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因果応報について、分からないことがあります。

例えば、今世に被害者Aさんと加害者Bさんが居たとします。
このとき、加害者となるBさんが、改心して、犯罪行為を思いとどまった場合、他の人が、Aさんに加害しないといけなくなるのでしょうか?

前世の自分の行為の報いとして、被害を受けるのが必然だとしたら、加害するほうも必然なのでしょうか?

だとしたら、例えば、必然的に犯罪行為を犯さなければいけない義務を持って、この世に生まれてくる人も居るということでしょうか?

そう考えると、犯罪者になるために生まれてくるなんて悲しすぎます。

「運命は、自分の努力で変えられる」と言いますが、加害行為は宿命の部類なのでしょうか?

それとも、自分が努力して、自制し、加害行為を思いとどまったら、他の誰かが、その加害行為を肩代わりしてくれているのでしょうか?

また、無差別に誰でもいいから殺したいという人が居た場合、例えば、学校の教室で銃を乱射したケースで、銃弾が当たって死ぬ人と、擦れ擦れで当たらず助かる人がいますが、こういう場合には、因果応報は当てはまらないのでしょうか?
 このケースで因果応報が当てはまらないとなると、死んだ人は、なぜ銃弾に当たって死ななきゃいけなかったんでしょうか?

もしかしたら、因果応報の概念は、人間が世の中を良くする為に作り出したデタラメなのでしょうか?

A 回答 (19件中11~19件)

No3です。



補足を頂いたので、思うところを書きます。

>フランスで有名なアラン・カルデックの「天国と地獄」という本を読んだのですが、その本で、前世でなんらかの事情で人間を袋に詰めて海に沈めたことがある人が、その罪を償うために、今世で海難事故の犠牲者となる道を選んだと書かれています。

文学が必ずしも、哲学的な事実とイコールではないことを前提に、
ちょっと、こみいってしまいますが、聖書に代表されるような創造主の
崇拝の考え方と、東洋的な思想哲学とは、ちょっと違うことはお知りだと思いますが、
文学では、はっきりと違いが出てしまいます。
(究極は一緒ですが)

簡単にたとえますと(簡単にすると誤解されやすいことも承知の上で)


「袋に詰めて人間を海に沈めた」

これを見てどう思います?

「数百年前人類に猛威をふるった感染症、彼は未知のウィルスの感染源であった。彼の死をもって、数百年後の未来と、村の人々の生活には光がさした。男は英雄として語り継がれた」

という場合と、


「彼を沈め、私は社会から追放される道を歩むことになった。生涯独房で。しかし、私は後悔していない。妻の復讐はなったのだ」


回りくどいですが、言いたいことは、結局、善悪は人の感情によって変わるもので、因果応報は、人の考えとは関係なくある真実だ。
ということです。




> 海難事故に遭うような境遇に身をおくことを無意識に選ぶことが原因なのでしょうか?

無意識ということが一つの原因でもありますね。
しかし、無意識が原因になった原因があるのです。さらに無意識の原因になった原因の原因もあるのです。さらにさらに・・・ってしつこいですね・・・

> そして、海難事故が起こるためには、事故を起こす不注意が必要です。誰かの不注意は、必然なのでしょうか?

これも同じことですね。不注意になった原因が必ずあります。さらに不注意になった原因のげん・・・

はい。原因があるということは必然です。


> 私も原因と結果が、因果応報だと思うのですが、今世と過去世は分けて考えたほうがいいのでしょうか?


上記内容がすでにこの質問の答えになっていると思うのですが、
今世と過去世を分けて考えるというより、
原因に原因を求め、さらに原因を追って行けば、勝手に過去にさかのぼるということです。

ですから今世の因縁は過去にあるのですね。

お答えになりましたでしょうか??
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この回答へのお礼

 みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。

 みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。
 因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。
 NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。
 汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。
 キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。
 心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。

 とても勉強になりました。
 みなさん、ありがとうございます。

お礼日時:2008/06/18 21:59

カースト制度とか身分階級のはっきりした社会ではカルマを信じられて


いますね。来世に希望を託すため善行によって徳を積んでいい身分に生
まれ変われるように来世で報われようという自助努力の進めですよね。

困っている人は徳が積めない、余裕のある人が徳も積みやすいもので、
つまりこれは道にわざと障害やぬかるみを作っておいて、自力で進めな
い人を助けて感謝されようとしてる不合理、不条理を人類は延々信じて
いるのです。聖人がいう「当たり前のことをしているだけです」は虚で
す。人為あっての分断政策です。

