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西太后もオスマン皇帝も憲法や議会の設置を極端に拒絶し亡国していったのに、明治天皇が憲法や帝国議会の設置を割とすんなり受け入れた理由はなんでしょう?

A 回答 (7件)

それこそ天皇家が天皇として生き延び続けた最大の理由。



幕末は、光格天皇から孝明天皇まで珍しく主張する天皇が続いたが、これは世界水準で見れば幕府の軍事力が弱体化する中で、欧米列強のアジア進出が本格化し、その軍艦が日本近海を脅かし始めたことに対し、建前的には外交権を保持していた朝廷が幕政に懸念を持ち始めていたことを意味していたのだろう。

その点、明治天皇は、即位時はまだ少年だったこともあるが、摂関時代以降の伝統を踏襲することで、主権を実質的に放棄した象徴天皇として振る舞い、以後の天皇の範を示したということになるだろう。

天皇家には、天皇が出しゃばり過ぎて南北朝の動乱と云う日本史上未曽有の大混乱を引き起こした後醍醐天皇という悪しき例が重くのしかかっているはずだ。
おそらく後醍醐天皇のような人物が平安時代以降に続出していたら、天皇家そのものも国民に見放され、天皇家と云うポジションを失っていたのではないだろうか。
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立憲君主制は、実際の所「将軍や関白に政治運用を任せる政治形態とあまり違わないから」です。



西太后もオスマン皇帝も絶対君主で「朕こそ国家」という立場で居た方々です。だから国家権力から降りる、他人に任せる、というのはどう考えても受け入れられなかった、といえます。

しかし、天皇は鎌倉幕府以後、800年ぐらい「天皇が直接権力を差配しない」という方式でやってきていて、立憲君主制も立場的には同じである、と見抜いたはずです。

特に、影響が大きかったのは明治維新の直前に起こったアメリカ南北戦争で制は、実際の所「将軍や関白に政治運用を任せる政治形態とあまり違わないから」です。

西太后もオスマン皇帝も絶対君主で「朕こそ国家」という立場で居た方々です。だから国家権力から降りる、他人に任せる、というのはどう考えても受け入れられなかった、といえます。

しかし、天皇は鎌倉幕府以後、800年ぐらい「天皇が直接権力を差配しない」という方式でやってきていて、立憲君主制も立場的には同じである、と見抜いたはずです。

また、徳川幕府も開国と西洋文明の受け入れについて考えていて、その方式は「徳川内閣と各藩主による国会運営」だったようで、幕府側も「西洋化とは民主化である」と考えていたのは明白です。

また天皇自身、民主化の意思は強かったようで、ご過剰の御誓文の最初に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」と宣言しています。

したがって、急造した維新政府はとりあえず天皇親政の形をとりつつ「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という立憲民主制への意向を明治天皇自身が進めたのは「立憲君主制は今までの将軍制度と天皇の地位の違いは無い」と理解していたからだといえます。

実際、戦後の日本国憲法でも、天皇の権能や地位は鎌倉幕府以来の日本の統治システムとほとんど違いはありません。

天皇の国事とされている内容のうち、内閣総理大臣など三権の長を天皇が任命したり、法律発布・条約批准を天皇の名で行うこと、国会召集を天皇の名で行う事などは、天皇が拒否しようと思えばできるものです。

これはたとえば源頼朝や徳川の各将軍を任命しないこともできた、というのと同様で、任命しないことは可能だが、任命しなければ日本国自体が内乱になって、天皇の地位も危ない、ということになるわけです。これは現代でも実質的には同じです。


名誉職的な立ち位置で「政治に参加」しつつ、実態的な権限を施行しようと思えばできる、という微妙な地位を今後も確保できると明治天皇が考えていたから、民主化を推進する立場を取れたのです。
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諸外国に「近代国家」アピールをする必要があったからですね。


「やっぱ、徳川幕府は考えが古いよね!天皇家が主導する国家は、近代国家だから、貴方たちと同じだよ!仲良くしようぜ!」という。
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性格とか、賢さ、時の実力によるだけです。


鎖国開けですから、世界列強に対抗するのに必要と考えたのでしょう。

帝国憲法では、天皇と国民は対等として議会設置でしたが、
建前で、神国日本の天皇支配の形なら、不満は無いでしょう。
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もともと国政を牛耳っていた人ともともとお飾りだった人の違いです。

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文久遣欧使節やいわゆる岩倉使節団やその他の留学生等々の視察や経験から


そういった制度も文明化には必要だという理解が有ったからだろうと

それもこれも、清帝国の零落をみて現実路線に踏み切ったからだろうと

経験に学ぶということかな
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明治天皇が憲法や議会制度の導入を受け入れた理由には、いくつかの要因があります。



まず、明治維新によって江戸幕府が倒れ、新しい政治体制が必要になったことが挙げられます。明治政府は、西洋諸国の制度を参考にしながら、日本の政治制度を近代化する必要性を認識していました。憲法や議会制度の導入は、その一環として考えられたものです。

また、明治政府は、外交上の理由からも憲法や議会制度の導入を望んでいました。当時、西洋諸国との交流が盛んになっており、国際的な立場を強化するためには、憲法や議会制度が必要だと考えられたのです。

さらに、明治天皇自身が、国家の近代化や民主化を進めることに熱心だったことも理由の一つです。明治天皇は、新しい時代に必要な改革を進めることに熱心であり、憲法や議会制度の導入にも前向きな姿勢を示していました。

以上のような要因が重なり、明治政府が憲法や議会制度の導入を進めることができたと考えられます。
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