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私はとくに特定の宗教を信仰している者ではありません。
巷では、色々な宗教が氾乱しています。そこで特定の宗教を信仰している方
や無宗教の方からの「宗教(信仰宗教)」に対するイメージとか、
印象とかをお聞きしたいです。宗教と言っても様々な思想がありますから
お聞きする方の立場や価値観でご意見は様々だと思います。
難しい質問だとは思いますが、よろしくお願い致しますm(__)m。

A 回答 (17件中1~10件)

あくまでもイメージということでいいですよね?


マイナスイメージなんですが・・。

・自らの判断ではなく、その信仰によってうけつけられた思想
・排他的
・反社会的
・自らの弱さを、断定してくれる誰かに求める傾向
・結局金儲け主義

もちろん、世の中すばらしい宗教も多くあります。
ですが、ワイドショーで話題になるのは上のような傾向ありませんか???

この回答への補足

マイナスイメージどころか宗教とは危険思想です。
素晴らしい宗教も多くある?って、あなた
どこかの宗教集団にお入りになったことがおありですか?。
大人しく自分を捨てた悲観論者を食い物にしていれば
いいものを、社会進出などしようものならそれはカルトです。
お互い正しい認識を持ってくだらない現代を生きて行きましょう。

補足日時:2002/12/10 10:22
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先に突っ込みますが、


× 信仰宗教
○ 新興宗教
です。

確かに既存の宗教とは異なる考えを示し、既存の宗教の矛盾点を
指摘することが多くなるので、

1番の方のいう排他的というイメージは僕も持ちます。
ただ、残りのものは新興宗教のなかでも一部だと思いますが・・・
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この回答へのお礼

やさしく....

お礼日時:2002/12/09 21:25

まず、文字の間違いがありますよ。



宗教には「信仰」がなければなりませんが、painkillerさんの「しんこうしゅうきょう」は、「新興宗教」じゃないのですか?

さて、私の宗教は、仏教です。昔からある既成宗教教団の檀家です。私は、お寺の行事に参加し、お話を聞き、自分で納得しているので新興宗教にはまったく関心がありません。

新興宗教に入っている人達の多くは、仏教の既成宗教教団の檀家である筈ですが、お寺へ行かず、お話も聞かず、周りの人達の勧めで入信した人の方が多いと思います。本来なら教義を知ってから他の新興宗教へ走ったのなら、それはその人の考えなんでしょうから否定は致しません。

現在の風潮の新興宗教には、私は賛成できません。

この回答への補足

国語はいつも「がんばりましょう!!」でした。

補足日時:2002/12/09 21:20
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こんばんは。


宗教…難しいですね。私個人の意見についてなら、お答えできそうです。

はじめに。私の親の代までは仏様を大事にしている、と思います。けれど私や兄弟は宗教には無頓着です。
若いせいもあるのですが、「宗教は行事やら何やらで面倒くさい」イメージがあるのですね。

あと、私個人としては「宗教は他の宗教の価値観を受け入れられない」と思っていて(当たっていると思います)、そこが私が宗教に入り込めない理由だと思っています。3大宗教も新興宗教もそこは違わないと思います。
いろんな人間や宗教の存在を許容できない…だからイスラエルでももめているんじゃないの?と…

街頭やわが家の玄関先で、「この素晴らしい宗教を広めたい!」オーラを発している人に出くわすと、正直「そんな事より実際に役立つボランティアとかしたらどう?」と思ってしまいます。
何故、あの人たちは仲間を増やしたいのでしょうか?無宗教はそんなに罪なのでしょうか?
宗教をダシにして争いを続けるよりはマシだと思うのですが…

最後に…この文を書くのに時間がかかってしまいました。他の方と意見がかぶっていたら、すみません。
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 わたしは、反対に子供の頃から無宗教で育ちましたので、


 一般の方から言わせると普通ではないのかも知れません。
 その理由は、父が特攻隊の生き残りであって、
 お守りを手にして死んで行く仲間を何人も見送った過去があるからだと
 聞いたことがあります。
 ですから、神社とお寺の区別も知らずに育ちました。
 現在は、結婚をして、神棚も仏壇もある生活をしていますが、

 宗教とは、個人の心の救いの場なのではないかと思います。
 私達が生きていく中、辛い事や、心が苛まれた時に、
 すがる事によって、許される、認めてもらえることができるところ。
 かの親鸞上人が、「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」と
 唱えたように。
 (善人でさえも阿弥陀浄土に往生できる。悪人は最も救済が必要なものである故
 阿弥陀如来様の本願からすれば、真っ先に救うのは徳を積んだ修行者よりも
 むしろ迷いの多い者である)
 なんらかの理由で、心の弱くなった者が、正しく生きる道を見出す為に、
 又、倒れそうになるほどの苦難を背負ったものが、
 倒れることなくまた歩き出せるように、導いて下さると信じて縋る場所。
 しかし、本来の宗教の意味には、金銭も欲も絡んではいないと思います。
 縋る人間には、どんな宗教も変わらないのだと思います。
 それを、利用するのが新興宗教。
 
