
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
須磨のくだりの前に紫の上が正式に光源氏の第一夫人となり、「対の上」の呼び名で呼ばれていたこと、彼女が二条院の西の屋敷の女主人であったこと、光源氏が須磨に下るときに、自分の世話係の女性たち(女房)に「ひまをとっても、紫の上のところに移って働いてもよい」と言った時、スキャンダルで光源氏の周りに関係者が寄り付かなくなったにも関わらず、ほとんどの光源氏に直属だった女房達はお屋敷を去らずに紫の上といっしょに源氏の帰りを待つものが多かったというくだりがあるので、西の対の女君は紫の上ということになります。
No.3
- 回答日時:
須磨の章の段階では、二条院の西の対に住んでいたのは紫の上なので、西の対の人とは紫の上を指すのではないでしょうか?
花散里が二条東院に移ってきたのは、「松風」の章の時で、この章は須磨の章の後なので、須磨の章の段階では、まだ花散里は、「西の対」とは呼ばれていなかったのではないかと思います。
No.2
- 回答日時:
西の対と呼ばれる人、花散里(はなちるさと)について詳しく書かれたサイトがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%95%A3% …
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%95%A3% …
No.1
- 回答日時:
光源氏が須磨に退去する直前まで住んでいたのが二条院です。
(もちろん帰京後も住んでおりますが^^;)
その西の対に住んでいたのが、「花散里」です。
彼女は、光源氏の父上である「故桐壺院」の奥さんの1人だった「麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)」の妹に当たります。
あまり容姿は良くなかったようですが、
性格はとても穏やかで優しく、母性の象徴とされています。
光源氏が須磨から帰京後、光源氏の息子「夕霧」や娘(本当は頭中将の娘だった^^;)の「玉鬘」の後見人になる、
ひっそりとした登場人物ですが、とても重要な役どころの人です。
因みに「須磨」の直前の巻が「花散里」です。
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