被害者となるか加害者となるかは天災と同様に『確率』の問題で、罵倒
するだけで解決することはないです。報復は循環論なので。

自然は弱肉強食の淘汰をもっての営みがあります。良いから悪いからと
いう不満は自然にない。
人間は強弱や善悪すらも不満に思って改善を求めるものだから、もしか
すると、誰もが安全に対等に暮らせる社会の次善策が用意されれば因果
をいわなくなれるかもしれない。
すると善行出来なくて「差別や障害がないと暇で困る。助けてあげたい
のに」っていう我侭をいう偉い人も現れたりして?

この回答への補足

【追記です】
 みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。

 みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。
 因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。
 NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。
 汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。
 キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。
 心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。

 とても勉強になりました。
 みなさん、ありがとうございます。

補足日時:2008/06/18 22:08
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この回答へのお礼

自然界では因果応報はないのかもしれません。
単純な弱肉強食の世界だと思います。
強いものは生き残って、弱いものは死んでいく。
人間は、自然じゃないということなのでしょうか?
自然じゃない生き物の世界の、混乱を防ぐための次善策が因果応報なのでしょうか?
人間たちが、勧善懲悪を唱えないと、自分たちの身が危険にさらされるので、作り出したのが因果応報なのかなとも思います。
でも、因果応報の概念が、人間の生活をより良くしているのなら、それは、逆に人間界にとっては黄金律で、自然なのかもしれません。
 ただ、これまで自分が信じていたものはなんだったんだろうと、少しガッカリしました・・。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/06/12 13:44

占い師の言うことに「当たった」と関連づける能力が人間にはあるので、その能力の影響で必然的に考え付いたのが、因果応報論じゃないかと。



何かいいことがあっても、悪いことが起こっても、過去に関連づけたがるのが人間。

しかも、「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。」

「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。」

というのも現象も目の当たりにしている。



「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時 死ぬ時  泣く時 笑う時 、 愛する時 憎む時、 戦いの時 平和の時」

そして私達はその時がいつ来るのは知らない。

では、どうしたらいいのか。

「短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ幸福で良いことだ」



はかない運命の人間にとって、唯一自由なことは「自分のやった労苦に満足すること」 これだけは、誰にも奪えない。

どんなものも、この代わりは与えられない。
誰にも踏み込めない領域をひとそれぞれが持っていることは、幸いなことだってわけです。

ちなみにこれを言ったのは2000年以上も前の人で、因果応報の破れをするどく見抜いているわけですね。

この回答への補足

【追記です】
 みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。

 みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。
 因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。
 NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。
 汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。
 キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。
 心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。

 とても勉強になりました。
 みなさん、ありがとうございます。

補足日時:2008/06/18 22:06
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この回答へのお礼

因果応報は人間のこじつけなのですね。
確かに、人間にとって、唯一自由なことは「自分のやった労苦に満足すること」 だと思います。
経験は自分だけのものですね。
他人の経験をお金で買えないですね。
色々経験したことを、誇りに思って、これからも、経験を積むことだけを楽しみにして生きていけばいいのかもしれません。
ありがとうございます。

お礼日時:2008/06/12 13:34

悪いことをしたらどうなるかは分かりません。



良いことをすれば報われるとは思います。

オカネ、死後、みんなが寄ってくれるなど。

でも、毎日、苦行のひびです。

この回答への補足

【追記です】
 みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。

 みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。
 因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。
 NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。
 汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。
 キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。
 心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。

 とても勉強になりました。
 みなさん、ありがとうございます。

補足日時:2008/06/18 22:05
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この回答へのお礼

私も、毎日が苦行だと思います。
悪いことをしても良いことが起きるし、良いことをしても悪いことが起きる世の中だったら、ただ単純に心を強くもって耐えて生きることのみが、一番の目的になってしまいます・・・・。
でも、この世に転生したということは、何らかのいたらない点を、学んで向上する余地があるということだと思います。
輪廻転生が終わるときは、課題がないということになるからです。
この世に生まれたということは、償うべき罪がある罪人である証だと思っています。
この世は、修道院か、自由の効く牢獄なんでしょうか?
ありがとうございます。

