出産前後の痔にはご注意!

 「諸行無常」とは、無智の私が俗な言い方をすれば「すべてのものは流動的なものであって、変化し続ける」というようなことだと理解しています。この諸行無常ということについての質問です。

(1)大乗非仏説という立場から見たとき「諸行無常」という教えは、お釈迦様の教えであるといえますか??経典的論拠も示していただけると助かります。

(2)もし、お釈迦様の教えであるというのであれば、諸行無常は仏教に関しては例外ですか??それとも、仏教も諸行無常なのでしょうか??こちらも、教典的な論拠を示していただけると助かります。
 
 わかりにくい文章とは思いますが、どうぞ文意を読み取っていただきたく存じます。回答よろしくお願いします。

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A 回答 (16件中1~10件)

<<「変化する」というのは、あくまで意図的に「変化させる」のではなく、なんとなく「変化しちゃう」という意味です。

>>



<<「出来る限り変えないようにしようと言う努力を積み重ねている、テーラワーダの考え方に賛同しています。」大乗とて同じ立場です。>>

それは知りませんでしたw

…分裂直後のお坊様方の戒律や瞑想などの実践と今の(多くの)大乗の方々との実践はどのぐらい変化しているのでしょう。私には知る機会がないですが…。

「大乗とて同じ立場」と言うことは、大乗にも分裂後に、「ここまではこのようなものをこのように変化させたがこの先はこのような方法を持って変化させないようにする」と言うような事を具体的に提唱し、その努力が垣間見れるものが数多く残っているのでしょうね。

大乗に関してはひどく無知なのでそのようなものに出会っていませんでした。

<<私もそう思います。教科書と評されるだけあって、典拠主義にもとづいた名著です。>>

ですよね。このあくまで理性的な態度には読むたびに感動させられます。経典自体も多いし、言葉の意味も結構狭くなっているので解釈の幅が狭く、伝わりやすいのがパーリ語の三蔵の優れた点の一つだと感じています。
 
<<これについては、保守派の上座部と進歩的な大衆部の「根本分裂」を彷彿とさせます。前者がテーラワーダ仏教、後者が大乗仏教へとなって行きます。このときの根本分裂も、それくらいの差異から始まったと考えられます。>>

私も最初はわずかな差異だったと憶測しています。しかしどこかで変化の許容の歯止めをかけなければ、際限がないんですよね。始めに禁止していたものさえ入り込んでしまい、マ逆のものになる可能性も出てくる。

初期の大乗の方々も個人的には賞賛に値する実践をしていたのではないかと憶測しています。今も賞賛に当たる方々は多々いらっしゃるでしょうが、実践を伴わず、説かず、自分の寺の教えすら守らぬ…在家にすらあたらない生臭坊主が私の目にするところに多く存し、本当に残念で仕方ありません。

一応兄弟のようなものですから心配はしているのですが…

<<それが、大乗の始まりであると思います。>>

そうなんでしょうか。以前の教えを否定するものすらあるきがします。

<<「何かを「仏法」とするなら仏陀が語られたものと参照し、論理的理性的道徳的に矛盾がない、ことが条件にあった気がします。」もちろんその通りですね。>>

本当に大事なことですよね。
道徳的論理的理性的現実的実践的で矛盾がないことが仏法の核だと感じています。

<<これについても、仏教の歴史から言えば最晩年に成立を見た「密教」でさえ、お釈迦様在世の時からパリッタ(防護呪)が認められていたことからも、当時からその芽生えがあったものと考えられます。>>

「道徳的・論理的・理性的・現実的・実践的・矛盾がない」この範囲を越えなければ問題のないもでしょうね。越えなければ。

<<そういった意味では、誰かが意図的に変えたわけじゃなくて変化しちゃうものなんじゃないかと思うんですよね。>>

パーリ語の経典も変わらぬように努力しているが大きな歴史の波によって経典事態が全てなくなったり(可能性は低いですが)、具体的な実践方法を伝えてきた方々がいちど全て途絶えてしまったり(比丘尼も独特な伝承などがあったかもしれませんね)、言葉の問題で(パーリ語自体は単語の意味が狭く、同じ事を幾多の言葉を使って喩えたりしていますのでわずかなものだと憶測しますが)解釈が変わったり。パーリ語自体読める人間がいなくなったり。文化が古代と大きく変容し、喩えなどの解釈が困難になったり…そのようなこともあるでしょうね。

なんにせよ自分の可能な限りの理性を持って数多ある教えから、納得がいくものを探して、噛み砕いて、実践して確かめていき、それを真理と結びつけず、「この範囲でこうだったからこう思う」と真理の護持の態度で「他は全て間違いだ」と言う態度はつつしみ、挑む。それがパーリ語仏典の示すところの「信」の持ち方だとおもいます。

