橋本治氏の窯変源氏物語を読まれた方、あるいは源氏物語に興味をもっていらっしゃる方に質問です。田辺聖子氏や瀬戸内寂聴氏の源氏物語は読みましたが、これらの訳には見当たらなかった発見があります。

(1)玉鬘の夫となった髭黒大将が右大臣の息子であったこと
(2)六条御息所の娘であり、のちに冷泉帝妃となった、秋好中宮の初恋の相手が朱雀院であったこと

まず(1)ですが、右大臣とは恐らく、弘徽殿の女御や朧月夜の君の父親だと思います。また、朱雀帝の妃・承香殿の女御の兄(弟?)ということ
は他の訳でも書かれており、女御が右大臣の娘との記載も窯変~であります。右大臣は子沢山なので不思議はありませんが、髭黒の出自についてこの窯変源氏以外では触れられていないようだったので不思議に思いました。

次に(2)ですが、源氏の娘・明石の姫の入内の際に秋好中宮の斎宮代となったエピソードがあり、そこに朱雀帝への思慕があったと書かれています。

(1)はどちらでもよいかもしれませんが、(2)はとても興味深い内容です。なぜなら、朱雀帝は源氏物語のなかでは可愛そうな役柄しか演じさせてもらっていないので、1人くらいは彼を恋い慕う高貴な女性がいて欲しいと思うからです。

橋本氏訳でもちろん想像もあると思いますが、皆さんはどう思われますか?

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A 回答 (2件)

『源氏物語』好きのオバサンです。



『窯変源氏物語』を読んだのは、ずいぶん昔の話なので(初版で購読)詳細な内容は忘れてしまいましたので、原作の方から分かる範囲で書かせていただきます。
ただ『窯変源氏物語』は、『源氏物語』の「現代語訳」というよりは、『源氏物語』をベースにした「小説」だという印象を受けた記憶があります。

> (1)ですが、右大臣とは恐らく、弘徽殿の女御や朧月夜の君の父親だと思います。
「桐壷帝の弘徽殿女御や朧月夜尚侍の父親である右大臣(仮に「右大臣A」とします)」と「朱雀帝の承香殿女御や髭黒大将の父親である右大臣(仮に「右大臣B」とします)」は、別人であると推測されます。
確かに『明石』には朱雀帝の子について、「当代の御子は右大臣の女承香殿の女御の御腹に男御子生まれたまへる二つになりたまへばいといはけなし」とあります。
この「右大臣」は右大臣Bですよね?
ですが、同じ『明石』で「桐壷帝の弘徽殿女御や朧月夜尚侍の父親」=右大臣Aが亡くなっていますが、この時の表記は「太政大臣亡せたまひぬ」です。
ですから、右大臣Aと右大臣Bは別人であると考えられます。
朱雀帝の御代、帝の外祖父に当たる右大臣Aが太政大臣となったことによって、右大臣の地位が空白となます。
空白のなった右大臣の地位に就いた「誰か」が、右大臣Bでしょう。

> (2)六条御息所の娘であり、のちに冷泉帝妃となった、秋好中宮の初恋の相手が朱雀院であったこと
#1さんが書いていらっしゃる通りの、朱雀帝→六条御息所の娘への恋情は『賢木』に
「斎宮は十四にぞなりたまひける
いとうつくしうおはするさまをうるはしうしたてたてまつりたまへるぞいとゆゆしきまで見えたまふを
帝御心動きて別れの櫛たてまつりたまふほどいとあはれにてしほたれさせたまひぬ」
とあり、さらに
『澪標』にも
「院にもかの下りたまひし大極殿のいつかしかりし儀式に
ゆゆしきまで見えたまひし御容貌を忘れがたう思しおきければ
参りたまひて斎院など御はらからの宮々おはしますたぐひにてさぶらひたまへ
と御息所にも聞こえたまひき」
と六条御息所にも申し入れていたことが書かれています。
もし、『窯変源氏物語』に、六条御息所の娘→朱雀帝への思慕があれば、橋本氏の創作だと思います。
とはいえ、伊勢下向の際、六条御息所の娘は14歳になっていた訳ですから、「初恋」があっても不思議ではないかもしれませんね。
朱雀帝も桐壷帝の息子です。
弘徽殿女御も『源氏物語』では敵役として憎々しげに描かれてはいますが、右大臣の大君(長女)という当代一の姫君ですし、おそらくは美女だったと思います(なんだかんだ言っても、桐壷帝は弘徽殿女御との間に3人の子供がいますしね。光源氏のあとに男の子だけでも8人の子が生まれていますし)。
その二人の子ですから、朱雀帝もそれなりにハンサムだったのでは?と思います。
母と光源氏の関係を知っていて光源氏を好ましく思っていなければ、光源氏のようなきらびやかさはないものの、ハンサムで優しげな若き帝に心惹かれることがあったのかもしれません。

『源氏物語』は、書かれて・描かれていないことが多いので、いろいろな想像ができますよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。返事がすっかり遅くなってしまい、申し訳ありません。
やはり、右大臣は別人のようですね^^御代が変わるように、政権も変わるので納得です。
また、六条御息所の姫→朱雀帝の思慕は橋本氏の創作のようですね。
残念(><)あさきゆめみしに影響されてかわかりませんが、弘徽殿女御も若い頃は美人(怖そうな印象もありますがね、^^)と思います。
本編「窯変~」にもなまめかしいという記載がありますし、瀬戸内寂聴氏の「女人源氏物語」の朧月夜が語る巻でも「女にしたいほどの美青年」という記載があるので、源氏と比較されれば劣るものの、皇子としては充分に品格がある男性だと思います。優しい、優柔不断、好きな女性一人に一途、という面から、フランス王ルイ16世とキャラがダブるのは私だけかしら?!

