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 絶対(または絶対者)として想定していて 信仰の対象ですか。
 きわめて単純に また 類型的に言って

  人間  = 絶対(絶対者=神)
        ↓   
  ゴータマ=ブッダ
  イエス =キリスト

という理解にはならないですか。説明するときの表現の問題では さまざまに異なっていると考えますが それらは 大同小異と見ることは出来ないですか。根本的な相違だと思われる事柄をおしえてください。なお可能性があるかも知れないと思って お尋ねします。

 もし ブッダが神でないとすれば ブッディスムは 無神論として 《無神という神》を立てているものと考えます。そういう信仰のもとに 人は 人間の成りうる最高の状態としてのブッダを目指すと理解することになると思います。
 
 このような考えに対して添削をおこなってください。

A 回答 (42件中21~30件)

>というように 《たくさんのノイズ(雑念)を発していること》になるのですか? 


>むしろ単純に考えれば ノイズを処理するところではないのですか?

 潜在意識は、非常に複雑で、顕在意識のように単純ではありません。
 視覚、聴覚などは、ノイズ処理が主な機能とはいえますが、

 家で目を開けてボーとしているとき、目の前を愛犬が通り、
 外では、選挙演説、蚊に刺された腕が痒く、その日の晩飯を何にしようかを思い、
 電話で株式相場の話をする。
 顕在意識の優先処理事項は、電話での相場の話であるのに、
 潜在意識は自動的に、顕在意識に情報を与えつつけています。
 次の瞬間、聞こえてもいないモーツアルトの旋律が現れ、故郷の幼なじみの
 顔が思い浮かびます。
 顕在意識がやっていることではなくて、潜在意識が自動的に動いているのです。
 ノイズの処理はやってますが、他の部分で顕在意識にノイズを発生させています。
 顕在意識は、基本的にシングルタスク、潜在意識はマルチタスクなのです。
 まぁ、テレビを見ながら、ストレッチをしつつホテチを摘むことは出来ますが
 それも100b/sの範囲内のことです。
 
>《森羅万象の深みに入れない》ですか?
 全知全能の神が知る森羅万象うち、顕在意識がこれに触れ得る部分のことで、
 顕在意識の視点では、これに触れるのはまぁ絶望的です。
 顕在意識は、潜在意識の膨大な処理が完了した後の、潜在意識に都合良く、受け取り易い
 情報しか受け取れないのです。顕在意識が認知する視覚、聴覚、その他感覚は、
 突出して人間的です。時間、空間、その他の次元の可能性も含め、
 神の知る森羅万象とは間違いなく異質です。さらに、顕在意識が潜在意識から情報を受け取った
 時には既に森羅万象は、既に次に進んでいるのです。そこには無いのです。
 顕在意識にあるのは、記憶とその処理なのです。その処理中に森羅万象で実際に
 何が起こっているのかを顕在意識が知るすべはありません。これが意識の浮遊です。

 一方で、全体として前段の記載事項も森羅万象の深み一部であり神であるとする視点では
 顕在意識と神との境界は基本的にどこにも存在はしていません。
 
 しかし、そうであったとしても、顕在意識が、顕在意識自身が自分であるとして
 バンド幅を占有している限界内は、潜在意識にとって自らは神ではありません。
 神を認知できないのです。
 
>もともと通じているその神の深みに 実際にも 入ることができれば わざわざ《信じる》というようなことをする
 必要がないわけですから。

 端的にその通りです。しかし、顕在意識のバンド幅が自らを独自の世界へと切り離しています。
 この範囲の顕在意識に、世界が無神であるか有神であるかを見分ける能力は無いのです。
 百歩譲って論理的な証明を理解してもその前後で変わることはありません。顕在意識がこのバンド幅のまま
 神と同化することはないのです。顕在意識のアーキテクチャーは、限定された範囲でしかありません。

>人間のバンド幅いっぱいの意識やその境地は 実現し得ないという解釈になりますが それで よろしいでしょうか?
 
 そうではありません。既に、バンド幅いっぱいの意識は、顕在意識以外は実現しているのです。こちら側は、
 追加したり、削除したりする必要は何もありません。悟り、楽園、至上の愛はすぐ傍にあるのです。

 対極である顕在意識のこの牢獄は、進化の過程で醸成された生存に必要な一つの機能にすぎないようにも思います。
 いわば、有神であるか無神であるのかを選択させる処理プログラムにすぎないということかもしれません。たとえ選ぶ必然がなくともこのプログラムにかかると不自然にも当然のように選ぶことが出来てしますのです。

 潜在意識と顕在意識がこの役割分担をしていなかったら・・・顕在意識が事象を超高速で意識的に処理する
 能力を持っていたとしたら・・・一瞬にして記憶容量がパンクするに違いないのです。

 変わる必要があるのは、顕在意識側です。いきなり全てを顕在意識側から凌駕するのは不可能で、
 これを超える道は、No11の通りかと感じますね。。
 これまでの表現方法を踏襲すると、顕在意識が潜在意識に対して相当なエネルギーを使って新たなプログラムを
 作り込むということから始まると思うわけです。手になじんだギターが体の一部であると感じるかのように・・
 こういった広がりによって、顕在意識が自ら自動化し消失したポイントとが悟りなのかもしれません。
 自分を彼という三人称でも呼んでしまう地点ですね。  

この回答への補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。
 だいぶ 馴染んで来ましたよ。
 ★ ノイズ(雑念)
 ☆ の問題は 《ノイズ》としては 考えるに 《顕在意識として受け取っているのだが 心を集中させている事柄以外のこととして 一たん 未意識として保留していたもの これが あとで 顕在意識に訴えてくる》と理解しました。そのとき 《保留》ということが 潜在意識において行なわれているのかも知れないと。
 ただし 《雑念》一般としては 衝動や欲求といったことをも含むと思われ それらは もともと 潜在意識にあったのかも知れません。処理し切れなかったものでしょうか。

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これまでの表現方法を踏襲すると、顕在意識が潜在意識に対して相当なエネルギーを使って新たなプログラムを作り込むということから始まると思うわけです。手になじんだギターが体の一部であると感じるかのように・・
 こういった広がりによって、顕在意識が自ら自動化し消失したポイントとが悟りなのかもしれません。
 自分を彼という三人称でも呼んでしまう地点ですね。  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは おもしろい(有益な)視点を言い当てているかも知れないと思いました。つまり普段は肩身の狭い思いをしている顕在意識ですが それでも いわば現実に実践をしているわけです。その主体です。そして このとき 意識に対応する意味での記憶という行為能力であるよりは 実践(要するに 生活)の主体としては 意志という能力行為のほうを取り立ててもいいのではないか こう考えました。
 それは したがって 潜在意識の命じるところに 時には 逆らってでも 自己表現をおこなっていく場合がある。つまり 意志行為のことですが この意志行為の軌跡として 潜在意識に蓄えた歴史は 時として その記憶行為を変革するほどの影響を持ち得るかも知れない。こう思いました。ただのひらめきですが。すなわち
 ★ 顕在意識が潜在意識に対して相当なエネルギーを使って新たなプログラムを作り込むということから始まると思うわけです。
 ☆ 要検討です。

 あと 同じく面白いと思ったのは 以前のご回答の中で
 ★★ 悟りを語るブッダが悟っていることはあり得ないが、ブッダは悟っているということですね。(ANo.11)
 ☆ という箇所です。ちょっと お遊びになるのを承知で言えば 
 ○ 《悟りを語るブッダが悟っていることはあり得ないが、ブッダは悟っているということですね》と語るbananasandさんは――と言いますか 誰でもよいわけですが―― その語るときにおいて 悟っていることはあり得ないが bananasandさんは悟っている。
 ☆ ということになりますか? 
 ○ 絶対と直面する人は ただちにそのすぐあと あたかも何ものかに弾かれてしまうかのように その感覚は消し去られてしまうのだけれど その〔感覚の〕一瞬において 悟っている。 
 ☆ ということになりますか? (お遊びが過ぎますか?)