いろいろな信があるとは思いますが、共に精進いたしましょう。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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この回答へのお礼

 何度も、心からの回答ありがとうございます。
>>実践はどのぐらい変化しているのでしょう。私には知る機会がないですが
 私はテーラワーダ仏教の方と交流がありますが、大乗仏教に関しても非常に理解のある方が多いですね。瞑想法の具体的な差は私も勉強不足ありますが、大乗仏教でいう『七佛通戒偈』は『ダンマパタ』「すべての悪しきことをなさず、善い事を行い、自己の心を清めること、これが諸仏の教えである」の一句ですが、大乗ひいては日本の仏教にまで大きな影響を与えています。一休さんの書もありますよ。
>>具体的に提唱し、その努力が垣間見れるものが数多く残っているのでしょうね。
 はい。存在します。テーラワーダ仏教の方からは、遅い!といわれるかもしれませんが、中国においてはお経を釈尊の言葉に近い読み方にしようという努力がなされていました。ただ、中国語訳大乗経典というものは成立した後ですが、当時の方々の「お釈迦様の教えを変えたくない」という思いは垣間見ることができます。また、お釈迦様がのお説教には節がついていたそうです。「ガータ」伽陀と音写されますが、その流れは日本にも伝わり、浄土真宗には節段という形で残っています。
 どの宗派でもお釈迦様の言葉を変えずに伝えたいという思いはもっているはずです。それがなければ、仏教じゃないといえるかもしれません。
>>伝わりやすいのがパーリ語の三蔵の優れた点の一つだと感じています。
 私もそういった魅力は感じていますし、勉強させていただいています。
>>在家にすらあたらない生臭坊主が私の目にするところに多く存し、本当に残念で仕方ありません。
 耳の痛い話です。私自身がそのような一人かと思います。
>>「道徳的・論理的・理性的・現実的・実践的・矛盾がない」この範囲を越えなければ問題のないもでしょうね。越えなければ。
 含みがありますね。確かに、大乗仏教はそういわざる終えないところも多々あります。その辺はどうぞご容赦ください。
>>「他は全て間違いだ」と言う態度はつつしみ、挑む。
 仏教者として見習うべき態度であると思います。その度量の大きさが、仏教の大きな魅力だと思いますよ。
>>いろいろな信があるとは思いますが、共に精進いたしましょう。
>>~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 ありがとうございました。
 合掌 南無阿弥陀佛

お礼日時:2008/04/06 16:39

 信仰類型論に関心があるというのも 諸行無常ということで・・・。

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>gooは、同じ土俵で論じてくれない方も多かったりするので


私もそうです(笑)いろんな人に迷惑かけてます。

何が正統なのか?

結局、キリスト教も仏教も否定した私は
人間を尺度に持ってきたのかも知れません。

ただ、人間が理性的で、好き勝手に宗教を選んで
つくり変えるほどの絶対の存在ではないことは
言っておく必要があると思います。

宗教が変わるのは、人間が変えるからなのでしょうか。
宗教そのものが変わるのでしょうか。

後者の意見はおかしいですが、あえてそんなことを考えてみました。
たしか毘盧遮那仏は法身で、ダルマを仏の形に表現したものですよね。

こう表現すれば法そのものが人を導く為に変わったといっても
大丈夫かなという気もします。

神も変わるでしょう。神自身が。

正当か異端かそれを判定する基準が、完全に人間だとは
いえないと思うし、いいたくもないです。

神や法が裁くといった考えもどこかに入れておきたいです。

とはいえ、宗教の問題を考えるのは疲れました。
みなさん、いろいろと申し訳ありませんでした。
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この回答へのお礼

 何度も何度もすみません。回答ありがとうございます。
>>私もそうです(笑)いろんな人に迷惑かけてます。
あら、そうなんですか。ここではそんなことはないですよ。
>>ただ、人間が理性的で、好き勝手に宗教を選んでつくり変えるほどの絶対の存在ではないことは言っておく必要があると思います。
 私もそのように思います。
>>宗教が変わるのは、人間が変えるからなのでしょうか。宗教そのものが変わるのでしょうか。
 前者でありながら、後者でもあるってことですかね。私が思う「諸行無常」は、変化はする(変化しちゃう)ものであって、変化させるということではありません。宗教というものに関してもそうです。

>>毘盧遮那仏は法身で、ダルマを仏の形に表現したものですよね。こう表現すれば法そのものが人を導く為に変わったといっても大丈夫かなという気もします。
 そうですね。

>>正当か異端かそれを判定する基準が、完全に人間だとはいえないと思うし、いいたくもないです。神や法が裁くといった考えもどこかに入れておきたいです。
 なるほど。仏教で言えば、悪因悪果ということでしょうかね。