お礼日時:2008/10/21 13:30

すみません。

源氏の専門家ではなくファンのひとりでしかないのですが。

(1)は、弘徽殿の女御(朱雀帝母)の父とは別の人物では?
髭黒は今上帝(朱雀帝の皇子。明石姫君の夫)の生母の兄なので、後に権力を得て自身も右大臣になっています。
ご存知かと思いますが、右大臣は官職名であって、人物の固有名ではありませんから、作中時間に右大臣(となった人物)が複数いてもおかしくないと思います。
源氏の義兄の頭の中将(雲居雁父)も、出世するに従って呼び名が「権中納言」「内の大臣」「致仕大臣」と変わりますしね。
ただ、「源氏」本文にはっきりとどの右大臣の子か書かれていないから、想像でしかないわけですが。

(2)ですが、初めて聞いたエピソードです。
むしろ、秋好が伊勢に下るときの別れの御櫛を挿した可憐な姿が忘れられない…と恋慕していたのは朱雀帝のほうでは?
それを振り切って、源氏は政治的な野心を達成すべく秋好を冷泉帝に入内させたと思います。(源氏には実の娘が明石姫君しかいませんが、このときまだ姫は幼児で入内できなかったので、それまでの「つなぎ」としての養女が必要だった&六条御息所の遺言があったため)

いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。お礼が大変遅くなり申し訳ございません。
(1)はやはり朱雀帝の祖父にあたる人とは別人のようですね。
(2)の朱雀帝の秋好に対する恋心はもちろん知っております。源氏はそれを知っていながら、母御息所の遺言を果たすためという名目で、nepa-aiko様のおっしゃるように実の娘(のちの明石の女御)を入内させるには幼すぎた為、秋好を養女として入内させたのも存じております。

お礼日時:2008/08/28 13:18

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Q源氏物語!

源氏物語高校のときに少し読みました。
ま光源氏がいろいろな女性とお付き合いする恋物語だったような気がしますが。
皆さんは源氏物語読んでどう思いましたか?お友達とどのような会話しましたか?
あと、源氏物語の名場面、源氏物語から学べることを教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

今日は。文学に関しては作家たちの精神病理(パトグラフィー)を調べながら日英文学をつまみ読みしている暇人です。

私はアーサー・ウェイリーが英語に翻訳したものを、さらに日本語に翻訳したものを読みました。今まで長編小説など根気が続かず読まなかったのですが、現代語翻訳本とは言え、一気に(とは言ってもかなり日数はかかりましたが)読めました。

私も最初は光源氏が主役で、様々な女性に手を出し、あちこちで問題を引き起こすわがままイケメン皇子の1人だと思いました。しかしある時、紫式部の生きていた時代、紫式部の生い立ち、さらに対抗馬として清少納言とう存在、当時の時代を牛耳っていた藤原道長の存在などに関する書籍も平行して読み始めました。

すると最初の考え方が少しずつ変わってきました。主役は本当に光源氏なのか?後半は「夕霧」終盤は「薫」と「匂宮」の話し、そして「浮舟」の入水自殺未遂。そして「薫」が「浮舟」と「匂宮」を『疑い』ながら物語が終わってしまう。なんと切ない終わり方なんでしょう。

すこし前に戻って、光源氏の死もわずかに言及されたまま、「夕霧」「薫」の話しに移っていった点。言い尽くせない人間の心理の微妙な動き。すべてに魅了されてしまいました。そして本当の主役は光源氏・薫の周りにいる「女性たち」ではなかったかと思うようになりました。当時の女性たちは、少しでも地位・権力のある男性に身を委ね、自分たちの人生を託すしか生きていくすべのない生き方しか出来なかったのではないかと思うようになりました。そしてたとえそのような幸運に巡り会えたとしても、そののち宮中などでの他の女性たち(貴族は一夫多妻制度)とのつきあい。そしてすぐに出家してしまう女性・男性たち。

生き霊・死霊となって、光源氏にはとりつかず源氏の周りの女性たちに取り憑く「六条御息所」の心理。原文ではなく様々な評論的書籍を読むにつれて、調べ尽くしても尽くしようのないほどの深さを感じました。なぜ源氏物語がこれほどもで世界中でも読まれ、文学作品としてこれほどまで高く評価されるのかが片鱗ですがやっと分かったような気がします。その他の登場人物に関しても言い尽くせないほどの独自性があります。

