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私は大学の社会学部で日本の社会の成り立ちを調べる一環で同和問題について研究しています。
同朋融和を心から願い、差別の根絶を目指して差別について研究するうち、真の理解は現在の立場と被差別の側の両方に立ってみないとわからないのではないかと思い、地域の解放同盟に「同朋融和推進のため、解放同盟に加盟して民になりたい。」と申し出たところ「民は先祖から受け継いだものであるため新たになることはできない」という選民思想に基づく不当差別を受けました。差別される人たちの苦しみを代弁するべき同盟側が民ではない人たちに対してこのような差別を行っていたことに驚き、また出自という自分の力ではどうすることもできない要因で自分の研究と存在を否定されたことは本当に許せないです。
このような差別、皆さんはどう思いますか?

A 回答 (15件中1~10件)

皆さんが仰っているように、絶滅が危惧されているホッキョクグマの立場になって世界を見たいから、ホッキョクグマになりたい。


というのと大差ない次元の話ですね。

皆さんのお考えに対して何らかのレスポンスを希望します。
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弱者権力 利権 マッチポンプ



私の同級生にも、いわゆる地区の人はたくさんいましたが、本当に心あるいわゆる地区の人々は、解放同盟のことをどの様に感じているのでしょうね。

いわゆる「差別」が無くなると困る者が誰であるかよく考えてみよう。


>このような差別、皆さんはどう思いますか?

No.12の方がおっしゃるようにナンセンス、お門違いです。
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>このような差別、皆さんはどう思いますか?



ネタですね(笑)。
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「逆差別」を受けたことが許せないということですね。


おそらくは、怒りを感じてここに書いたのでしょうね。
そして、多くの同意する書き込みを期待していらっしゃるのでしょうね。そこで、少し気になる点を指摘させてください。

この体験から得たただ一つの成果は、被差別側の心情を実感できたことだと思います。つまり、頭の中で想像しただけではなく、研究している同和問題と同様に、非者問題という形で、「差別」を体験できたことだと思います。

ところで、「差別」やその反対の「平等」という言葉は、神の視点だと私は考えています。神が嫌いな人は、超越者と読み替えてもらってもいいです。ですから、生身の人の視点ではないと言いたいわけです。

対等な人同士の関係において、平等を主張する用法は元々視点が高いのです。対等な人同士の関係においては、対等(同等)なだけで、平等ではないのです。「対等に話し合う」とか「何かを平等に(あまねく一様に)配る」という例文からも、人同士の関係を考えるときは、「対等」なのであって、「平等」とは言うべきでないと私は感じています。「平等」とは、あまねく一様に見ている者の(俯瞰的な)視点を前提とした言葉であり比喩的であると思われます。これは一般的な日本語使用者とは少し違うと思うのですが、(曖昧さを減らしより厳密に言葉を使用する立場から)何かこの世の者ではない何かの視点のように私には感じてしまいます。あくまでも比喩ですが、神とか超越者の視点で研究しているようなニオイを相手側が感じて拒否したのではないでしょうか。少なくとも対等な人同士の交流ではなかったと思ってしまいます。

また、対等でない人同士の関係では、差別というよりも区別があるわけですから、(同語反復的な表現ですが)根源的に対等であるはずがありません。そして、その現実を変えることは困難ですが、対等になる工夫の道がないわけではないはずです。
たとえば、民の養子になるとか、民と結婚するとかです。
覚悟を持って本気で成り切りたいのならば、方法はあるはずです。
しかし、そこまでしなくても、インタビューの録音とか手紙とかの資料の蓄積を通じて研究できるように私には思えるのですが。文化人類学でも、原住民に成りきることまでしなくても、すばらしいレポートを書き上げていると思います。

そして、最後に「差別の根絶」と言っていますが、この視点も高いですし、それは学問ではありません。政策です。戸籍の書き換えと強制転居など手段はあるはずですが、当の民が望んでいないでしょうし、何か甘い汁の存在があって民でいたいのかもしれませんし、その点はジャーナリストの範疇になるようにも思います。
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>いわれのない差別を受けました。



すばらしいです

これぞまさに差別問題の原点です
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要は、解放同盟は優遇措置という特権を独占するブルジョワ階級であると言いたいわけですね?

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民になりたければ、不可能なことでは有りません。


に住む民の知人の家の一室を借りて、そこに住民票を移せばいいのです。

あちこちで住所を聞かれたり、申込書を書くときに、その住所を明示しましょう。その地区に近い年輩者なら、その住所を知って表情が変るでしょう。それが、差別なのです。

でも、この方法は実は現実的ではありません。
行政は、地名変更などにより、を後世に伝承しないように努力しています。過去にはの地名や位置を書いた地図や地名名鑑を売っていた探偵会社がありましたが、摘発されました。買った会社の人事部なども、行政や人権団体から批難されました。
いまでは、、その地名を公言してもだとわかる人は減っているのです。

一方で、民への強い差別は、から引っ越しても続きます。
住民票の前住所や本籍地まで調べて、出身を特定しようとする人がいます。こういう人がいるから、一時的にに住んだからといっても差別は理解し難いのです。

私の父の実家は、大名や皇族も通った主要街道に面しています。ところが、その近くに街道で働いて死んだ牛馬を処理する地区がありました。そこが、地区でした。
現在、行政は地名変更をして、表通りの宿場町も、牛馬を処理した地区も、同じように街道沿いに栄えた町に見えるように変えています。
でも、しつこい人はいるのです。父は実家を離れて同じ県内に母と家を新築し、そこに何十年も住んでいます。でも、私の妹が結婚する時、相手方の疑り深い親戚が、父の実家の位置を気にして地区かどうか調べたらしいのです。

親が地区の隣の地区の出身と言うだけで、結婚の時に疑われて身元調査され、変な報告が出たら結婚が破談になる可能性もある。こんなことで、ビクビクしなければならない。これの何処が「選民思想」なのですか?

あなたが、もし最初に提案した方策で民になったとしても、決して「ここがですよ」とは絶対に言わないでくださいね。
本当の民は、「自分の住所や故郷を人に言えない」「せめて自分の子供の世代には、住所や故郷を胸を張って言える世の中になって欲しい」と願っているのですから。
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あなたのお気持ちはわかります。


黒人差別を体験するために実際に薬物で皮膚を黒くし、髪をアフロヘアーにして黒人地域に住んでルポをした白人作家がアメリカに実在しました。昔の話ですが・・・
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大学で学ぶ者が選民思想の意味を理解しないのは憂うべき事です。


今一度、選民思想に付いては辞書を引いて調べて下さい。
また、あなたの受けた扱いは「差別」とは言いません。
不可能を不可能と言われただけの事です。
あなたがアメリカ人を理解するためにアメリカ人になりたいと言っているのと同じです。
また、未知の世界や出来事を探求し、解決の方法を探る事こそが研究であって、自分の社会的位置を変えなければ出来ないという研究はこの世にそうたくさんはあり得ません。
同じ立場にいる人間に付いては理解出来て当たり前、違う立場に居て、その人間、あるいはその異質な文化を理解し、受け入れてこそ差別の克服に繋がるのではありませんか?
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あなたの行おうとしていること自体が差別行為です。



真の融和を願うなら、「立場がどちらか」であるという考え自体が不要です。

そういう中途半端な精神が同和問題を二次問題化、三次問題化させていくのです。
差別や逆差別が増える一方です。


差別はやめましょう。
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