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人間社会に限らず、動物の群れや集団もそれなりに秩序をもって維持されていますし、親子愛や仲間を害さないというルールも機能しているように思います。

人間社会の道徳も、人間の生物としての本能に根ざしたものなのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

ANo.5です。


おそらく「道徳」という言葉の発祥は老子による「道徳経」でしょう。

『老子書』または『老子道徳経』とも呼ばれ、僅か五千余言から成る政治や処世訓を多く含む隠者?の書。通行本はこれを81章に分け、1~37章を上篇「道経」、38~81章、下篇「徳経」とした箴言集(しんげんしゅう)。用語、文体などから見て、戦国時代(BC401~221)以降の作とみられる。
http://members.at.infoseek.co.jp/hongkong_movies …
http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html

要約として「道」はそれ自体「無」である。
全ての相対変化を自然とし自己の内容としている。

道(無)が生み出し、「徳」がそれを養い、
物となったものが形をとってゆき、道具として役割を担ったものが
この世界をつくっている。
故に万物は全て「道」を尊敬し、「徳」を貴ぶ。
というものです。まだ難しいですね。

再び人生論の中の真理(しんり)先生の遺書から抜粋すると「人類は何のために生まれたのは私は知らない。だが何かの理由で内から生まれて来たのだと思っている。外から作られたのではなく、内から生まれた力こそ、我等を導く力があるのだ。我等の先祖、我等、我等の子孫、皆この力によって生まれたのだ。~我等はこの力に支配されつくせはそれでいいのだと思っている我等は我等の真心を信じなければならない。真心は我等の一生を指導する為に我等に与えられているのだ。そしてこの真心を生かせば、人類助け合って、生きられるように出来ているのだ」…と、あります。

哲学小辞典「道徳」英(morality)の解説によると、
「原始的な共同社会では道徳は法律や宗教の規定と分化自然成長的な慣習のかたちで存在していた。~階級社支配階級の利益と合致するが、通例そのことは覆い隠され道徳は宗教的な掟とか、人間の本性などの普遍的な原理と結びつけられていた。やがて真に人間的な道徳は階級対立の記憶も人々の意識からも消え去るような社会社会階級において可能になるのである」
と、ありました。

道徳は自己規制(モラル)で社会の習性(ルール)とは似て非なるということでしょうね。
義務教育の「道徳」は、主にルールに従えば権力者の利益(を権利という)が守られるので庶民に推奨するような情報も多いようです。

人生論中には「真心と真心が干渉しあったり衝突することはなく、利己心と利己心のみが衝突する。真心を生かし切った事実が、芸術が私達を感動させる」。…ともあり武者小路実篤先生が「愛」と「真心」を連呼するのにはたじたじですが、重くはなく可愛ゆさを感じてます(笑)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

道徳の語源は道教と同じなんですね。
字面からすれば納得ですが、今日的な意味用法ではどちらかというと儒教っぽいですよね。
でも、もとは結構形而上的というか、神仙的な思想からきているんですね。

>「真心と真心が干渉しあったり衝突することはなく、利己心と利己心のみが衝突する。真心を生かし切った事実が、芸術が私達を感動させる」

真心を生かし切った事実っていうのは、何となくですが社会の最小単位である家族の中なんかでは比較的容易に実現できるのかなと思います。
それが、地域や職場、種族や民族、国家と単位が大きくなるほど困難になり、法律や罰則に頼らざるを得なくなって、最近では地球環境問題というようなことに直面して、いよいよ人間の「種」としての真心が試されるのかなあと、そんなことを思いました。

お礼日時:2007/11/21 23:06

Aによる抑制は例えば法による統治


コンピュータに人間を管理させるようなものです。
Aによる統治でCPが低ければ荀子の言う性悪説の世、法治国家を説くけれども根底には法によってCPを上げ徳治国家目指そうとしたが、結果的には李斯のような人物を輩出します。
CPは例えば宗教や道徳が担うけれどもキリスト教では罪に対する許しという概念は、法治国家であっても最終的な局面ではどんな悪事も神の前に許されてしまうような根源的に人を性悪説に導いてしまう要素を持ちます。
孔子や孟子おける性善説による徳治政治や日本の道徳はCPによる躾ということを重視し清さとかさやけさ、秋霜烈日で顕されるところの概念で天秤の支点において罪を許さないところがあり、それを境に人の世を性善説へと導こうとします。

