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こんばんは。私は大学の仏文科を卒業しました。ですが専門は言語学であり、言語学といってもかじった程度です。

突然、知的好奇心が沸いてきて、ニーチェやパスカルなどを読んでみようと思い立ったのが、1年前です。仏文科だし、パスカルを読もうと思ってパンセを読んでみました。ところが、難しくてわからないんです。何を言っているか全くといっていいほどに。何が魅力なのかもいまいちよくわかりません。パスカルについていろいろ語っている本は読めますが、『パンセ』は読めません。いくら努力しても挫折し、また読もうと思って挫折。それを繰り返しています。

私は哲学などには向いていないのでしょうか。「どんな世界が広がっているのか知りたい」と思っても、この状態ではさっぱりです。

哲学を学ぶ人は尊敬しますが、私とは住む世界が違うのでしょうか。私はおとなしく哲学の学問からは足を洗うべきですか?

A 回答 (5件)

 どの版で読みましたか? 「ルイ・ラフュマ版」の第3版で読まれることをお勧めします。



 というより、「ルイ・ラフュマ版」以外で、パスカルのパンセを理解することは、絶対にと言っていいほど、不可能です。
 他の版は、例えばポール・ロワイヤル版でも、ブランシェッビクで版でも、パスカルが書こうとした順序ではなく、後の人の手が加わって、彼らの独自の解釈によって、断章が並べ替えられたものだからです。
 つまり、章立てから異なっているのです。パスカルが顕そうとしたのは、「キリスト教弁証論」です。どのようなストーリーで、キリスト教の真理を読者に伝えようとしたかが重要なことは言うまでもありません。その大切な章立てが、後世の編集者の考えによって、組み立てられているのです。ところが、パスカルには明確な意図があったはずです。
 
 それを、驚くべき推理によって、パスカルが描いていた章立てとパスカルが済ませていた断章の分類・順序を発見し、その段階にまで私たちの目の前に、再現して見せた、民間の研究者が、ルイ・ラフュマという人です。
 
 少し、順を追って説明します。
 1662年、パスカルは39歳の若さで死にました。彼は、細かく切られた紙片に多くの文章を残していました。 
 1670年、まず、パスカルの死後、ポール・ロワイヤル版「パンセ」が出版されました。
 パスカルが残した断章は、見たところ、乱雑で不完全で、刊行不可能と思えました。そこで、ポール・ロワイヤル関係の人々は、これを、パスカルの計画と無関係の、一定の見解に基づく順序で、並べ、出版しました。
 
 その後、多くの人が、種々の解釈により、断章を並べ変えて出版しました。

  1776年以降 コンコルドセ版、 ボシュ版、 フォージュール版、 アヴェ版、 アスティエ版、 モリニエ版、 ミショー版、
  1897年 ブランシェビク版(これが20世紀前半、広く決定版として普及しました)、

  そして、300年の時間の隔たりを越えて、つい最近ですが、
  1949年 ルイ・ラフュマ版(初版)、
  1960年 ルイ・ラフュマ版(3版) が出版されました。

 ルイ・ラフュマは、パスカルの残した小さな紙片の山は、もともと小さな紙片に書かれたものではなく、大きな紙に書かれた断章を、パスカルが構想していた章立てに従って、分類済みのものを切り取って束ねたものであり、大きな紙は未分類だと推理しました。一挙に解決したのは「第一写本」の発見でした。
 「パンセ」の邦訳の多くは、ブランシェビック版ですが、現在、教文館で邦訳(田辺保訳)が出されています。但し、これはルイ・ラフュマ版(初版)であり、パスカルの未分類の断片は、まとめて、第2集として巻末に置かれています。
 一方、新教出版社の、ルイ・ラフュマ版第3版(同じく田辺保訳)は、未分類の断片を、分類済みの各章の終わりに、内容によって、配列したもので、パスカルの意図にほぼ見事に合致したと思われる大変、完成度の高い分類になっています。
 このルイ・ラフュマ版の第3版、新教出版社の版が絶版となって久しいのは、何とも残念である。ただアマゾンでまだ購入できるようです。

最後に、ルイ・ラフュマが、大発見した大分類、すなわち目次を、以下に掲げておきます。
I まえがき
II 序論
1 順序
2 空しさ
3 惨めさ
4 退屈と人間の本質
5 結果の起る理由
6 偉大さ
7 矛盾
8 気ばらし
9 哲学者たち
10 最高の幸福
11 ポール・ロワイヤルのために
12 はじめに
13 理性の服従とその利用
14 この神の証明方法がすぐれていることについて
15 人間を知ることから神に移っていくこと
15-2 本性は堕落していること
16 他の宗教はいつわりであること
17 愛される宗教
18 宗教の基礎と反対論への答え
19 象徴としての律法
20 ラビの教え
21 永続性
22 モーセの証拠
23 イエス・キリストの証拠
24 預言
25 特別な象徴
26 キリスト教の倫理
27 結論