 ある信仰宗教は、ご主人の病気の時に「必ず救われる」と勧誘され、
 ご主人が亡くなった時に、「信仰が足りなかった。もう少し早く入っていれば」
 と言われ、通夜・告別式の一切をその宗教団体が仕切り、
 お香典もすべて、持っていかれました。

 又、別の新興宗教の団体に、
 夫の浮気を相談した人が、新興宗教の方で、勧誘され、
 毎日、朝10時から夜10時迄、駅に立ち。
 行き交う人々に「お祈りさせて下さい」と通いつめ。
 果ては、お布施をもう少し多くすれば…と言われ、
 商売で使うと借金をし1千万円ものお金を寄付された例もありました。
 その方は、今は、離婚をされ、息子は教護院。多額の借金を抱えています。

 それでも、本人が救われたと思う方は、
 日本が宗教の自由をうたっている以上、本人の自由なのだと思います。
 しかし、オウムのように、他人に迷惑をかけない範囲でなら。。。

 私自身、高校生の時にクラスメイトに自宅に誘われ、
 遊びに行ったら、5~6人の新興宗教の方に囲まれ
 宗教に入るよう迫られた覚えがあります。
 (本当に、帰ることが出来ないくらい、周りを囲まれて理詰めで迫られました)
 そのクラスメイトとは、それきりになりましたが、

 信仰宗教は、心弱気人を狙う諸悪の根源といっても過言ではありません。
 出来れば、そういったものに利用されない判断力を持って頂きたいと思います。

 長くなりましたが、新興宗教の被害はここに書き足りないくらい、
 まだまだ、あるのです。
 せめて、宗教に入る前に、何人かの意見を聞ける余裕があればいいのですが、
 余裕が無い時に、勧誘されるらしいのよね…。
 
 
 
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人間、ひとりでは弱いものです。


神を崇拝したりある人物を崇めたりする事が精神的な支えになるのであれば、それはそれで良いんじゃないでしょうか。

宗教思想ってそれを他人に押し付けたりしなければ、生きていく上でとても手軽で便利な智慧だと思います。

ちなみに僕は無宗派ですが。
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 こんにちは。

私も特定の宗教を信仰しているわけではありません。
 ですが、知的好奇心を満たすために、それなりに世界五大宗教に関しては学びました。理解が足りないと言われればそれまでですが、けっしてその深さを探ろうともせずに馬鹿にしているわけではありません。その上での私の主観を述べさせていただきます。

 まず、私は新興宗教全体に対して否定的なイメージは持っていません(特定の団体に、といわれれば嫌なイメージを持たざるを得ない団体も当然ありますけれど)。そもそもキリスト教だって、発足の当時はユダヤ教をうまい具合に利用した新興宗教という扱いだったのですから、新興宗教が興ることそのものは何も変ではないと思います。むしろ古くからある宗教だから有り難味がある、なんて言っているほうが「洗脳されているのでは?」と疑ってしまいます。古い新しいに関係なく、教義を深く理解することが真の信仰への道ではないでしょうか。
 宗教とは、一言で言ってしまえば「偏り」です。人間はいろんな生き方をすることが出来るし、いろんな考えをもちます。しかし、よりどころが無くただふらふらしている状態と言うのは、それを心地よく思う人も多少は居るにしても、多くの人にとっては不安な事でしょう。だから信仰に値する何かによって、自分に制約を加え、生きる道を定めるのだと思います。それを馬鹿馬鹿しいと思う人も居れば、それこそが尊い生き方だと思う人も居る。結局はどっちの人間も150年も経てば土に還っているわけで、何を愚かと決め付けることは出来ません。
 ただ、現在の日本の宗教はずいぶん現世主義な気がしますね。それが悪いとかじゃないのですが、新興宗教は言わずもがな、古くからの宗教も興った当初とはだいぶ違ってきているのではないでしょうか。仏教は修行で自らを輪廻の環から断ち切り、解脱するのが目的の宗教だったはず。いわば理想の死に様のために生きる宗教です。それがいつのまにか随分と生きてる人間に優しいものになっていますね。キリスト教も、偶像崇拝を禁止していた気がするのですが、今は偶像崇拝こそキリスト教の真骨頂というほど、偶像に溢れています(自分の教派は違うと言う方は申し訳ないです)。念のためにもう一度言うと、私はそれが悪いとは思っていません。どんなことを言っても、宗教は人間のために存在するものですし、今生きている人間の願いに即した形になっているのは当然だと思います。
 ただ、信仰している当人にとっては、「自分は利益のために信仰しているのではない」となるわけで。行き過ぎると他の宗教を認められなくなったり、盲信につながっていきますね。そして、良心的な一般人にも小さい頃からの教育で、正義という名の宗教の盲信の域に達している部分があると思います。人を殺すと罰せられますし、殺人者を我々は悪と呼びます。しかし、「人はなぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれたとき、迷わずに即答できる人はどれだけいるのでしょう。本当に「いけないこと」だと思っているのなら、なぜいけないのかすぐに答えられるはずです。すぐに答えられたとしても、その答えは「人は尊い」とか「悲しむ人が居る」とか、かなり宗教的な答えになるんじゃないでしょうか。「何故人は尊いのか?」「何故悲しむ人が居たら殺していけないのか」と、永遠に質問を続けられてしまいます。
 おおよその人間は、いつのまにか刷り込まれた観念を頼りに生きています。現代は無信仰な人間が多いという意見をよく聞きますが、それは特定の宗派に分類されないだけで、実際は十分に信仰や思想と呼ぶにふさわしい観念を持っていると思います。それが一つの形を持って噴出したのが新興宗教ではないでしょうか。その動きに乗じて金儲けだけをたくらんでいる輩も居るようですが。

