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カムイ伝を読んでいたら馬耕地区では農耕に使っていた馬が死ぬとそれを地元の被差別部落のところに持っていってそれを被差別部落民が解体処理していました。
そうすると馬頭観音は馬耕文化圏の被差別部落があるところにたてられたのでしょうか?

A 回答 (2件)

「馬耕地区」「馬耕文化圏」とはなにかがよく分かりません。


馬を農耕に使用する地域はそれなりにあったでしょうが、特別の地区を形成していたり、馬耕文化圏と呼べるような文化圏を形成はしていないように思います。
農耕の牛、馬の飼育には地域性があるようです。
http://hist-geo.jp/img/archive/169_002.pdf
馬頭観音はどこにでもあるようです。
牛を利用していたところに牛の観音が祀られているという例は少ないのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/trx_45/e/9fc18712a19e25fa …
馬というのは、結構賢くて、人間よりも賢いのではないかと思う人もいるようですし、馬との交流、愛馬という思いも、農耕だけでなく、荷役や馬車や乗馬に使う人も、とても強い絆を感じていて、馬が死んでしまうと供養の墓石を祀った人も多いようです。 解体処理をして馬肉を食し、革を利用したとしても、それだけでは済ますことが出来ないこともあったのでしょう。 江戸から明治の馬の死体の数に比べれば、馬頭観音の数はごく少数だと思います。 馬頭観音の作られた時期としては明治が多かったようです。
https://www.e-tsuyama.com/report/2019/02/post-17 …
https://www.city.sosa.lg.jp/data/doc/1554708329_ …
https://kurobe56.net/ks/ks0080.htm
https://www.city.inagi.tokyo.jp/smph/kanko/rekis …
「馬頭観音について」の回答画像2
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江戸時代、牛や馬は死んだ瞬間から所有権が飼い主から地域の被差別民に移りました。


そこで、死んだ牛馬や死にそうな牛馬は地域で決められていた「馬捨場」(又は「牛捨場」)と呼ばれる土地に捨てていきました。
地域の被差別民は、自分の担当地域の馬捨場を巡回し、捨てられているのを発見すると上司である小頭に報告します。小頭は配下の被差別民を派遣して回収し、皮を剝いで解体するのです。
そういう馬捨場に馬頭観音がよく祀られていましたが、明治になると被差別民の弊牛馬処理権が否定されて馬捨場は無くなり、馬頭観音だか残っている所もあれば近くの寺社に移転されたり、全く関係ない土地に移されたりしています。
馬捨場は、通常は村々か数か村ごとに決められた場所に設けられており、被差別部落内ではありません。
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