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仏教哲学の中に「理の一念三千」と「事の一念三千」というものがあります。
このカテには仏教に詳しい方がおられるようなので問いますが、この二つの違
いは何でしょうか?尚、「一念三千」の内容についてはまたの機会に譲るとし
て「理」と「事」についてお願いします。

仏教哲学の枠にこだわらず、「理論」と「事実」の違いを哲学的に思考すると
どういうことが言えるでしょうか?

「理論と事実」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    仏教哲学としては、基本的な部分であると思いますが…

      補足日時:2020/08/09 23:29

A 回答 (3件)

偶然と必然の絡み合い、、、僕にはこれさえ分からないです。



にゃんポコさんは、自分なりに、自分はここら辺は分かっているが、それ以上は分かっていないと、自分の思考の概要を見てその如何を判定しているところまで平気で述べられているので、スッキリしてると思います。自己欺瞞のようなものを感じないので涼しいですね。

おっしゃる通りだと思います。
頭でっかちで言葉に翻弄されているのをよく見かけますね。
僕も気をつけたいですね。
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この回答へのお礼

キサラギさんは、サクサク理解してくれるので、喋りがいがあります。

お礼日時:2020/08/22 23:28

理の下に事実がある、様に見える、と言うことだと思います。

これが、文化的な人間の見方だと思います。リアリズムからすれば、事実の積み重ねから見出された、諸事象の運行を支配する法則、それが理であるとなるでしょう。そしてこの理は、人間の見出したものである故に常に完全ではなく、時代と共に進歩して行くものだと思います。

でも実はリアリズムもまた、文化的な人間の見方ではあるのですが。。それは、事象をより客観視したものがベースと言えるでしょう。つまり、熊の事故の例えで言うと、熊の生態に照らしてAさんの行動はどう言うものだったかの検証、熊の退治が妥当な判断であったかの検証も含め、隠れた事実、例えば観光客がその熊に餌を与えていた可能性とか、熊が人間の出したゴミを漁っていたと言う事はなかったかとか、温暖化による環境の変化で熊の行動範囲が変わっていたのでは無いかとか、の可能性も考慮した、よりワイドな可能性のある事実の検証と、より深い理由があるのでは無いか?という、今の見方と結論に対する批判を併せ持つ態度は大事かなと思います。

ところで、人間の敷いたルールは破ることができますが、自然のルールは破ることができません。
理とは、どちらにも当てはめられる言葉でありますが、そのどちらも、人間を通じて形を見いだされたものであります。
諸事象、諸事実を従える理がア・プリオリに存在するはずだ、という主張を支える根拠が、我々はどんな原始的な形態であれ、事実を認識する、と言う事実でもって証されるなら、内的に理を予め持って生まれて来る事、つまり認識形式が、諸事実を従える理であると言えると思います。

有名な物理法則でも、それはあくまで人間の創造したものだと私は思います。その理の通用する範囲が、人間が知的に把握する世界であるでしょう。しかし例えば、感覚的に把握できる世界は、理で把握できる世界とは範囲も質も変わって来ると思います。確度は大分落ちるかもしれないが、実感を形成するソースとして、感覚も無くてはならない重要なものであるでしょう。

今後未来、コペルニクス的転回が何度あるか分かりません。人生の一回性が覆される日が来るかもしれないし、宇宙や時空の単一性が覆される日が来るかもしれない。自己の単一性が覆される日さえ来るかもしれない。

どの様に認識が転回するのか分からないが、理もまた進歩すると言う事実は厳然として在るでしょう。
私はその様に思います。
過去の聖人達よりも徳に優れた人物が現れるかもしれないし、過去の偉大な法則よりも更に優れた法則が見出されるかもしれない。
そしてそれは、おそらく可能でしょう。
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この回答へのお礼

私はあらゆる事象というものは、偶然に起きて、その中に必然性があると
考えざるを得ないと思っています。

その偶然と必然の絡み合いが人間には理解のでき難い摂理というものであ
ると言わざるを得ない…要はそこまでしか分からないということです。

例えば、熊と人間の命を比べて、人間の命を優先するべきだ、というのが
常識であり私もそう思います。しかし、何故そう言えるのかと考えるべき
であって、それを「当たり前のこと」と固定してしまうところに人類の進
歩はなくなるのだと思います。

近頃が全くそうであって、根本的な思索がなく、枝葉ばかり伸びている状
態だと思います。この状態はいずれ倒木するに違いないだろうと考えてい
ます。「矛盾に目をつむる」ということだからです。