性格をある時点での状態として固定的に捉えずダイナミックに変化するものとして捉えます。
人心は何をよしとし統治者が環境を創ってきたかの歴史のでしょう。

所が変われば考え方も生活様式も違いますが、人が生きるのに必要なものはみな同じであるといいます。

それは何だと思いますか。
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この回答へのお礼

人も生き物ですから、生きることそのものが目的だと思います。

人が生きるのに必要なものは、人が生きるために作り出すものと同義だと思います。

お礼日時:2007/12/04 20:31

心理学の切り口から


交流分析によれば人の心はCP,NP,A,AC,FCに分類しそのそれぞれの現れ方の強弱によってパターン化し特徴づけられる状態を性格的なものとしてみます。
そのなかでNPとFCは人間が生まれながらにして備わっている本能に根ざすものといわれそれが他よりも高い値ででるときその人にとって幸福な状態であるといわれています。パターンで言えばMの形をしています。
日本ではNP,FCは心を知、情、意に分けるところの情の部分にあたります。

こうしてみると道徳の発生は仰るように人間の本能に根ざしているといえると思います。
ただ情だけでは社会はうまく機能しないで
規範としての大人のCP
優しさとしての大人のNP
合理性としてのA
従順な心としての子供のAC
自由闊達な心としての子供のFC
夫々がバランスを保って高い数値で直線的に現れるような状態が理想的です。
交流分析は本来個人に当てはめるものなのでしょうが国家のようなある一定の集団もその国の性格として捉え応用してみることもできると思います。

参考URL http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1187531.html

例えば戦前などは異様にCP値が高かったろうと推定できます。
CPはFCを押さえAC値を高めます。

また易経が示すように陽中に陰があり、陰中に陽があるようにCP中にNPがあり、AC中にFCがある。それを反転した陰陽の現れ方があるように現象は融通無碍に変化します。
本来本能として備わっていると捉えられるNP、FCが固定的に低く現れてしまう性格が増えている傾向は成長過程において人心が自然から乖離し都市に集中していることにも原因はあるでしょう。
本来躾とはCPによって本能としてのFC値を押さえAC値を高くするものだと捉えられます。
躾はNP、FCの値が高い状態を善としながらも何でも有りのカオスによるのではなく規範としてのCPによって社会全体の性格としては直線パターンとなって現れるようなものを目指すでしょう。

ところで
弱肉強食、生存競争といった競争は本能で野生だと思いますか。
CPとしての規範、道徳は人間の本能のうち何を抑制していったものであると思いますか。
またはすべきであると思いますか。
国家間においてもそういった道徳といったものがなければ国家内で善を保持することは難しいと思いますか。

始皇帝暗殺 荊カというドラマを見ていてつくづく思います。
覇権国家が世を治めること
玉としての王
天子が世を治めること
農耕と戦乱とのはざまで様々な哲学を産んだ中国という広大な風土と歴史
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>弱肉強食、生存競争といった競争は本能で野生だと思いますか。

本能だと思います。
しかし人間社会における人間同士の競争は随分と本能からは距離を置いたものだと思います。

>CPとしての規範、道徳は人間の本能のうち何を抑制していったものであると思いますか。

抑制というより知性の働きかなあと思います。
もっとも無批判に規範に従うだけであれば犬猫の躾とあまり変わらないようにも思いますが…。

>国家間においてもそういった道徳といったものがなければ国家内で善を保持することは難しいと思いますか

国家間というレベルになると集団の意志というのは不分明になって、結局はほとんど元首の意志や国家の利害に集約するように思えます。

社会の構成員それぞれの心に相似的に発生したものが、社会の中で道徳として統合・概念化されて、個々人の心にフィードバックされるんでしょうね。
そういう意味で、社会というフィルターを通す前の本能と、社会から還元される道徳は、起源が同じであったとしても個々人の心理レベルでの位置付けが異なるのは当然かもしれませんね。

お礼日時:2007/12/03 19:16

人間の叡智の集積だと思いますね。


どちらかといえば本能とは対極に置かれるのではないでしょうか。
野生に対する智慧
社会生活を送る上での人間教化と環境整備のための
環境によっていとも簡単に人の意識は変わりうると思いますね。
美しい国などということも今となっては幻想になりつつある。
だからこそそういう言葉が出てくるのだけれども

よく道徳を戦前の修身教育のように捉える人がいますが
道徳はやはりその原典は老子にみるのだと思います。

参考URL http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1067707.html

ところで
野生
をどういう風に捉えますか?