そして、あの有名な断章「人間は考える葦である」は、第15章「人間を知ることから神に移っていくこと」の中の断章(391)です。読み進めていくと、断章396が結論であることがわかるでしょう。

391 人間は1本の葦にすぎない、自然の中でも一ばん弱い葦にすぎない。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことを何も知らない。
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大学時代の夏休みに、日本語訳と原書を付き合わせながら読んだ覚えがありますが、私も最後までは読めませんでした。

本好きの私からすると、大変、大変、珍しいことです。

確か、ドイツの哲学書は、なんだか、積み木を重ねてゆくような緻密な書き振りでしたが、パンセは極めて日記風、随筆風だったように覚えています。気の利いた警句集を読んだ印象でした。哲学書の範疇に納まらないのではないでしょうか。

なんだか、ぶつぶつつぶやく独り言を聞くようで、とりとめがなかった。だから力の入れ方がわかりませんでした。

それで、ざっと日本語で読み飛ばして、興味をひく主題のところだけ、原語も読んでいきました。読後も、”ああ、なるほどね”と思っただけで、すぐ次の本に移ったことを覚えています。

今考えれば、私の人格的形成がうまくなされていなかったのか(滋味が足りなかった)、あるいは、僧院まで自分で作ってしまったパスカルを読むには、特に中世におけるキリスト教の素養がたりなかったのかもしれません。

ですから、哲学の学問をお続けになって問題ないと思います。
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私は、恥ずかしながら、日本語でしか「パンセ」を読んだ事はありません。


何かの参考になるかと思い、その経験を書かせて頂きます。

私がパスカルのパンセを買ったのは、中学生の時で、新潮文庫のものでした。
その頃の知識では、パンセには、パスカルのキリスト教の擁護が書かれているはずでした。
いずれ、そのパスカルの考えを乗り越えなくてはいけないと考えて、パンセを購入しました。
生意気な中学生らしい考え方で済みません。

色々な本を読んで、雑学的にですが、パスカルは非常に説得が巧妙であると思っていました。
ですので、自分が説得されて、キリスト教徒になってしまうのが怖くて、
中学生の間は、パンセを読むことはおろか、その本を手に取る事も出来ませんでした。

高校生になって、ふと、パンセを手にとって読んでみたのですが、
非常に普通の本だったので、愕然としました。
パスカルの説得も、妙に俗っぽくて、僕は全く心惹かれませんでした。

パンセを哲学の本だと思われるから読めないのではありませんか?
ただ、いろいろなパスカルの思考を寄り集めたものだと思って、
気軽に付き合えば、読めるのではないかと思います。

以上は、あくまで、パンセを翻訳で読む場合の事で、
原文にあたって読まれる場合は、もっと専門的で難しい問題が発生するのだろうと愚考致します。

拙い経験で申し訳ありませんが、何かの参考になれば幸いです。
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日本語訳じゃなくて、原文で読んでます?




翻訳って喋れるだけじゃ翻訳家として成功せず、日本語を操って読者をある目標に心が動くように操作できる人が、うまい翻訳家とされるわけです。

だから原文通り訳したものは、ちっともおもしろくない。

で、パンセは読んだことが無いのですが、、、、

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0762.html

いくつかの翻訳を読んでおられ、編集の力というものを言っておられます。
編集がうまいと、読者にパンセの世界の理解を与えるってことじゃないかと。

だから、日本語に編集されたものの中から、好評なものを読んでみては。
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哲学を学ぶ人は尊敬しますが、私とは住む世界が違うのでしょうか。

私はおとなしく哲学の学問からは足を洗うべきですか?

○ 住んでいる世界は皆同じですよ。ただ違いがあるとすれば認識の範囲にあるのでしょうね。
例えば、「心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている。」
これなどは「唯識論」を知っていれば簡単に理解できるはずですね。
つまり、もっと精神世界の構造についての知識を求めないと認識の範囲が広がらずパスカルの妄想が理解できないということでしょう。
哲学というのは認識の範囲を肉体という殻の枠を越えて考える学問なのですね。その意味では宗教の一部ともいえるものです。
それに気づけば誰しもパスカル程度なら読み解けるようになります。
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