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(1)勤勉に働き、蓄財に励んだとしても犯罪や事故や病気でこの世を去る場合もある。結果的にこのような形で世を離れることになった場合、それは神の救いの予定から外れていたことになるのか。

(2)なぜ救いに予定されている人間が「少数」で救いに予定されていない人間が「多数」なのか。
救いに予定されている人間が「多数」で救いに予定されていない人間が「少数」でも良いではないか。
集団救済の宗教との棲み分けは問題とならないのだろうか。

(3)内面の信仰だけで救われるとするならばなぜ行動的禁欲を実行することになるのか。
口でただ「イエス様を信じてま~す!」といいながら働かないで飲む、打つ、買うの三拍子揃った生活を送る輩も出てきそうなものだが。

A 回答 (2件)

No.1のご回答の中の


《人間の信心で左右される神は全知全能の神の否定にほかならない》
を承けてさらに述べさせていただきます。

人間の考えることで左右される神は まさに人間の想像物としてのカミです。つまり 絶対者としての神ではありません。つまり そのときの《信仰》は 単なる思考や願いや祈りやあるいは欲望のことです。つまり 神の信仰ではありません。

神の内容やそのはたらきのあり方が 人間によって左右されないとすれば たしかに 論理的に言って いわゆる《救いの予定》があると推し測られます。神がすでに決めていると言えるかも知れません。

ですが ふたたび逆に言って たとえそのように《予定》が決まっていても それを 人間は知ることが出来ないし それをどうにかして変更させるということも出来ないと思われます。

《予定説に関する疑問点》は 以上のように考えられます。

★ (3)内面の信仰だけで救われるとするならばなぜ行動的禁欲を実行することになるのか。
☆ 禁欲は 自由です。やりたい人は やればいいと思います。

★ (2)なぜ救いに予定されている人間が「少数」で救いに予定されていない人間が「多数」なのか。
☆ これは そう言い切れるかどうか 分かりません。分かったのなら 神による《予知》をといいますか 要するに 神の思いを 人間であるあなたが知っているということになります。
 ですから 次の問い(1)についても 同じことが言えると思います。

★ (1)勤勉に働き、蓄財に励んだとしても犯罪や事故や病気でこの世を去る場合もある。結果的にこのような形で世を離れることになった場合、それは神の救いの予定から外れていたことになるのか。
☆ 志し半ばで死ぬとか どう考えても理屈に合わない被害をこうむって死ぬとか このような形で世を去ることになった場合。
 まづ 《それは神の救いの予定から外れていたことになるのか》については 分からないというのが 答えです。というより そのように問う必要がないとなります。心動かされますが 知り得ないと理解してください。
☆ 一般に 人生における努力は いったい どうなるのか。勤勉の実績は いったい どこへ行ってしまうのか。
 どうもならないですし どこかへ行ってしまうものでもないと理解してください。信仰があるということは その現在がすべてであるというかたちになります。その現在に 将来のことのすべてが 含まれていると考えてください。(その全部をことごとく知っているというのでないことは もちろんです)。
 ですから そのように《現在》を 少しづつ 自分の歩む動態として(じつは 信仰動態として) そして 自己の人生全体として 着実に固めていくならば 自分の使命や仕事としても 決まってくるでしょうし 向こうから その実現はやって来るようになります。これが 一般論です。
 人によっては 特殊な役割を担う人もいると思います。その場合は その人 本人が そのことを分かっています。不慮の死をとげたり不合理な災難をこうむったりという場合が この特殊の場合にあてはまるかどうかも 本人が知っています。もしくは あとで 知ります。(不一ですが)。

☆ このように信仰を持つ人びとが 世の中の三分の一いる社会を目指しましょう。対立するような三分の一の人びともいることでしょう。あとの三分の一は どちらかと言えば われわれ信仰者に賛同する人びとであるという恰好です。
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1.神が誰を救い、誰が救いからもれてるか、神のみぞ知る。

かつ、神のみが決める。
2.それに対し人がどんな尺度をもちこんでも、1.を知り得ない。何人救われるのかもわからない。棲み分け?人間・宗派の都合なんぞ、関知しない。
3.1.と2.から自分が救われてるのか否かが最大の関心事となった。行動的禁欲と呼んでいいのか、カルバン派のおこりは史実の通り。

全知全能の神をつきつめると以上の通り。
人間の信心で左右される神は全知全能の神の否定にほかならない。
さすれば、救われるものも救われない者もできることは何か?
そんな神に出会い、驚き、神の計画を知り尽くせない、そんでもって結論。
神を賛美するほかない、これがキリスト教の神髄。
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