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1954年改訳の新約聖書『ローマ人への手紙』第12章3節について、英訳聖書の英文とかなり違いがあるようです。
ギリシャ語は分りませんが、きっと英訳のほうが原意に近いと思っています。
英文聖句を忠実に和訳いただければ幸甚です。また混乱しておる修飾関連を特にくわしくご説明いただければありがたいです。

For I say, through the grace that was given me, to every man that is among you, not to think of himself more highly than he ought to think; but so to think as to think soverly, according as God hath dealt to each man a measure of faith.

ちなみに日本語聖書では以下のとおりです。

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。

よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (9件)

「For I say,through the grace given unto me,to every man that is among you,not to think of himself more highly than he ought to think;but to think soberly,according as God hath dealt to every man the measure of faith.私に下さった恩恵によって貴方たちの各自に言いますが、自分について当然に考えるべきその以上の考えを抱かず、ただ神様が各自に分けて下さった信心の分量に従って健全に考えなさい。

by KJV 1611」。                                                                                      「私に下さった恩恵によって貴方たち各自にいいますが」パウロは自分が言っている事が、自分の考えではなく、神様の御心であり、自分自身に神様の御心を伝えるように任された事を神様からの恩恵だと言っています。                                                                                            「自分について当然に考えるべきその以上の考えを抱かず」救われた事は自分の行為や努力によってではなく、神様の恵みによるものです。ですから、自慢したり高慢になったりしてはいけないです。救われるために貴方たちがやったことは何もありません。これを当然に考えるべきことなのです。                                                                                        「ただ神様が各自に分けて下さった信心の分量に従って健全に考えなさい」各自の信心の分量は異なります。御言葉は予言とその実現の連続です。多くの部分が実現されて残り少ないです。全てを信じる人は全てを予言出来ます。自分が信じない事を予言するとそれは信心の分量を超えたことになります。                                                                                      ちなみに、ローマ人への手紙という翻訳は大間違いです。パウロ書信は救われた人々に宛てられた手紙であり、全ての人に宛てられたのではありません。教会は救われた人々の集まりであり、聖徒とも言います。聖なる群れの意味です。1コリント1:2は「コリントにある神様の教会、即ちキリストイエスの中で聖なるようになって生徒たちとして召された者たちと各々の所から私達の主、即ち彼らと私達の主になるイエスキリストの名を呼ぶ全ての者に手紙を出します」と言って、手紙が救われた人々に宛てられた事を明確にします。                                                                                                             ですから、聖書を翻訳した人々が救われてない人々なのです。神様は生きて居られ、御言葉も生きています。生きていらっしゃる神様が救われても無い人々に翻訳をさせるだけ無いでしょう。                                                                                                            キリスト人でもないのにクリスチャンだと言う人が多いです。彼らは教会に通い、賛美歌を歌い、祈りをし、説教もし、聖書翻訳もします。非常にキリスト人に似ているので山羊と呼びます。キリスト人である羊に似ているからです。彼らは全て地獄に行きます「マタイ25:46」。                                                                                               聖書の5の数字は死を意味する数字です。聖書に地獄は50回書かれてあります。彼らは自分達が行くべき地獄という単語を「陰府」と翻訳しました。
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この回答へのお礼

puregrapeさん、的確な訳文ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 14:21

違って当たり前、映画を見ればわかりますよね。

かなり違うよ
文化や歴史や背景も異なりますからね。口語訳と文語役でもかなりイメージが違う。同じ文章でも翻訳する人に違うのに・・・
「オッス」「おはよう」「こんにちは」「やあ」
だから問題は何を意味してるのか?それがわかればいい。

経験者と経験していない浅いクリスチャンでは日本語の同じ文章でも意味が違ってきますから忠実なんていうのはありえない
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#6です。

逐語訳してみました。
λεγω γαρ
なんとなればわたしは告げる、
δια τηs χαριτοs τηs δοθεισηs μοι
私に与えられた恵みにより、
παντι τω οντι εν υμιν
あなたがたのすべてに、
μη υπερφρονειν παρ'ο δει φρονειν
そうあるべき以上に思い上がることがなく、
αλλα φρονειν ειs το σωφρονειν
節度を持って思うようにと、
εκαστω ωs ο θεοs εμερισεν μετρον πιστεωs.
神が信仰の量りを各自に分かち与えたとおりに

