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旧国名で上野・下野や越前・越中・越後等は京都に近い?方から「上」や「前」の名をつけられたと聞いたのですが、何故、例えば上野は上前、越前は越上ではないのですか。何か理由があるのでしょうか。どなたかご存知でしたら教えてください。

A 回答 (1件)

あまり深刻に考える必要はありません。



1.基本は「前・(中・)後」
備前、備中、備後
筑前、筑後
豊前、豊後
肥前、肥後
越前、越中、越後 (※)

(※) 日本海は夏は波が非常に穏やかであり、強い海流もなく、太平洋側のように「黒潮に乗ってしまうと何もない太平洋に流されて餓死する運命」に陥ることもありません。奈良や京都から琵琶湖を経由して今の敦賀の辺りに出れば、そこから船に乗り、古代の造船技術・公開技術でも、沿岸航法で津軽半島の辺りまで達することが容易に出来ました。よって、越後までは西国と同じ扱いで「越前・越中・越後」と命名されたわけです。
なお、今の山形県と秋田県の地域である「出羽」は、明治維新後に「羽前」と「羽後」に分割されました。律令制度の国名とは関係ありません。

2.「東国に限り上・下」
上野、下野
上総、下総

という二つのルールがあった、と考えてください。

東国は、太平洋を安全に航海するのは難しいため、陸路を徒歩で行く他ありません。また、現在は日本のメインルートである東海道は、「難所」が多くあったので安全な通行が困難であり、鎌倉時代に至るまで、京都から東国へのメインルートは中山道(近江→美濃→信濃→上野)でした。この経路は、今の目では「山の中を歩く辛い道」のように見えますが、「大河」も「海に迫った断崖絶壁」もなく、安全に通行することが出来ました。よって、今の関東地方については、大和朝廷の権力が浸透するのが、西国(越後までの日本海側を含む)より遅れました。そのため、東国の国名についてのみ「上・下」の命名法が取られていると思われます。

こういった問題については「証拠」を探すのが困難ですし、真剣に検討している学者がいるとも聞きません。上記は「私の考え」です。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。改めて見ると上下のつく国の配置が西国と東国では違っていました。やはり何か深い意味があるんでしょうね。

お礼日時:2007/12/15 20:52

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