街中で見かけて「グッときた人」の思い出

私は、なにかと嫌なことがある度に近くの神社に足を運び、おまいりをしてきます。最近感じたのですが、学校をサボったり、お金の無駄遣いなど自分にとってマイナスの行動をすると、後からその分嫌なことが必ず起こることが分かりました。やはり、神様っているもんなのでしょうか?

A 回答 (36件中1~10件)

おおざっぱですみませんが、


いると信じることと、いるかどうか考えることは別です。
考えによって出る結論は、いると仮定すれば旨くいろんなことが説明がつく、だから神様がいるという風に考えることは有意義だ、ということになるんじゃないでしょうか?論理では、これ以上の壁を越えられません。
神様がいると思うと、限りなくいろんなことが上手く行くし説明ができるからとてもいいーというのと、実際にいるのを信じることの間には、紙一重ですが、同時に論理では越えられない溝があります。

つまり神様がいるかどうか疑って考えても、神様はいるのだという結論に限りなく近づきますが、いるということの証明は出てこないです。いるという仮説が成立するということは、多分いないという仮説も成立します。つまり2択になるので、
結局、最後の最後には、信じるか信じないか、という2者択一の問題になります。これは言い換えると、信じる信じないは論理の問題じゃないということです。
ただ論理的に考えることで、この信じるか信じないか、以外の枝葉の問題を振り落とすことができ、それによって純粋にこの2択に集中できます。つまり問題の切り分けができるなーと思います。

ごちゃごちゃした文章ですみません。
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いないんだけど必要なんです。

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そうした社会の中に


自然の中に
その深度により
より壮大な神性を人は見出すのかもしれない。
余談ですが
いずれも習熟の度合いによって行き着くところは同じと思われるのですが
裏千家は男性的、禅的、侘び寂び、生と死の境、切り詰めた中に
作法はどちらかと言えば二の次で、明鏡の中に発露するをたのしみ
表千家は女性的、華やかさ、盆栽を育てるように不要な芽を切り取り
所作の佇まいを整えその美のうちにその時をたのしむ。
アプローチの仕方が異なる
それを極めた者でない者の主観によるものなので夫々茶道のお師匠さんからは叱責を受けるかも知れませんが。。。

躾や教育は盆栽の不要な芽を剪定し佇まいを整えていくのに似ているなと思ったことがあります。
人によってはある時期に幹の根元の近くから切り取られ生死の境のうちに枝葉を伸ばし必要に応じて剪定され整えられていくような盆栽の育て方もあるのかも知れないですね。
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人から受けた恩は遠くから返すものだと言われます。


また情けは人のためならずとも言います。

例えば、ある人はかつてそのお父さんから何かお世話になったことがあり
お父さんが朝早くその道を通ることを知っていて
ある人は朝早くおきて財布を落としたのかも知れませんし
またそれを拾ったお父さんは正直者で
落し物として警察に届けるかもしれません。
結果はどうなるかその時によってどうなるか分かりませんし
善行は見返りを求めるかのように
これ見よがしにされるべきものでもないとも思います。
自然におこる災害などは誰にでも起こりえますが
一人の力で乗り越えられないものも多く
そういう時は、お互い力をあわせて物事は解決されていくでしょう。
日頃から悪行をしていればそんな時は人の目は冷ややかであったりするのだと思います。
そういうことが先祖を含む人の日々の歴史の中で
躾や道徳として実践的に身につけていくようにし
人を性善説に導いていこうとしたのではないかと思います。
そういうことが行き渡るような世をよしとしたのではないでしょうか。
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神様が存在するかどうかは分かりませんが、マイナスのことをすればマイナスの結果が、プラスのことをすればプラスの結果が起こるということと、神様の存在を結びつけてよいかどうかは、簡単ではないと思います。