 ちなみに「何故人を殺してはいけないのか」の私の答えの一つは、「誰かを殺したらその分だけ、社会の役割が他の人に回ってきてめんどくさいから」です。今の安定した社会ならともかく、人類が狩猟をしてくらいしていた時代、部族の優秀な戦士同士が殺し合いを始めたりしたら部族の一大事でしょう。人は支えあって生きている、誰かが死んだらその分だけ社会の勢力が衰える。だから人は人を殺してはいけなかったのだと思っています。では人口過多に喘いでいる今の社会では、本当に人を殺してはいけないのか・・・? 不必要な人間を殺したほうが社会が安定するのではないか・・・?
 怖いですね。怖いですが、人間が家畜や果樹に行っている管理方法は、この「間引き」です。人間社会の中でもつい近年までは普通に行われていたことです。過激な思想を持った宗教団体は、はたして本当にただの犯罪者だったのか。さまざまな問題を抱えた人類社会の中、どんな宗教が興ってもおかしくないですね。

 なんだかまとまりの無い文章になってしまって申し訳ないです。結論の出しようの無い不安感を抱いていると言うことにして置いてください^^l
 では、失礼します。
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この回答へのお礼

なぜ人を殺してはいけないのか?

そもそも、こうした疑問に理屈をつけなきゃ
いけないこと事体が人間性の崩壊に至っている
現代の病理ではないでしょうか。
人間という愚かな生き物は、社会規範という
統制の下では管理できないのが一般です。
感情の動物ですから、怒り、憎しみ、憎悪
といった負のエネルギーが臨海に達すれば
簡単に人を殺すでしょう。
歴史をひも解けば人類は、戦争の繰り返し
なわけで教育で教えているのに、今更
ヒューマニズムもあったものではないでしょう。
人間とは人間を殺す生き物です。
もう、平和ボケした日本の教育制度には
この辺で変革が必要なのかもしれません。
そもそも、資本主義社会がサバイバルとしての
生き残りゲームなわけで、綺麗ごとを口に
するのはもうやめませんか。
人間性の崩壊と共に宗教の教理も崩壊しています。
宗教の世界はファンタジックワールドです。
考えて見て下さい、デズニーランドの中にいるときは
楽しいですが、子供じゃあるまいし現実社会のなかで
ミッキー、ミニーなんて叫んでたら可笑しいですよね。
サンタクロースを信じているのは勝手ですが
現実を直視する強さも必要です。
直接的な表現をすれば「人間、すなわち悪」
と言わざるをえないでしょう。
宗教ばかりではないようです。
ナショナリズムとしてのファシズムなども
正義の名のもとに大量虐殺を犯しているのですから
人間の残虐性が浮き彫りに現れている一つです。
そんな時代ですから、せめて宗教規範で
人間性の回復をはかりたいところですが、
宗教事体が腐っている現代では、救い様がありません。

友情=フレンドシップ

平和な時は二人乗れる船ですが、いざとなったら
一人しか乗れない船。
これが子供達の現実ではないでしょうか。

という訳で、私も結論が出ない不安の中で
なんとかこの嘘っぱちな世の中を生き延びようと
頑張っているところです。ありがとうございました。

お礼日時:2002/12/09 22:45

宗教を信じる、信じないは、どうでもいいんだけど、その立場をはっきりして


欲しいですね。
信じないんだったら、クリスマスをする必要もないし、初詣だって不要なはずです。
困ったときの神頼みで、神様仏様たすけてーというならば、普段から、信じましょう。

この回答への補足

微妙です....