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1176531.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

言葉の定義にもよるかと思いますが、「野生」とは通常、人間社会との関係の有無もしくは強弱を示す言葉だと思います。

>人間の叡智の集積だと思いますね。
>どちらかといえば本能とは対極に置かれるのではないでしょうか。

知性や自制心が人間オリジナルな要素であり、それは食欲や性欲を意志の力でコントロールしようとするものであることは分かります。ただ本能も食欲や性欲の類のみではないと思います。

道徳は突然発生するのではなく、少しずつ叡智が集積して、ある程度社会が成熟した段階で「道徳」と呼ばれるのだと思います。
人間が知性を獲得した原初の段階から道徳の芽は存在したのではないでしょうか。

>環境によっていとも簡単に人の意識は変わりうると思いますね。

そう思います。
しかし、環境によって道徳を都合の良い方向に変えようとするのは主に人間の利己心や我欲だと思います。
人間の根源的な道徳心はむしろ変化に抵抗する、普遍的であろうとする方向に働くのではないでしょうか。

お礼日時:2007/11/29 11:19

本能とは生命力の根源ですし、道徳といえども生命あってこその規範ということを考えれば、ある意味では「根ざしたもの」と言っても間違いではないかもしれません。


ただ、動物などの群れが秩序を保っているように見えるのは、あくまで自己利益が基準になっているように思います。
他者を害さないというよりは自己保存のために他者と共存する方が得策であるという、人間でいってみれば自我的発想によるものでしょう。
この場合は明らかに「本能に根ざしている」と表現して差し支えないように思います。
人間社会の道徳と呼ばれるものに関しては、本能に根ざしているというよりは本能から脱却しようとするベクトルと捉えるほうが自然ではないかという気がします。

道徳は善(と思われるもの)を指向していると思いますが、快・不快に基づく本能に対して抑制的に機能し、損・得に関わる自我のフィルターを通してその実現を委ねるものと言えます。
生物としての本能というよりは、人間としての精神的高みを目指そうとする(個人的には本能とは区別すべきと考える)欲求であり、属性であると推測します。
この属性がどういった契機でもたらされたのかは人間とは何かという問いにも直結するわけで、うかつに言及することは難しいと感じます。
単に視点(あるいは表現)の問題とも言えるかもしれませんが、本能に対する抑制が無ければ生じないものという点で、このように捉えます。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>本能とは生命力の根源ですし、道徳といえども生命あってこその規範ということを考えれば、ある意味では「根ざしたもの」と言っても間違いではないかもしれません。

そうなんですよね。
自分で質問しておいて何なんですが、良く考えれば、こじつければ何でも本能に根ざすことになっちゃってミもフタもないですよねえ。

それはそれとして、回答者さんは「本能」を、自己利益を基準とした行動、自我的発想、快・不快に基づく行動というふうに考えておられるように理解しました。
私も生物学とか詳しくないのですが、そればかりじゃ無いのではないでしょうか?
むしろ自我的発想や快・不快の感覚は高等生物だけの所有物で、下等生物はむしろ個体維持より種族維持本能の方が強いのではないでしょうか?
生殖や産卵のために命を犠牲にする生物はたくさんいるように思います。

人間は最も高等な生物ですから、個体的・自我的発想が肥大してしまい、その暴走を抑えるために道徳が発生したのかと思います。
それは人間の宿命である我欲の抑制を目指すもので、大変に知的・理性的な行為だと思います。

理性的な道徳と、根源的な本能である種族維持がどこまで関係あるのかは分かりませんが、機能的には非常に近いように思えます。

お礼日時:2007/11/25 01:18

僕の考える「道徳」の定義は。



八正道です。
自他共に幸福になる道。
功徳を積む道。

本能は煩悩多きものだと感じます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>本能は煩悩多きものだと感じます。

そう思います。
煩悩ばかりではないと思いますが…。

>僕の考える「道徳」の定義は。
>八正道です。

それは仏教徒にとっての道徳ですよね。
キリスト教徒にはキリスト教徒の道徳があって、互いの道徳を尊重しあうこともグローバルな道徳だと思います。

お礼日時:2007/11/22 11:48

まず道徳とはウィキペディアでは「社会や共同体においての慣習の中から生まれ、通用するようになった規範のことである。



たとえば江戸時代ごろ存在した武士による無礼討ちについて考えると、武士の名誉は町人、村民の命より重いとされていました。

また民主主義の見本とされるイギリスでは、奴隷殺しは犯罪ではないとされていました。参考のサイトでは奴隷貿易廃止、奴隷解放運動が人道主義からというのも間違いないだろうが、経済思想・制度との関係が深いと指摘しています。イギリスでも奴隷貿易は1807年まで続きました。ほんの200年前のことです。
参考
http://www.koma.econ.meisei-u.ac.jp/koji/_tfdRze …