>>とはいえ、宗教の問題を考えるのは疲れました。
>>みなさん、いろいろと申し訳ありませんでした。
 何度もお世話になりました。ありがとうございます。回答参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/04/06 13:36

 No.4&6&9です。

baka-hageさん 早速 《また何かありました》。
 議論は 重大ですが 手短かに述べます。
(1) 《脱・法爾自然》の名称だけの問題。
 自分の主観の中に認識した因果関係を基にしてとらえた法爾自然 これは 限定的な内容のものです。しかも歴史事象が この主観から逸脱していると見ざるを得ない場合 これを 仮りに《脱・法爾自然》と言いました。ほんとうは どこまでも 法爾自然であるしかないです。われわれには分からないだけです。

 ですが
(2)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・因果がわからないからこそ、仏教は輪廻などの思想をインドの宗教から受け継いだと考えられます。それを、「脱自然法爾」という表現にしてしまうというのは、浄土教の人間中でも真宗の人間にはなんとも言えません。(そこはわかってくださいね)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と簡単に言われると 穏やかではありません。名称の問題は もう済みました。つまり 浄土教のものでなくても 問題です。しかも これは わたしが引き起こしたのであるにもかかわらずです。
 ですが このように《輪廻》を出されると ANo.1でyukiyama20さんが取り上げた議論が生きて来ます。それにもとづき 反対を唱えざるを得ません。
 しかも この問題は
 
(3) 《絶対》の問題
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ただ、キリスト教の「神」に使う絶対の意味と、仏教の「法」に使う絶対の意味とは異なる部分もおおいにありますけどね。まぁ、その辺の差異についてはもうご存知でしょうし・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と絡み合っています。わたしは 《絶対》の概念が 人によって・時代によって変わるというようなことは聞いたことがありません。また 《ご存知》ではないです。
 要するに われわれ凡夫には分からないゆえ 自然法爾を《絶対》として想定し それに対する心のささやかな志向性として《信じる》というなぞの経験が生じるのだと思います。
 分からないけれども 信じているのです。分からなくても かまわないという立ち場です。それを《輪廻》だなどと言われても へのかっぱです。つまり 前世・来世にかんする判断は 何の普遍的な効力も持ちません。一定の範囲の地域で一定の期間 通用したとしても ただの雰囲気だけのことです。
 もし この主題をめぐっても 分かるか分からないが 分からない領域として そこで《絶対》を持ち出すのでしたら そして そういう意味で輪廻と言うのでしたら これは 法爾自然の中に含まれます。その一部分・一側面を 輪廻というかたちででも 説明しうるかも知れないという恰好で 持ち出して来たものになります。
 でも 無理でしょうね。生まれ変わりというのは 経験事象です。それを非経験の法爾に当てはめるのは 矛盾です。人間を そのまま 法爾であると規定するのと同じです。わづかに 現人神(応身仏)として その当てはまる場合がありうるから いいだろうと言う人がいるのかも知れませんが。
 ですから 問題は 広い範囲にわたり いくつかの主題と 構造を為すようにして 絡まっています。これを 《法に関する教えの多様性》という観点から いま一度 整理してお進みくださるようお願いいたしたいと存じますが いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

 うーん。言葉足らずだったかな。というか、文章の区切り方が悪かったかな。
>>(1) 《脱・法爾自然》の名称だけの問題。
 僕が言いたかったのは、brageloneさんの「脱・法爾自然」論は前回の質問においてご披露いただき、なんとなく了解しています。けど、浄土真宗だと「自然法爾だぜ」っていうわけですから、対抗したくなっちゃうわぁ!笑ってくらいです。お気に触ったならあしからず。

>>ただ、キリスト教の「神」に使う絶対の意味と、仏教の「法」に使う絶対の意味とは異なる部分もおおいにありますけどね
 これは、いわれると確かに言葉はおかしい。「絶対」が違うというより、「絶対」を使う対象の差異ってことです。

>>分からないけれども 信じているのです。分からなくても かまわないという立ち場です。それを《輪廻》だなどと言われても へのかっぱです 
 これについては、高橋尚夫氏の説を基に説明しますと、仏教における自業自得という説は、「私はいいことしかしてないのに、何でこんな目に」なんてときには矛盾を生じさせることがあります。お釈迦様は輪廻の主体となるアートマンには否定的でしたが、倫理生活を営む根拠として輪廻思想を活用します。この輪廻思想をもって、前述のような矛盾を合理的に説明するために、三世因果を説いたとされています。(雑な説明ですが、許してね。)
 だから、あくまで定説と呼ばれていることの確認で、そんな深い意味はないの。泣
>>ですから 問題は 広い範囲にわたり いくつかの主題と 構造を為すようにして 絡まっています。
 もちろんそうでしょう。
>>これを 《法に関する教えの多様性》という観点から いま一度 整理してお進みくださるようお願いいたしたいと存じますが いかがでしょうか。
 がんばってみます。何度も感謝いたします。