σωφρονεινはその他、「分別を持って考える」「思慮深く考える」「慎み深く思う」と訳すことができます。
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この回答へのお礼

Big-Babyさん、逐語訳ありがとうございました。
殆んど口語訳のとおりですね。
ただ原文でもσωφρονεινの目的語があいまいのようです。
続く6節の『わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物...』が意味するところを、パウロが意図したようにも思えます。
勿論信仰そのものも賜物であり、人は地面に埋めるのではなくそれを嘉せられるために、さらに信仰を増すべくただ祈り行なうということでしょうか。
当初の抄訳はある故人の日記にあり、3節とのみ記されていました。それを鵜呑みにしていたのがわたしの間違いでした。
at9_amさん、otherwindさん、puregrapeさん、kigurumiさん、katyan1234さん、皆様のご回答に改めて感謝申し上げます。

お礼日時:2008/04/30 00:54

わざわざ英文を書いて返事したのは、KJVでは無く、少し変改された文だったからです。

                                                                                        しかし、もっとも大事なのは貴方が救われたか救われて無いかです。何故なら貴方が救われた方ならば、どの聖書が真の聖書であるかについては、論議の余地が無いからです。                                                                                                                     神様の恩恵によって霊が蘇られた救われた人なら、自分の御父の声をすぐ分かるからです「彼が自分の羊達を導き出した後、羊の前に歩いて行くと羊達が彼についていきますが、それは羊達が彼の声を分かるからです。ヨハネ福音10:4」。                                                                                 救われて無い人は聖書のただ1節も正しく説明する事が出来ません。彼らの父は神様では無いからです。救われて無い人には救われて無い人の説明が「なるほど」となります。彼らの父は同じ父だからです。                                                                                                このような事は本当に言いたくありませんが、ギリシャ語も、ヘブライ語も、まだ他の語も勉強した事がありました。しかしながら、そのような事が、神様の御言葉を理解する事には何の役にもたたなかったのです。                                                                                              貴方の質問は「和訳とそれについての説明」を求めています。それを逸脱して外国語うんねん言うのは野蛮的な行為だと言わざるを得ません。                                                                                                    貴方達が偽り者で無いならば、次に御言葉を説明なさって御覧なさい。「真に真に私が貴方達に言います。死んだ者達が神様の御子の声を聞く時が来ていますが、今すぐです。聞く者達は生きるのです。ヨハネ福音5:25」。
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英訳だけで、うんぬん言ってもねえ。

お挙げになっている英文はかの有名な欽定訳聖書(King James Version)ですね。1611年刊行で、イギリスでは長い間使われてきましたが、さすが今では古いですよ。英訳はたくさんあり、どれが一番原文に忠実か一概に言えません。次のサイトでは各種の英訳を比較できます。参考にしてください。ギリシア語原文も見てみましたが欽定訳が原文にもっとも忠実というわけではないようです。
http://bible.cc/romans/12-3.htm
 現在日本でもっとも流通しているのは新共同訳です。参照されましたか?
 「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」
 引用されている欽定訳も口語訳(新共同訳が出る前の古い訳です)もそれほど内容は変わりませんよ。どの部分の訳がおかしいと思われるのか、指摘していただければ解説できますが。ギリシア語原文も手元にあります。

この回答への補足

Big-Babyさん、ご回答ありがとうございます。
もしよろしければ、ご紹介のギリシャ語原文から逐語訳をお願いできないでしょうか。

λεγω γαρ δια της χαριτος της δοθεισης μοι παντι τω οντι εν υμιν μη υπερφρονειν παρ ο δει φρονειν αλλα φρονειν εις το σωφρονειν εκαστω ως ο θεος εμερισεν μετρον πιστεως

よろしくお願い申し上げます。

補足日時:2008/04/28 14:02
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No4.です。



