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今江戸時代の復習をしていたのですが、
わからないコトがでてきました。

三大改革のトコロで、田沼時代のことです。
田沼は、運上・冥加の増収のための株仲間の奨励と
幕府専売制の導入のために座を設けましたよね。
座と株仲間、違いが分かりません。
用語集を見る限りでは、違いは
座が寺社などに属するもので、株仲間は幕府(直轄?)だということです。
大きな問題ではないのですが、教えてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (1件)

株仲間とは、同業者の組合で幕府の公認をうけて、全国の生産から流通までを支配して物価を安定させるために、


幕府から取引の特権を与えられていました。
その見返りに、幕府や大名に冥加金(現代の税金)をおさめて営業独占の保護を受けたのです。

座は、幕府直営の銅座・人参座・鉄座・真鍮座等を設けて、幕府による製造・販売を独占する制度で、今で云う専売制です。

参考URL:http://www.mainichi.co.jp/edu/maichu/momoko/2002 …
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この回答へのお礼

ようやく理解できました。
座と株仲間は全然違いますね。
参考URLの方も全部見させていただきました。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/08/07 14:46

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Q株仲間って何ですか? 簡単な言葉で教えてくださいm(_ _)m また水野忠邦が株仲間を解散させたの

株仲間って何ですか?
簡単な言葉で教えてくださいm(_ _)m

また水野忠邦が株仲間を解散させたのはなぜですさ?

Aベストアンサー

株仲間は、同業者の組合・団体です。

例えば、AコーラとBコーラが、販売するコーラの値段に関して相談し(談合といいます)、200円にしようと決めれば、
コーラは200円でしか買えないことになります。

この談合は、多くの場合消費者・一般庶民にとって、高めの価格が設定されたり、安くならないという不都合が生じます。
談合(組合・団体の会合)で値段を決めた場合、一方ではそれ以下で販売すると組合から除名されたり、仕入れ等にも影響を与えるからです。

株仲間を開催させた理由は、談合が行われ、健全な商業活動が阻害されていたからです。
価格に関しては、先に述べましたが、質問者さんが仮にコーラを製造販売したいと考えた場合に、その株仲間に入らないと、
開業できない状態になっていたからです。

自由に商売ができないと、経済全体が停滞し、商業自体が成長しませんし、消費者は渋々一定の少し高めの価格で購入する必要があり、
生活に影響を与えるからです。

時代的には、米・味噌・酒などが、談合により、高めの価格が設定されていたとすれば、経済を活性化し、庶民を守るためには
無用の長物だったのが、株仲間だったということになります。

参考までに。

株仲間は、同業者の組合・団体です。

例えば、AコーラとBコーラが、販売するコーラの値段に関して相談し(談合といいます)、200円にしようと決めれば、
コーラは200円でしか買えないことになります。

この談合は、多くの場合消費者・一般庶民にとって、高めの価格が設定されたり、安くならないという不都合が生じます。
談合(組合・団体の会合)で値段を決めた場合、一方ではそれ以下で販売すると組合から除名されたり、仕入れ等にも影響を与えるからです。

株仲間を開催させた理由は、談合が行われ...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q札差って何ですか?

大学受験で日本史を取るので勉強中なんですが、札差(ふださし)
という言葉が出てきて、わかりません。商人みたいなものなんだろうなァ
とは思ってるんですけど・・・・。できれば他の時代の高利貸との
違いも教えてもらえたら嬉しいです。

Aベストアンサー

旗本などは年に三度、俸禄(今の給料)を米で支給されました。
その中から、自分のところで食べる分を残して、後は市中で売却しましたが、その際に、仲介をしたのが札差です。

詳細は、参考urlをご覧ください。

参考URL:http://www.jidai-show.com/i/kotoba/hu_006.html

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q地主・自作・小作の違い&寄生地主ってなに?