補足日時:2008/07/26 18:49
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おはようございます、brageloneさん。



●同時に 懸案のほうも 応答がついていなくては おかしいです。
つまり 同時に応答がついて来ていない場合 それを受け止めるわたしが 
あいまい人間を認めてしまう恰好になります。共倒れです。



ジュースの自動販売機の前に立ち
硬貨投入口に
100円玉1枚と10円玉2枚,計120円を投入
各ジュースの下にあるランプが点灯
ファンタグレープとファンタオレンジに目がとまる
うーん、どっちも飲みたい
でも、120円ピッタンコしか持ってでてきていない
困った
右の人差し指と左の人差し指
それぞれランプの前に指を突き出して
目つぶって同時に押す
ガラガラガッチャン
取り出し口に缶1つ
どっちが出たのかお楽しみ

●同時に 懸案のほうも 応答がついていなくては おかしいです。

おかしいか?おかしいなー。同時にふたつ缶出て来たら、そら機械の故障か何かやわ。
・設定は120円で1缶。120円で1缶の設定で120円で2缶出て来てたら
買う側はラッキーかもしれんけど売る側は大損?
そやけど、買う側がばかりがラッキーかといえばそうともともいえん
120円しか払ってないのに同時に出てきたもう1缶を
代金の支払いなしに持ってかえったら…あわわ
タダよりコワイモノハない くわばら くわばら
・設定は120円で1缶。120円で1缶の設定で120円で1缶も出て来なかったら
買う側は大損かもしれんけど売る側はラッキー?
そやけど、売る側がばかりがラッキーかといえばそうともともいえん
お金入れても商品は出てこないは、おまけに入れたお金は返ってこない
ついてねぇー。“おまけ”というのについてない。
ついてないならば“責任者出て来ーい!”と
人生幸朗師匠の口ぐせが口をついて出てくる。

ひゅーどろどろどろ 『憑神』

【自動販売機 よもや話】
http://www004.upp.so-net.ne.jp/sekitou/zasyok26. …
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html (ANo.14)
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この回答へのお礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ですが わたしたち人間は 自動販売機ではないと たぶん 言えると思うので ボタンを押しても 押されても グレープを出そうが出すまいが オレンジを出そうが出すまいが すべて その人の自由に任せられているのです。人間は とことんまで完全に自由なのです。

  すべてのことは、わたしに許されている。
  しかし、すべてのことが益になるわけではない。
  すべてのことは、わたしに許されている。
  しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。
   ( コリント前書 6:12 )

とも 同時に 聞かなければならないのですが。
 《“責任者出て来ーい!”》という声を 心に聞きましたか? 去って行く自由もありますよ。わたしが追ったためしはありません。
 ★ ひゅーどろどろどろ 『憑神』
 ☆ これを癒し切るのに 四十年かかりました。

お礼日時:2008/07/26 08:43

あぁ、こいつは大変です。

とりあえず。

意識のバンド幅から説明を加えます。
最終の意識は0か1、2ビット、選択の結果です。前段の意識からの出力です。時間の単位は前段に依存します。
その前段である選択、決断を行う意識は、せいぜい100b/sでしかありません。ここが顕在意識です。考えるとか、思考するとか、決断するとか、読んだり、書いたり、意識して何かをするところです。ここが選択権がある自分が自分だと思っているところです。浮き草部分です。
そして、顕在意識に情報を与える顕在意識には意識できない意識領域があるわけです。感情、直感、感覚(視覚、聴覚など)です。
コンピュータを基準に考えて、おそらく数Gb/s以上のバンド幅を有していると思われます。ざっくりと顕在意識以外として扱いますがここに普段顕在意識には認知されない驚異的能力があります。顕在意識の少なくとも数100万倍で動いています。画像処理、音声処理、記憶能力、検索能力など証拠はいくらでもあります。
顕在意識に物が見える、聞こえるのは、顕在意識以外の部分が超高速で膨大な処理をした後にここから情報が提供されています。こんな機械的処理以外にも複雑で複層的で自動的機能を多く有しています。
分かっていただけると思います。ただ静かに佇んでいるとき顕在意識以外の部分がたくさんのノイズ(雑念)を発していることを。このノイズは顕在意識ではありません。

人間の意識は思っている以上に低次元な存在というのは、この顕在意識のバンド幅を指しています。人間は、意識が思っている以上に意識を遥かに凌ぐ存在とは全体のバンド幅のことです。
意識の境界は、まさに顕在意識のバンド幅の限界を指していて、意識の浮遊状態とは、顕在意識が顕在意識以外の意識からの情報しか受け取ることができず、さらにそのバンド幅内でしか意識して思考できないということです。これが森羅万象の深みに入れない理由でもあります。

そして、悟るのはどの部分なのかです。少なくともこの顕在意識の低速度な領域が悟らなければ悟りとは言えませんね。それ以外の部分は意識されないのですから。
しかし、この低速度な領域が単独で悟るのはバンド幅から言って到底不可能で、一方、それ以外の部分が悟っていても顕在意識には認知することができないという壁に突き当たります。
神と人間との境界は、基本的に存在はしないのですが、顕在意識は自らの帯域を占有しているがゆえにおのずと神との境界が出来上がっているということになります。

なぜ顕在意識がこれほどまでに狭い帯域しか持ち合わせていないのかは、単純に生存するのに都合がよかったということに尽きると思われます。顕在意識は一種のアーキテクチャーとして醸成されたものであって、これ以上の処理をやらせるとおそらく生存に必要な判断能力に支障をきたすのです。

