No.14
- 回答日時:
No.9 のお礼:
> 閉じているというのは似ているようで深い部分において違和
> がある。
> 和して同せずということにしておいてください。
ということは、「夫々の宗教は閉じているということでしょうか」とは、「夫々の宗教は閉じているということでしょうか和して同ぜずということでしょうか」と言い直すということですね。
これに対しては、本質的にはあり得ないというのが答えです。
教団が、和して同ぜずという行動を取ることは、社会の中で存続するためには当然のことですし、よく見られる話です。しかし、宗教とはそういうものではありません。信じて疑わない、そこを揺るがしたら宗教が崩壊する、というポイントは、それぞれの宗教に存在し、多くの場合、思想的に統合することはできません。
教義を変更して、同名の別の宗教になったりすることは、あるのですけれど。
> とりあえず宗教においても迷惑や害を与えないで共生できる
> ことが大切ということなので。
> そういうことは仲のいい友人においてもあることなのでは
> ないですか?完全に同化させるには無理があるというのも
> あると思います。
そんな宗教ばかりではありません。それは、宗教の特徴ではなく、道徳か何かの特徴でしょう。
宗教の特徴でないものを宗教の特徴のように言って「無理がある」と言うのは、それこそ無理のある発言というものでしょう。
この回答への補足
水は水であり、石は石
水は石を受け入れ包むが交じり合うことはない。
無宗教や水であるところの宗教は、石であるところのカルト集団を受け入れなければならないが交じり合うことはない。
カルトであるところの人一人が、水であるところの集団に紛れ込むとなかなか見分けがつかなくなりそうですね。
No.12
- 回答日時:
#11です。
あくまで私の考えですが、
私こそが神(神の定義は別として)であるというのが哲学の出発点じゃないでしょうか。
仏教は他人を仏さまと呼んでも自分を仏様とは呼ばないでしょう。あくまで自分以外に神を想定しているんじゃないでしょうか。
ただし、それは今の体系化された宗教であって教祖(釈迦、キリスト、その他・・・)のそれは哲学そのものか哲学を超えたかもしれないと思います。
職人気質といわれるような
何故、本当にそうなのかと問いかける科学的態度と違うが
哲学的なあり方だと思うところがあるのです。
哲学とは一体なんだということになるんです。
宗教とも違う気が。
No.11
- 回答日時:
哲学・・・自分の中に神を想定する
宗教・・・自分の外に神を想定する
宗教・・・メジャー
カルト宗教・・・マイナー
私の中ではこんな感じです。
仏様と神様は違うのでしょうが
死んだら皆仏様になるという思想は
自分の先祖を仏様として
拝んだりする行為は
自分の中に神や仏を想定することと同じようで
仏教は哲学に似ているということになりますか?
No.10
- 回答日時:
カントやヘーゲルが何故、何故どうしてと誰かに問いかけて哲学体系を作ったわけではないですね。
ニュートンが何故、何故どうしてと誰かに問いかけてプリンキピアを書き上げたのではないことは確かですね。釈尊も無師独悟ですし、孔子もしかり、イエスにしても同じですね。つまり自らの掴み得たものを「信じた」ということですね。この「信じる」という意味で哲学は宗教に含まれるのです。自ら体得し信じた事が真理であるわけですね。問答は哲学ではありませんね。これは単に学生が師に対して聞く行為です。師は答えるときもあり、また答えないときもあるということだけですね。ミネルバの梟は静かにミネルバの森で思案にふけっています。これも哲学者ですし、まともな宗教家も静かな環境で真理を見出します。同じですね。そこで得た真理を弟子は聞きたいと思うだけですね。得られた真理を自ら広めるか弟子が広めるかの違いだけでしょう。後世、弟子は師を信じその教えを学んで広める。それを宗教と呼ぼうが哲学と呼ぼうがどうでもいいことですね。だから哲学が公なら当然宗教も公であるのですね。閉じた社会でしか通用しない哲学もなければ宗教もないのですね。哲学にせよ、宗教にせよあまりにも瑣末事にとらわれ瑣末事が本質であるようになってはいますが一度すべて白紙に戻して考えてみることが現代人には必要ですね。これは質問者さんへのエールのつもりで、参考まで
No.9
- 回答日時:
> 夫々の宗教は閉じているということでしょうか。
質問文の意味が分かりません。「閉じている」とは、どういう意味ですか?