お礼日時:2008/06/12 13:29

ここで因果応報を原因の行為に対する未来の結果と定義しましょう。


>前世の自分の行為の報いとして、被害を受けるのが必然だとしたら、加害するほうも必然なのでしょうか?
前世の行為と被害者、加害者を結びつけるのは無理があるでしょう。その証明ができない、前世を親あるいは祖父母の行為としても、親子三代に渡って親の罪を背負う、親の仇討ちの時代でもなければ通用しないのではないでしょうか。過去の自分の行動から現在の被害者、加害者の立場になってしまうと考えたいです。
>加害者となるBさんが、改心して、犯罪行為を思いとどまった場合、他の人が、Aさんに加害しないといけなくなるのでしょうか?
Aさんはあくまでも被害者になる人なわけですね。どこへいっても何をやっていても。これも証明のしようがないですね。被害者A、加害者Bとしての組み合わせは偶然かもしれないが、その結果を招く原因をどこかで作っていたという風に考えたいですね。被害者Aさんはその原因を作らなければ被害者になることはない。
>必然的に犯罪行為を犯さなければいけない義務を持って、この世に生まれてくる人も居るということでしょうか?
人間は、社会の中で作られる(原因)と考えたいですね。その原因となるものは、親の教育であったり、親から受け継いだ素質であったりするので、その受け継いだ素質(原因)を前世とするならば、その後の他の原因と組み合わさって、犯罪者(結果)となりうるかもしれない。
>死んだ人は、なぜ銃弾に当たって死ななきゃいけなかったんでしょうか?
その場に居た、ちょうどその時その位置だったという原因の結果ですね。運もあるかもしれない。ただその時その場にいるという原因を意識してつくらなければ、弾にあたらなかったかもしれません。
>因果応報の概念は、人間が世の中を良くする為に作り出したデタラメなのでしょうか?
原因と結果の法則と考えれば、あながちデタラメと決め付けることもできません。やはり善因には善果が、悪因には悪果をもたらします。

この回答への補足

みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。

 みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。
 因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。
 NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。
 汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。
 キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。
 心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。

 とても勉強になりました。
 みなさん、ありがとうございます。

補足日時:2008/06/18 22:04
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この回答へのお礼

被害者Aさん、加害者Bさんの組合せは偶然かもしれないということですが、もし仮に、この世の全員が改心して、善人100%の世界になったとしたら、悪人がゼロになるので、前世の罪は、病気のみでしか償えなくなると思います。
 例えば、性犯罪は被害者の立場にならないと、加害者には被害に遭うつらさが分からないと思うのですが、病気で性犯罪の苦しみを学ぶことができるのでしょうか?
 この世に生まれたのは、愛の法則を学ぶために様々な経験を体験することだと思います。
 自分でも、考えが混乱してきて、よく分からなくなってきました・・・。
 ありがとうございます。
 

お礼日時:2008/06/12 13:22

あの世と、この世で見るからです・・・。


アリとキリギリスのお話が、因果応報ですよ。
全て、この世の事を言ってるだけです。でたらめではなくて、反対に真実の方ですね。
銃弾のお話は、因果応報とは違うものです。どんな言葉も当てはまらないので、仏教では「縁」と表してますよね。生きる縁が在れば生きるし、縁がなければ死んでしまう・・。理由もなければ、悪いことをしたわけでもないのに死んでしまう。いい人が生きて、悪い人が死ぬわけでもない。そこを「諸行無常」と言ってますね。たとえ、いい事をしようが、いい人であろうが、風が吹けばフッと死んでしまう。悲しくても苦しくてもそれがこの世だとね。

この回答への補足

諸行無常で考えると、人間は何のために生きているのか虚しくなります。
魂の成長のためなら、悪人に悪がもたらせられるはずです。
毎日せっせと、魂の向上に努めても、偶発的に災難がふりかかってしまうのは、理不尽です。
善行を積んでも、一気にそれが崩れてしまったら、なんかやる気を失いそうです。
なにが起こっても不思議でないなら、人間はなんのために生きているんでしょう?
最近、美輪さんや江原さんの番組で、魂の向上のために生きてると説明がありますが、どれが正しいのでしょうか?

