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想って欲しい人に想われても、
幸せであっても、虚無感はなくなるものではないのかなと。
そうなっても、いずれは死んでしまう。

何のために生きるんだろうと
考えてしまいます。

馬鹿の考える事ともありましたが、何故考えが浮かぶのか。

虚無感は贅沢病でしょうか?

理論的に考えをご教授いただければ、幸いです。

虚無感は悪い事だと言う意識もあります。

それについてもどう思われますか?

A 回答 (11件中1~10件)

助けてといっても助けてくれず、手紙やメールを出しても無視される。

虚しいです。正直耐えられませんけどね、それさえ相手にされなかった。そんな私の経験論。

この回答への補足

私は私1人でしかないです。

自分が乗っとられ、
精神が安定しない人が混乱するのではないかと、
心配です。

回答をいただいた皆様本当にありがとうございました。

補足日時:2011/07/16 08:33
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この回答へのお礼

助け方がわからない。助けるってどうしたらいいの?
でも、ここの人達に
めちゃくちゃに罵倒されるだろうなと思いながらも、
心の虚無感に耐えられない。壊れてしまえと思って質問した。

そうしたら、過去は関係なく、今のこの私の問題だけを取り去る回答を
全員が下さっている。

ネットだからと私も思っていた。

逆にネットだからコミュニケーションが取れないと言い切る理由は何かなと
思うくらい頭の絡まりを取り去るってもらえた。

ヘレンケラーはコミュニケーション出来ない人間に位置するのか?とか。

沢山考えさせられた。

あなたも必死で何とか虚無感をどうにかするようにしてくれた。

ありがとう。本当に罵倒覚悟だったから。
もういいやと思ったのにさ。

私がしてもらったみたいに、パカパカどうしたらいいか思いつかないよ。

人間として足りないと落ち込んでいる。

お礼日時:2011/07/12 04:29

一度知ってしまった虚無感はなくならないと思います。


どのようなものにも限りがある、という虚しさなのでしょう。
そして、その認識を打ち消すことが出来ないという、二重の重苦しさがあるようです。

すべては有限で相対的であるという認識は、逃れることの出来ない苦しみをもたらしてしまうようです。
形あるものは壊れる、生あるものは滅びる、という真実を変えることはできないからです。
諸行無常というものです。
そこから受ける苦しみは、人それぞれであっても誰しもが味わねばならないもののように思えます。
贅沢病という言葉の範囲に納まるものではないと思います。
普遍的な人間としての苦しみではないでしょうか。

虚無感は自己否定に連なるものとして見た場合には、悪い事かもしれませんが
自然に生じた意識として受け止めておくべきではないでしょうか。
生ある限りは、付き合わねばならないものだと思います。
また、そこから現実を見返して今を大切に生きる、といったことも必要のように思われます。
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この回答へのお礼

素敵な回答ありがとうございます。
素敵だなと純粋に思ってしまった私は
そういう風になりたいと言う願望が心根にあったのかもしれません。

人間らしさが感じられましたから。

一度知ってしまった虚無感は消えないですか。
なかなか重いですね。

未熟者に教えていただいたと言う感覚です。

ありがとうございます。

お礼日時:2011/07/11 22:15

創価学会 壮年部の者です。


多少宗教的なお話しになりますが、入会を強要する
ものではありません。


>何のために生きるんだろうと考えてしまいます。

人間として生きている上で、人間は人間を超える事は
ありません。しかし、人間の定義を広げる事は出来る
と思います。
そうした中に、回答はあると思います。

『十界論』といって、人間の命の中にある作用を10の
段階に区分したものです。

・地獄界
・餓鬼界
・畜生界
・修羅界
・人界
・天界

以上を“六道”と言います。

・声聞界
・縁楽界
・菩薩界

・仏界

以上、十界です。

通常の人間では、六道をぐるぐる廻っています。
これを、“六道輪廻”と言います。
しかし、この十界は等しく人間の生命に具わっていま
す。そして、縁により瞬間瞬間変わっていくものです。
本来、この仏性を覚知し、仏の知恵を生かし、自身の
幸福と共に、他人の幸せも祈り、行動へと移していく
ところに人間の存在意義があるのではないでしょうか。


>虚無感は贅沢病でしょうか?
>虚無感は悪い事だと言う意識もあります。
それについてもどう思われますか?