現在は、なかなか他の小説を読む気にはなれず、源氏物語の古典原文(現代語訳付き)とE・サイデンステッカー氏とアーサー・ウェイリー氏の英訳本を比較しながら読んでいます。(かなり時間がかかるでしょう。)

最初に申し上げました源氏物語に関連した書籍の名前を挙げます。
・精神科医が読んだ「源氏物語の心の世界」---紫式部からの現代へのメッセージ
・「紫式部の欲望」
・「紫式部日記」(参考)
・「源氏物語の端役たち」
・「平安の祈り」源氏物語にみる人生観・死生観
・「源氏物語」英訳についての研究(参考)
・「アーサー・ウェイリー」源氏物語の翻訳者(参考)

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いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに

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Q源氏物語の紫の上

源氏物語の紫の上

高校生のとき古典の勉強として源氏物語を少し読みましたが、今は趣味として源氏物語を
読んでいます。
高校生の時は紫の上は源氏の最愛の女性で幸せだったんだと思っていたのですが、ちゃんと読んでみると、紫の上は源氏物語の中で可哀想な女性だっと感じました。

藤壺の姪であり、容姿が似ているからと奪い、育て、理想の女性となった紫の上ですが、やはり藤壺を愛している源氏。
私には紫の上が死んで初めて、源氏が紫の上自身への愛に気付いたように思いました。

源氏を愛している&大事に育ててきてくれたことから他の女性の子を育てたり、正妻により自身の立場に不安を抱くが、愛する源氏のために我慢しなければという葛藤で苦しむ紫の上。
源氏の身分を考えれば女三の宮を正妻にしたことは納得できるのですが、やはり源氏には紫の上のように藤壷の姪ということへの期待があったと思うと、紫の上が哀れでなりません。


私としては、なんらかの形で夕霧と紫の上の間に子供ができ、その子供を源氏が育てたほうが、
源氏はもっと苦しんだのではないかと思いました。



紫の上は源氏に振り回された人生で幸せだったのでしょうか・・・・・

源氏物語の紫の上

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Aベストアンサー

源氏物語って、読むたびに発見がありますよね。

> 私としては、なんらかの形で夕霧と紫の上の間に子供ができ、その子供を源氏が育てたほうが、源氏はもっと苦しんだのではないかと思いました。
ちょっと違いますが、それっぽい設定になっている「マンガ」を読んだことがあります。

その「マンガ」では、紫の上は、源氏が「自分」を見ていないと知っています。

「野分」で、夕霧が紫の上を垣間見してしまうシーンがありますよね。

原作では、紫の上は夕霧に「見られた」ことは気づいていませんが、源氏は「もしかしたら夕霧が紫の上の姿を見たのではないか」と思い、自分と同じ過ちを繰り返すのではないかと疑心暗鬼になっていますよね。

その「マンガ」では紫の上は夕霧に「見られた」ことに気づいて、夕霧に微笑みかけています。
関係を結んだり、子供ができたり…ということはありませんが、紫の上は、死の間際に、いかにも夕霧と関係があったかのように呟き、そのまま息を引き取ります。
それを聞いた源氏がとても苦悩する…という内容だったと記憶しています。

レディース系の「マンガ」だったような記憶がありますが、源氏物語関係の書籍には、いろいろと手を出しているので…。

私が初めて源氏物語に触れたのは、中学1年生の時に読んだ「少年少女古典全集」の現代語訳でした。本格的にハマっていたのが高校生の頃で、もはやその後の進学先では源氏物語を専門にしようとは思わず、その「背景」を専門にしました。

私は、最初のころからあまり紫の上が好きにはなれませんでした。
嫉妬深いこと以外に、殆ど『個』を感じられなかったから、興味を惹かれる人物でもありませんでした。

源氏物語の中で、紫の上が「自分は幸せだ」と思っている節は、見受けられないと思います。
ですから、
> 紫の上は源氏に振り回された人生で幸せだったのでしょうか・・・・・
幸せだったとは思えません。

> 私には紫の上が死んで初めて、源氏が紫の上自身への愛に気付いたように思いました。
私もそう思います。
いわゆる「無くして初めて価値を知る」パターンですね。
ただ、それが「紫の上」に向けられたものなのか、「自分が育て上げた自分にとっての理想の女性」に向けられたものなのかが、未だに理解できないんですよね。
源氏が、紫の上の「何」を価値と思ったかが、よく解らないんです。

同じ「藤壺の姪」であっても、朱雀院の女三宮は魅力がなく、紫の上には魅力がある…ということは、「元は同じでも、女は育て方で違ってくる」ってことを言いたいのかな?と思えるんです。
それは、ある意味、源氏の「自画自賛」じゃないのか?と思えるんですよね。
「こんな素晴しい女性を育てあげた自分って凄くない!?」というカンジで。
まるで、ショーでチャンピオンとなるような犬や猫を育てて、ブリーダーやトレーナーが自身を称賛しているような印象しか受けないんです。

源氏物語って、読むたびに発見がありますよね。

> 私としては、なんらかの形で夕霧と紫の上の間に子供ができ、その子供を源氏が育てたほうが、源氏はもっと苦しんだのではないかと思いました。
ちょっと違いますが、それっぽい設定になっている「マンガ」を読んだことがあります。