どうも私日本語ですね。

あれだと、あまりいい表現じゃないので、訂正します。

「 汝 神を知るや 」

がいいかな?
意味わかんないですが、なんか 意味ありげな雰囲気を持った文章になって・・ ないかな? あれ~。

まあ こんな感じで、どっちかを上げると、どっちかが下がるんですね。

これが無いのがヘブライ語だそうです。

ヘブライ語はものの本質をそのまま表すめずらしい言語らしいです。

ギリシャ語だと「この本質は」と永遠に問える言語だそうです。
だから、哲学が盛んになったようです。

ヘブライ語だと直接を表すので、「こうか? それともこうか?」というのが無いらしい。

でも、それぞれの語彙は3つくらい意味を持つらしい。
子音しかないので、母音をつけないと音にならない。

で、祈祷するとき、どの母音をつけるかは、読み手の信仰の理解によりけりらしいです。

死者の祈りと酒は同じ文字だそうです。
で、音声化するとき、どの盆をつけるかは、信仰が深いとすぐわかるらしいです。

日本語でも、同じ発音の語彙は沢山ありますが、どれかはすぐ理解できますよね。

参考までに。
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この回答へのお礼

kigurumiさん、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 14:22

えっとですね。


訳してくださいというのが質問ですけど、、、ちょっとお耳を。


イエスの古文書って本があるんですね。
そこに訳について書かれています。

該当の箇所じゃないですが、翻訳に置ける問題点について。


主人公がアトス山を訪れ、神父と対話する場面です。

神父:
『アラム語のほとんどの語句は、それぞれにいくつかの意味を持っていることです。
たとえばあるアラム語には、<霊感>>と<暗示>と<幸福>の三つの意味があって、そのうちのどれを意味するかは、   翻訳者   の判断にまかせられ 

   <中断>・・・私の言葉です。

   拡大するなら、翻訳者ではなく 信者  の取り方次第


続きます。

その解釈は、主観的と客観的の両方面から行われる。
主観的には、その語句が文のなかで支援ル位置を考量する。
客観的には、初めは文字の上下に記されてあった点または傍線が、長い細別の間に消えてしまったのもを復元して考える。
これは見落としがちな作業で、とかく失敗が多い。
人間は全知全能ではないから、謝った判断を下すのがむしろ通常で、ジェームズ王の欽定訳聖書(1611年発刊)にしても、誤りをまぬがれてあおらぬ。
あの新約聖書はギリシャ語のテキストによったものだが、イエスのことを<彼の(神の)子>と言い表しておる。
だが、古代ギリシャ語に<彼の>子という所有格を示す言葉はなかった。
そこで、改訂標準訳聖書は、これを不定冠詞の<a>に改めた。
このようがより正確ではあるが、それによってイエスの概念まで変化が生じた」


たとえば、英語の古語だと あなたは thee ですよね。
でも今どきtheeなんて使わず現代っ子にはなんかなじめない。聖書がとっつきにくい。
だから you と現代っ子用の聖書には書かれている。

するとどうなるでしょう。
「あなたは神の存在を信じますか?」

と言われた場合と、「汝 神はいると思うや」
(すいません 昔の言い方よくわからないので、、こんな感じでしょうか? )

どうです? どっちの言い方された方がびんびんきます?
心が躍動します?

意味でいけば、前者の方が何を言いたいのかわかる。
でも、信仰心を持たせるには、びんびんくるのは後者で、  意味はよくわからんが    なんかどでかいことを言われたようなインパクトを後者から受けますよね?


パウロはイエスに会っていませんよね。
だから、イエスと問答していないので、内容はわからずイエスの言葉の意味は説明できない。

でも、信仰心を持たせる話術は得意。
無神論者を信仰者に変えてしまえる魔術をパウロは心得ていた。


原始キリスト教は東西に分裂していた。
聖書に中でペトロを愚鈍な男として登場させているあたりも、熾烈な権力闘争があったことが伺えます。

エルサレム教会はアラム語が話されていたと思います。
パウロはエルサレム以外のローマが統治している地域を布教してまわった。
そこには、ディアスポラしたヘブライ語 アラム語が話せなくなってしまった元ユダヤ人たちが本国の何倍もいた。
彼らに説明するには、ギリシャ語を使うしかない。

というわけで、新約聖書はギリシャ語なわけです。


たとえば、アメリカの日系3世4世に、日本人の魂を呼び覚まそうとしたときどうします?
彼らは日本語も文化もよく知らない。
まねごとで少しは単語なら話せるだろうけど、やたらと人の会ったらときかくぺこぺこして「ワタシ ニホンジンアルヨ フジヤマ ゲイシャ」と言った場合、ギリシャ人なら信じるでしょうけど、生粋の日本人だと「うそこけ おまえ 他のアジア人だろう」となりますよね?