> 何故と問うことと、本当にそうなのかと問うことは同じだと
> 思いますか?
あなたは、何が聞きたくてこの問いを発したのでしょう?
正面から答えると、言葉が違うのだから、違います。辞書的に解釈しても違う意味だという結論になるでしょうが、そんなことを知りたいのですか?
鋭い。手を抜きませんね。
閉じているというのは似ているようで深い部分において違和がある。
和して同せずということにしておいてください。
とりあえず宗教においても迷惑や害を与えないで共生できることが大切ということなので。
そういうことは仲のいい友人においてもあることなのではないですか?
完全に同化させるには無理があるというのもあると思います。
この欄をお借りして申し訳ないですが
No.8様へ
>広義の宗教・・・哲学とほぼ同義語。世界の成り立ちについて何らかの答えを見いだそうとすること。
ガイア理論に収束すればと個人的には思っております。
No.8
- 回答日時:
なかなか哲学的な質問ですね。
答えを出すのは、結構困難かと思いますけど、頑張って試みてみたいと思います。
●哲学と宗教の違い。
哲学と宗教を明確に分けることは困難であると思います。
と言うのも、人が哲学と宗教、どちらから先に始めたかは分からないから。
そして、時に偉大な哲学者とされる人はみんななんらかの「宗教観」を持っていますし、その「宗教観」に「哲学」が左右される事が多い。
例えば、古代ギリシアの自然哲学者と言われる人々ですが、彼らの哲学は「科学的」に見えても多分に「宗教的」な面がある。
アナクサゴラスは、「太陽は「灼熱した石」である」と説いて、無神論者であるとして告発されていますが、彼自身は彼自身の「宗教観」に基づいて答えを出したにすぎません。(他の自然哲学者も、ほぼ同じ)
無神論者の代表格的な「唯物論者」達の思想も、彼らの「宗教観」に基づいた思想ですし、下記に論じるように「宗教的」になることも多い。
「無神論」も結局は一つの宗教観です。
「宗教」というと、我々は「特定の宗教団体(または、その宗教団体の思想)」を思い浮かべがちですが、もっと幅の広いモノだと私は考えています。
「特定の宗教団体の思想」ということになれば、確かに「哲学」に比べて「閉じた思想=他者の考えを受け入れない」になるかもしれませんが、「(団体を特定せず)宗教思想」ということになれば、そう「哲学」と違うところはないでしょうね。
逆に、哲学的思想も閉じてしまうと「宗教的」と形容されるように、一種の「宗教団体の思想」に近いでしょうね。
まぁ、宗教を広義と狭義に分けると、
広義の宗教・・・哲学とほぼ同義語。世界の成り立ちについて何らかの答えを見いだそうとすること。
狭義の宗教・・・特定の思想とその思想を信じる団体。積極的にその思想を広めようとする団体もあれば、密教のように思想を広めることに消極的な団体もある。また、(自他ともに)宗教団体と言われていない場合でも、特定の思想を頑なに信じる集団があれば、それも一種の宗教団体。
●宗教(団体)とカルト宗教(団体)の違い
特定の宗教団体とその思想が、カルトであるかどうかは、「社会的に受け入れられる=許容範囲の思想」であるか「社会的に受け入れられない思想」であるかの差でしょう。
例えば、今では世界の主流の一つであるキリスト教ですが、この宗教が生まれた古代ローマ社会ではカルト宗教の一つでした。
それが、徐々に社会に受け入れられることで、今や宗教の主流となりました。
同じように、現在カルト宗教とされ忌み嫌われている団体も、時代が変り価値観が変れば、「カルト」のレッテルが剥がれるかもしれません。
以上、参考になれば幸いです。
哲学とは何故と問い、本当にそうなのかと問うという疑いの中に哲学の特性をいう人が多いのでが、別に何処の宗教に明確に属しているというわけでもなく、何故とか、本当にそうなのかと問うことも過ぎたのか、無心に一つことを黙々と成し遂げている人々もいて、傍目にはとても哲学的な生き方に映ることがあるのも事実です。
No.7
- 回答日時:
宗教は哲学的側面と儀式的側面があると思います。
哲学自体には儀式のようなもの(冠婚葬祭、記念日、お布施、お参り、お祭り、感謝、呪い?)がないです。
そして宗教は古代の思想であっても現代に措いては固定観念ともいえる。
固定観念と思想の違いは「信じているか否か」にあります。
信じることは
「見捨てられる可能性から逃げること」
「疑うべきを疑(え)わない」
「信じてやると恩を着せる」
「信じている自分の責任ではない」
と存在論的に保身ばかりです。欺瞞ではないか?生きるに値する態度なのか?普遍的に正しいか?誰にでも理解出来るか?で宗教も哲学も客観的な正当性はつけられないです。
疑ってばかりだと確実に嫌われますが(笑)自分さえ疑うこともあるので、どんな事象や人に対しても同等というのが哲学的態度だと思います。上下も浅深も遠浅も、それすら思いこみ、固定観念を鵜呑みしているだけの先入観で物や行為の全体の意味を成してはいないのでないか疑うのです。疑いながら信じずに用いていくのが哲学。
カルトは洗脳といいますが、相手の価値観を抜く(脳を洗う)ことをします。恐怖を与えたり、飢えさせたり、無意味なことを強制的に連続させ、本来の自尊心、自衛心を失わせて、新たに価値観を入力すると感謝さえするのだと思います。
この回答への補足
>宗教は哲学的側面と儀式的側面があると思います。
宗教と哲学を分けておられる方がほとんどなんですが、宗教と哲学との関係はどのようになっているのでしょうね。全体として混濁しているような気が。
>どんな事象や人に対しても同等というのが哲学的態度だと思います.
イメージとしては宗教的態度の感じがしますが、哲学的態度が何故と問い、本当にそうなのかと問うということであれば科学的態度と似ており、通常の付き合いにおいては温かみは伝わらないのではないでしょうか。
>疑ってばかりだと確実に嫌われますが(笑)
お友達が欲しかったり寂しさを紛らわすためならそういうことを気にするんでしょうね。文章多くして内容少なし。
みたいな。
回答を頂いておいて悪態つくようで申し訳ないですが。
No.6
- 回答日時:
追伸まで、
[同じようにカルト宗教の特性にはどんなものが挙げられますか。]
カルトという意味は隠されたものという意味です、神秘学 (occultism)といわれるように宗教の開祖は人に見えない世界からの啓示を受けて活動を開始しますので初期段階ではみんなカルト(オカルト)的ですね。教義ができてそれにしたがって教団が発生し、一見カルト的には見えなくなりますが奥義には必ず不立文字、つまり神秘性はあるわけですね。悪い意味で、なんだかわからないことを悪用することも最近ではカルトといいますが、本来的な意味ではありません。
「邪教の特性にはどんなものが挙げられるのでしょうか。 」
正教と邪教を分けるものは、同時にこのカルトにあります。教祖が啓示を受けたのが如来や、西洋的にいえば大天使であれば正教、逆に地獄の悪魔や悪霊からの啓示を受けてはじめれば紛れもない邪教ですね。
つまり教祖に霊的に誰がついているかで正教と邪教が決まるのですね。普通はわかりませんが、地獄の悪魔や悪霊というのは少し抜けているところがありますので、一般常識的に考えておかしいと思われる教義や行動が必ず含まれています。ただよく勉強して社会常識を身につけていないとわからないことはありますね。努力しないと何でもだめですよね。努力しないで幸福になれるとか、火をたいて邪気をはらうとか、お手軽なものはたいてい悪魔や悪霊系ですね。
唯一無二の無師独悟、釈尊は、荒行に悟りなしと言い、拝火教徒を外道と呼んでますね。山歩きの荒行をしても、護摩だきをしても正教からは程遠いということでしょう。またこれを唱えれば救われるとかね、これを買えば救われるなど簡単に悟れる救われるというお手軽系には必ず悪魔や悪霊の影がありますね。これは仏教系、キリスト系を問わずですね。正教を見分ける目をもてるかどうかが問われてるのでしょうね。難しいとこですね。