地主・自作・小作って違いは何ですか。地主って自作の気がしますし・・・。農地改革のときのことですがよくわかりません。

また寄生地主とは何に寄生しているのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

★自作農
自分の土地を持っていて、そこで農業をする農民。

★小作人(小作農)
自分の土地は持たず、借りた土地で農業をする農民。小作人は土地を貸してくれている人(地主)に「小作料(農地代)」を払います。

★地主
土地を所有して「小作人」に土地を貸している人。「不在地主」と「在村地主」に分けられます。

★不在地主
所有している土地に自分は住まず、小作人に貸して小作料を取っている人。「第二次農地改革」では、この「不在地主」が「小作人」に貸し付けていた土地が全て国に買収され、国は買収した土地を「小作人」に安く売りました。土地を借りていた「小作人」が土地を買って「自作農」になったのです。

★在村地主
所有している土地を「小作人」に貸して小作料を取りつつ、自分もその土地で農業をしている人です。「第一次農地改革」では、この「在村地主」が「小作人」に貸し付けていい土地が5町歩に制限されました。「第二次農地改革」では、1町歩(北海道では4町歩)にまで制限され、それを超えた分は国に買収されました。この買収された土地も、国が「小作人」に安く売り渡しました。

★寄生地主
「寄生」は「寄進」から来ていると思います。平安末期の荘園の発達の部分を勉強してみてください!

★自作農
自分の土地を持っていて、そこで農業をする農民。

★小作人(小作農)
自分の土地は持たず、借りた土地で農業をする農民。小作人は土地を貸してくれている人(地主)に「小作料(農地代)」を払います。

★地主
土地を所有して「小作人」に土地を貸している人。「不在地主」と「在村地主」に分けられます。

★不在地主
所有している土地に自分は住まず、小作人に貸して小作料を取っている人。「第二次農地改革」では、この「不在地主」が「小作人」に貸し付けていた土地が全て国に買収され、国は買収...続きを読む

Q質の悪い貨幣が流通すると物価が上がる理由

こんばんは。
今日日本史の勉強をしていたら、江戸時代末期の開国後の日本で『金が国外に流出し、質の悪い貨幣が流通した結果、物価の上昇を招いた』というような記述があったのですが、まず質の悪い貨幣とはどういうものですか、またなぜ質の悪い貨幣が流通すると物価が上がるのでしょうか??
よくわからないので、どなたか教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします。だけど受け取る人は、質の悪い小判だったら2枚じゃないと1万円の価値のあるものと交換しないよ、と言うでしょうね。
だから額面上の物価があがるのです。
もうひとつのことわざ、悪貨が良貨を駆逐する。
理由はお分かりですよね。
因みに今の紙幣も昔は兌換紙幣と言って、例えば1万円(当然当時の額面は銭の単位でしょうけれど)の紙幣を日銀に持っていけば1万円分の金と交換してくれました。現在は不換紙幣なので交換してもらえません。兌換紙幣の時はインフレは起こりませんよね。
これは質問と関係ありませんでしたね。

貨幣の元を理解すれば簡単です。現在の貨幣で考えていては理解出来ません。
昔の貨幣は金や銀そのもを形にしたものでした。従ってとの価値はその金属の価値と同じです。
ところが、政府が悪知恵を出して質の悪い貨幣を作りました。即ち今まで1枚1万円の金属で作っていた1万円小判に他の金属を混ぜて5000円の価値しかない小判をつくったとします。これが流通すると、質感その他が違うし、価値が異なると誰もが気づき、良い小判は溜め込むでしょうし、質の悪い小判は手元に置いて置きたくないので、使おうとします...続きを読む

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q歴史 大塩の乱が起きた原因とその影響は?

中学で歴史を学んでします。
大塩の乱が起きた原因とその影響について、分かる方具体的に教えてくださいませんか?
お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の改革」を見習って、あの「三大改革」の中でも最も一番厳しい改革だったんです。

そんな中、当時「天保の飢饉」というのがあって、各地で深刻な「米不足」が起こりました。米不足の影響で、いろんなところで一揆などが多発していて、世間は大混乱な状態だったんです。
その飢饉の影響はもちろん、大塩平八郎が住む「大阪」にも及びました。彼は飢饉で苦しむ聴衆を救うべく、自らの著書(彼自身、有名な陽明学者だったので、彼の著書は結構なお金になりました。)を売って、貧しい民衆に分け与えるなどの活動をしていました。ところが、それは奉行所から「売名行為」だと判断され、処罰されることになったんです。