補足日時:2008/06/12 13:08
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この回答へのお礼

仏教の諸行無常で考えれば、納得できます。
悪い人も良い人も、なにかの偶発的な事情があれば、死ぬときは死ぬという考えですね。
そう考えると、無差別殺人や、電車内で痴漢に遭うことも、「運が悪かった」ということになります。
そして、因果応報は、この世だけの一単位でリセットして考えれば良いということですね。
ワイドショーでコメンテーター達が、「なんの罪も無い人達の命が犠牲になった」と言うのが、間違っていないことになると思います。
 ただ、悪人が、人間の作った処罰(懲役○年等)だけで、罪を償えるものなのかは、まだ疑問に残ります。

お礼日時:2008/06/12 13:03

因果応報とは、種をまいたら花が咲く(原因があり結果がある)


というあたりまえのことを言っているのです。
大切なことなんですけどね。

>例えば、今世に被害者Aさんと加害者Bさんが居たとします。
このとき、加害者となるBさんが、改心して、犯罪行為を思いとどまった場合、他の人が、Aさんに加害しないといけなくなるのでしょうか?

たとえば、田んぼに稲を植えるのをやめたら、庭に米ができた。
なんてことはないですよね。
Bさんという原因がなくなればAさんという結果もなくなります。



>だとしたら、例えば、必然的に犯罪行為を犯さなければいけない義務を持って、この世に生まれてくる人も居るということでしょうか?

面白いことに気づいておられるようですね。
ドストエフスキーが、生まれながらにして罪を犯さざるを得ない人について
書いています。これは究極のテーマですね。興味があれば探してみてください。

>「運命は、自分の努力で変えられる」と言いますが、加害行為は宿命の部類なのでしょうか?


>また、無差別に誰でもいいから殺したいという人が居た場合、例えば、学校の教室で銃を乱射したケースで、銃弾が当たって死ぬ人と、擦れ擦れで当たらず助かる人がいますが、こういう場合には、因果応報は当てはまらないのでしょうか?
 このケースで因果応報が当てはまらないとなると、死んだ人は、なぜ銃弾に当たって死ななきゃいけなかったんでしょうか?

もしかしたら、因果応報の概念は、人間が世の中を良くする為に作り出したデタラメなのでしょうか?


因果応報は、前記のように結果があれば原因があるということなので、
人が作る作らないではなく、事実です。

質問者さんの疑問は、因果応報とは何か?
ではなく、悪を犯す人になぜ、悪の報いがないのか?
よいことをしたらよいことがなぜ返ってこないのか?

のように聞こえますが、どうでしょうか?

因果応報と、ものごとの善悪は別問題です。

この回答への補足

フランスで有名なアラン・カルデックの「天国と地獄」という本を読んだのですが、その本で、前世でなんらかの事情で人間を袋に詰めて海に沈めたことがある人が、その罪を償うために、今世で海難事故の犠牲者となる道を選んだと書かれています。
 海難事故に遭うような境遇に身をおくことを無意識に選ぶことが原因なのでしょうか?
 そして、海難事故が起こるためには、事故を起こす不注意が必要です。誰かの不注意は、必然なのでしょうか?
 私も原因と結果が、因果応報だと思うのですが、今世と過去世は分けて考えたほうがいいのでしょうか?

補足日時:2008/06/12 12:44
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この回答へのお礼

みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。

 みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。
 因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。
 NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。
 汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。
 キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。
 心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。

 とても勉強になりました。
 みなさん、ありがとうございます。

お礼日時:2008/06/18 22:02

あなたの考えている因果応報ははっきりいって違います。



仮に前世というものが存在するとしましょう。
仮にBさんが前世で殺人を犯したと仮定します。
そして、今世に生まれ変わるのですけれども。

罪の償いというものは、何も殺人で殺されるばかりでは有りません。
前世で殺人を犯したならば、今世では別のことで償いをさせらるでしょう。
病気で苦しむとか、不治の病に苦しむとか、借金で苦しむとか。
人間関係に苦しんで自殺に追い込まれるとか。
そのような形で償いをされることも有り得ます。

然し、殺人を必然とするのはどうでしょうか。
前世で殺人をした人が今世で殺人として殺されるとは限りません。

また、因果応報の逆は考えない方がいいです。
例えば、殺人事件が起こったとします。
そのときに考える因果応報は、殺人した人がつみを作った。
被害者はやはり被害者として捕らえるべきです。