ドイツの笑い話だったと思いますが、お父さんが早起きしない息子を叱って、お前の兄さんは早起きして散歩したので財布を拾って得をした。早起きは得をするものだといいました。息子は、わざわざ早起きして財布を落として損をした人がいるといって笑いました。

もし神様がAの行為にはaの効果、Bの行為にはbの効果、Cの行為にはcの効果を与えると決まっているとすると、人間がどんな結果を引き受けるかは神様の裁量ではなく自分自身で決めていることになりはしないでしょうか。

例えば、善行を行ったから天国や極楽へ行くというのであれば、善行を行うかどうかは人間が決めることですから、神様の役目はどんな行為を行ったかを監視するだけの役目であることになってしまいます。青森行きの切符を持っているのか、長崎行きの切符を持っているのかを見ているわけです。

こころの支えになるのであれば大変結構なことではありますが、神様のこととは別に考えられてもよいのではないかと思いました。
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 それはもう確かに居られます。

今の人達は合理的思考に囚われ過ぎています。そうした考えを一時傍らに置いて、素直な目で日ごろ起こる事
を観察すると、神とか霊とかの存在を認めなければ理解出来ない事柄が
よく起こる事に気がつきます。例えば、霊の見える人世の中には案外
沢山いますし、事故続きの工事現場でお払いや供養したら、事故がなくなったなどという例はザラですし、実際、世間ではそのように処理しています。
 あなたの場合は、神様があながよくお参りにくるので守ってくれていることを、知らせるために変なことが起こるのだと思います。
ただ、ただはいけません。少しでいいからお賽銭をあげ、それから自分の先祖も拝むことです。
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良い事があった 無かった に関して神様の力が働いているとは


あまり思えないのですが、単純にいる・いないで答えると
私はいると思います。
地球の歴史をさかのぼっていくと、海から生命が誕生したと言われていますよね。その最初の生命は、どのように生まれた??
ここに来ると、私はどうしても神様という想像出来ない偉大な何かが
あるとしか、考えられないです。
「命」そのものを生み出せるものは
地球上に誰もいないし、何もないではないですか。
(子供を作る事は、そのしくみがあるから出来る訳で、私が考える命を生み出すこととは違います。念のため。)
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そして太陽の光を浴び地球という大地の上で活き活き生成する。



人の作る法や道徳や躾は
人が構成する社会が不必要な軋轢を産み出さないための人の生き方の知恵の集積であり
法体系としての条文は最小限に留め
後は躾や道徳に任せることのほうが人は活き活きすることを認識する。
だから天は人が性善説に則って生きることを希求し
天網恢恢疎にして洩らさずといい
罪を憎んで人を憎まずといい
罪の発生しやすい社会の不備の修正を正義とし
これを志向する。
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そして許すという概念さえもない

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27の回答に、ほとんど賛成です。

そして、少し補足します。

27の神は、創造主で、唯一神かつ絶対神です。
この宇宙(時空)を創造した創造主のことですから、ノンフィクションの神と言えます。
ちなみに、創造主の特徴としては、完全な存在で、普遍的な影響力を持ち、公平かつ平等を貫くという点があると自分は思っています。

ところが、質問者が想定しているのは、多神教の神々のことで、様々な存在に内在する聖なる霊体のようなイメージの方でしょう。
これは、創造主が作り出した人間が、さらに創造(空想)した抽象的な概念ですから、被造物の中に分類できます。
ゆえに、物語的な(フィクション)程度の神です。実体があるとは思えません。

さらに、質問者は、因果応報とか、天罰とか、神様のご機嫌伺い的な思考パターンにはまっていて、畏敬と恐怖の入り混じった存在(多神教の神々)に捕らわれているようですね。

創造主の特徴は、公平かつ平等ですから、誰も優遇しないし、罰することもないことに気付いてほしいと思いました。
自分に内在していて神に通じている部分(心かも)から示される光に導かれて素直に生き生きと活動する姿を神は見守ってくれると思いますよ。そういう意味では、神は心の中にいるのかもね。
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