「何故」を追求することは暫定的な「理」よりも「事実」を重んじるとい
うことになりますね。

お礼日時:2020/08/15 23:31

事実の背後にあるものが理かなと。



ちと雑な例えになりますが。
Aさんが山に入ったが、戻って来なかった。後日、Aさんは山で熊に襲われた事が分かった。村人は、危険な熊を退治しようという事で、熊狩りを行った。

この例えでは、事実は、
Aさんは熊に襲われて亡くなった
熊は村人に狩られた
と言う二点です。
背後にある理は、
山の食物連鎖と、熊と人の縄張り争い。
と言うことになると思います。
事が起こるのは背後の理があるからです。
しかし不思議なことではありますが、事を認識するから、背後の理の姿が明らかになる。

観測した事実に基づいて、理の確不確が検証される。

つまり理の正しさを実証するには事を積み上げるしかなく、積み上がった事から、理がまた導かれる。

理想を掲げて事を実現したなら、理想は実証されたのであり、今の現実に起こっている事から鑑みて背後の理を導き出す。

例えば世界の恒久平和と言う理想は、まだ実現していないのでその理想の確かさは実証されていない。
一方で、時代によって争いは繰り返されると言う今の現実を見て、人の世界にも闘争原理が作用していると見ることが出来る。

つまり、順序としては、現実→理→理の中での生き方の模索 と言うことになるかと思う。

しかしさらに不思議なことがある。
捉えた現実から理を導いたにも関わらず、その導いた理を通して現実を見て、事実の意味を解釈してしまうと言う事が往々にして起こる。

本来は事実が理よりも優位であったのが、人間の認識を通して逆転してしまい、理が事実に優越してしまうのです。

これは由々しきことです。何故なら人間の見出す理とは不完全なものであるにも関わらず、それで現実に解釈を与えてしまうからです。それではその解釈によって生じた意味もまた不全となる。

では、極力事実ベースで物事を考え対処した方がいいのかと言うと、また問題がある。
事実認識においては、それは人間の認識タイプを離れ得ないという事です。つまり、人間の認識能力によって装飾された事実しか、人間は認識出来ず、なまの現実は認識出来ないのです。

ところが、その装飾的に現実を見ると言う認識構造のおかげで、人間は識別できる現実を増やして来たと言う歴史がある。
道具と科学技術の発展だけでなく、人間や道徳についての認識もまた、"人が見出した規則性や法則、道理によって、人が積み上げる事実を変質させて来た結果"、質量共に増大して来たのです。

纏めると、

なまの現実→人間のプリミティブな認識形式→事実→理→人が積み上げる改変された事実→文明の発展

と言う順序で、事と理は、人の生き方を歴史を通じて紡いで来たと言えると思います。
※改変された事実とは、人が自身の行動に質的変化を加えたという意味です。本能的な行動だけでなく、文化的な行動をするようになったと言う意味です。
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この回答へのお礼

深く頷けることがいくつもあるご回答です。

Aさんが山でクマに襲われて亡くなった、というのは分かりやすいたとえだと思います。
この出来事についての一般的な人間の関心事は、昔も今も、仰るようにAさんが亡くなっ
たということと、熊が退治されたということです。これらが人間の側からの「事実」とし
て重要視される、と。

しかし、考えようによっては、そもそもは熊の住むところでもある山の中に、通常は居住
しない人間が何らかの目的により入り込み、熊の恐怖心ゆえか空腹ゆえかによって、体力
の勝る熊が人間を殺した。これが、事実であるということもできます。

この判断の違いは、あくまで人間中心であるか、人間が自然の摂理の中の一存在であるか
の「世界観」の違いであろうと思います。

>なまの現実→人間のプリミティブな認識形式→事実→理→人が積み上げる改変された事実
→文明の発展

このように文明が発展してきた部分があったとは思いますが、近年に至り、「あくまで人間
中心」の世界観に大きく偏っていると言わざるを得ないと思います。もっと、広い構えてゆ
かなければ本当の文明の発展は私は「ない」と考えています。
人間によって、いや、特権階級の人間によって「装飾された事実」を如何に見破るか、がこ
れからの人類の向かうべき方向の一つであると思います。

>事実の背後にあるものが理かなと

理の下(した)に事実があるとは言えまいか?
このあたり、難しいですが…

お礼日時:2020/08/09 23:18

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