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絶対と直観の関係なんですがご存知の方いらっしゃいますか。

A 回答 (20件中1~10件)

自力も他力もない状態において絶対がなくなり強弱の粒にひたされた関係。



西田幾多郎「善の研究」「自覚について」
井上克人「露現と覆蔵」
フリッチョフ・カプラ「タオ自然学」
木田元「反哲学史」
・・・・いちいち教えるのも教わるのもめんどくさいよね。これくらいにしとくね。

この回答への補足

この日本語の直観という言葉はもともとは仏教用語らしいんですがその辺のことをご存知ありませんか?

補足日時:2008/03/01 17:22
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この回答へのお礼

>>自力も他力もない状態において絶対がなくなり強弱の粒にひたされた関係。

難しいですね。
私の拙い頭ではいまひとつ理解できないのですがもう少し噛み砕いて言うとどんな感じですか?

お礼日時:2008/03/01 17:35

雨がふってくると


雨を知らないアフリカのこどものような気持ちになってみたらいいが、
あなたはすでにじんわりと雨だと思い、雨と知り、
雨音も聞こえ それを雨音と知るなかで
狂人か赤子のようにこの物質の気配だけを 分別なく浴びるに至るなら
万象の あなたに対象となるものは 何の姿で 何の道理で
有るものか 無いものか、
強い物質と 弱い物質が 交差して行き渡り、
模様なのか 踊りなのか わからず、
ただそれはそのようなものと識る。

挙げた本は、禅宗のこと、真宗のこと、道教のこと、西洋哲学の精神現象学のことが、かたよりなく研究されている本です。

この回答への補足

ほんとに一生懸命回答したとしても何の得もありませんし、質問者を選ばないと逆に痛い目に逢いますからね。

補足日時:2008/03/02 12:52
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この回答へのお礼

ものごとをじかに触れる、それが絶対的把握である、といっところですか。

お礼日時:2008/03/02 12:23

>ものごとをじかに触れる、それが絶対的把握である、といっところですか。



ちがいますよ。
toolbox33さん。
絶対がどこかにある気がするのですか? 絶対的というものが。

この回答への補足

>>絶対がどこかにある気がするのですか? 絶対的というものが。

だったら回答になってないですね。

私の言う絶対とは相対に対する絶対ですので。

補足日時:2008/03/02 17:42
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この回答へのお礼

さらに言えば完全や実無限と言ってもよいです。

いずれにしろ直観と絶対の関係を質問しているわけですから宜しくお願いしますよ。

お礼日時:2008/03/02 18:00

おっと答え忘れました。


質問者は選んでいますよ。わたし自身の答え方もです。

>絶対と直観の関係なんですが.....
との命題の部分そのものに四つの命題がすっぽかされているのですから、
何気なしに答える回答者がいるとも思えませんが。

>私の言う絶対とは相対に対する絶対ですので。

だからこそ相対と直観の関係を定義すれば済むということで
わたしはすでに1でそのように答えさせていただきました。
また、わたしの理解する直観は、対認識における客観判断過程に対する概念ですので、
1の答えでは、絶対と対認識における客観判断過程の関係、相対と対認識における客観判断過程の関係を
同時にみとめることができます。
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この回答へのお礼

あなたの場合0,1しか知らないのに10を語ろうとするから墓穴を掘るんですよ。
もう少し謙虚になられたら如何でしょう。

お礼日時:2008/04/05 22:17

ご質問が



http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3701178.html

の質問の脈絡にあるものでしたら、この場合において「直観」とは絶対的なものです。また、現象の背後に実在する絶対的なものは、直観によってしか把握することはできません。

これで回答になっているでしょうか。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3701178.html

この回答への補足

「真の直観とは事物に対して視点をとる代わりに、事物それ自体の中に身を置き、既成の概念を捨てて、いわば符号なしに、事物の絶対的把握に到達しようとするものといえる。」
                <福居 純>

でよろしいでしょうか。

補足日時:2008/03/05 22:37
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 絶対は 想定上の概念です。

まぼろしです。まぼろしとして 一般に――それこそ絶対的に―― 想定され得ます。相対の世界を超えたところという定義です。

 この世の経験世界を超えた絶対は その想定からはさらに この相対を あるいは覆うかも知れないし また 包んだり含んだりするものであるかも知れない。
 そうなると わづかな接点を いわゆる直観に 求めるという動きも出て来ます。人間のそういうくせなのでしょう。想定がある限りで この癖も 一応 認められるはづです。
 けれども 経験合理性にもとづき推論している最中に この直観が 現われないとも限らない。あるかも知れないし ないかも知れない。というのが 絶対の問題なのでしょうね。
 
 つまりは 別の観点から言えば 絶対は すべて 人間の しかも一人ひとり個人それぞれの主観のうちにおさまるというものです。
 この絶対ないしその直観を どう活用すればよいのか。
 おそらく直接の活用は ないはづです。そして主観が 考えるにしろ行動するにしろ 活動するとき おそらく その直観は 間接的に・ということはあたかも主観を支えて推進するかのように はたらくといった事態でないかと思います。そしてもちろん 人それぞれです。
 あるいは 自由ということの別名であるかも知れません。その絶対ないし直観にもとづいた表現は これも自由であり 自由なのですが その答責性をも 自由にその表現者が担うというかっこうです。
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確信は有無を言わせない


有無を言わせない直感
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そして理性は善く導かれなければならない

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絶対を確信するのではない

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太陽や地球といったものは人間にとって唯一絶対のものであり


その象徴性の意味するところは認識の深さによって度合いは異なり
言われれば誰にでも解ることですが
その存在が巨大で当たり前すぎて聞き流してさえしまう

確信はより直接的に個に作用する

この回答への補足

どうせ暇つぶしに質問しているのだから暇つぶしに書き込みしてやれということですか。

補足日時:2008/03/22 15:35
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