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オスマン帝国について質問です。
1、オスマン帝国の歴史を教えてほしいのですが、特に建国時についてです。オスマン帝国を立てた人物はトルコ人なのでしょうか?それともアラブ人??トルコ人は、中国のウィグル地区でもトルコ人がいると聞きましたが・・・。
もしトルコ人であるなら、彼らはどのように移り住んだのでしょうか?またアラブ人とトルコ人はまったく違うのでしょうか?

2、すごく簡単でいいのでオスマン帝国の歴史について教えてください。
宜しくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

11番です。



>回答者さんはイタリア人と書かれていましたが・

であれば、誤りです。

>現地にイリリア人という民族がすんでいまして、スラブ人の影響で彼らは追い出された。その追い出された場所が現在のアルバニアと聞きました。

イリリア人ですが、これはイリリア地方に住む人々という意味で、イリリア人という民族がいたわけではありません。
当時は、世界的に見て民族形成がされているのは、ギリシヤ人やローマ人などにすぎません。
また、スラブ人に追い出されたというのは、変で、民族移動でできた国の場合、圧倒的多数は、現地人が占め、移動してきた民族は、少数派です。
スラブ人の場合はよくわかりませんが、ゲルマン民族の西欧への移動は、ゴート族で5%~7%程度で、比較的多くの移動があったフランク族でも12%程度とされています。
また、東スラブ人と西スラブ人は、外形が似ていますが、南スラブ人であるセルビア人やブルガリア人、クロアチア人などは、少し異なっています。
これは、現地人との混血によるものと思われます。
外来民族が、原住民族を追い出す事は、まずありえません。
(そのような事をしたのは、イスラエル建国の時くらいですが、それでも完全にはできていません)
そもそもその時点では、民族形成が行われていませんから、民族という概念すら無いのです。
アルバニア人は、スラブ人が進出しなかった地域に住んでいた人にすぎないのです。
歴史を、今日の観点から見るために、そのような誤解を招くのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。民族の定義はすごく難しいですね・特に前にも言いましたが日本人にとってはすごく混乱してしまいます。今まで長々とした補足に回答していただいて感謝しています。本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/03/13 18:50

11番です。



>アルバニア人の祖先はイリリア人と聞きました。

イタリア人ではないでしょう。
もしアルバニア人がイタリア人であれば、今日アルバニア人は、イタリア語かラテン語を話しているはずです。
イタリアというヨーロッパ最先端の国の言語を捨てる事は考えられません。
ただし、スラブ人がバルカン半島にやってくる時点において、またアルバニア人は民族形成ができていませんでした。
つまり、雑多な集団にすぎなかったわけです。
アルバニアの民族形成の時期は、ビザンツ帝国が第4回十字軍に滅ぼされたときにできた、エピルスが初めではないかと思います。
ただし、現在のアルバニアは、一時期イタリアの支配を受けた事もあり、イタリアの影響が大きいのは事実ですが。

>ボスニア人だというのはどこで感じていたのでしょうかね??

感じていなかったでしょう。
後の民族形成により生じたと考えるべきでしょう。

>12世紀にボスニア人がボスニア王国を作ったと聞くと、いきなりボスニア人がそこにやってきたかと思ってしましますね

これは、日本人のおこしやすい誤解です。
民族は不変だと考えてしまうために、そのような誤解を生ずるのです。
環境が変われば民族の概念も変わる事に気が付かない日本人の起こし安い誤りなのです。

これは、表題のトルコ人でも同じことです。
トルコ系民族(チュルク系民族)と言いましても、カザフスタンやキルギスの人達は、日本にいても日本人と全く区別できない顔形をしています。
しかし、トルコ共和国の人ですと、ほとんどアラブ人と区別つきませんし、タタルスタンの人ですと、白人と区別できない顔形をしています。
これは、トルコの文化や言語を持った人達が、現地の人達と混じりあいできた民族なのです。
民族の消滅と言いますと、日本人では、他民族を強制排除して消滅させたように考え勝ちですが、実際は、大きな方、力の強い方、文化度の高い方に吸収されてゆくのです。
日本でのアイヌ民族と日本人との関係と同じ事なのです。
アイヌ人は、日本人との婚姻などにより、日本人と一体化してしまっています。
それと同じ事が、世界中でおきているのです。

この回答への補足

ありがとうございます。
1番の質問で、アルバニア人の祖先はイリリア人と書いたのですが、回答者さんはイタリア人と書かれていましたが・・間違いでしょうか?アルバニア人がイタリア人が祖先という質問ではなかったのですが・・・。
スラブ人が最初にバルカンにやってきたとき、私が聞いた話ですと、現地にイリリア人という民族がすんでいまして、スラブ人の影響で彼らは追い出された。その追い出された場所が現在のアルバニアと聞きました。
どうでしょうか?