で、日系3世だって、移民の人たちばかりで交配してきたら、確かに外見は日本人でしょうけど、魂はアメリカですよね。
習慣も考え方もアメリカ人。

この元日本人たちにどうやって日本というものを教えるか?
どうやって日本の魂を呼び覚まさせるか?

日本の文学を英語に翻訳してそれで「そういうことか」とわかるか?


イエスの知恵を書いた人は、ギリシャ語に翻訳しましたが、注意書きとして、「ヘブライ語にあってギリシャ語に無い語彙が沢山あり、どうしても意訳せざるを得ないが、信仰をもって、読み解いて欲しいと願う」と書いたそうです。

例えばもしですが、ケチな人 という語彙がギリシャ語には無かったとしたら、直訳するしかない。
ヘブライ語だと「目が見えない人」と表現するので、ギリシャ語に目が見えない人 という語彙があれば、「目が見えない人」とギリシャ語に翻訳するわけです。

信仰を高めれば、それがケチな人だと読み取れるか?

無理です。

1億年聖書を読んだとしても、それがケチな人だとわかることは無い。
手に入る全ての聖書を読んだとしても、ケチだという意味だとは絶対にわかりません。


ですが、パウロはギリシャ語も話せたので、新約聖書におけるパウロの信仰はギリシャ語で書かれた新約聖書を読めばわかるはず?

そりゃあ、コイネーは現代のギリシャ語に非常に近いらしいので、現代のギリシャ人なら、パウロの信仰はわかるでしょうけど、それはギリシャ語脳のパウロのイエス作家理解であって、イエス作家の主張では無いのではないか と。

ところで、あなたの主人はパウロですか?

誰の言葉を聴いています?

よき羊は主人の声を聞き分ける。


パウロって人が一体どんな人だったのかは、彼の書いたものだとされるものからしか 伺い知ることはできません。

「我は自主の者にあらずや。使徒にあらずや。我らの主イエスを見しにあらずや。・・・われ他の人には使徒ならずとも、汝らには使徒なり」

コリントの使徒への手紙1の9の1-2です。

また

「我これが為にたてられた宣伝者となり、使徒なり・・・・我は真のことを言ひて偽りを言わず」

テモテへの手紙の1の2の7です。

まっこと信仰心に溢れ、自信に満ちて放たれた言葉だと感じます。

では、情報を1つ入れてみましょう。
クムランの宗規には「神が命じ給ひたるごとく全き道を歩む会衆の聖なる会議に入らんとする全ても者、その者にして公然たると隠然たるとを問わず。モーセ律法の一言一句たりとも犯すあらば、・・・共同体の会議より追放し、永久に戻るべからず。また聖なる者、金銭の問題においても彼と関はるべからず、また如何なる事柄においても彼に近づくべからず」と書いてある。

モーセの律法の一字一句たりとも犯したものは追放され、永久に交わりを絶つというわけですね。

これと同じことがパウロに起こった。
で、パウロはエルサレム以外の地域に自分の作った宗教を宣伝することになった。
エルサレム教会から追放されたので。。。。

そういうことを知った上で、コリントの信徒への手紙をもう一度読んでみましょう。

彼への処遇に対する憤懣と苦悩を吐露し、また彼が真の信徒ではなく偽言者であるとされていることに対する苦悩が彼の書簡のそこかしこに表れている。
自己哀憐とやるかたない憤怒、自己弁護が満載の彼の書簡。

ペトロスの宣教によれば、パウロは「律法の背教者」「邪悪な虚偽の雄弁家」「イエスの教えを歪める者」となっている。

イエスは、律法の一字一句たりとも、この世が終わるまで消えない と主張。
パウロは消せと主張。

で、あなたはパウロ側についてイエスと真っ向から対立してますけど。


歴史は繰り返す。
現存する最も古い物語。
始源の神とその神の子孫が大戦争を起こした。
神々がまっぷたつに分かれて戦い、子孫の神が初源の神を殺して、八つ裂きにして天地創造をした。

キリスト教ではハルマゲドンといかいって、イエスが最後の審判にやってくるとしていますよね。
その時 天使たちが神側とサタン側に分かれ大戦争をして、その戦火が地上の降り注ぐ という話。
これがハルマゲドンですよね。

現存する最古の神話が元ネタです。

で、あなたはパウロ側に立って、イエス側と戦争をするつもりですか?