その「マンガ」では、紫の上は、源氏が「自分」を見ていないと知っています。

「野分」で、夕霧が紫の上を垣間見してしまうシーンがありますよね。

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Q源氏物語を読んでいて…

源氏物語を読んでいて、官職のことが気になりました。

国の政治を司る最高官庁たる太政官。
それを牛耳るトップが、太政大臣・左大臣・右大臣・(内大臣)・大納言・中納言・参議らで、彼らがもっとも帝に近い場所にあり(蔵人とかは無視して)、彼らによって宮廷政治が動かされている…というようなイメージを持っています。

さまざまな物語を読んでいる限りでは、平安貴族は後宮政治と祭祀以外にいったいどんな政治を行ってたのか…という気もしないではないのですが、それはこの際どうでもよいです。

その、今でいうところの内閣の一員(ですよね?)である参議に源氏は19歳で、夕霧に至っては、18歳で中納言になっているようなのです。

当時は、12~16歳で元服を行って(源氏は12歳)、40で老人と言われるわけですから、今とは当然感覚が違うとは思います。
それにしても、現代の会社感覚なら、30前後の人に専務とか言っちゃってる感じ(ベンチャーならいざしらず)ではないのでしょうか。

当然、源氏物語はフィクションですから、大げさに書いてるという可能性もありますよね。
実際のところ、当時はこういう人事があたりまえだったのでしょうか。
よろしくお願いします。

源氏物語を読んでいて、官職のことが気になりました。

国の政治を司る最高官庁たる太政官。
それを牛耳るトップが、太政大臣・左大臣・右大臣・(内大臣)・大納言・中納言・参議らで、彼らがもっとも帝に近い場所にあり(蔵人とかは無視して)、彼らによって宮廷政治が動かされている…というようなイメージを持っています。

さまざまな物語を読んでいる限りでは、平安貴族は後宮政治と祭祀以外にいったいどんな政治を行ってたのか…という気もしないではないのですが、それはこの際どうでもよいです。

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Aベストアンサー

 
>当然、源氏物語はフィクションですから、大げさに書いてるという可能性もありますよね。

大げさに書いているのではなく、実状がそうだったのです。

平安時代の貴族は、上級、中級、下級というような三段階ぐらいに分けて考えると理解しやすくなります。大臣とか大納言、中納言、宰相(参議)、近衛大将、中将などになるのは、上級貴族です。

中級から下級貴族だと、正五位、または従五位まで昇ると、これが出世の頂点です。地方政治を考えると、中央から地方へは、国司が派遣されるのですが、国司は、大体従五位から六位ぐらいのあいだです。

国司には中級貴族がなりました。彼らは受領階級とも言われますが、実務能力に長けた人物が多く、そんな若年で国司にはなれません。地方政治は、中央から派遣される、国務の長としての「守」や「介」などが指揮し、実際の実務は、地方に居住する地元の官吏が行いました。

国司は一定期間で、任地から離れ、また別の国へと任地が変わる訳ですが、それでもうまく仕事ができたのは、地元の役人組織がしっかりとできあがっていたからです。

翻って、中央政府で考えると、同じようなことが、もっと極端な形であります。中央政府の中級・下級貴族は、それなりの役職につき、仕事をしている訳で、これらの中・下級貴族は、実力主義だとも言えます。

中納言以上の位にある人々がぼんくらであっても、中・下級貴族の実務役人が指揮している限り、中央の政治も、問題なく進行したということです。

『源氏物語』を初めとして、平安の女流文学者の作品である物語や、その他の話は、多く、最上流貴族が主人公となる話が多く、これは作者である女房などが、最上流貴族に仕える女房で、読み手が、最上流貴族または、最上流貴族にあこがれる、中・下級貴族の子女だったということがあります。

従って、最上流貴族の生活や日常などが記されるのですが、実務を担当していた中・下級貴族や、その下の下人・下女などの実務作業の話などは出てこないのです。

聖武天皇の頃や、奈良時代などだと、例えば、「中納言」という官位は、相当に実力のある人がなったものですし、政治の右も左も知らない若造がなったものではありません。平安時代初期でも、藤原氏と他の名家が勢力を競っていた頃は、それなりの有能な人物が高位の官職に就かないと、他の家に負けてしまうという事態が起こります。

しかし、菅原道真を失脚させた後では、もはや、一般臣下貴族で、大臣級の高位に昇る者は誰もいなくなり、更に、安和の変で、実力を持つ源氏の左大臣を失脚させた後では、源氏出身の実力ある大臣も出なくなります。

つまり、政治の実権を藤原一族で独占してしまったことになります。

また藤原道長が権力闘争に勝利するまでは、藤原一族内部で、権力闘争をしていましたが、道長の勝利の後は、藤原の諸家系について、その「分」というものが決まります。最上位を「摂関家」、次を「清華家」、という風に、貴族の家柄の格が四段階に分けられ、どの段階に属すれば、元服すれば、官位はどうなるか、最終的にどこまで昇進できるのかが、決まってしまいました。

