り、江戸時代以降は伊達政宗の子が田村家の養子となり、仙台藩の支藩として一関藩3万石の大名となりました。一関藩は明治維新まで続き、田村氏は子爵に叙せられましたから、立派な大名です。

田村氏は、平安時代に奥羽を平定した坂上田村麻呂の子孫を証していたわけですが、坂上氏は渡来人系です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E6%B0%8F

仙台には、田村家の当主が名を記した石碑などがあり、
「田村右京大夫 坂上建顕」
などと署名が残っています。「田村家は本姓坂上氏」と公式に称していたことが分かります。

東北地方に、田村家以外に「本姓坂上氏」を称していた有力武士がいたかどうかは分かりませんが、仙台藩関係では田村家だけのようです。

戦国時代に陸奥国田村郡を支配していた田村家は、本姓「坂上氏」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%B0%8F
田村家は、豊臣秀吉の奥羽処分によって所領を没収された後は伊達家の中に入り、江戸時代以降は伊達政宗の子が田村家の養子となり、仙台藩の支藩として一関藩3万石の大名となりました。一関藩は明治維新まで続き、田村氏は子爵に叙せられましたから、立派な大名です。

田村氏は、平安時代に奥羽を平定した坂上田村麻呂の子孫を証していたわけですが、坂上氏は渡来人系です。
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