補足日時:2008/03/06 16:40
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10番です。



>何のまとまりのないスラブ人がそこに住んでいたとは初耳ですね。

これらのスラブ人は、5世紀ごろフン族の活動が活発化し、東ローマ帝国に侵入したとき以来五月雨式に入ってきた人達です。
もっともそれ以前にもその地域に人は住んでおり、セルビアからギリシャ北部にかけては、現在のアルバニア人の祖先が、クロアチア付近には、イリリア人が住んでいました。
これらの民族と南スラブ人が混じりあい、住んでいたのが、セルビア族やクロアチア族がやってくる直前の状況です。
政治的には、イリリア人地区は、西ローマ帝国に、アルバニア人地区は、東ローマ帝国に属していました。
ただし、フン族の侵入により、それらの地域でのローマ帝国の支配権はゆらぎ、まとまりのない地域になってしまい、パラパラとやってくるスラブ人を統制する事ができなくなってしまっていました。

アッティラの死後、フン族は崩壊しますが、代わってアーバール族がやってきます。
フン族の場合、アッティラ一代の事件でしたが、アーバールは、現在のハンガリーに定住し、繰り返し東ローマ(ビザンツ帝国)への侵攻を繰り返します。
私の推測ですが、当時のビザンツとアーバールの境界線付近は、ビザンツの統制が全く取れない南スラブ人地区であったため、少しでも統制のとれたクロアチアやセルビアを国境地帯に呼び込んだのではないかと思います。

><モラビア>というのはスラブ人の国家なのでしょうか?

西スラブ系の民族です。
現在のチェコ人やスロバキア人の祖先と考えてください。
現在のチェコのモラビア地方(ブルノなどの都市があります)にあった国で、チェコやスロバキアを領有していました。
ビザンツ帝国と同盟し、西のフランク、南のアーバールと敵対していました。

この回答への補足

ありがとうございます。
またまた補足させてください。アルバニア人とおっしゃっていましたが、私が聞いた話ではアルバニア人の祖先はイリリア人と聞きました。しかし回答者さんはアルバニアとイリリアを分けていましたが・・・。

もうひとつ、ボスニア人に関して戻させてください。彼らはクロアチア人やセルビア人が来る以前からいたスラブ人もしくは、その後に来たスラブ人で構成させれている可能性があるということでしたが、彼らは、なぜクロアチア人などがバルカンに来た際に、もともとは同じ”スラブ人”なのに同化しなかったのかが不思議ですね。そうは思いませんか?
俺らはセルビア人と違って、ボスニア人だというのはどこで感じていたのでしょうかね??ん~わからない。日本人の感覚だと、スラブの本を読んでいても12世紀にボスニア人がボスニア王国を作ったと聞くと、いきなりボスニア人がそこにやってきたかと思ってしましますね
マケドニア人も同様です、
お願いします。

補足日時:2008/03/04 16:13
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9番です。



>最初南スラブ人としてバルカンに進出した人々は、セルビア、クロアチア、スロベニア人だったと聞いています。

南スラブ人のバルカン半島への進出は、フン族のバルカン半島への進出により始まります。
フン族が去った後も、スラブ人の移住は続きます。
これらのスラブ人は、集団としての移住ではなく、小さな部族単位や家族単位での移住でした。
そのため、バラバラとやってくるスラブ人を、ビザンツとしては対処しようがありませんでした。
(現在のアメリカへのメキシコからの不法移民のような感じです)
セルビア族やクロアチア族は、当初西スラブ族に属していたようです。
つまり、ポーランド人やチェコ人などと同じ集団です。
当初は、モラビアに属していたのではないかと思われます。(想像です)
ビザンツとモラビアは、同盟関係にあり、対フランク、対アーバールで共闘していました。
ビザンツ帝国は、このアーバールに手を焼き、クロアチア族とセルビア族のビザンツ領内定住を即します。

この時クロアチア族の定住した地域が、現在のクロアチアと呼ばれるようになり、セルビア族の定住した地域が、セルビアと呼ばれるようになります。
ただし、この両部族が、今日の直接のクロアチア人やセルビア人になったわけではありません。
その後、現地の南スラブ人と混じりあい、ハンガリーやビザンツの影響下で民族形成されて、今日のクロアチア人やセルビア人となったのです。

これは、現在のマケドニア人が、古代ギリシャのマケドニア人(アレキサンダー大王など)とは、別民族である事と同じ事なのです。

>それ以前から定住していた南スラブ人から生まれたのがボスニア人ということでしょうか?