『源氏物語』の書かれた時代には、まだ明確に摂関家などはありませんが、それが実質的に形成されつつあったた時代です。紫式部が『源氏物語』を書いた時代では、もはや、源氏の大臣が藤原の大臣を追い抜いて、最高権力者になるというようなことは、現実的ではなくなっていたのです。

しかし、上流貴族の子弟が、エスカレーション式に出世の道を約束されていたというのは、すでに既成事実です。その場合、藤原氏の上級官僚は、互いに、兄弟とか、従兄弟とか、叔父甥とか、天皇や親王も、藤原の最上流貴族からすると、従兄弟であるとか、甥であるというような関係で、全員が馬鹿では困りますが、有能な人物が幾らかいれば、他は、伝統に従って、形式的に命令を出していれば、中・下級貴族の実力ある実務官僚が政治の実際を執り行ったということになります。

上位の官職は、みな藤原氏独占で、穴が開くのはまずいので、元服と同時に侍従、従五位とか、で、すぐに正五位、四位という風に位が上がって行きます。当時は、若死にする者が多かったのですし、上位官職を占有してしまえば、他の家のものが、上に昇って来るということが困難になるということです。

>実際のところ、当時はこういう人事があたりまえだったのでしょうか。

最上級貴族である藤原氏のなかの名流の子弟については、そうだったのです。しかし、中・下級貴族の実務官僚は、先に述べたように、五位に昇れば、出世の極まりというような感じで、もっと遙かに下の方から出発しますし(七位とか八位あたり。六位ともなれば、すでに高位です)、実力がないと上には上れません。
 

 
>当然、源氏物語はフィクションですから、大げさに書いてるという可能性もありますよね。

大げさに書いているのではなく、実状がそうだったのです。

平安時代の貴族は、上級、中級、下級というような三段階ぐらいに分けて考えると理解しやすくなります。大臣とか大納言、中納言、宰相(参議)、近衛大将、中将などになるのは、上級貴族です。

中級から下級貴族だと、正五位、または従五位まで昇ると、これが出世の頂点です。地方政治を考えると、中央から地方へは、国司が派遣されるのですが、国司...続きを読む

Q源氏物語*若紫巻で「わが御車に乗せ奉りたまうて、みづからは引き入りて奉

源氏物語*若紫巻で「わが御車に乗せ奉りたまうて、みづからは引き入りて奉れり。」という文句があります。ここの「わが」は誰のことを指しますか。また「奉り給う」は「二重敬語」と思いますが、別々誰に対する敬意でしょうか。よかったら、詳しいだけ現代日本語に訳してください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 すみません。No.1です。

> 新編日本古典文学全集(小学館)の該当部の訳は
> 「大臣は、ご自分のお車に君をお乗せ申して、ご自身は後ろの席にお乗りになる。」
> です。

と古典文学全集の訳を引用しましたが、「お乗せ申して」だと「たまう」の訳が出ていませんので、「お乗せ申しなさって」とでもした方が正確です。

 それから「引き入りて奉れり」(No.1の回答では「引き入れて」と間違えて入力してしまっています。)の「引き入り」は「引き下がる」という意味の動詞で古典文学全集では「前ではなく後ろに引き下がって」ということで「後ろの座席に」と訳していますが、訳者によっては「光源氏に対して引き下がった態度をとって」と解釈して「遠慮して」のように訳してある場合もあるようです。
 「奉る」は普通は「差し上げる」といった意味の謙譲動詞ですが、「飲む」「食う」「着る」「乗る」の動作を表している場合は尊敬語です。したがって「お乗りになる」という訳になります。

 あわてて回答して、質問者さまを混乱させてしまったかもしれません。きちんと調べて回答すればよかったと反省しています。

 すみません。No.1です。

> 新編日本古典文学全集(小学館)の該当部の訳は
> 「大臣は、ご自分のお車に君をお乗せ申して、ご自身は後ろの席にお乗りになる。」
> です。

と古典文学全集の訳を引用しましたが、「お乗せ申して」だと「たまう」の訳が出ていませんので、「お乗せ申しなさって」とでもした方が正確です。

 それから「引き入りて奉れり」(No.1の回答では「引き入れて」と間違えて入力してしまっています。)の「引き入り」は「引き下がる」という意味の動詞で古典文学全集では「前ではなく後...続きを読む

Q源氏物語と平家物語比較

こんばんは。社会人になって古典に目覚めだしたものです。
私は恥ずかしいことに、中学校くらいまで、源氏物語は源平の戦い、
の源側を書き綴ったものと思い込んでいました。作品を知ったら、
拍子抜けしました。一方は小説、一方は軍記、、。

ところで、上記二大作品について中国人にどちらが日本では評価されているか、と聞かれました。私と同じように考えていたそうです。読者層では前者のような気がしますが、
それぞれのジャンルが異なるので、単純比較できません。

そこで、人格形成、という点ではどちらがより影響の度合いが高いか、という観点で比較してみたらどうかと思いました、ちょっと強引な基準設定ですが、、そう仮定すると、「平家」を選んでしまいます。