この回答への補足

 bananasandさん お早うございます。ご説明ありがとうございます。

 《バンド幅》にたとえたとき
 (A) 森羅万象
 (B) 人間(その存在の全体)
 (C) 潜在意識および顕在意識を含む意識の全体
 (D) 顕在意識=浮き草
のように分けられるとしますと たぶん《潜在意識》という言い方でいいと思うのですが では なぜこの潜在意識においては
 ★ 分かっていただけると思います。ただ静かに佇んでいるとき顕在意識以外の部分がたくさんのノイズ(雑念)を発していることを。このノイズは顕在意識ではありません。
 ☆ というように 《たくさんのノイズ(雑念)を発していること》になるのですか? むしろ単純に考えれば ノイズを処理するところではないのですか?
 ★ 意識の境界は、まさに顕在意識のバンド幅の限界を指していて、意識の浮遊状態とは、顕在意識が顕在意識以外の意識からの情報しか受け取ることができず、さらにそのバンド幅内でしか意識して思考できないということです。これが森羅万象の深みに入れない理由でもあります。
 ☆ 《顕在意識のバンド幅の限界》として《意識の境界》はあるでしょうが そのように《限界・境界》を捉えたところで その柵を超える可能性が 実際にも 芽生えていると言っていいのでしょうね? それでも 《森羅万象の深みに入れない》ですか?
 ★ 神と人間との境界は、基本的に存在はしないのですが、顕在意識は自らの帯域を占有しているがゆえにおのずと神との境界が出来上がっているということになります。
 ☆ この《神との境界》は 逆に そのまま 《神との接点》ではないのですか? あっ いや 《神と人間との境界は、基本的に存在はしない》のでしたら 《接点》という必要もないわけですね。可能性としては いつでも《森羅万象の深みに入ることができる》存在として造られている。こう言っていいわけですね?
 でも
 ★ 顕在意識は一種のアーキテクチャーとして醸成されたものであって、これ以上の処理をやらせるとおそらく生存に必要な判断能力に支障をきたすのです。
 ☆ だから
 ★ 顕在意識がこれほどまでに狭い帯域しか持ち合わせていない。
 ☆ ということですね? これでも いいわけですね? ゆえに
 ○ 有神論か無神論か いづれの形態としてでも 信仰の原点を 人は 持ち得る。
 ☆ ということに帰結すると捉えると 大幅に 我田引水になりますか? なりませんか? つまり もともと通じているその神の深みに 実際にも 入ることができれば わざわざ《信じる》というようなことをする必要がないわけですから。
 信仰は 方便だということになるでしょうか? 方便だから要らないと言っても 無神という神なりとも信じるということでなければ 人間のバンド幅いっぱいの意識やその境地は 実現し得ないという解釈になりますが それで よろしいでしょうか?
 
 * 一晩寝て 冴えているでしょう?

補足日時:2008/07/26 08:25
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primeapeです。


私は無心画判るまでにまでたどり着きました。
ただし無の境地は至らずに、それにこだわりもありません。
仏陀の姿は人間の理想像とは思えづ、むしろ神の使わした使者に思えます。
したがってイエスが神であるならば仏陀も神です。

私が考えているのは、誰もが自分の理想の姿を体現しているのお自覚して欲しい。
そんな思いです。
間違った信仰として信仰したい衝動のはけ口としての立派な人もありえるのではないかと思います。
「何を信じようかな」そんな衝動を思い出す人も居るかもしれません。
信仰は自由です

この回答への補足

 primeapeさん お早うございます。翌朝 書いています。

 ★ 私は無心が判るまでにまでたどり着きました。 / ただし無の境地は至らずに、それにこだわりもありません。
 ☆ 観想・瞑想の成果というものは だいたい 再解釈を必要とするような表現になるものですが なかなか むつかしいです。
 《無心》が判ったが 《無の境地》に至ったわけではない。けれども そこへの到達ということにこだわるものでもない。――こういう意味でしょうか。両者のちがいが 問題になりますね。
 ★ 仏陀の姿は人間の理想像とは思えづ、むしろ神の使わした使者に思えます。 / したがってイエスが神であるならば仏陀も神です。
 ☆ ここの《仏陀》は むしろ《仏性》というように 抽象的な・けっきょくは《絶対》のことでしょうか。
 《神の使者》といえば ムハンマドが挙げられますが イスラームは いま別として こういう構図になるでしょうか。
 《絶対》ないし《神》が想定される。イエスなる人間は そもそもの想定からして その神が肉となった姿であるが そこからの言葉を伝える使者という役目を担う人間の存在も 考えられる。ゴータマ・ブッダが それではないか。もっと言えば このブッダは イエス・キリストのことを 背景としては 伝えようとして出たのであると。
 いづれにしても
 ★ 私が考えているのは、誰もが自分の理想の姿を体現しているのを自覚して欲しい。 / そんな思いです。
 ☆ 絶対との直面 そのような原点 それとしての広義の信仰 そこからの おのおの有神論にしろ無神論にしろの出発 こういう基軸を忘れるな。(我田引水ですか?)

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 間違った信仰として信仰したい衝動のはけ口としての立派な人もありえるのではないかと思います。
「何を信じようかな」そんな衝動を思い出す人も居るかもしれません。
 信仰は自由です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 後半は わたしも そのとおりに思います。前半=最初の一文は 残念ながら 意味が取りにくいですよ。たぶん 舌足らずだと思うのですが。

 * ブッダについて《有神論 / 無神論》の両様の見方が考えられるというひととおりの結論が得られたと思ったのですが まだまだ 吟味と細部の詰め・精緻化は つづくようです。あらためての出発です。

補足日時:2008/07/26 07:41
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ははぁ、基本的な部分がずいぶん違うんですね。


>人間と神との接点のことだとしたら
人間と神との境界はありません。したがって、接点はありません。
人間の意識のみが浮遊した状態であって、意識が境界を作っているに過ぎません。その個体が呼吸しているのは人間なのか、地球なのか、神なのかは区別がつかないのです。人間だと思っているのは人間です。

>無神論の立ち場からの世界観なのでは?
 繰り返しのべているのは、無神論、有神論両方を同時に積極的に肯定しているということです。いったいどちらなのだと言われるかもしれませんが、再三述べてきたと通り、無神論かつ有神論なのです。
全知全能にして唯一の絶対神もスピノザの神も八百万の神も完全に肯定した瞬間に消え去り(その定義から存在が否定される)、否定すると出現します(存在理由を失うため不可欠となる)。一点に集中した無限大のエネルギーと同じ構造です。単純な両者選択ではなくて、<絶対>が指し示すところのいわば思考の諦観としての両者肯定です。両方とも正しくないと現実が成り立たないのです。

 そして、この世界を超えてゆくのは浮き草ではありません。
 浮き草つまり、人間の意識は思っている以上に低次元な存在であって、人間は、意識が思っている以上に意識を遥かに凌ぐ存在です。
特に意識が自ら境界を作っている内部に自らが存在していると自覚している意識では、到底超えてゆく者になどなれるわけがありません。

>ブッダは 視野が小さいと思います。
 確かに。ブッダ自身が外道の方法論を提唱しているのなら、フッダ自身の悟りを否定せざるを得ないですね。そういう意味でフッダ以外の者が布教の方便に用いていると思っていますが、そうでないならフッダの悟りは否定されます。
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この回答へのお礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 ですが 完全なエアポケットに入りました。
 分かりません。
 ★ 無神論、有神論両方を同時に積極的に肯定しているということです。
 ☆ このこと自体は わかります。初めからそう言おうとしていたことです。
 あとの意識の境界だの 意識が浮遊した状態だの 《人間は、意識が思っている以上に意識を遥かに凌ぐ存在です。》だの わたしの思想を超えています。
 このなぞの解明を ほかの皆さんにも競って欲しいほどです。皆さん わかりますか?
 たぶん bananasandさんは これで 言葉を費やして できるだけ一般化して表現していると思っておられるのだと考えられます。そういう場合は なきにしもあらずです。ですが お手上げです。わたしは 今日のところ さじを投げました。日が明けてから また 考えます。朝が明ければ フレッシュ フレッシュと行くでしょう。

 こんなお応えにて お赦しあれかし。

 * ★ 人間と神との境界はありません。したがって、接点はありません。
 ☆ 融通無礙なんかいな? なんで? なんで そうなるの? キリスト=イエスのこと? 人間一般のことでしょう? では なんで? (独り言です)。

お礼日時:2008/07/25 23:30

まず<外道>について、悟性は他を廃除する性質を持ちませんから、布教活動の方便かなにかと捉えざるを得ませんね。



>世界の内側を隈なく あらためて 究めていくか そういう両方の可能性を 留保していたのでしょうか?
 