そうであるとも、そうでないとも言えます。
南スラブ人は、民族形成がされる前にバルカン半島に移住してきます。
そこには、南スラブ人という概念さえ無いのです。
南スラブ人は、単に南の方向に移住したスラブ人程度に考えてください。
当然ボスニア人も同じです。
ボスニアは、バルカン半島北部のハンガリーと南部のセルビアとに挟まれた地域で、どちらにも直接支配されない地域、また両方の文化が混じりあう地域として、民族形成されるのです。

日本人は、民族は不変の物とかんがえがちですが、民族形成がどのようになされたのかで、民族は変化します。
人種や言語が異なっても、共通の環境にありますと、同じ民族となる事もありますし、同一民族であっても、長年別環境におかれますと、別民族へと変化します。

別民族・人種が同一民族へ短期間で移行した場合もあります。
中央アジアに、メスヘティア人という民族があります。
メスヘティア人は、第2次大戦前には存在しなかった民族です。
スターリンの命令で、グルジアのメスヘティア地方の、トルコ人、クルド人、アルメニア人、グルジア人などが、中央アジアへ移住させられ、そこで、現地のキルギス人やウズベク人との抗争があり、移住させられた人々が、団結し形成された民族です。
民族とは、共通の環境の中で形成されるもので、環境が変化すれば、民族も変化するのです。
ユーゴ末期には、自分をクロアチア人だとかセルビア人だとか思わず、ユーゴスラビア人だと主張する人が生まれていました。
ユーゴがもっと長く続いていたら、セルビア人もクロアチア人も無くなっていた事でしょう。

この回答への補足

????????すごく難しいです・・・・・!!
クロアチア人、セルビア人が来る以前から、何のまとまりのないスラブ人がそこに住んでいたとは初耳ですね。
そのクロアチア人などより最初に移住してきた南スラブ人たちは、なぜクロアチア族などのまとまりとしてこなかったのかも私には理解できませんが・・・、日本人の観点から民族を考えるとかなり難しいですね。
<この両部族が、今日の直接のクロアチア人やセルビア人になったわけではありません。>というのは、ハンガリーやビザンツの影響や彼らより先にそこにいた人々がまざってできた人種という意味で違うということですよね??根本的にまったく違うという意味ではないですよね?

また、<モラビア>というのはスラブ人の国家なのでしょうか?

補足日時:2008/03/03 19:20
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8番です。



>このボスニア人というにはどこから来たのかよくわからないです。

ボスニア人も、クロアチア人やセルビア人と同じく南スラブ人です。
クロアチア人やセルビア人は、ビザンツ帝国のヘラクレイオス帝が、アーバール人の侵攻に手を焼き、帝国内に呼び込んだのですが、それ以前から多数の南スラブ人が帝国内に定住していました。
この時呼び込んだクロアチア人にしましても、セルビア人にしましても、現在のクロアチア人やセルビア人とは異なり、まだ民族形成がそれていない部族集団でした。
これは、スペインを支配した西ゴート族と現在のスペイン人の関係、現在のブルガリア人とブルガリア人の元となったブルガール族との関係と同じです。
同じフランク王国に支配されても、フランスとドイツが異なるのとも同じです。

その後クロアチアは、ハンガリーの支配下において民族形成が進み、セルビアは、ビザンツ帝国の影響下で民族形成が進みます。
ボスニアは、どちらの影響も受けず、また両者の影響を受けたりしながらしだいに民族形成がされてゆきました。
現在のボスニアには、セルビア人もクロアチア人も住んでいます。
ボスニア在住でも、ハンガリーの影響が比較的強かった地域の人は、クロアチア人を名乗り、セルビアの影響が強かった人は、セルビア人を名乗っています。
両国に敵対していた人は、トルコの支援を受けて、ムスリム人(ボスニア人)を名乗っています。