わたしたちが影響をうけている道徳は時代、地域などを特定された沢山の道徳のうちの一つと感じざるをえません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>わたしたちが影響をうけている道徳は時代、地域などを特定された沢山の道徳のうちの一つと感じざるをえません。

そう思います。
昨今のグローバル化で、道徳も随分均一化しているのかもしれませんが…。

ご指摘の通り人間の命の軽重もその時代・地域の道徳(文化といってもいいかもしれません)によってかなり違いがあるみたいですね。

ただ、無制限に殺人を是とする道徳は存在しないでしょうし、両親・祖先を敬ったり、神仏に祈りを捧げることは多くの集団が共通して持つ道徳だと思います。

別個に発生し、時代も異なるそれぞれの集団の道徳が共通点や類似点、ある程度の普遍性を持つのは、やはりそこに人間の種としての根源的な性質が関わっているのだと思います。

お礼日時:2007/11/21 09:47

もう、ずいぶん前のことになりますが、心理学カテゴリにおいて、類似の質問に回答したことがありました。


>人間社会の道徳も、人間の生物としての本能に根ざしたものなのでしょうか?

そうだと思います。
基本的には、ひとえに生き残り策を計るための(レベルの差はあれ)知恵の発達でしょう。
ことにヒトは集団での生活形態を維持し、ことのほか欲が深いだけに知恵の発達著しく、それを相互にやりとりし、哲学のような学問分野を生み出しているほどです。
形而上的な事がらを考えるのも「あの世」とやらを考えるのも、ただ現世における個や種族の保全を図るだけでは満足安心できないがゆえです。「あの世」での安心立命をさえも手に入れたいがために、現世のつごうだけでは、お手軽に判断しないのであり、それが究極の道徳思想というものにまで発展しているということだと思われます。
ですから最高度の道徳は一見、自然な本能に背くような行動を要求することもありますが、その根ざすところは、やはり個なり集団なりの有利な生き残り策を希求して止まない本能から発しているはずです。とくにヒトの場合は集団と個人との関わりが密接ですから。
>集団の思想やルールの傾向
が、いかにパラダイムに影響されようと変化しようと、それに従うということは基本的に、その集団と集団内部における生存を有利にしようと画策することに変わりありません。
ただヒトの高度な思索能力、心理の複雑さが、こんにちの道徳観念、思想の発達発展を導いてきたということでしょう。

大脳皮質:大脳辺縁系(旧皮質、古皮質)、新皮質(爬虫類以上にみられ、哺乳類では大脳のほとんど)ヒトにおいては殊に新皮質の発達が著しいそうですが、いずれにせよ、これらは決して、それぞれに孤立しているのではなく脳としての一纏まりを成しています。
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この回答へのお礼

詳しい解説を有り難うございます。

個の保全については実感としてよく理解できます。
誰でも死にたくはないですから。

種の保全については、大脳皮質が邪魔しているのか、人間はかなり希薄になっていますよね。だから戦争をするんでしょうか?

でも、よくしたもので「あの世」とか神仏を想定することは、死後の世界を保証することで個の保全を満足させると同時に、「天網恢恢疎にして漏らさず」で種の保全も知性的に道徳的に正当化できちゃって、(ぱっと見)本能抜きで個と集団の両立を図れますね。

だからほとんどの人間集団が道徳と同時に宗教を持ってて、それはやっぱり新皮質と旧皮質とその他の部分の結託なんでしょうね。

お礼日時:2007/11/20 17:11

人道主義、理想主義で明治の生まれの武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)先生の本から抜粋です。

「人生論・愛について」(私のバイブルです)より

『~道徳は人間をいじけさすためのものではない、ある型にはめるものでもない、又病的な社会に都合のいい人間をつくる為に存在するためのものでもない。

~道徳は人類に間違った道を歩いているものが多いので、つまり滅びの道を歩いているものに正しき道を教え、正しき姿で前進することを命令するのである。だから権威があるのは当然であり、その命に従ったものは人生は真面目な厳粛(げんしゅく)なものであることを感じひきしまった気持ちで道を歩く決心をするのである。