別に悪い事ではないと思います。上記でも書きましたが、
本来の人間としての本地を自覚さえすれば良いと思います。
虚無感とは命の迷いだと思います。日蓮大聖人は“一生成仏
抄”という門下へのお手紙の中で、「迷う時は衆生と名け、
悟る時おば仏と名けたり」と言われています。自身の胸中に
仏の生命を輝かせながら、自他共に社会の中で生きゆく事が
大事なのではないでしょうか。


※先日、似たような質問がありましたので、参考までに
のせておきます。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6840890.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私は、考え方の軸がないと不安になります。

優しいですね。

私のいとこも創価学会です。

小さな頃から一緒に育っていて、仲良しでしたので、
いとこの価値観と言う認識です。

ですが、大人になり
周りの反発が凄く精神的にやられていました。

何だかいとこに励まされた気分です。

あと、先日の質問と確かに似てますね。
ですが、好きな人と出会う前に結婚していたら、
私は全く同じ質問をしていただろうと思います。

まるで、出会わない別の道を歩んだ自分がいるみたいです。

ですが、違うと感じました。

ありがとうございます。

皆様、歴史的に、理論的に、時系列的に、感情的になど様々な切り口ありがとうございます。

どんどん自分の頭が整理されていきます。

お礼日時:2011/07/11 21:08

>想って欲しい人に想われても、


>幸せであっても、虚無感はなくなるものではないのかなと。
>そうなっても、いずれは死んでしまう

ここに原因が表れています。
「人に好かれる」ことが幸せであれば、確かにその“かわいい自分”が
死ねば、絶対的敗北です。

しかし、人を愛する事が幸せであれば、自分の肉体の限界をこえて、
幸福感の源泉は拡張します。
その「人」が、社会生命としての自覚による博愛=助け合う喜びであっ
たり、特定の人であっても、「その人の喜び」を自己の喜びとすれば、
その人の博愛を通じて“喜びの相乗効果”が得られます。

究極的に、“自分のカタチ”の「外=意識される宇宙」が自己だと思えば
博愛(自己成立の必要としての世界)に至り、その「内=肉体」が自己
だと思えば、自己存在の本質に根差した喜びを見失った自己チューな
意識に於て虚無に閉ざされる。
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この回答へのお礼

具体的にありがとうございます。
確かにおっしゃるとおりですね。

そうでなければ、人としての幸せは難しいなと気付いてはいますが、
不安がそれを覆します。

自分に自信がない。

考え方の問題とおっしゃるそれが問題なのかなと。

お礼日時:2011/07/11 20:54

永劫の偉業の完成や絶対的幸福を維持するのは人間の能力を超えてます。


だから、県大会とかブスカワイイとか自分の能力にあったところで、ひとまずてを打ちます。
結論は、よくも悪くも社会性が低いからとなります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
難しく考えなくてもいいんだなと
ほっとする回答ですね。

嬉しいです。

お礼日時:2011/07/11 20:46

 こんにちは。



 ★ 幸せであっても、虚無感はなくなるものではないのかなと。
 ☆ だとすると 虚無感であっても 幸せがなくなるものではないのかなと思う一面はあり得ます。
 
 とは言っても それはやせ我慢であって
 ★ そうなっても、いずれは死んでしまう。
 ☆ となると どうなりましょう。

 死んでしまうのであっても 幸せがなくなるものではないのかなと思えるか?

 おそらく 死んでしまうということは 受け容れなければならないでしょうね。
 
 だとすると どうなるか?