ヨーロッパにおいて、民族大移動により国ができる場合がありますが、その場合でも圧倒的多数を、現地の住民が占めます。
スペインに侵攻した西ゴート王国の場合、地区によっても差がありましたが、西ゴート族は、当時のスペイン国民の5%に達しませんでした。
これは、東ゴートやランゴバルドなども同様で、比較的割合の高いフランク王国でも、10%程度だったそうです。
それらの移動してきた部族と、現地にいた部族が混じりあい、独自の民族が形成されるのです。
その時、支配民族であっても、圧倒的多数の現地民族の中では、支配民族としてのアイデンティティを失い、現地化してゆきます。
同じ事は、中国を支配した異民族王朝が、中国化して中国社会に飲み込まれてゆくのと同じ事なのです。

この回答への補足

私が本で読んだ限り、前回の質問で書いたとおり、最初南スラブ人としてバルカンに進出した人々は、セルビア、クロアチア、スロベニア人だったと聞いています。
回答者さんのことをふまえますと、彼らが来る以前からその半島には南スラブ人が定住していて、その後にクロアチア人などの人々が、きちんと、~人として形成された人々が定住した。しかし、それ以前から定住していた南スラブ人から生まれたのがボスニア人ということでしょうか?
なぜ混乱しているのかというと、セルビア人からモンテネグロ人が生まれたと聞いたので、ボスニア人もマケドニア人もそのように生まれたと思ってしまいました。
ややこしく申し訳ございませんが、宜しくお願いします。

補足日時:2008/03/03 09:24
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7番です。



>回答者さんはどのようにこれらの事を学んだのでしょうか

独学です。
私は、単なる一般人ですので、色々な本を読んだりネットなどで色々な記事を読んだだけです。
ある特定の本や記事ではなく、多数の本や記事ですので、ここで紹介する事はできません。

>元々、ボスニアの宗教はネストリウス派(ボゴミール派と同じ事でしょうか?)を信仰していたらしいです。なぜボスニアだけ、異端とされていたこの宗派が広まったのでしょうか?

ボゴミール派とネストリウス派は全く異なる教派です。
ネストリウス派は、「キリストは単なる人間であり奇跡を起こした事もまして復活もしなかった」という教義の教派で有るのに対し、ボゴミール派では、「キリストは、神の子であり、もう一人の神の子サタナエルが、地上に悪い考え方を広めたのを正すために神がキリストを使わした」と考える教派です。

ボスニアは、カトリックも正教会(ギリシャ正教会など)のどちらも決定的な支配力の及ばなかった地域でした。
そのため、正教会の地域で弾圧されたボゴミール派、カトリック地域で弾圧されたカタリ派の人々が、ボスニアに逃げ込み、ボスニア独自のボスニア教会と一体化しました。
ローマ教皇は、何回かハンガリーに対してボスニアへの十字軍派遣を要請しましたが、地形的状況や政治的状況によりことごとく失敗しています。
ハンガリーやセルビアによるボスニアへの圧力は、トルコの進出により納まります。
ボスニア住民としては、トルコの進出は、大歓迎でした。
トルコは、財政的事情から、ヨーロッパ地区の住民のイスラムへの改宗を喜びませんでした。
(そのためアルバニアとボスニア以外イスラム教徒となった地域はありません)
ボスニアでは、自分達を苦しめたカトリックも正教会も受け入れる事はできず、トルコ支持のためにイスラムへの改宗が積極的におこなわれたのではないかと思います。
(イスラムへの改宗の経緯は、よく分かっていません)

この回答への補足

ありがとうございます。またまた、とても勉強になりました。
ごめんなさい、オスマン帝国から少しそれるのですが、このボスニア人というにはどこから来たのかよくわからないです。
私は、バルカン半島について勉強しているのですが、クロアチア人、スロベニア人、セルビア人が最初にこの地にやってきたと。モンテネグロ人はセルビア人から分かれたから、同じ人種である。
しかし、ボスニア人というのはよくわかりません。モンテネグロのようにセルビア人から分離したのでしょうか?
ご存知でしょうか??

補足日時:2008/03/02 18:27
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5番です。



>トルコ語が母国語ということでしょうか??

原則的には、チュルク系言語が母国語という事です。
一般にトルコ語と言いますと、現在のトルコ共和国の言葉を指しますが、そのトルコ語自体ではありません。
広義のトルコ語という意味で、チュルク系言語としています。
チュルク系言語は、ヨーロッパで言いますとロマンス語系言語とか、ゲルマン系言語に相当する言い方で、同じロマンス語系言語でも、フランス語とスペイン語が異なるように、全く同じ言語ではありませんが、極めて近い関係の言語です。

>中国の突厥やウィグルは同じですか?