 我々は森羅万象の上に浮遊する浮き草であって、浮き草が浮き草のままこの森羅万象の深みに沈むことはありません。浮き草は自分が浮き草であることを知るよりも、森羅万象の一部であると同時に浮き草が自らを浮き草であると信じていることをを除いて森羅万象そのものであることを自覚した方がよほど自然です。
浮き草は、その内側も外側も同質のものであって、境界などどこにもありはしません。でも、浮き草が自らを浮き草であると信じていることろの浮き草に、悲しいかな、浮き草以上に究められるような何かはありません。答えは、境界という幻想にあるのかもしれませんし、関係性そのものを抽出することがそこから抜け出る道なのかもしれません。浮き草は悟るのですが、自らを浮き草だと思っている浮き草は悟ることは出来ません。

 とはいえ、これらの浮き草世界と絶対が表現可能な領域となる哲学的真理の崩壊点とは直接的に関係はないですね。
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この回答へのお礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 ★ まず<外道>について、悟性は他を廃除する性質を持ちませんから、布教活動の方便かなにかと捉えざるを得ませんね。
 ☆ いや ちょっと これについては 食いさがります。ブッダは 視野が小さいと思います。
 ☆☆ ほかの唯一神信仰などに対して 理論的には(ということは 集団としての宗教の問題は 別として 理論的には) 《外道》などと言わず まったく 同等の仲間であると認識していなければいけないでしょう。(No.12へのお応え)
 ☆ つまり 単純に《外道》という規定は 仏教の内と外の認識のことではなく 《信仰原点を同じくしていると思われるのに 自分のおしえを信奉するのではない場合に それを指して 中身が無く間違っているという意味で 外道と言っている》わけですから 排除の意図があるように思われます。

 ★ 浮草
 ☆ たぶん 浮草は 浮草どうしをよく見つめて 世界における自己の位置を知るというよりも 自己が世界なのであると知ったとしても よいのだ。という たぶん 無神論の立ち場からの世界観なのでは?
 この世界観を持つところを 有神論では この世界を超えていくということだと考えます。超えるということは この世界を含むということだと知ったとしても よいのだと。

 ★ とはいえ、これらの浮き草世界と絶対が表現可能な領域となる哲学的真理の崩壊点とは直接的に関係はないですね。
 ☆ これについては お手上げです。わかりません。強いて言えば 関係あると思います。単純に 人間と神との接点のことだとしたら。・・・

お礼日時:2008/07/25 20:37

>>このまとめを よろしかったら さらに 添削してくださいませ。



 では、意見交換ということでもう少しお話させていただきます。


>>有神論もあれば 無神論もある。宗派というよりも 個人によって 自由に作り直して 信仰とするのもよければ 無神論のもとに経験思想とするのもよしという恰好である。ブッダが そういう可能性あるいは可塑性を持ったものとして 自説を説いたのである。

 お釈迦様の布教形態である「対機説法」ということを考えますと、そういうことでしょう。ただ、「個人によって自由に作り直して」というのも、お釈迦様が亡くなってしまった以上教典的な論拠に則っている必要はありますけどね。
 「浄土教」の別名は「二尊教」といわれ、お釈迦様と阿弥陀様二人の思いであると言いますから正確には一神教とも言いがたい所ももっていますけど、やっぱり浄土教なんかはキリスト教と比較されることも多く一神教的な形態が強いといえるでしょう。(人から聞いた話ですが、海外から仏教を学びにきた人が、仏教を勉強して「キリスト教と同じじゃないか」と言って国に帰ってしまったという話があります。そのとき学んだ仏教は浄土教だったそうです。表面的に見れば似てるんでしょうね。)
 それに対して「禅」なんかで説かれる「空」の思想は、無神論という捉え方ができるでしょうね。「神は死んだ」言わしめたニーチェなんかが「仏教はキリスト教の何倍も理論的である」なんてなことを言ったのは、どちらかといえばこちらの思想だったんじゃないでしょうか。(ニーチェがどこまで仏教を理解していたかは疑問を挟む余地がありますけどね・・)
 しかし、双方違ったように見えても鈴木大拙先生なんかは「他力を目指すには自力がいるし、自力の修行に励めば他力になってく(乱暴な言い方ですが・・)」と、そこに実は違いはないんじゃないかとおっしゃっていたりもしますからね。まぁ、鈴木大拙先生に言わせれば少なくとも双方とも仏教の理論に則っているということなんでしょう。


 さて、質問の本題はこちらなのでしょう。
>>・絶対・・・・・もっとも中立的な規定(また想定)

 私自身どうも仏教よりになってしまいますができる限り中立な考えにおいて「絶対」という言葉を考えてみます。絶対は相対の対義語となるわけですが、『摩訶止観』などを読みますと「絶待」「相待」と表されていたりします。相待は「相待ちて成る」というようなことなんだそうです。「絶対」というのは彼我・大小・善悪等々の二つのものが相対する概念の超越することを言うようですね。そこで、一神教の神・仏教で言う真理なんかに「絶対」という語が冠せられます。


>>・絶対者・・・・擬人法で表わしたかたち
>>・神・・・・・・日本語で 超自然の力を表わした言葉で近代以降に絶対者のことを〔も〕表わすようになる。

 では、擬人法ということについて少し考える所があります。確かに仏教で説かれる「大日如来」「毘盧遮那仏(奈良の大仏さん)」なんかは絶対の真理の擬人化という言い方は成立すると思うんですよ。
 しかし、一神教で言う神となるとそうとも行かないような気がします。確かに、仏教に説かれる真理と同様に「絶対」という言葉を冠しているものの。その教義において擬人化とはいえないのではないでしょうか??スピノザの「神即自然」という言葉が無神論としてえらい論争に発展してしまったように、ユダヤ教やキリスト教・イスラム教等の一神教の思想の中において、神は何かの擬人法という考えはないように思います。
 一神教系の神は神として絶対的に存在しているというものと、仏教で説く絶対の真理の擬人化との比較は、同じ「絶対」という言葉を冠していながらも根本的に違うんじゃないかとも思います。


>>・阿弥陀仏(=無量光・無量寿つまり 無限という意味で 絶対を表わす)・・・言いかえると 《無量光・無量寿》という属性を表わしている。
>>・全知全能・・これも 絶対者の属性を表わす言い方である。
>>・その他 属性を表わすものとしては:正義・真理・愛・慈悲・智慧・永遠・永遠の生命などなど
>>ですから 属性である《全知全能》を持って来て 比較するのは 別問題だと言わねばなりませんよ。絶対であるか否か これが 基本の判断基準です。