 たとえば わたしにとってこれこれのことをわが人生のつとめとして おのれが満足するほどにまでは達成すれば もう死んでもよいと決めておくなら どうでしょう。
 たぶん人生の《理論》は こういうところに落ち着くのではないかと考えています。どうでしょう。
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この回答へのお礼

そうですか。
ごめんなさい。

No2の方の考え方の問題を底辺に置いたとしたら、
それは洗脳されているのではないかと考えてしまいます。

ですが、回答いただき、ありがとうございます。
色々な方の意見が客観的に聞けて嬉しく思います。

お礼日時:2011/07/11 20:42

虚無感にも色々あって、人生が上手くいかなくて虚しさを感じる場合と、人生を生き尽した後に虚しさを感じる場合があります。



前者の虚無感はエゴの産物に過ぎませんが、後者の虚無感はエゴの断末魔です。偽りの虚無感は人から力を奪うので、あまり良いものではありませんが、真の虚無感は真の哲学者を生む事でしょう。

諸行は無常なり、されど苦しみから目を逸らしても、後に続くは闇ばかり。考え続け、迷い続けよ。泥中に、ありて花咲く、蓮華かな。死中に活あり。身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ・・・。
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この回答へのお礼

考え方が丁寧ですね。
キチンと細分化されている。
雑に考えて、絡まっている頭を整理していただいて、
ありがとうございます。

そうですね、キチンとそこの部分を見極めないと。
答えが違う。
大事な箇所だと思います。

お礼日時:2011/07/11 18:19

 ずいぶん昔に読んだ『ジャン・クリストフ』の一節に、やはり主人公が神に対して、人はどういう生き方をしようが結末は同じではないか、と問いかける場面があり、それに対して神は、「死すべき汝は死へ行け、苦しむべき汝は苦しみに行け。

人は幸福ならんがために生きてはいない。余が掟を履行せんがために生きているのだ。苦しめ、死ね。そして汝のなるべきものになれ、一個の人間に」と答えます。

 またある人から、「自分が棺桶にはいるときに、悔いのない生き方をしていきたい」と言われました。

 これらの人生観もまた大事だと思います。

 また、虚無について、ミヒャエル・エンデの大作の1つ『はてしない物語』という作品では、虚無がファンタージェン、つまり想像力が生み出した世界を滅ぼそうとし、その国を助けに平凡な少年が勇者と一体となって立ち向かう物語が展開されています。確か、「幼心の君」という名だったと思いますが、そういった大事にしたいもののために、勇気を振り絞って想像力を花開かせてみること、それが現実世界の困難を切り開いていく力を養うための1つの契機になっているということを言いたかったのではないかと思われます。ちょっと読んでみませんか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういう言われ方、凄く安心します。
見知らぬ私を親身に考えて下さっているんだなと、伝わってきました。

そうですね。
他の方もおっしゃるように、
知らずに身についている思い込みがあるかもしれないですね。

オススメ書、読んでみます。
今が一番理解すると思うので。

ありがとうございます。

お礼日時:2011/07/11 06:59

何の為に生きるのかずっと考え続けていけばよいのでは?


人に聞いて知るのではなく
自分で感じて見つければいいのだと思います。
死ぬまで、想ってほしい人に想われながら
失うことの恐怖に怯えるより、今目の前のことを一つ一つ
どうしていくか行動にうつして行けばいいのでは?
じゃなきゃ、多分何を言おうが納得はしないでしょうし・・。
聞くだけ不毛かと思われます。
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この回答へのお礼

No.2の方がおっしゃるように、
私の中の固定観念を打ち砕いて欲しかったんです。

何か思い込みによって、
縛られて動けないと感じたので。

ですが、今の私の状態を客観視してもらえて助かります。

そうですね。先に縛られて、
今を見ていません。

ありがとうございます。参考になります。

お礼日時:2011/07/11 06:52

昔の人は、地獄極楽を想定して、己を律し


社会を律してきました。

現代では、地獄極楽といってもまるで説得力が
ありません。
それで、やれ生き甲斐だとか、生きる意味だとかが
捻出されてきたのです。

欧米では神様が人間を創ったことになっていますから、
創ったからには何か意味があるに違いない、という
論法で、生きる意味、などということが一人歩きを
始めたのです。
現代では欧米が世界を席巻していますから、この思想も
世界を駆けめぐり、人は生きる意味を持てとか、と
いうことになったのです。

生きる意味も、地獄も極楽も同じレベルの存在です。
生きる意味に取り付かれて悩むなんてのは、それこそ
幽霊の存在を信じ、幽霊に悩まされているのと同じです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
凄くわかりやすいです。
考えに取り憑かれている。なるほど。
参考になります。

お礼日時:2011/07/11 06:47

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