私もほとんど読んでいませんが、、「平家」に惹かれています。
平家琵琶の演奏を聴くとなおさら没頭しそうです。

Aベストアンサー

基本的にはどちらも修養の書とは言えない性格を持っていると思いますし、NO.2の方がおっしゃるように結論は好みの問題に帰するほかはないとも思われます。また「人格形成」という言葉から、いかに若年層に益するかということがテーマのような印象を受けたりもするのですが、敢てそれらのことを棚上げしてお題目にお答えすれば、私の軍配は平家に上がります。

「平家物語ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう」(石母田正『平家物語』)

大きな歴史のうねりの中に活写される人物群像を眺めるだけで謙虚な気持ちになるということもありますが、何よりもまず頻出する「死の語り」が平家を推す最大の理由です。

「常々、彼(司馬遷)は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起らないのだという一種の確信のようなものを有っていた。これは長い間史実を扱っている中(うち)に自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、という風にである。」(中島敦『李陵』)

これと同じことは「死」についても言えると思います。(ちょっと断っておきますが、ここでいう「死」とは、間近に迫まる避けられない死を意識したときの人間の態度や身の処し方のことです。ぽっくり死ぬとか苦しんで死ぬとかいう死に方の意味ではありません)
よく「死に様(ざま)にはその人の生き様が容赦なく現れる」などと言いますよね。確かにガンの闘病記や終末期医療に携わる人たちの本から、死を間近にひかえた患者さんたちのありようを窺うと、なるほどと実感される言葉なのですが、平家を読んでいてもやはり同様の印象を受けることができます。

もちろん平家は史書ではなく叙事詩に分類される古典ですから、「作者」が(死を記録するのではなく)死に様を描くことによって人物を色付けているとも言えるでしょう。また作者が此岸や彼岸にうるさい中世の人間であってみれば、そう考えるほうが自然だとも言えそうです。
しかしそれならばなおのこと、侍や悪僧の死に際にみられる人間模様がこの古典の読みどころとして際立ってくるのではないかと思います。
言うまでもなく、作者は死に様にその人物像を集約しようと努めるはず、だからです。

「人間は刻々に死につつあるので、別に、死という特定のものがあるわけではない。刻々の死を終える時があるだけだ。従って、刻々の死を意義あらしめるためには、刻々の生を、最善を尽くして生きねばならない。それを全うした者にのみ、よき“終わり”がめぐまれる」(新潮45・編『生きるための死に方』・野口晴哉という整体の先生の言葉)

もともと生き様が反映されやすい死に様、そして作者(小林秀雄風に言えば「個人を越えた名手」)が健筆にいっそう力を込めたであろう死に際、それが頻出する古典が平家物語である、というのがお題目を念頭に置いた上での私の見方です。
この観点から結論を述べますと、様々な死のあり方(文学的に気取れば「運命のうねり」とでも言いましょうか)を通して、その対極でもあり背中合わせでもある自己の生き様に目を向ける習慣を獲得することが、おしゃるところの「人格形成」に通じるといえば通じるのかなあと考えます。
そのようなわけで平家かなと。


ちなみに私が真っ先に思い浮かべる死に際は「先帝御入水」における平知盛の次の振舞いです。

さる程に、源氏の兵(つわもの)ども、平家の船に乗り移りければ、水手楫取(すゐしゆかんどり・=船頭水夫)ども、或いは射殺され、或いは斬り殺されて、船を直すに及ばず、船底に皆倒れ臥しにけり。新中納言知盛の卿、小船に乗つて、急ぎ御所の御船へ参らせ給ひて、「世の中は今はかうと覚え候。見苦しきものどもをば、皆海へ入れて、船の掃除召され候へ」とて、掃いたり、拭(のご)うたり、塵拾ひ、艫舳(ともへ)に走り廻つて、手づから掃除し給ひけり。女房たち、「やや、中納言殿、軍(いくさ)の様はいかにやいかに」と問ひ給へば、「ただ今、珍しき東男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからと笑はれければ、「何でふただ今の戯(たはぶれ)ぞや」とて、声々に喚(おめ)き叫び給ひけり。【角川文庫版より】

文字通り修羅場なわけですが、このぎりぎりの場面での船内清掃とは妙な行動ではあります。しかし一方で、遺体の清めや死装束・死化粧の施し、あるいはまた、末期ガンを告知された人がするであろう身辺整理、そういったことを想起させる行動ではないでしょうか。
清めた船が「御所の御船」ですから、そんな寓意が込められているのかもしれませんね。
ともかくも、死を、一族の滅亡を目の前にした男が、修羅場でとっさにみせた「死に支度」に武将としての品格を感じさせ、印象的です。

この場面、頼山陽の『日本外史』では漢文らしい簡潔さでこう記されています。

義経、乗輿の在る所を知り、軍を合せて疾(と)く攻む。知盛及ち帝船に赴く。諸嬪迎へて状を問ふ。知盛大に笑つて答へて曰く、「卿(けい)ら当(まさ)に東国男児を睹(み)るべきのみ」と。一船皆哭す。知盛手づから船中を掃除し、尽く汚穢物を棄つ。時子及ち帝を抱(いだ)き、相ひ約するに帯(おび)を以てし、剣璽(けんじ)を挟(さしはさ)み、出でて船首に立つ。帝時に八歳、時子に問うて曰く、「安(いづ)くに之(ゆ)くか」と。時子曰く、「虜(りよ)、矢を御船に集む。故に将(まさ)に他に徙(うつ)らんとするなり」と。遂に与(とも)に倶(とも)に海に投じて死す。【岩波文庫版より】