 なるほど。確かに、「絶対(絶待)」という関しては、仏教においても、一神教思想においても、真理であったり神であったりを「絶対」と表現するということに関しては私も異論はありません。
 しかし、その絶対が持つ属性(特性・個性)のは双方違いが有る。ということも考慮に入れるべきだと思いますよ。


>>人間  = 絶対(絶対者=神)
>>    ↓   
>>ゴータマ=ブッダ
>>イエス =キリスト
>>この式が 成り立つ場合もあれば 成り立たない場合もある。そしてそれは 基本的に 個人の自由である。こうなるでしょうか。

 なんと言えばよいか難しくて悩んでいます。基本的に仏教は「縁起の法というものをもって世界はまわっている」としますので、「神の意思が世界をまわしている」というような一神教の神の概念を否定的ですので無神論の立場となります。そういったことを根底におきながら、大乗の仏菩薩は多神教的な要素を持っており、阿弥陀仏への信仰は一神教的な要素を持っているということです。
 上記してきたことを考慮して私の意見を申せば、その式が成り立つということはいえません。成り立たないということが前提の上で、神や仏陀、その進行形対等に共通点を見出していくというほうが私はしっくりきます。


>>成り立たない場合には やはり 《無神という神》を 一度は 絶対と自己との関係として 想定したところから出発しているという理解になるでしょう。
 
 うーん難しいなぁ。仏教においてはキリスト教的な「神」の概念がないと思いますから、その神の概念がないのだから「無神」という概念と自分の関係を想定するのかどうかは、何ともいえませんね。仏教って、結果的に無神論だったってタイプだと思います。


 なんだか、最後に行くにつれてごちゃごちゃしてきちゃった気がします。申し訳ないです。
合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

 baka-hageさん いくつか例示していただいて 話が つかみやすくなったのではないかと思っております。ご回答をありがとうございます。

 つまり いちばんの極めつけは 次です。
 ★ 仏教って、結果的に無神論だったってタイプだと思います。
 ☆ すなわち これは 取りも直さず 時間の先後を問わず 信仰の原点に立ったということを意味すると思います。
 つまり 事後的に 確認するかたちであったとしても ブッディストは 一たん どこかで 《絶対》と直面しているというわけです。直面のあと 有神論者は さらに この絶対を 絶対者としたがり つまりは もともとのそれに見合う言葉で――つまり 一般に 《神》に相当する言葉で――表わしていき これを 自己の生活態度の中に 表現するかたちをさえ持つに到る。《絶対ないし神》は虚構なれど その神との直面ないし関係は 或る種の現実となるというわけです。
 つまり 無神論者ならば その直面の場に立ったあと じゃあ さようならと言って 経験世界に戻ってくるということではないでしょうか。でも 直面したという原点は たしかに 人それぞれの原点であって そのとき 人は 信仰者となっているのだと考えます。例外なくそうなのだという理論なのですが?

 あとは 細かい事項として
 ★ お釈迦様が亡くなってしまった以上教典的な論拠に則っている必要はありますけどね。
 ☆ けっきょく 《仏性》を 普遍的なみなもとであるとして 絶対と捉えるか それとも 絶対はあくまで 無であると捉えて 自己の視野を経験世界に限定しつつ 相対的な・厚薄浅深良質悪質の違いがあるものに限られるというような人徳と見なすか この分岐点から 違いが出て来るのではないでしょうか。その意味では 教典をしも いまの分岐点のいづれかの視点によって 読み解くことになるような気がしてなりません。お釈迦さまは もはや眠っていて欲しいということのように思われます。

 ★ 「浄土教」の別名は「二尊教」といわれ、お釈迦様と阿弥陀様二人の思いであると言いますから正確には一神教とも言いがたい所ももっていますけど、
 ☆ これは 絶対が唯一だということに反するものではないはづです。無限を分割しても それぞれの部分が なお無限であるということではないですか。(ちなみに 三位一体も 同じことです)。

 ★☆ ニーチェは パスします。『アンチ・クリスト』は めちゃめちゃです。

 ★ 自力と他力
 ☆ 信仰の原点では 絶対を前にして 人は 無力であり絶対他力です。この絶対他力を生活態度にも 留保して何とかして表現しようと企てる有神論者にしても 経験世界においては 自力によるしかありません。無神論者は 言うまでもないということだと考えます。
 (自力の行為の中に あるいは 自力を超えた社会的な行為関係の錯綜の中に 絶対他力がはたらいたのではないかと夢想することは 主観自由ということでしょう)。

 ★ 「絶待」「相待」
 ☆ にかんしては わたしは 聞かれるまでもなく 明るくありません。いまのところ 《絶対・相対》で説明可能であるように思います。
 ★ 絶対の帯びる属性のこと
 ☆ どうなんですかねぇ。
 ★ 神に酔えるスピノザのいわば汎神論 / ユダヤ教やイスラームの神について擬人法は どうなっているか / 《仏教で説く絶対の真理の擬人化》〔* これは 表現の問題に帰着させ得れば すべて 認められるというものだと思います。したがって 比較対照は まったく自由だとなると思います。つまり擬人化の仕方は まったく自由なはづです。〕 ☆ これらについては わたしの能力ともども 詳説することは いまの時点で わたしは慎みますが この質問の範囲内で ユダヤ・イスラームなどは 視野に入れなければならないかも知れません。ご見解の開陳に応じて 勉強しつつ ついてまいります。

 ★ 基本的に仏教は「縁起の法というものをもって世界はまわっている」としますので、「神の意思が世界をまわしている」というような一神教の神の概念を否定的ですので無神論の立場となります。
 ☆ 少し 微妙に少し――ということは 表現だけの問題であるかも知れないのですが―― 異なって見ています。キリスト者として言えば 《「縁起の法というものをもって世界はまわっている」》その現実について 《神の意志がはたらいている》と見るのは あくまで 主観自由のその主観内の出来事です。それ以上の意味はあり得ません。それが 信仰というものです。

補足日時:2008/07/25 20:11
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この回答へのお礼

 ですから もし無神論の経験思想家であれば 為し得るならば 《縁起の法》というものを 経済連関表のごとく あらゆる人のあらゆる社会行為の関係を すべて 一つひとつ取り出し分析して こういう力関係で 世界は動いているのが それだと 示して見せようとするはづです。そのとき 神の信徒であれば 主観の内で どこそこの社会的な動きは 神の意志がかかわっているのではないかと思ったりするのでしょう。どちらも 互いに同等の思想形態です。

 ★ ゴータマ(人間)=ブッダ(絶対)
 ☆ の式は 成り立たないとおっしゃっています。たぶん 《仏性》としては 成り立つという信仰を持つ人もいるのではないでしょうか。

 駆け足でしたが。

お礼日時:2008/07/25 20:16

《日本人は このような信仰の類型論にかんして きわめて自由に 取り扱っていける人びとであるのではないでしょうか。

そして そのことは 現代世界が要請しているものと思います。》

《有神論か無神論かの 互いに同等の原点に立つということ。この仮説にかんして いづれの信仰態度も 互いに同等の内容を持って成立していると見る見方は 日本人のものなのではないでしょうか。そういう含みでもあるのですが この信教・思想の類型論は 現代世界が答えを待っている問い求めであるのではないでしょうか。(おおげさでもないと思うのですが)。》

この二つのお礼を読みますと、質問者様は、世界平和を願っていらっしゃるが、平和ならぬはそれぞれに独自の神を信じ、他の神を排しているからであると考えている。
このように解釈してよろしいですか?