ヤコブ側はトーラ全体を中傷するパウロを、彼は二つの顔を使い分けていると非難した。

「律法の下にあるものには律法のしたにあるもののごとく」
「律法なき者には律法なき者の如くなれり」

彼の書いた手紙の一部です。

こういう風に二つの顔を使い分けるのに長けた人物だったわけです。

そういうわけで、彼はエルサレム教会から追放されたわけですが、復讐に燃えたようです。
ヤコブが神殿の階段から投げ落とされ、両足を骨折。
この襲撃の後、パウロは逮捕されている。
罪状は神殿で福音を説いたのでそれが冒涜だとされたから と聖書ではなっています。

逮捕された本当の理由は、ヤコブを殺そうとしたパウロを群集は憎み、群集がパウロを殺そうとしたので、ローマ側がパウロの身の安全を図って逮捕という形で保護するため。

彼が逮捕という名の保護をされた後、自分を殺す暗殺計画があるのを知り、そこでローマ側に殺されるとまた訴えたので、ローマ側は歩兵200名、騎兵70名、槍兵200名のものものしい護衛をつけ、カエサレアに彼の身柄を移した。

最終的にパウロは親族の大祭司を使って、ヤコブを殺害。
自分を追放したエルサレム教会の初期リーダーのヤコブを殺すことで復讐を果たしたばかりか 乗っ取った。


東西に分裂した原始キリスト教。
最終的に乗っ取り屋のパウロ側が勝利したんですね。
古代の神話と同じ。
歴史は繰り返しますね。
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「新約聖書翻訳委員会」が翻訳していて岩波書店から文庫ではなく単行本として出ている本を図書館などで探されることをお薦めします。

訳註などが細かく出ている点で良書と思います。
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この回答へのお礼

otherwindさんご回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/28 14:19

元々の英語聖書がどの聖書かは存じ上げませんが、結構古い聖書のようですね。

例えば hath は古語です。

逐語訳が良いかどうかは、あまり分かりません。一般的に言えば意訳の方が良い訳だと言われていますが、意訳はしすぎると訳者の意見が入り込むこともありますから、その意味では良い訳ではありません。また、この場合のように、ギリシャ語→ラテン語→英語→日本語という重訳をすると、なかなか訳が正しいとはいえない場合が少なくないのも問題です。

因みに日本語訳は新共同訳だと思いますが、必要に応じてギリシャ語聖書に戻っていますから、そんなに変なものではないように思いますよ。



というところまで、一般的な訳についての言い訳をしつつ。

逐語訳は、


For I say,

そして私は言います。

through the grace that was given me, to every man that is among you,

私に与えられた恵みではなく、あなた方に属しているものによって、

not to think of himself more highly than he ought to think;

彼ら自身という以上に、彼らが考えるべき事において

but so to think as to think soverly, according as God hath dealt to each man a measure of faith.

そのように彼らが慎重に考えるべき事を考えるのではなく、神が私たち人間に与えた信仰にしたがって。


蛇足というか、訳についての補足。
ここでは but~や though~ が多用されていますが、基本的には「aではなくb」という構文を意識して訳しました。

ただ、最初の For I say は、結構色々な訳が出来ます。接続詞 for の訳は広いですし、say も色々な訳が考えられますからね。

この回答への補足

at9_amさん、ご回答ありがとうございます。

>元々の英語聖書がどの聖書かは存じ上げませんが、結構古い聖書のようですね。例えば hath は古語です。

古本です。

>因みに日本語訳は新共同訳だと思いますが、必要に応じてギリシャ語聖書に戻っていますから、そんなに変なものではないように思いますよ。

そうですか。
実は抄訳ですが、ある解釈に感動をうけましてこの質問をさせていただきました。
次のようなものです。
「神がそれぞれの信仰の量りにしたがい、恵みを施したもう」という意味を含んでいるというものです。ただこの解釈はギリシャ語からの訳ということですが...。

この英文からはそのような意味は汲みとれないのでしょうか。

補足日時:2008/04/27 19:57
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/28 14:20

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