我等を動物的に支配するには暴力で充分である。我等を誘惑的に支配するには金銭又は女色が最も力強いかもしれない。しかし我等を理性的に人間の価値を高める方法で支配しようとするならそれは道徳の力によるより仕方がない。

~ その(道徳の)力は弱いように見えても根本的であり(不徳感で他を軽蔑し、冷淡になり滅ぼし合っては何の役にも立てなくなるから)他人を支配するためにあるのではなく、自分を制裁するためにあるのだ。他人のことばかり非難するのは自分に託された命さえ持て余して他人に託された命の世話を焼くのは道徳的とはいえない。道徳の力は内心的に働くので「他人に気付かれなければ」というものではない。

もし全き姿の(例えば恋愛)があり得たら、それは道徳的とは言えないが、~そういうのを「美」というのだ。それは本能そのままに従って完全なのだ。自然のままでいいのだ。道徳はそこまで純になりきらない。無心になれない。努力があるのだ。自力的なのだ。それが人間らしいところであり、我等を発憤(はっぷん)させるところを持っているが、完き姿とは違う。安心はない、無心ではない、何かに任せきった安らかさがない。無心のままで満足するもの、そこには努力も精進もなく、愛と融合あるのみ、そういう(本能の)美を讃美する。』

…ということで「人間社会の道徳」は人間に至誠的な権威を感じさせ命令はするが、人間の本能が感じる「美しさ」はもっと無心にしてあるもので、肉体的にも種の意志(神の意志?)にも叶い、同時に次の時代を用意するような前進が現れている(健康的とかバランスが良く保たれているとか)ことに権威を感じているからということで、

道徳は自然の意志の側面に叶うものの、「人間の根本の不完全さから生まれたもの」になるようです。

本能は目的や意味があっても知らずに使うもので、つまり知る必要がないように、本能に不純や不完全が含まれていても自然であるなら不満がなく、完全であると納得するならばですが。
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この回答へのお礼

有意義な引用をありがとうございます。

全部読みたくなりました。

乱暴な解釈かもしれませんが、道徳とは人間の根源的な心の在りようから、理性によって我欲を取り除いたもの、というふうに理解しました。

お礼日時:2007/11/20 00:24

[道徳も、人間の生物としての本能に根ざしたものなのでしょうか?]


人間の生物としての本能といえば動物と同じですね。動物には宗教も道徳もありません。本能のままに生きるものは集団さえ維持することは不可能でしょう。例えば食料が無くなれば動物は共食いを始めるし人間でさえそのような状況で本能のままに生きれば同じことをするでしょう。
道徳あるものは餓死しようがそのようなことはしないものです。故に道徳は本能の行動ではありません。
モーゼの十戒にせよ仏教の5戒にせよ宗教は集団の調整機能としての戒律を持ち込んでいますが、モーゼや仏教、儒教やキリスト教にせよ高々4000年ぐらいのものです。人類の歴史はそんな短いものではありません。はるかそれ以前もたくさんの宗教なり教えなりが集団の調整のために説かれていたわけです。仏教では過去7仏の教えも同じと2500年前にいってるぐらいですから。その総体を道徳というのですね。とくに宗教ぽくない儒教は、ピラミット型の秩序を持ち込んでいますが、秩序がそのまま調整機能をもつという思想は本来の宗教そのものの投影ですね。上から下に従うということはユダヤ教でもキリスト教でも仏教でも同じですね。その秩序を天の国ではなくこの世で実現しようという思想が道徳のもとでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

“本能に根ざす”という表現が私の中でも消化不足で、回答者さんに対しても説明不足だったように思います。

道徳も宗教も高度に知的な活動の産物であると思います。

私の疑問は、人間を英知をかけての道徳構築に駆り立てたものが何なのかです。

儒教も仏教もない未開の民族であっても、未熟ながら道徳は持っていると思います。
そして各集団の道徳は多様ではあっても、ある程度の普遍性はあるように思います。

猫は知性がありませんから道徳を持ちませんが、もし猫に知性を与えたら猫の道徳を作るのではないでしょうか?そのとき猫道徳のベースとなるのは猫自身が知性を持たないときも衝動のような形で感じていたであろう本能なのかなあと、そういうふうに思って質問しました。

本能的行動というものが知性の不在を前提にするのなら、本能に根ざすというより、本能的行動の代替としての道徳という言い方の方が適切かもしれません。

お礼日時:2007/11/19 21:11

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