お礼日時:2008/04/06 12:57

<<私はあなたのおっしゃる法則を「理解させるための教え」であると考えています。

>>

でしょうねw

<<ご存知でしょうがお釈迦様はお話しする相手のよってその相手のあった最善の方法を持って理解させる方法を選択されたからです。だからこそ、数多くの経典類が生み出された考えます。>>

ですね。パーリ語の三蔵にもびっくりするぐらいの経典がありますね。

<<「次の瞬間に私がアンパンに変わったりwありえませんよねw」これについては縁起の法則からいえば、絶対ないとは言えません。なにかが原因となって、そういった結果を生み出すことはあるかもしれません。あくまで、法則はそこにあるものであって、どのような結果を生み出すかは選択しだいということだと思いますよ。だからこそ、善因善果・悪因悪果と同じ法則に則ったとしても、選択しだいでは違う結果を得るわけですから。>>

ビックリw

今のところ私がアンパンになる原因が見出せませんが…一般的な理解では可能性は限りなく少ないと判断するのが理性的な態度でしょうね。

言葉の意味の捉え方などのいろいろな問題があるでしょうから、絶対無理とは言いませんが…www

<<まったくもってそのとおりですね。しかし、あなたが言うのは「法則」を理解させるための教えはお釈迦様は相手のよって変えていたはずです。そういった「仏教」は現代人に合わせて変化することはないでしょうか??もしくは無くなったりしないでしょうか??>>

その能力がある人間がいるのかと言う問題になると思います。ブッダと同格の人間がいれば可能でしょうが、いないのであれば難しいと思います。いないのならば仏陀が説いたと思われるものの中から、理性的かつ論理的道徳的なものを読み取り、実際にどうなのか自ら観るより他にないのが現状だと、私は考えています。

このような考えですので、出来る限り変えないようにしようと言う努力を積み重ねている、テーラワーダの考え方に賛同しています。

ブッダと同格の能力もないままに、変化させることをを認める人々の教えは時代と共にいろいろ変化していくでしょうね。ときには元の教えと逆さまな教えとなることもあるでしょう。

もちろんこの地球上で人類がなくなれば地球上ではなくなるでしょうし、仏教が暴力によって抹殺されてしまうこともあるでしょう。

<<『仏法 自然の法則と生きることの価値』かと思いますが、この書はテーラワーダ仏教の教科書といえるでしょう。>>

ですね。家宝ですw

<<もう一つ評価すべき点は、タイの仏教においては仏教自体は戒律や修行というものは自身のためにやるものであるという個人主義的な意識が強い中で、社会科学的な視点をもってタイの仏教を理論展開しているところです。ここにおいても、変化が存在していますね??これは、法則が変わったということですか??いいえ、法則を理解させる方法が変化したということであると思います。>>

変化しているように思うのですね。ほとんどがパーリ語の三蔵の引用によってまとめられているこの書籍をもっと読み込んでみて欲しいというのが私の思いです。

そもそも仏教は社会とのかかわりを絶つものではないでしょう。もともとその視点はパーリ語の三蔵の中に示されていると、私は感じます。

サンガも人間の集いですから、少々の文化的側面も入り込むこともあるでしょう。それに対して意見をする比丘も出ることもあるでしょう。

だからと言って仏法を変えることは出来ないでしょう。

たとえ比丘・比丘尼が仏陀と同格の能力を持ったとしても、今までの仏法によって学び、その能力に至ったなら「恩師」たる仏陀の言葉を変えることはしないと思うのです。

ただその言葉「仏法」を元に、今目の前にいる人にわかりやすく試行錯誤することはあるでしょうね。

しかし、「仏法」に照らし合わせて間違っているものならば「思考錯誤し仏法として発言した言葉」は訂正しなければならないでしょうね。

<<この質問は、そういった仏教の変化ということに関して、経典類には記載されているのか??特にその中でも、今回は初期経典という限定をもって考えています。いかがでしょうか??>>

何かを「仏法」とするなら仏陀が語られたものと参照し、論理的理性的道徳的に矛盾がない、ことが条件にあった気がします。

この範囲になければたとえ私が語ったからとて信用するな。というような記述もあったと思います。
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この回答へのお礼