逆に饒舌な『源平盛衰記』ではこん感じです。

さる程に源氏の兵共、いとど力を得て平家の船に漕ぎ寄せ漕ぎ寄せ、乱れ乗る。遠きをば射、近きをば斬る。竪横散々に攻む。水手(かこ)・かんどり、櫓を捨て、梶を捨て、船を直すに及ばず、射伏せられ、切り伏せられ、船底に倒れ、水の底に入る。中納言は、女院・二殿などの乗り給へる御船に参られたりければ、女房達、「こはいかになり侍りぬるぞ」と宣ひければ、「今はともかくも申すに詞足らず。かねて思ひ儲けし事なり。めずらしき東男共をこそ御覧ぜんずらめ」とて打笑ひ給ふ。手(てづか)ら自ら船の掃除して、見苦しき者共海に取入れ、「ここ拭(のご)へ。かしこ払へ」など宣ふ。「さほどの事になり侍るなるに、閑(のどか)なる戯言かな」とて、女房達声々をめき叫び給ふ。【新人物往来社】

ついでにハーンの『耳なし芳一』から。

More than seven hundred years ago, at Dan-no-ura, in the Straits of Shimonoseki, was fought the last battle of the long contest between the Heike, or Taira clan, and the Genji, or Minamoto clan. There the Heike perished utterly, with their women and children, and their infant emperor likewise―now remembered as Antoku Tenno.

何か長いんですけど、三人しか回答してなのでご勘弁を。

基本的にはどちらも修養の書とは言えない性格を持っていると思いますし、NO.2の方がおっしゃるように結論は好みの問題に帰するほかはないとも思われます。また「人格形成」という言葉から、いかに若年層に益するかということがテーマのような印象を受けたりもするのですが、敢てそれらのことを棚上げしてお題目にお答えすれば、私の軍配は平家に上がります。

「平家物語ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう」(石母田正『平家物語』)

大きな歴史のうねりの中に活写される人物群像を眺めるだ...続きを読む

Q平家物語と源氏物語の違いは

平家物語と源氏物語の違いはなんですか?

源氏物語はだいたいわかるのですが
平家物語はおもしろいんですか

古典むずかしくって
ねむくなるけど
がんばってよんでみようかなあと
思ってます

Aベストアンサー

全然違いますよ。時代も平家物語の方が全然後ですし。
源氏物語は光源氏という人間が主人公の「物語(小説)」です。時代は平安まっただなかですよね。
一方平家物語は鎌倉幕府ができる少し前の源氏と平氏の戦いについて書いてある「軍記」です。
つまり源氏物語はフィクションですが平家物語はノンフィクションです。おもしろさは人それぞれでしょう。

原文で読むなら平家物語は文体も漢文に似ているので漢文の雰囲気が好きな人は平家物語も好きだと思います。私は源氏の方が文体も話も好きですが。

長くなりましたが「全然違う」ということです。

Q栄花物語と源氏物語の万葉集について

栄花物語 月の宴には、
昔、高野の女帝の御代、天平勝宝五年には、左大臣橘卿、諸卿大夫等集りて、万葉集を撰ばせたまふ
と孝謙天皇の勅撰とありますが、

源氏物語 梅枝には、
嵯峨の帝の古万葉集を選び書かせたまへる四巻
と嵯峨天皇が撰んだとも読めるようにあります。

このほぼ同時期に書かれた二つの物語の相違はどう解釈されているのでしょうかお教え下さい。

Aベストアンサー

>栄花物語と源氏物語の万葉集について

「栄花物語」の記述については一昔前は妄説の類いとして無視されていたのですが、近年「万葉集」19巻の成立に関して橘諸兄(左大臣橘卿)以下が大伴家持に命じて、19巻のもとになる資料を提出させたのではないかとの説が出ており、再評価されているのが現状です。なお、「万葉集」の詞書に年が書かれている和歌の中の最後の歌は、天平勝宝五年(752)の7年後の天平宝字3年(759)の因幡国庁での大伴家持の歌ということも関連します。
「源氏物語」のほうは、嵯峨天皇が古万葉集から抄出(書き抜き)させ、4巻にまとめたものと考えられています。もともと万葉集の原型の巻数については15巻説から数十巻説まであり、現在の20巻になるまでに紆余曲折があったと考えられ、また、一度に完成したのではないとの説が有力ですが、4巻は少なすぎ、後代の勅撰集が20巻というのも万葉集に倣ったとされていますから、「源氏物語」の文を万葉集の成立を記述したものとは考えられていません。