現在のウイグル族は、トルコ系民族が中心となっていますが、イラン系やモンゴル系などの混血も多く見られます。
原住トルコ民族を中心とした混血集団だと思ってください。
突厥は、トルコ系民族であったとされていますが、中国での資料が、人種的特長や言語、生活様式などについて詳しく書かないので、確定する事ができません。

>ネストリウス派とトルコの当時の宗教の箇所で書かれていましたが、この宗派はキリストにとって異端だと聞きましたが、なぜ異端なのでしょうか

現在では異端ではなく、キリスト教の教派のひとつとされています。
現在の信徒は、イラクのクルド地区に少数、アメリカに移住したイラク人に少数の人がいるだけです。(総信徒数15万人程度)
ネストリウス派の考え方は、「キリストは神でも神の子でもなく、単なる一般の人間であった」とするものです。
そのため、死後の復活はありえず、十字架のうえで死んだ事になっています。
そのため、三位一体、キリストの復活を考えるキリスト教の他派と対立したのです。
ネストリウス派は、ヨーロッパで異端とされたため、その勢力を東方に拡大しました。
中心となったのは、ササン朝ペルシャでした。
ペルシャからさらには中国にまで達しています。
中国では、「景教」と呼ばれました。
(景教に関しては、高校の世界史にも出てくるはずです)
このネストリウス派が、アジア各地に広まった事により、ヨーロッパでは、十字軍時代に、アジアに広大なキリスト教王国があり、イスラム諸国と対立しているので、その国(プレスタージョンの国)と手を結ぼうとの考え方が生まれました。
その国を探すためにマルコポーロは、旅に出たとの説もあります。

この回答への補足

ありがとうございます。すごくわかりやすいです。回答者さんはどのようにこれらの事を学んだのでしょうか?何かお勧めの本があれば教えてください。
ごめんなさい、もう一点補足ですが、ネストリウス派に関してですが、オスマン帝国がバルカン半島も支配下に入れた時、多くのバルカン民は自分達の宗教、カトリックや正教徒を守ることができたと聞いていますが、ボスニアだけイスラムに多くの人々が改宗したと聞いています。元々、ボスニアの宗教はネストリウス派(ボゴミール派と同じ事でしょうか?)を信仰していたらしいです。なぜボスニアだけ、異端とされていたこの宗派が広まったのでしょうか?またなぜ、彼らはイスラムに改宗したのでしょうか?
もしご存知であれば、詳しく教えてください。

補足日時:2008/03/02 09:20
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民族という「概念」は、非常に曖昧で、前後の文脈を含めて判断しないと、質問者様が疑問に思われるような「混乱」が起こることになります。



民族と言う言葉には、「文化・言語・宗教等が一定以上共有する集団もしくは、血縁的・遺伝的に同一の流れを汲む集団」という意味と、「政治的集団意識・主権意識・独立意識」という意味があります。

前者の意味で使った場合、他の回答者の回答にある「広義の意味でのトルコ人」という意味になり、後者で使った場合は「狭義の意味のトルコ人(現在のトルコ共和国人)」という意味になります。

「民族」という言葉に、こうした複雑な多義性を持つことになったのは、19世紀後半頃から盛り上がった「民族自決権」「一国家一民族主義」という思想があると思います。
そして、未だにこうした「民族自決問題」というのは東欧諸国を中心に国際紛争の中心をなしています。

取り合えず、Wikiで確認してみてください。
「民族」という「概念」は、あやふやで複雑だと言うことが分かると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F% …


そして、そうした「あやふやな概念」がいかに深刻な問題を引き起こすかという事も合わせて紹介しておきます。
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai99/tz9904.htm
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/hunsou.html
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080218 …
http://www.asahi.com/international/update/0222/T …

最近ニュースを騒がせている「コソボ問題」も、地域的には「オスマン・トルコ」の歴史に絡んできます。

直接の回答でなくて申し訳ありませんが、参考になりましたら幸いです。
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3番です。


トルコ人という場合に、広義のトルコ人と狭義のトルコ人があります。
現在のトルコ共和国の住民を指す場合には、む狭義のトルコ人ですし、チュルク語を話す人々を指す場合は、広義のトルコ人となります。
ヨーロッパに当てはめますと、ゲルマン人とドイツ人との関係になります。
ドイツ人は、ゲルマン人ですが、ゲルマン人の全てではなく、ゲルマン系の民族として、オランダ人やスエーデン人、イギノス人などがいます。
トルコ人においてもこれと全く同じで、トルコ系民族として、トルコ人(狭義)、アゼルバイジャン人、カザフ人、ウズベク人などがいるのです。

>オスマン帝国を築いたトルコ人と現在のトルコ人はまったく同じ民族と考えてよいのでしょうか?