 再びの回答ありがとうございます。
>>一般的な理解では可能性は限りなく少ないと判断するのが理性的な態度でしょうね。
 たしかに。縁起というのは法則であって、結果は選択によっていろいろ変化するということです。あしからず。
>>その能力がある人間がいるのかと言う問題になると思います。
 「変化する」というのは、あくまで意図的に「変化させる」のではなく、なんとなく「変化しちゃう」という意味です。
>>出来る限り変えないようにしようと言う努力を積み重ねている、テーラワーダの考え方に賛同しています。
 大乗とて同じ立場です。
>>パーリ語の三蔵の引用によってまとめられているこの書籍をもっと読み込んでみて欲しいというのが私の思いです。
 私もそう思います。教科書と評されるだけあって、典拠主義にもとづいた名著です。 
>>仏教は社会とのかかわりを絶つものではないでしょう。もともとその視点はパーリ語の三蔵の中に示されていると、私は感じます。
>>サンガも人間の集いですから、少々の文化的側面も入り込むこともあるでしょう。それに対して意見をする比丘も出ることもあるでしょう。
 これについては、保守派の上座部と進歩的な大衆部の「根本分裂」を彷彿とさせます。前者がテーラワーダ仏教、後者が大乗仏教へとなって行きます。このときの根本分裂も、それくらいの差異から始まったと考えられます。

>>「恩師」たる仏陀の言葉を変えることはしないと思うのです。
>>ただその言葉「仏法」を元に、今目の前にいる人にわかりやすく試行錯誤することはあるでしょうね。
 それが、大乗の始まりであると思います。

>>何かを「仏法」とするなら仏陀が語られたものと参照し、論理的理性的道徳的に矛盾がない、ことが条件にあった気がします。
 もちろんその通りですね。
>>この範囲になければたとえ私が語ったからとて信用するな。というような記述もあったと思います。
 これについても、仏教の歴史から言えば最晩年に成立を見た「密教」でさえ、お釈迦様在世の時からパリッタ(防護呪)が認められていたことからも、当時からその芽生えがあったものと考えられます。

 そういった意味では、誰かが意図的に変えたわけじゃなくて変化しちゃうものなんじゃないかと思うんですよね。
 何はともあれ、長々お付き合いいただきありがとうございました。

お礼日時:2008/04/06 12:18

仏教の根本思想である因縁生起によれば釈尊が悟りをひらいてから初転法輪の後、法を説き続け、仏教が発展展開して大乗仏教や密教の発生はもちろん、極端な話オー○真理教なる邪教の出現にいたるのも必然であり、釈尊も梵天も全て承知していたはずです。

邪教の出現という弊害を考慮しても仏教が敷衍することの尊さにかえられなかったと理解できることが仏教の仏教たる所以でしょう。
たしかにダンマパーダにも出てきますが初期仏教における無常と、大乗仏教の説く諸行“無常”を同次元で論じるべきではなくても、大乗非仏説も当然、その必然性の束縛の範疇にあり、大乗の地位を決定付ける上で重要な役目を果たしたはずです。
大乗の大乗たる所以は釈尊があえて金口直説しなかったところに重要な意味があり、だからこそ仏教が自由に発展できたのです。いえ、釈尊はそのように自主的に展開させたかったが為にあえて述べなかったのでしょう。
ご質問の意図はそこにあるのではないでしょうか。

以上のことから大乗非仏説は常に大乗は釈尊の教えではないとする立場にあるのが大乗非仏説の仏教における役目ですから、
(1)諸行無常は釈尊の直接の教えではありません。

しかし、この主張も因縁生起の束縛から逃れることはできないので、
(2)諸行無常は仏教に関しても例外ではありません。正法も然り。

であるからこそ仏教は先に述べたように展開したのであり、仏教徒はこの展開をアビサンボーディに至る上での無常な必須要件(実相)であるととらえるべきではないでしょうか。

原典を遠い昔に読んで我流の解釈を崩しております。読みにくい文章、文意を読み取っていただきたく思います。

余談ですが、「絶対」ということは「絶対」に無いと同様でダルマにも実態は無い、無常も無常であるという図式が成り立つので、この発想は仏教的には無意味なことでも非常に哲学的であるといえます。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。つたない文章から文意を読み取っていただき感謝します。
>>釈尊はそのように自主的に展開させたかったが為にあえて述べなかったのでしょう。ご質問の意図はそこにあるのではないでしょうか。
 私のような大乗仏教を信仰するするものにとっては、そうあってほしい願いがあり、そういった意図で質問させていただきました。
>>(1)諸行無常は釈尊の直接の教えではありません。
というのは、
>>初期仏教における無常と、大乗仏教の説く諸行“無常”を同次元で論じるべきではなく
ということですね。

>>仏教徒はこの展開をアビサンボーディに至る上での無常な必須要件(実相)であるととらえるべきではないでしょうか。
なるほど。実相を感ずるということですね。

>>「絶対」ということは「絶対」に無いと同様でダルマにも実態は無い、無常も無常であるという図式が成り立つので、この発想は仏教的には無意味なことでも非常に哲学的であるといえます。
 信仰的視点と学問的な視点というわけ方でもいいんですかね。なんとなくわかります。