補足日時:2002/12/09 21:14
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私も無宗教派です。


かと言って熱心にご自分の宗教に傾倒している方を批判するつもりは有りません。
何故ならこんなご時世に誰だって心の拠り所は必要だし、それが人それぞれ違うだけだと思うからです。
ただ自分が信じているからと言って、他人にとっても良いとは限らないのに熱心な勧誘をされると困りますよね。
私が勧誘で一番反発を感じるのは、信じる者は救われる」的な言い方をされる時。
神様や仏様って誰にでも公平であるべし!だと思うので、こういう言い方をされると「じゃあアンタん所の神様(教祖様?)は、信じる者しか救わなくて、他の者は見捨てる心の狭い方なのね!」とツッコミを入れたくなってしまいます。
だって本来はそういう迷える人達を救うべきものだと思うんです。
どんな宗教にせよ縁があれば出会うと思うし、他人に勧められて入るのは納得できないです。
そして勧誘も含めた宗教活動に従事する事が、その人の信仰心の表れという風にマインドコントロールされているように見えてなりません。
信仰心の深さと宗教活動は全く別物ではないでしょうか。
私個人は神様仏様は人それぞれの心の中に存在すると思っています。

この回答への補足

いまどき神様、仏様などとぬかしている
ナルシシズムは相手にしない方がいいですよ。
攻撃的無宗教論者であり楽観的現実主義者
の私としては、悪の枢軸=宗教と思っているので
自分を破棄している方達の哀れな姿を見るたびに
「馬鹿は死ななきゃ治らない!」と思わずにいられません。
くだらない観念に犯され自分を捨てた愚か者が
起こす行為で迷惑をこうむるのは一般市民です。
正直者が馬鹿を見るのが現代ですから、私の中に
いるのは悪魔です。なんてかくとサタニズムな人間に
思われがちなので誤解を解くためにいいますが、
そんな幼稚な遊びにふけっているほど暇ではないので
くだらない明日の為に仕事にでも精を出したいと思います。

補足日時:2002/12/10 09:56
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どのような宗教であれ、それは一つの規範社会であるわけです。

問題となるのは宗教を野放しにした場合、国家の規範、つまり国家の法体系と衝突する可能性が否定できないことです。主権国家が成立するまでの過程は宗教社会との戦いでもあったわけです。まさにウエストファリア条約以降の近代世界成立は宗教からの独立に他ならないわけです。私としては国家の仮想敵に備えないわけには行かないだろうと思います。したがって聖俗を分離し、世俗社会への介入を防ぐ必要があると考えます。
政教分離とはまさにそこに原点があるわけで、国家の統制の元に置き、監視する必要のあるものと思います。
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この回答へのお礼

あの方達の精神ワールドは、国家の法時体制
といった規範などなんの役にも及ばないほど
超ーーーブッ飛んじゃっているので
確かに危険分子ですね。
日本が宗教の自由を認めていますから仕方ないと
思いますが、所詮日本の民主主義などアメリカ
から押しつけられたエセ民主主義ですから
根本的なところで機能してないのですよ。
オームの事件以来、当局はかなりそうした情報収集に
力を入れているみたいですけど。
ですから監視の目はかなり鋭くなっているのが
現状です。しかしながら彼らが法の裁きを受けようものならば
それを逆手にとって「迫害こそが真の宗教だ!」
となってしまいよけい団結力が強まる傾向にあります。
あなたがご指摘なように、宗教とはいつの時代も
そのご時世を批判する立場をとりますから
勢いがつけば簡単にカルトになる訳です。
オーム事件で破防法を適用しなかったのは
国家のミスですね。エセ民主主義などクソ食らえ!
と思っている私としては、面白くない結末になって
しまって残念です。しかしながら法の正義なども
いい加減なもので国家に都合のいいように
作られているだけでなんともお粗末です。
宗教も法の正義も腐っている、すなわち
人間の本質が腐っているので、日本の未来は
ないでしょう。そんなことはどうでもいいですが
北朝鮮に核ミサイルを打ち込まれる前に
アメリカさんにお金払って核をブチ込んで頂きましょう。

お礼日時:2002/12/10 09:50

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