宗教、カルト宗教、邪教それぞれなかなか見分けがつきにくいものなのだということがわかりました。とりあえずは相手に迷惑や害を与えずに共生できるかどうかのだけのようなのですね。
しつこく勧誘されるのも迷惑といえば迷惑なんですけどね。
特定の宗教に属さずフィルターがかからないのもいいものだなとふと思います。
No.5
- 回答日時:
哲学は、真理を追究する学問ですので、他人への強制や自分の考え方への同調は基本的に求めません。
相手がそれを受け入れるか否定するかは、相手しだいです。
宗教は、相手に同調を求めるものです。
そのため、儒教などは、宗教として位置づけてもよいものと思っています。
カルト宗教ですが、宗教における組織の一時期の形態をカルトと呼びます。
全ての宗教は、カルト、セクト、チャーチの順番をとります。
(ペンテコステ派のように、常にカルト状態に留まる教派もありますが)
開祖が存在または開祖に指導を受けた世代の宗教集団をカルトと言います。
セクトは、カルト世代を知っている者たちが中心となって運営されている時代を指します。
チャーチ時代は、安定的に世代交代を何回か繰り返した宗教集団を指します。
カルト集団が、おかしな宗教組織の代名詞に使われるのは、カルト時代におかしな事をする宗教団体が単に多いためにすぎません。
創価学会も、池田氏設立による宗教集団ですから、カルト世代に属する宗派となります。
また、邪教ですが、これには3種類あります。
まず1つは、その集団と対立する他の宗教を指しての言葉です。
ゾロアスター教とバラモン教は、古代対立する宗教集団でした。
ゾロアスター教の神は、バラモン教では悪神とされ、バラモン教の神はゾロアスター教では悪神となっています。
そのため、両宗教とも相手を邪教としています。
これは、ユダヤとフェニキア、イスラム教とヤージ教などでも見られます。
2つめは、異端の場合です。
異端とは、本来の教義をゆがめて解釈する事です。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係もこれに当てはまります。
3つめは、信者が邪教と認識している場合です。
上記2つは、それぞれの信者は、自分達は正統であると信じていますが、他者が邪教とみなしているのですが、こちらは、世間に対して悪意を持つ集団を自分達で認識している場合です。
特に世間に対して復讐する事を目的とした宗教集団となります。
サタニストなどが代表的です。
この回答への補足
哲学的態度というのは
全てに対して何故と問い
本当にそうなのかと問うあり方というのは同意ですか?
真理はどうやって追究するものなのでしょう?
ある宗教に属する人が、その宗教が言っていることは
本当にそうなのか
と自らの宗教を科学的態度で見ることはあるのでしょうか。
そうしないで
信仰という言葉に置き換えるのが宗教の特徴です。
と言ってしまえばそれまでなのですが。
宗教に属するものは全てに哲学的な態度をとっているわけではない
ということなのでしょうか。
No.4
- 回答日時:
哲学というものは、「なぜ?」を追求する知識や考え方の体系です。
そこでは、疑うことがすべての基本です。宗教は、その正反対で、何かを無条件に信じることを前提にした物語の体系です。キリスト教であれば、創造主の存在を信じなければ話になりません。仏教であれば、悟りという境地の存在を信じなければ話になりません。神道であれば、あの世やケガレの存在を信じなければ話になりません。
哲学者は、「本当にそんなものはあるのか、なぜあるといえるのか」などと問うてしまうので、根幹の所で違います。
宗教とカルト宗教は、本質的には区別できません。専門的な定義からは、「カルト」とは単なる結社を表す語でしたが、時代と共に社会的に害悪を流す場合に「カルト」と呼ばれるようになっていて、しかもその境界が明確ではありませんから。
教団が目立つ形で法や社会道徳を犯したら、カルトと認定されるという、あいまいな代物です。
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