以上、参考程度に。

Q源氏物語の紫の上のようなパターン

『源氏物語』の若紫・紫の上のように、子どもの頃から育てて
恋人・妻にしたというようなお話がありましたら、教えてください。
小説でなくても映画・漫画・実話…何でも構いませんので、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
「キャンディ・キャンディ」や「あしながおじさん」もそういう要素を持っている気がします。

あとマンガですが、
「MAGIC」(清水玲子著)もそのようなシチュエーションです。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4592124944/ref=olp_product_details/250-0021201-5037873?ie=UTF8&seller=
とても切なくて好きな一冊です。

Q源氏物語について

源氏物語で六条御息所は、夕顔、葵上、紫上、(女三宮)を生霊や死霊になって呪い殺そうとしましたが、なぜこの3人(4人)だったのですか?この3人にあってほかの3人にない共通点とは何ですか?特別に愛されていたという理由ではなさそうです。なぜ明石君など六条院にいた人全員が、呪われなかったのですか?

Aベストアンサー

特に詳しいわけではないんですが。。。わかる範囲でお答えします。

まず、夕顔と葵上、そして紫の上と三宮を分けて考えてみてください。
なぜかというと、夕顔と葵上を呪い殺した際、六条御息所は生きていましたが、後者のふたりの時は既に他界しています。
つまり、六条御息所・夕顔・葵上が源氏の君と付き合っていたとき(葵上は正室ですが)は同時期になります。
このとき、紫の上は彼女になりうる年齢になっていませんし、三宮はまだ生まれていないはずです。
つまり、このふたりは成仏できない、既に他界してしまった六条御息所に呪われます。

まず、夕顔のケース。
源氏の君と夕顔と付き合っていたとき、源氏の君と六条御息所の関係は雲行きが怪しくなってきていた頃ですよね。
源氏の君と正室の葵上との関係も上手くいっていないはずなのに、自分のところには来ないで夕顔とばかり会う源氏の君。
それに嫉妬をして夕顔を呪い殺してしまったわけです。

次に葵上。
源氏の君は六条御息所と上手くいっていたころ、葵上との関係が上手く気付けないことを六条御息所に愚痴っていましたよね。
それなのに、源氏の君と葵上との間に子供が出来て、それを知った六条御息所は「葵上と上手くいっていないって言っていたのに!嘘つき!」と思っちゃうわけです。
そしてご存知だと思いますが、葵祭のときに葵上と場所の取り合いがあって、プライドをずたぼろにされちゃいますよね。
六条御息所から見れば、葵上は”源氏の君の正室”を振りかざし、しかも子宝にも恵まれて・・・なんで彼女ばっかり!?と呪ってしまうわけです。

こういう風にみると、このふたりは六条御息所に恨まれる“理由”がありますね。
そして何より付き合っていたタイミングが同じ!

では、なぜ他の六条院に住んでいた源氏の君の彼女はなぜ呪い殺される対象にならなかったか?
うーん・・・特別に大事にされているひとに、六条御息所は恨みを持つ傾向があるんじゃないでしょうか。
この時はご存知の通り、男性は、正妻を含めて何人でも彼女を作ってOKっていう時代ですからね。
自分だけ愛して欲しいと思いながらも、沢山彼女がいるということは当時常識ですし、それをある程度六条御息所はうけとめていたのではないでしょうか。

でも、その数多くいる彼女たちの中で、ひとりだけ抜きん出て自分以外のひとが愛される!っていうことは許せないのでは。

花散里や末摘花はポジション&キャラ的にそういう恨みの対象にならないですよね。
性格は良い人たちだとはいえ、彼女たちは一番手ではないですよね。
空蝉は一度きりだったようだし、六条院で生活が始まった時には出家していますし。
そして明石の君は源氏の君の女性の中で、他の女性とは違うように思いますね。
身分の低さが原因だったんでしょうが、自ら他の彼女たちより一歩後ろに下がっている感じ。
そして源氏の君のがのめりこみかけた秋好中宮は帝のところ、玉鬘も髭黒のところに嫁ぎますし。

でも紫の上は三宮にNo.1のポジションを譲ったにせよ、源氏の君の中ではダントツトップですよね。

でも三宮のケースはちょっと違うように思います。
彼女は不義の子を産みますよね。
ザマーミロ!っていうのは言葉が悪いと思いますが、源氏の君への六条御息所からの「恋に破れる辛さを思い知れ~」っていう呪いの様に感じます。

結局のところ、六条御息所のプライドの高さが大きく影響してるように思いますね。

源氏物語は”物語”ですから、ひとそれぞれ感じるところはあると思います。
とりあえずわたしが思っていることは以上です。
お助けになれれば幸いです。

特に詳しいわけではないんですが。。。わかる範囲でお答えします。

まず、夕顔と葵上、そして紫の上と三宮を分けて考えてみてください。
なぜかというと、夕顔と葵上を呪い殺した際、六条御息所は生きていましたが、後者のふたりの時は既に他界しています。
つまり、六条御息所・夕顔・葵上が源氏の君と付き合っていたとき(葵上は正室ですが)は同時期になります。
このとき、紫の上は彼女になりうる年齢になっていませんし、三宮はまだ生まれていないはずです。
つまり、このふたりは成仏できない、既に...続きを読む


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