アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

加賀藩は何故百万石もあったのですか?

A 回答 (7件)

幕府の方針。

遠距離には、広い領地を持つ大名を配置。ただし、幕府の要職にはつかせない。
他の百万石クラスの大名がお家断絶になったり、領土を削られたりした中、前田家は領主がアホを装って、そういう幕府の攻撃をかわしたと伝わってます。
 実質百万石を越える国でも、対外的には30万石ぐらいしかないと誤魔化してる中、加賀は馬鹿正直にうちは百万石だぞーって自慢しただけ。やはりアホな領主だったかな。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/07/18 15:18

藩祖である前田利家は、秀吉の親友でした。



一時は敵対したこともありましたが、
信用出来る人物ということで、大きな
領土を与えられます。

成り上がりの秀吉には、信用出来る人間が
少なかったのです。

それで秀吉は、家康に対抗出来る人物として
利家を、五大老・秀頼の傅役にしました。

その加賀藩が、家康の味方をして、天下を
とらせた。

徳川も、強いことは言えないわけです。

それでも、因縁をつけて、なんとか取りつぶし、
を図りましたが、巧みな加賀藩の外交技術に
より、躱されました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

今は皇居となった旧江戸城天守閣建造予定地だった所に、加賀藩前田家普請の石垣が残っております。

お礼日時:2018/07/18 15:16

そうだね

    • good
    • 0
この回答へのお礼

はい

お礼日時:2018/07/18 15:08

第一の理由は加賀藩は外様藩だったことです。


関ヶ原の時に味方に付いた他の大名と同様、大封がふるまわれたわけです。

第二の理由は豊臣政権における前田家の地位です。
秀吉を筆頭とし、秀長・家康に次ぐ第三の地位を占めていたのが利家です。
秀吉死後はこれが複雑になったので一言では説明できませんが、
ざっくり言うと家康が権威の第一人者となり(実務の第一人者は三成)、前田家は利家死後若干地盤沈下を起こしましたがそれでも「五大老」という五位以内の地位を占めていました。

それに関ヶ原前後の駆け引きがあって、加賀百万石となりました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

曲者ですね。

お礼日時:2018/07/18 15:08

秀吉は、秀頼政権下での徳川家康対抗馬として前田利家を秀頼の後見として構想していました。

この時既に100万石でした。
しかし、秀吉の死去後、利家も8ヶ月後に死去してしまいます。
秀吉の構想はここで潰えてしまいます。

秀吉死去後、石田三成派と反石田三成派の対立につけこむように徳川家康が勢力を伸ばし政権を奪いにかかります。
前田氏は、両派が融和するように動いたのですが、石田三成派は、勝手に前田氏を盟主(石田三成派=反徳川家康派)と仰ぐような姿勢をとります。
当然のことながら、秀頼の後見だった前田家も徳川家康に狙われることになりますが、徳川に臣従する決断を利家の子の前田利長が下します。
非常に難しい決断だったようです。
また、利長は身だしなみをわざと悪く装い、出来ない大名を装ったという話もあります。

結果、関ヶ原でも徳川家に臣従し100万石を安堵しました。
伊達政宗はこの関が原の時に100万石となるチャンスを家康からもらったのですが、軍事的に失敗してしまい微増に留まっていますね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

智慧者だったんですね!

お礼日時:2018/07/18 15:06

一言でいえば、成り行きですね。


前田家は、秀吉の柴田討伐軍に1度は負けたものの、その直後柴田陣営から秀吉に鞍替えして領地を減らされることを免れた。
その後、いくつも戦を経験したが、全て勝者の陣営にいた。
そして、武功を認められ幾度が加増された結果、いつの間にか100万石を超えていたというところでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

風見鶏ですね!

お礼日時:2018/07/18 15:03

秀吉とお友達の関係にあったからでしょう...サルとイヌ

    • good
    • 0
この回答へのお礼

徳川幕府からすれば敵でしょ!

お礼日時:2018/07/18 15:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!