そうでないなら、逆をやってしまった場合にはおかしな観念が出来てしまいます。
やはり、殺人を犯した人は罪を償わなければなりません。
それを、前世のための必然の殺人だったとして、被害者を前世で
なんらかの罪を償ったとしてしまったら、おかしなことになるでしょう。

やはり、被害者は殺人にまきこまれた罪のない人として捉えないと。

また、病気で苦しんでいる人も、不治の病で苦しんでいる人も、
自殺に追い込まれている人もまた、然り。同じことです。

それから、運命は変えられることも有ります。
殺人を必然として変えられないものと捉えるのは如何なものでしょう。
必然としてしまったら、何の対策も取らないことになるでしょう。

そうではない。

因果応報は存在します、殺人を犯した人は死刑を執行されることも有ります。
犯罪を犯した人はろくな人生を送っていません。

銃を乱射した人はやってはいけないことをしました。
それは、因果応報があるとすれば償いはしなければいけないでしょう。

逆を考えるからおかしなことになるのです。

そうではなくて、殺人者はやはり殺人者、因果応報も何も有りませんよ。

被害者は被害者です、そんなことを因果応報で考えたら世の中が狂ってしまいます。

因果応報の概念は、人間が世の中を良くする為に作り出したでたらめではなくて。

今も目の前で繰り返されている天地の道理なのだと思います。

因果応報を感じている人は沢山います。
大切なのは、人としての道を誤らないことこれ一点に尽きます。

この回答への補足

みなさん、たくさんの色々なご意見を寄せてくださってありがとうございます。

 みなさんの、ご意見を参考にして、その後、色々考えてみましたが、なんとなく、因果応報は、NO.1・11・12・17さんのおっしゃる様に、因果応報は「心の問題」のような気がしてきました。
 因果応報は、心の在り方と同じような出来事を引き寄せることなのかもしれません。
 NO.18さんのおっしゃる様に、八正道を実践して、清く正しく美しく生きていくことが大切だと思います。
 汚い部屋に、汚い格好で暮らしていると、心もシャキッとしないし、だらしない出来事が起こりやすくなると思います。
 キレイに片付いた部屋で、植物を置いて、落ち着いた生活をしていると、心も生活も穏やかになっていくと思います。
 心の在り方は、人生のすべてに現れてくると思うので、気をつけようと思います。

 とても勉強になりました。
 みなさん、ありがとうございます。

補足日時:2008/06/18 22:02
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この回答へのお礼

そう考えると、殺人で死んでいく人達は、なんの意味も役割もなく、死んでいくことになってしまいます・・・。
 病気とかなら、納得できるんですが、他人から受ける被害(例えば、空き巣とか、振り込め詐欺など)は、なんの意味もなく起こっているのでしょうか?
 

お礼日時:2008/06/12 00:44

因果応報は、心の問題だと思います。



たとえば、過去に人を裏切った人は、人を信用できなくなります。
不倫で、だれかの配偶者を奪った人は、今度は自分が捨てられるのではないかと心配になります。
自分が親を大切にしなかった人は、自分が親になった時に、大切にされないのではないかと、落ち着きません。

実際にそのようなことがなくても、そうなるのではないかと思う気持ちが、心の地獄を招くのだと思います。

犯罪とか、法律は、人が作ったものです。
因果応報というのは、人の利害関係によって作り出されたルールなどは超越したものでしょう。
心の苦しみをもたらすものは、法律で規制できるものではありません。
本当の善悪は、その人の心が判断するものです。
(法律をないがしろに、ということではなく、合法的な悪もあるということです。)

この回答への補足

【追記です】
色々な方の意見を読んでいくうちに、段々、私も、morino-konさんのおっしゃるとおり、因果応報は心の問題なのかなと感じてきました。

 どんなに冷酷で極悪非道な犯罪者でも、自分が犯罪を犯したら、無意識のうちに罪悪感と恐怖を持つと思います。
 その恐れが、悪い要素を引き寄せていって、結果的に不幸になるのかもしれません。
 善い行いをたくさんして、恐れや罪悪感を手放すことが大切だと思います。
ありがとうございました。

補足日時:2008/06/18 21:39
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この回答へのお礼

因果応報は、自分の思い込みで自分が苦しむことなのですか?
もし、思い込まない人がいたら、因果応報が働かないでしょうか?

お礼日時:2008/06/12 00:45

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