もしそうならこれは大きな間違いです。
戦争は、利権のぶんどり合い、あるいは、兵器会社の稼ぎのために行われているので、宗教はそれをあからさまにするわけにはいかないからこじつけたに過ぎません。
お時間がおありでしたら、是非、集英社の「赤い盾」という本をお読み下さい。宗教の役割を知ることが出来ます。
仏教は、世界の宗教の中では少数派なのはご存じだと思いますが、その訳も知ることが出来ましょう。

この回答への補足

 oobankobanさん ご回答をありがとうございます。

 広瀬 隆 著『赤い楯―ロスチャイルドの謎』〈1〉~〈4〉 (集英社文庫) でしょうか。アマゾンのブック・レヴューをいくつか読み 《広瀬隆》と《死の商人》のwikipediaの記事を読みました。
 ★ 戦争は、利権のぶんどり合い、あるいは、兵器会社の稼ぎのために行われている
 ☆ ことに関しては 多かれ少なかれ そうであろうとは――推測のままですが――思います。
 ★ 〔ひとつの主題として〕 宗教戦争
 ☆ という見方を そのものとして(つまり 全面的にそうであるとか 原因は 間違いなく 宗教の争いであるとか のかたちで) 採っているものでもありません。わたしは
 ★ 世界平和を願って
 ☆ おりますが その主題と いまの質問とは 思想つまり生活態度として 根底でつながっているという認識でいます。言いかえると 戦争の問題とは 何段階かを経て つながる質問内容であると考えています。
 つまり ちなみに 個人の信仰→生活態度や思想→社会の慣習や思潮→国の外交→戦争といった諸段階です。宗教は 社会の風潮を助成したりするでしょうが 基本的に 集団としての群れる傾向が実現している現象だと考えます。
 ★ 平和ならぬはそれぞれに独自の神を信じ、他の神を排しているからであると考えている。 / このように解釈してよろしいですか?
 ☆ そうなんでしょうが 但し書きとして 
 (1)★ それぞれに独自の神を信じ
 ☆ というのは まったくふつうの有り様です。
 (2)★ 平和ならぬ
 ☆ の内容を コミュニケーションの不通や歪みに焦点を置いています。基軸のごとくです。ですから 戦争の問題にまでは 具体的には たどりついていません。
 (3)★ 他の神を排しているからであると
 ☆ というその中身として 自己の生活態度としての広義の信仰について 自覚していない場合が多い。その結果として 《他の神を排除する》ことになると理解します。

 あとは 
 ★ 仏教は、世界の宗教の中では少数派なのはご存じだと思いますが、その訳も知ることが出来ましょう。
 ☆ いやに謎めいて 聞こえてしまうのですが これは どういうわけで 世界における仏教の存在は 影が薄くなっているかということですよね。
 それは 理論内容が雑煮・ごった煮であるゆえ その土地ごとの風習として それぞれが それぞれの仏教を 修正し再形成しつつ 持つようになっているので 互いのつながりが薄いからではないですか? また そういう自己の理論の中身を きちんと 自覚しても いないし 人に説明することも出来ないからだと思います。(仏教にかんしては 悪口が 口をついて出て来ます。そのままとします)。

 今回からは 一区切りを打てたあとの 余談ですよね。ご随意に さらにご意見を述べていただいて 主題が 発展し過ぎになりましたら 別の質問を設定するといいかも知れません。

補足日時:2008/07/25 18:36
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《このとき ブッディストの中には 絶対の境地を目指すと表明する方が 決して少なくないと思います。

ブッダは・もしくは仏性は 宇宙の法則であり それとの一体の境地であると しばしば 聞きますよ)。》             
       
これってなんだかうさん臭い新興宗教の臭いがしちゃうんですけど。
集中しすぎて脳の血流が立ちくらみ状態になったんじゃないですか?


仏教を努めていらっしゃる方が、仏陀になるとは絶対言わないに1票です。
研鑽の末ある日パッと光が差し、「我今悟り足り・・・(落涙)」となっても、それが仏陀の感じた悟りと同じとは限らないことを、認識しているはずだからです。
仏陀の悟りは仏陀の物で、Aさんの悟りはAさんの物。
Aさんは、仏陀に並ぶが仏陀には成れない。
う~~~ん。仏陀はAさんが来たらお喜びになるのかなぁ?
なにせ 無 ですものね。

日本人が無信教なのは、島国の農耕&漁猟の民族であることに由来していると思っています。
猛烈に宣教活動に勤しんだキリスト教が、唯一敗北を認めざる得なかった国、日本。
今でもそうですね。全然増えない。韓国なんかスゴイ信者数だそうじゃないですか。

隣人と一緒に仲間になって働かないと作物が作れない。魚が捕れない。
だから、和・輪・話・そして年長者からの学び。
いかにすれば仲良く過ごせるかを考え、どうすればたくさん収穫できるかを工夫し、干ばつの備えは相談し、旅人が来れば情報交換し、良い物はなんだろうとドンドン取り入れ、それらは世代を次いで子孫まで引き継がれ、変化するものもあれば、永遠に変わらない物があることも知る。それが歴史となって繋がっている。

対して、宗教は 教え。
地に足を着け、互いに学び合い教え合い考え抜いてきた民族に、教えは不要なんですよ。
和尚さん「仏様はこうおっしゃっているよ。」
村人「へぇ~、良いこと言うじゃないですか、なるほどねぇ。ありがとうございました。」
村人はそれを村に持ち帰りみんなに話す。
それぞれがそのことについて捉え方や考えを述べる。
良ければ取り入れるし、ちょっとねぇ・・・だったら消える。
つまり、和尚さんのお話はアイディアであって、信じる物では無いのですよ。
尚、八百万の神は、教え無しです。
人々がなんのためにパンパンするかっていうと、人智の及ばぬところにあるものへの畏敬の念と、ひたすら感謝です。
神社の正しいお参りは、お願い事はしないんですよ。感謝これ有るのみ。
「三歳まで無事育ちました。お見守り下さりありがとうございました。」こんな感じです。
それは隣人に対しても繋がります。
些細なことにも感謝の気持ちを持つと、ほぅら、うまくいくのです。

明治時代に日本に来た欧米人は、日本人の人柄の良さと教養の高さに皆驚いたそうだけれど、それは変わってはいけないものだからず~~~っと受け継がれてきていたのです。

欧米は、地面が繋がっている上に狩猟民族なので、相手を殺してでも食料を入手しないと飢え死にしちゃうから、そんな悠長なことはやってられなかったし、すがるものが無いと平易な心を保てなかったのでしょう。お気の毒なことです。
以上、自己の生活態度としてのその根底にある信仰にかんして きちんと自覚し自己表明してみました。

ついでにちょっと教えていただきたいのですが、成仏するって、死んだら 無 だから仏になるって事じゃないのですか。
そうだとばかり思ってました。



 

この回答への補足

 oobankobanさん ご回答をありがとうございます。

 昨今では その現実性が少し揺らぎ出したとは言え 日本人としての信仰=生活態度を きちんと 表明していただきました。いくらかナイーヴかなとは感じますが 何の問題も持ちません。