同じ民族です。
オスマン・トルコが崩壊して、現在のトルコ共和国ができました。

>彼らの多くは現在イスラム教ですが、もともとイスラム教を信仰していたとは考えられないのですが、その辺どうでしょうか?土着の宗教とかがあったのでしょうか

イスラム以前のトルコ人(中央アジア)では、色々な宗教があり、特定の宗教を信仰していたという事はありませんでした。
中心となつたのは、ゾロアスター教、仏教、マニ教、キリスト教(ネストリウス派)です。

>アラブ人のイスラムとトルコ人のイスラムも少し違う気がするのですが

トルコ人(広義)の間で信仰していますイスラム教は、ほぼ例外なくスンニ派の中の「ファナフィー派」になります。
一方アラブ人の場合、「ファナフィー派」(シリアやヨルダンなど)、「マーリク派」(イラク、ペルシャ湾沿岸諸国、アルジェリア、モロッコなど)、「シャフィーイー派」(エジプト、チェニジアなど)、「ハンバル派(サウジアラビア ワッハーブ派とも言います)があります。

トルコ人が信仰していますファナフィー派は、イスラム法の解釈を、個人の見解に大幅にまかせています。
つまり、個人の判断で、イスラム法を厳格に解釈することも、応用的に解釈する事もできるのです。
その事が、トルコ系民族が、戒律のきびしいアラブ人との差になってみえるのです。

たとえば、イスラム教の教えとして、飲酒の禁止がありますが、コーランにおいては、厳格に禁止しているわけではなく、「飲酒すると、寝込んでしまい大切な礼拝を忘れるので、飲まないほうが良い」となっています。
これを、「飲酒すべきでない」と解釈するのか「礼拝さえ忘れなければ飲酒は許される」と解釈するのかが違ってきます。
ファナフィー派は、その判断を、個人の判断に任せているのです。
一方ハンバル派(ワッハーブ派)においては、「大切な礼拝を忘れる事もありうるので、飲酒厳禁、たとえそれがイスラム教徒以外でも」と解釈するのです。

>チュルクとは民族のことですか?トルコ人の祖先??

チュルクは、トルコの英語読みになりますので、本来は、トルコもチュルクも同じものなのですが、日本では基本的に広義のトルコ人を指す言葉として使われます。

この回答への補足

ということは、トルコ人(チュルク人)にはさまざまな人種がいて、チュルク系の中に、アゼルバイジャン人、カザフ人、ウズベク人がいて、て現在彼らはトルコ語が母国語ということでしょうか??
また、中国の突厥やウィグルは同じですか?
ウィグルはトルコ語を話すと有名なのですが、ウィグルは民族??それとも人種??どちらでしょうか??

最後にネストリウス派とトルコの当時の宗教の箇所で書かれていましたが、この宗派はキリストにとって異端だと聞きましたが、なぜ異端なのでしょうか?また、キリスト教がアジアに普及したとはあまり聞かないのですが、なぜこの宗派はアジアにまで広まったのでしょうか?

補足日時:2008/02/26 20:24
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結局トルコ人というのは、何民族なのでしょうか?


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→ そもそも そういう質問をする段階で、回答を得られないのがトルコ人であります。民族という概念自体が、この100年か200年くらいの概念で、「トルコ」だとか「チュルク」と言われている集団は2000年くらいの間存在しているのですから。

彼らの独自の宗教
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→ 遊牧民的には テングリ思想とかあったようです。

モンゴル帝国と長いその後
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同じシリーズで オスマン帝国500年の平和 というのが 発行される予定です。そこは トルコがメインになるかと。

トルコとチュルク
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ニッポン と ニホンみたいなものです。
あるいは エゲレス と イギリス。
モンゴル人の帝国がインドでは ムガル帝国。
そんな 日本語で正確に全部が表現できるわけではないし、時代によって発音も変わる
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