回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/04/06 09:20

すこし付け足しをしておきます。



大乗非仏説の立場、と言うと
大乗仏教はインチキってことですよね。

でも、そういう人たちは大体、
原始仏教は仏教だといいますよね。

お釈迦さんが言ったのは確かに仏教だろう。
しかし、経典をもとにした、それも明らかに後期に
作られた経典をもとにした仏教など仏教ではない…と。

大乗仏教の人は、阿弥陀仏に念仏することも
法華経がもっとも大事な経典であることも
お釈迦さんは言った。だから大乗は仏教だ。

ということにしてると思うのですが、
大乗非仏説の立場からすると、よくもまぁ、後付けを。となりますよね。

でも、「諸行無常」
無常についてはもうあれこれありましたのでそれはいいとして

仏教も変化するであろう。
もしそのことがお釈迦さんによって認められていたのであれば
やはり大乗非仏説はナンセンス。
大乗仏教は、はれて仏教である。ということになると思うのですが…。

ただ、大乗仏教の人にも聞きたかったのは
鎌倉新仏教のような伝統…宗教と
今後、数多くと登場しては消えていくではあろうが
中には残る新興宗教の仏教。今も熱心な活動をしている新興宗教がある。

そういったものも、立派に仏教となっていくのでしょうか?

つまり新興宗教の仏教を信じた人は
仏教徒なのですかね。

そうすると、今ある伝統的な宗教としての
仏教の権威も消えていくのではないでしょうか…。

これは個人的な私の関心ですが、仏教にも当てはまると思います。
もしも宗教が変化することを認めるのであれば
正統と異端なんて区別はナンセンスではないのか。

それでも正統が存在するならば、その人たちは何を根拠に
正統を名乗るのか…。

諸行無常といっておきながら、
自分たちは諸行無常では、ないのではないのか。
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この回答へのお礼

 何度もありがとうございます。しかも、私が次に用意していた質問を先に出されてしまったぁ。まぁ、誰もが思いつくようなことなんでしょう・・・。話を本題に戻します。
>>でも、「諸行無常」無常についてはもうあれこれありましたのでそれはいいとして
 私に合わせていただいたようで、感謝いたします。(gooは、同じ土俵で論じてくれない方も多かったりするので本当にありがとうございます。)
>>仏教も変化するであろう。もしそのことがお釈迦さんによって認められていたのであればやはり大乗非仏説はナンセンス。大乗仏教は、はれて仏教である。ということになると思うのですが…。
 そうなんですよ。おっしゃるとおり!!
>>それでも正統が存在するならば、その人たちは何を根拠に正統を名乗るのか…。
 それを、僕も聞きたかったんですよ。もちろん私自身も、テーラワーダ仏教や大乗非仏説の立場を否定しているということではありません。大乗も仏教であり、その正統を違う形でつたえているものだと思うんですよ。
 そうなると、何をもって正統とすべきか??ということになるんですよ。何だと思いますか??もちろんしっかりと分けて考えるというのも一つの方法だと思います。しかし、それだと大乗の側はしっくりこない。あちらを立てればこちらがたたずなんですよ。ご意見あれば聞かせていただきたい。

>>諸行無常といっておきながら、自分たちは諸行無常では、ないのではないのか。
 これについては、大乗仏教の立場から言えば、「三時思想」「法滅思想」がある以上、諸行無常だと思います。
 
 また、たわごとが増えましたが、お付き合いいいただいて感謝します。ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/05 16:21

 No.4&6です。

先走ります。

★ 法(この法は仏教で言うところの真如や真理であって、仏教ということではないと思います)は常に存在しているのでしょうね。(No.6お礼欄)
★ 「縁起の法則」を例に取れば、これ自体が変われば大変です。しかし、この縁起の法則を理解させるための教えは数々あります。(No.8お礼欄)
☆ この《法・法則・真理》を 《絶対》として想定するのが 一般だと思います。
 一元論です。また 経験思考を超えていますので 非対象かつ非思考なる或る種の体験です。つまり 信仰です。
 聖書は これを 擬人法で表現しました。いわゆる多神教は あくまで一元論の中の多面論です。またこれは おっしゃるところの《法に関する教えの多様性》にかかわるでしょう(後述)。
 シントウ(神道)その他の世界の神話は 《現人神・明つ神》を言いますが これは 上の多面のうちの一面神でしょう。
 キリスト信仰は 一元=つまり唯一神を想定し しかも これが 神の受肉として 現人神となったと表現しました。
 ブッディスムは もし 《法=絶対》説に立つのでしたら 一元=真如・真理のもとに 幾人かの明つ神として 人間なるブッダ(ブッダなる人間)が出たと言うのだと理解します。