それだけなら、まだ良かった・・・さらに大きな問題があったのですが、何と、その大阪の奉行所が飢饉なのにもかかわらず大量にお米を買い上げて「独占」していることが分かったんです。というのは、当時江戸のような主要都市でも深刻な米不足に陥ってたので、大阪の奉行所がそのお米を買占め、江戸に搬送していたんです。でも・・・苦しいのはみんな一緒。それなのに、結局将軍様が江戸にいるからって、そのためにお米を買い占めて良いのか?良いわけありませんよね?大阪の人々に生活はさらに苦しくなるって言うのに、それを無視しても良いのか?

そこで大塩平八郎は、奉行所にこう訴えました。

「あなたたちが米を買い占めているせいで、民衆の生活がさらにひどくなっているんだ!彼らに少しでもいいから、お米を分け与えてやってくれ!」

ところが奉行所は「そんな余裕はない!生活が苦しいなら、苦しいなりに自分たちでどうにかしろ!」と言って、拒否したのです。というのは、やはりこういう世情だったんです。「天保の改革」は民衆などに「自分たちの生活が悪いのは、自分たちが無駄遣いなんかをするから悪いんだ。だから、自分でどうにかしろ!政治のせいにするな!」っていうようなスタンスだったんです。だから、奉行所もこう言って大塩平八郎の言うことなんかに耳を貸さなかったんですね。

利益を目先に米を買い占め、それを売る「豪商」、今の世情に大塩平八郎の怒りはついに頂点に達しました。そこで先ほど言ったとおり、彼はすべての著書を売り、民衆にお金を分け与え、そして家族や知人とも縁を断ち、すべてを覚悟して「決起」に望んだというわけです。これが、「大塩平八郎の乱」です。

しかしこの計画は奉行所のほうに未然に発覚していたために、わずか半日でつぶされるということになったのです・・・彼は諦めて探索方に囲まれた中で自害をしました。

でも、大塩平八郎の意思を継ぐものはたくさんいました。それを「大塩残党」とか言ったりするのですが、その中でも有名なのは「生田万」という人物です。彼もまた、大塩平八郎の意志を継ぎ、「生田万の乱」というのを起こします。

さて、ここからがおそらくどの教科書にも載っていない部分です。その後、幕府はこの混乱をどうにかしなければ!と思い、「豊作祈願」のために儀式を行うことにしました。ですが儀式にも大量のお金が必要で、今のご時世に幕府にそんな余裕はない。そこで幕府は「朝廷」に費用を求めました。これがいけなかったんです。今まで幕府と朝廷の間には、お互いのやることに口出しはしないというような暗黙の了解みたいなものがあったのですが・・・幕府が「朝廷」に費用を借りようとする、ということでそのルールが少し崩れ始めていくことになるのです。そして、その影響はあのペリー来航の際に、欧米諸国と条約を結ぶのに、朝廷の許可を得ようとまでするようになり、幕府と朝廷の間にそのような均衡がなくなることになります。そして、それが影響して公武合体論、尊王論、そして・・・倒幕へと歴史は足を進めることになるのです。

というようなことなのですが、分かったでしょうか?

まぁ、ここまで中学のレベルで知る必要はありませんし、おそらく高校にいってもここまで詳しくはやらないと思います。こんな感じなんだよーっていうのを「なるほどー」っておもって聞いてくれればいいです。

こんにちは。多分、中学の歴史は原因とその影響まではやらないんですよね?
高校のレベルになったら、日本史Bという科目でちゃんと勉強します。
なので、今日は僕が簡単な言葉で解説してみようと思います。
下の方、ここは誰かをけなす場所ではないですよ。そう思うなら、書き込みなんてしなければいいでしょ?

さて、下の方のいうことなんてほっておいて・・・

大塩平八郎の時代は、水野忠邦が行っていたいわゆる「天保の改革」の時代でした。この時代は前の時代の「寛政の改革」やそれよりもっと前の「享保の...続きを読む


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