 あとは その無宗教という信仰態度を 世界という舞台に挙げて 総合的に 理論化することではないでしょうか。
 すでに そのような比較対照についても 触れてもらっていますが おそらく すでに質疑応答で明らかになってもいますように 《唯一神信仰 vs 無宗教なる生活態度》という構図だけでは まだ 解明しておくべきことがらがあるのではないでしょうか。
 狩猟採集漁労は 原始生活として 措くとしますと 農耕と牧畜との対比が よく取り上げられると思いますが――後者に 狩猟を容れてもいいと思いますが―― 問題は では そのような生産活動の種類やあり方によって社会のあり方が異なる場合には 信仰生活の点で もはや 何ともすることの出来ない筋金がそれぞれに入ってしまっていて 互いに 融和することは 不可能であるのか これではないでしょうか?
 ★ お気の毒なことです。
 ☆ そうかも知れません。あるいは そうであるのかも知れません。隣どうしでも 半島と島国とのちがいで クリスチアニスムの布教に成功失敗が鮮やかに分かれるとすれば あるいは 《お気の毒です》という事態でしかないかもわかりません。
 たぶん 哲学は その道が閉ざされているということが 明らかになるまで 探究をつづけることでしょう。いえいえ 道がたとえ行き止まりであると分かっても なおまだ 探究の手を足を頭を緩めないのではないでしょうか。
 その中身は これまでの回答者さんたちとのやり取りにかなり明らかになっていると思います。もう半歩 oobankobanさんにも この 回答者の方々とともに 哲学の最前線のと自負する課題を吟味していただけないでしょうか? 恩に着ます。

 * ひとつには ブッディスムも 日本人にとっては 外来の思想だということに 一筋縄では行かないところがあるのでしょうね。

 * ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《成仏》:悟りを開いて仏に成ること。大乗仏教の 特に浄土教は 死後に西方極楽浄土に往生すると説いたので 日本では俗に死者を仏と呼び 人が死ぬことを《成仏》するというようになった。(岩波仏教辞典)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 * ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《悟り》:・・悟りは 仏教の究極目的であり 悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。悟りは智慧を本質として成立する。凡夫は煩悩に左右されて迷いの生存を繰り返し 輪廻を続けている。それは何事にも分別の心をもってし 分析的に納得しようとする結果である。そこで輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならないが それは事物を如実に洞察することである。すなわち真理を悟ることである。
 ・・・
 悟りの境地は《涅槃》といい 《寂静》と意訳される。煩悩を制御してとらわれのない心の静けさである。それは真理そのものの世界であるから 《真如 / 法界 / 如来蔵》とも呼ばれる。・・・悟りは固定した状態を想起しがちであるが それは悟りということにとらわれた妄想である。悟りの行は 自利と利他の両面を願って行動し続けることである。(前掲辞典)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《絶対の境地》ですとか《宇宙の法則との一体》ですとかは すみません あまり教理にはないかも知れません。(人が言っているという点では 事実だと思いますが)。もう一項目 引用しておきます。
 ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》:大乗仏教では 《無住処涅槃》ということが言われる。・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。
  〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。
(同上)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2008/07/25 14:45
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この回答へのお礼

 ☆ これは なかなか 面白い思想だと考えますが この生活態度が どうも 《有神論》のもとにも 《無神論》のもとにも 行なわれ得るという見方が これまでのご回答の大筋であるのではないでしょうか。個人の自由な選択に任せられており しかも どちらも 大きくは 信仰なのであるという前提のもとにある。以上をも吟味していただければ さいわいに存じます。
 というよりも どのような生活態度であっても その基礎としての広義の信仰はと問えば 有神論か無神論かの 互いに同等の原点に立つということ。この仮説にかんして いづれの信仰態度も 互いに同等の内容を持って成立していると見る見方は 日本人のものなのではないでしょうか。そういう含みでもあるのですが この信教・思想の類型論は 現代世界が答えを待っている問い求めであるのではないでしょうか。(おおげさでもないと思うのですが)。

お礼日時:2008/07/25 15:00

<<★ 仏陀(ゴータマさん)は一人の人間として「物事の本質を知ることをして、悩み苦しみの原因を見つけ、その原因を滅する方法を・物事の本質を知る方法を教えてくれた」そのような人と判断しております。

☆ これなら 経験科学であり経験思想です。何の問題も あいまいさも ありません。言いかえると いわゆる修身の理論であり実践であるということでしょう。道徳でもいいでしょうし 自然科学を含んだ倫理の哲学であるということのようです。>>

ですね。ここまで理性的で論理的で脅さず強制せず、個人の自由を尊重し具体的に語られたものを他に知りません。よくもここまで、知りえることを知りえるように矛盾なく道筋を解りやすく語られたものだと、関心するとともに感謝の念が沸きます。

具体的に現実的に悩み苦しみが減るのを自ら検証すればするほどに。

 <<問題は そのあとです。★ <<無神論として 《無神という神》を立てている>>のではなく、事実の確認・検証進める「理性」と言うものに信仰(理性にこの言葉は当てはまらないと思いますが)するようなものと考えています。☆ とおっしゃるとおり 理性や経験現実を超えたところの領域 これについては 特に 何も想定しないということだと理解します。主に理性に信頼を置いているということは 非経験もしくは超経験の領域は 触れないという姿勢だと理解します。>>

ですね。我々の思考は汚れています。ただ論理的に理性的に考えたくとも妄想や感情によって非論理的・非理性的な思考になってしまい、更なる妄想や感情に悩み・苦しむ羽目になっていますね。

しかも今この瞬間にまったくデータの無い根拠の無いものに対する思考をするならばさらに曲がった捏造となって、更なる妄想や感情に呑まれ悩み苦しみを得ることになる危険性が出てきますね。

検証が不能ならば。

<<☆ ただ 《絶対》は この非経験の領域のことです。無根拠であり 完全な無根拠であることが 絶対ということであり この絶対に対する関係ないし態度が 人間の持ちうるところの心の志向性のような動態として 信仰です。>>

「非経験の領域」つまり、人間を構成するシステムである六根・五蘊以外のもので「知る」ことが出来ず、もちろん知ることが出来ないのだから、その意義も意味も思考することすら叶わない。

そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。

結局はその「絶対」なるもの(?)自体でなく、各々六根・五蘊で捏造した概念に対しての態度にしかならず、その「信仰」は自己の経験的領域の中の「意」で作り出した=妄想であり、「概念」になるので、結局は自己の概念に対する態度になるのではないかと。

そんな概念が思い浮かびました。


<<その信仰の内容を 人間の能力で表象しようとすれば それは 概して 《妄想》のたぐいですが>>

ですね。

<<そして 表象した結果としては そこに何らかの言葉や視像があれば《概念》にもなって表われていますが それらには かかわりなく その信仰の対象(または 非対象)が 概念であるのではありません。概念を超えた領域であったからです。だから 表象しようとすれば それは 妄想になります。それに対する態度は 考えるのではなく 信じるというかたちになります。>>

「対象は概念ではないと言う自己の概念」を信じる。と言うことですね。

「信じる」自体が考えることだと私は思うのです。
対象が無ければ「信じる」が当てはまらないと思うのです。


<<(1) はじめの《修身なり道徳なり倫理なりの哲学と実践》 これは 経験的な科学であり思想である限りで 根拠は 経験合理性に置かれております。言いかえると つねに 新しい真実によって取って代わられる知識と経験の蓄積であるということになります。>>