★ 法則を理解させる方法が変化した(No.8お礼欄)
☆ ですから 《法=絶対》の順序を入れ替え しかも さらに説明方法を変えた思想が登場しました。つまり 無神論です。《絶対=無 /  無神 / 無記》というわけですが じつは《絶対》はどこまで行っても 非思考・非対象ですから これも 信仰なのです。神・仏を信じない ということは 無神・無つまりその非対象を信じるとは 言っていることになります。つまり 《法則を理解させる方法が変化した》だけの話です。
 以上が わたしの《信仰類型論》です。

★ あくまで、法則はそこにあるものであって、どのような結果を生み出すかは選択しだいということだと思いますよ。だからこそ、善因善果・悪因悪果と同じ法則に則ったとしても、選択しだいでは違う結果を得るわけですから。(No.8お礼欄)
☆ この法則にのっとった出来事がそこに起こったということなのでしょうが――東北地方の間引き・こけし・座敷わらしの話などを例にとれば―― われわれ凡夫には その因果関係が分からないことがあります。ので わたしは 仮りにこれを《脱・法爾自然》と言っていたのでした。
 早く先走りたいと思うのですが いかがでしょう。

★ タイの仏教においては・・・個人主義的な意識が強い中で、社会科学的な視点をもってタイの仏教を理論展開しているところです。
☆ 《社会科学的な視点を容れた仏教》なのでしょうか。《仏教からさらに社会科学へ発展しようとする思想形態》なのでしょうか。あまり聞きませんが 調べてみます。
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この回答へのお礼

 いつも長々お付き合いしていただいて、ありがとうございます。こうしてbrageloneさんといくつかの質問で意見を交換させいただいて、「難しいなぁ。」といってきましたが、最近わかりやすいですよ。
>>聖書は これを 擬人法で表現しました。いわゆる多神教は あくまで一元論の中の多面論です。またこれは おっしゃるところの《法に関する教えの多様性》にかかわるでしょう。
なるほど。宗学を中心に学んできた私にはなかった視点ですね。
 ただ、キリスト教の「神」に使う絶対の意味と、仏教の「法」に使う絶対の意味とは異なる部分もおおいにありますけどね。まぁ、その辺の差異についてはもうご存知でしょうし、テーマがずれますのでこの辺にさせていただきます。

>>無神・無つまりその非対象を信じるとは 言っていることになります。つまり 《法則を理解させる方法が変化した》だけの話です。
 なるほど。しばらく前に無宗教ということについてしばらく考えていたことがありまして、本当の無神論者・無宗教者は宗教者以上に宗教や神について真理について考えているもしくは知識がなくては成り立たないということにも通じますね。

>>われわれ凡夫には その因果関係が分からないことがあります。ので わたしは 仮りにこれを《脱・法爾自然》と言っていたのでした。
 これについては、因果がわからないからこそ、仏教は輪廻などの思想をインドの宗教から受け継いだと考えられます。それを、「脱自然法爾」という表現にしてしまうというのは、浄土教の人間中でも真宗の人間にはなんとも言えません。(そこはわかってくださいね)

>>《社会科学的な視点を容れた仏教》なのでしょうか。《仏教からさらに社会科学へ発展しようとする思想形態》なのでしょうか
 仏教にはもともと社会科学的な視点があるのかもしれませんよ。それも、一元論の多面性なんじゃないですかね?

 お付き合い感謝します。また何かありましたら、よろしくお願いします。

お礼日時:2008/04/05 11:31

こんにちは。





baka-hageさまは多分、仏教をなにか「もの」として捉えているように感じます。仏教は「法則」だと私は考えています。

法則が変わったら大変ですよねw
次の瞬間に私がアンパンに変わったりw
ありえませんよねw

科学も何もかも成り立たない。因果法則が成り立たない。
こうなってしまいますと、虚無主義になってしまいそうですね。

私は「法則」は存し、理性も道徳も成り立つと考えます

サンガ出版「仏法」を読んでみてください。

きっと何かもやのようなものが晴れると思いますよ。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
>>仏教は「法則」だと私は考えています。
私はあなたのおっしゃる法則を「理解させるための教え」であると考えています。
>>法則が変わったら大変ですよねw
もちろんです。「縁起の法則」を例に取れば、これ自体が変われば大変です。しかし、この縁起の法則を理解させるための教えは数々あります。なぜなら、ご存知でしょうがお釈迦様はお話しする相手のよってその相手のあった最善の方法を持って理解させる方法を選択されたからです。だからこそ、数多くの経典類が生み出された考えます。

>>次の瞬間に私がアンパンに変わったりwありえませんよねw
これについては縁起の法則からいえば、絶対ないとは言えません。なにかが原因となって、そういった結果を生み出すことはあるかもしれません。あくまで、法則はそこにあるものであって、どのような結果を生み出すかは選択しだいということだと思いますよ。だからこそ、善因善果・悪因悪果と同じ法則に則ったとしても、選択しだいでは違う結果を得るわけですから。
>>科学も何もかも成り立たない。因果法則が成り立たない。
>>私は「法則」は存し、理性も道徳も成り立つと考えます
まったくもってそのとおりですね。しかし、あなたが言うのは「法則」を理解させるための教えはお釈迦様は相手のよって変えていたはずです。そういった「仏教」は現代人に合わせて変化することはないでしょうか??もしくは無くなったりしないでしょうか??

>>サンガ出版「仏法」を読んでみてください。
『仏法 自然の法則と生きることの価値』かと思いますが、この書はテーラワーダ仏教の教科書といえるでしょう。もう一つ評価すべき点は、タイの仏教においては仏教自体は戒律や修行というものは自身のためにやるものであるという個人主義的な意識が強い中で、社会科学的な視点をもってタイの仏教を理論展開しているところです。
 ここにおいても、変化が存在していますね??これは、法則が変わったということですか??いいえ、法則を理解させる方法が変化したということであると思います。
 この質問は、そういった仏教の変化ということに関して、経典類には記載されているのか??特にその中でも、今回は初期経典という限定をもって考えています。いかがでしょうか??

 ながなが、たわごとを書き連ねましたが、回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/04 12:23

 No.4&6です。


 No.4において 参照の質問をまちがえました。あまり 内容が充実していないかも知れませんが かかげます。次のほうです。

《Q: 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html

 でも 参照し得ても 最初のいくつかのみです。(出すべきではなかったとも思い直します)。
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この回答へのお礼

 わかりました。ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/04 11:14

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Q「諸行無常」

平家物語の祇園精舎の鐘の声から始まる 有名な1文
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き・・・」とあります。
諸行無常は
「この現実の世界のあらゆる事物は,種々の直接的・間接的原因や条件によってつくりだされたもので,絶えず変化し続け,決して永遠のものではないということ。これに諸法無我,涅槃寂静 (ねはんじゃくじょう) を加えて三法印 (さんぼういん) といい,仏教の根本説をなす。」ブリタニカ大辞典より引用
とあります。
絶えず変化をする永遠ではないものの響きってどういう意味なんでしょうか?
鐘の音が永遠ではない響き、ととらえているという意味なんでしょうか?
鐘の音が永遠ではない響き?
音はすべて永遠ではないしなぁ。前に学校で習ったんだろうけど、忘れてしまって。
どなたか説明をお願いします。
カテが違う場合には他へ移動します。

Aベストアンサー

文学の技巧で、「無常」という精神状態を「鐘の音」を並列させているのです。例えば「悲劇の起こった夜には雨が降っていた。雨がふるたびに、あの悲劇を思い出す…。」のような技巧です。悲劇が晴れた昼間に起こることは、現実社会で起こることは決して不自然ではありません。しかし、ある種の文学の世界では悲劇は「夜」「嵐」「崖」などを背景にして描かれることが多いのです。

もちろん逆に、晴れた昼間のお花畑で起こった悲劇だとすると、背景と悲劇の落差を描くことになります。

平家物語の場合は、鐘の音が変化したというより、平家が栄華を極めたが、それも長くは続かなかったという回想の場面に鐘の音を合わせたのです。作者にとっては、寂しそうなで悲しそうな音色に聞こえたのでしょう。

Q平家物語の諸行無常という意味?!

ある本で読んだのですが「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の意味ですが鐘の声はいつも同じ声であるがそれを聴く人間が常に変化して色んな音に聞こえるという解説がありました。つまり情報は変化せず常に一定で人間がどんどん変化するのだという意味らしいです。
私は万物(情報)がたえず変化していると解釈していたのですが。。どちらの解釈が正しいのでしょうか??

Aベストアンサー

 諸行無常というのはあくまで仏教用語で、物でも地位でも何にしても普遍なものなど何もない。だから執着を捨てなさい。執着を捨てることこそ解脱への道ですよ、というある意味で仏教の基本であり、究極の教えとも言える言葉です。
 平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とは”祇園精舎の荘厳な鐘の音には、(その雰囲気も含め)聞くものに、世俗に執着している身をちっぽけな存在に感じさせる力(響き)がある”という意味に解するのが正しいかと思います。
 序文全体でこの「諸行無常」、物欲・権力欲にとりつかれることの愚かしさ、むなしさを切々と語っています。また、この短い文章で物語を貫くテーマを凝縮しながら、韻を踏んだ詩的な表現で聞くものの耳に、心に強く訴えかけます。日本文学史に燦然と輝く名文と言えるでしょう。
 情報が変化するのどうのといった解釈はきわめて一面的で表面的なものであると言わざるを得ません。


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