「ありのまま」を知るまではそうなりますね。

<<さらに言いかえると 仮りに絶対の見地から見れば 無根拠です。実際 科学の成果が 不変のかたちにおいて普遍的であるとは 人は思っていません。そういう意味で 根拠無しです。>>

データはあるのです。それをどのように観たら正しく見れるか実践する。これが理性だと考えます。

観ているデータを自分の最大限の理性観て、役立てる。そしてちゃんと観る方法を探ってよりちゃんとしたデータを得られるようにする。その積み重ねです。

最終的には100%純粋なデータを見れるようにと思っています。

「絶対の見地」とは何でしょう。
あなたは「知って」いるんですか。

「知った」ら非経験の領域でなくなりますね。
つまり貴方の考えた概念である「絶対の見地」と言う立場から見るとそのようになるのですね。

<<(2) 絶対が 無根拠だというときには 違ってきます。それを想定するのに 根拠は要らないという意味です。相対の世界を超えたところと言えば それで 想定が完了です。>>

貴方の見解を僕なりに考えると。

根拠は発見できない性質。「知る」ことの出来る性質も無い。想定すら出来ないでしょう。しかもその想定の先に意味などを加えることが出来るはずもありませんね。それに対する態度も信仰も成り立たないように感じます。

と感じるのです。

<<(3) そして 絶対との関係は 信仰です。これは 一般的に もし想定をした時には つねに 成り立つ認識です。>>

それが想定を可能と考え、自己の何の根拠も論拠も無い思考によって、今あるデータとは関係の無いところで、自己によって作り出された・妄想概念に対しては、信じたり・信仰したり・否定したりすることは成り立つでしょうね。


<<(4) 従いまして 絶対の領域に対しては 《触れない》という立ち場は>>

絶対に触れられる(知ることが出来る)という立場なのですね?

<<絶対を想定しないのではなく そうではなく 絶対を 無なら無として(あるいは 無神なら無神として) 一度は 想定しておいたという意味になります。>>

貴方の言う「絶対」が私にはそもそも「想定」出来ないものと思えてなりませんが…。

<<絶対を信じない ということは 絶対を無神として信じる という大きくはやはり信仰という態度を採っているという意味です。>>

信じないも信じるも、思考すること自体成り立たないものに対して思考することも、その思考することが成り立たないもに対して思考した概念想定に対してどのような態度を取るも…

理性を重要視する仏教とは「そもそもなに言ってるか解らないよ」でストップすると思います。

無神論も何もそもそも「貴方の言う神って何ですか?」と質問しますが、それが、根拠は発見できない性質で「知る」ことの出来る性質も無い想定すら出来ないものだと言われても。

「じゃあ何で貴方は思考し想定し語っているのですか?」で終わると思います。

そのような考えによって貴方の言う「有神論」「無神論」の性質は理性を重要視する仏教徒の中には無いと思います。

<<★ 論理的に科学的に検証を重ねる科学者は無神論者でしょうか。☆ ですから 科学者は 無神論者でもあり得るし 有神論者でもあり得るという見方になります。科学者が 経験科学のほかの生活態度として 絶対の領域を 神として想定するのも 無神として想定するのも どちらにしても もちろん その一人ひとりの自由意志に任せられています。>>

「妄想せず、論理的に科学的に検証を重ねる科学者」と限定したはずですw
 
<<大人の人間で こういう回避の立ち場は 実際には 考えられません。思考は続いているのでしょうが 判断停止という状態のようにお見受けします。つまり 意志がないという状態ではないでしょうか。それとも 確信犯でいらっしゃるでしょうか。>>

貴方の概念の中で作り出された題に対して、貴方の概念の中で判断内の許容である選択肢の中においてそれに当てはまらない大人の人間は考えられないのですねw

~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
 

この回答への補足

 maggaさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 次の一点を確認していただけるなら 解決すると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「非経験の領域」つまり、人間を構成するシステムである六根・五蘊以外のもので「知る」ことが出来ず、もちろん知ることが出来ないのだから、その意義も意味も思考することすら叶わない。

 そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから《非経験の領域》に対しては 《考える》では らちが開きません。じっさい
 ★ そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。
 ☆ とおっしゃるとおりです。ただ しかも ただ ほんの一つの思いとして その《どのような態度を採ればよいかと考えても 考えられ得ず 態度じたいが成り立たない》領域に対して ひょっとすると そこへの道がひらいているかも知れないとは 思うことができます。少なくとも その道が閉じられていない ということ そういう態度は 採れるようです。
 そうしますと――この想定までは いいとしますと―― 閉じないという態度 《開け》としての心の傾き によれば そして その向こう側を《絶対》の領域として想定するならば 虚構として あくまで虚構として 《〈絶対〉との関係》が 《わたし》に成り立ちます。
 それは どういう現実かと言いますと――つまり《態度・姿勢・心の傾き》と言うからには 経験現実でありますから それは どんな現実かと言いますと―― 《あらゆる資料を集めて あらゆる可能性を考え尽して 最良の判断をするというその経験合理性》をも超えているかも知れないという心の志向性であると言えるのではないでしょうか?
 妄想であるかも知れません。ですが この妄想は 《経験合理性》が あくまで相対的な判断力であるということを知っています。言いかえると この能力を超えた絶対に立つ判断があるかも知れないというところまでは その《開け》の姿勢において 現実なのです。ないかも知れないというところまでは 現実です。

 そうしますと ここからは 具体的な態度が 二つに分かれます。
 《開け》の姿勢から さらにもう一歩その絶対の領域へと踏み込むか それとも こちらの経験世界に戻って来るかです。どちらも そのときには 《妄想》です。どちらを選んでも 空想であり夢想です。後者の戻ってくる場合が 無神論です。《もうその絶対の領域は 何もないだろうと判断して すべては 理性が対応する経験世界なのであるとして 取り扱おう》という選択です。つまり じつは 一度は 絶対の世界に接したということです。
 つまり もちろん 前者の一歩踏み込むという態度は 有神論になります。絶対の世界が 有りだと空想して(あるいは そこに 賭けて――と言っても 何も無しだと空想し決めるのも 賭けです――) 虚構の物語を描くということになります。言いかえると 虚構の表現を通じて この経験現実のことが よりよく分かれば それに越したことはないという意味です。生きる現実のために 虚構を持つわけですから。

 重ねて述べますが 無神論が 虚構を持たないというのも そういう負の虚構であると言っていいでしょうし そう言わなければならないのではないでしょうか。
 わかっていただけたでしょうか。

 * ですから 何の限定も無しに 科学者と言った場合にも その科学者は 自由に 信仰としては 有神論を選んで持ちうるし 負の信仰としての無神論をも持ちうると言ったのです。

 * ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<<(4) 従いまして 絶対の領域に対しては 《触れない》という立ち場は>>

絶対に触れられる(知ることが出来る)という立場なのですね?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 《触れる》というのは 《扱う》という意味で用いている場合です。想定したことがらを 仮設の理論として扱う・扱わないという場合のことです。

補足日時:2008/07/25 13:24
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