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 次の仮説を思いつきました。ご見解を述べてください。

 個人にとってのキリスト信仰が 教義化して集団としてのキリスト教となったあと デカルトだか誰だか知りませんが 理性の内に教義を摂り込み 理論として 精神なる神を抱くようになった。唯心論なわけです。
 これに対して 心は 質料(モノ)の反映であり 脳におけるその翻訳であるに過ぎないと見るなら 唯物論に行き着くようです。
 理性信仰も 唯物史観も どちらも エデンの園の更新版として 新しい天と新しい地 あるいは 共産主義社会を それぞれ 思い描いたのだと思われます。
 だとすれば 片や 個人の信仰のときの 絶対他力〔のもとにおける自助努力〕を引いて 他力・易行道(極楽浄土の浄土門)に相当し 片や 《科学的な》楽園を 自力・難行道(聖道門)によって 歴史的に 目指す恰好であると捉えられます。前者において プロテスタントの職業倫理は 自助努力の要素を重視し 自力道に転じたかも知れません。(ただし 楽園ないし天国にかんしては やはり 他力であるだろう)。

 言ってみれば 単なる図式なのですが ご見解をおしえてください。

 * いくらか つけ足しを思いつきました。
 (1)ブッディスムは 主に個人の解脱を目指していて 社会のあり方を あまり問わないとすれば 筋が違うと言わなければならないかも知れない。
 (2)日本人は 楽園から新しい楽園へという直線的な史観によっている要素が 少ない。この図式を 個人の信仰(もしくは いつもは 放っておいてある信仰)のもとに 飲み込むことができる。のではないか。 
 ――これらで よいかどうかなど おしえてください。

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A 回答 (21件中1~10件)

肝心なことを書く前に、「なまごみ」を出して、朝食を食べました。


山本宣治の伝記、映画を見たことがあります。クリスチャンとマルクス主義は、思ったほど距離が離れていないようです。
仏教の知識がないので、なんともいえませんが、地球、世界、日本の大問題に直面したとき、「神」を信じるものも、信じないものも、手をとりあって問題解決に取り組みたいものです。
NHKご近所の底力、という番組ではありませんが、問題は、いつも現場で、具体的に起きています。ということは、解決できるのです。
エデンの園を知りません。訪れた人が、「まるでエデンの園のようだ」といわれる場所が、日本にもたくさんあるでしょう。そこには、懐かしい日本人がいて、温かくもてなしてくれるのでしょう。
最近、テレビをぼんやりみていると、「エデンの園」みたいな場所と人々がたくさん紹介されています。人々がそれをのぞんでいるのでしょうね。
実は、自分の住んでいる村や町が「エデンの園」なのかもしれません。
「りんご」も象徴的ですね。青森県の木村さんのりんごは、腐らないそうです。生きたままドライフラワーみたいに芳香を放ちつづけるそうです。
残暑がおだやかになることを祈っています。

この回答への補足

 HANANOKEIJさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 山本宣治のことは 知りませんでした。戦前の言論活動には 狂気という要素を見ないことには 受け容れられないことが 多いようです。いま どれだけ 尾を引いているかにもなりますが。

 桃源郷は 忘れてください。出したことは それが 一人歩きすることは 本意ではありません。
 わたしは マルクス主義者であったことは 勇気がなかったからか 能天気だったからか(こちらだと思っていますが) ありません。どれだけ蔑まされようと 二十一・二十二歳あたりから 勉強し始めました。掛け値無しです。でも マルクスは いいことを言っています。たとえば
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   結局のところ 市民社会の成員としての人間(* つまり スサノヲ市民)が 本来の人間とみなされ 公民 citoyen (* アマテラス公民)とは区別された人間 homme とみなされる。

  * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     したがって わたし( bragelone )は 

    《スサノヲ人間語》 と 《アマテラス普遍概念語》

   とを 区別しました。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なぜなら 政治的人間(* アマテラス族)が ただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し 

 * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   つまり アマテラス普遍概念にもとづこうとして 出来るわけの
  ない客観的で模範的な公的人間たろうとした。そのアマテラス人で
  あるのに対して
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

市民社会の成員としての人間(* スサノヲ市民)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。
 現実の人間は 利己的な個人の姿においてはじめて認められ 真の人間は 抽象的な公民の姿においてはじめて認められるのである。
 (K.マルクス:《ユダヤ人問題によせて》 城塚登訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というような趣旨に受けとめ得るかなと思われることを おっしゃっているものと思いました。(最後の一文の中の《真の〔人間〕》という言葉の意味については 議論の余地があるでしょうね)。

 こちらでは プラスチック・ガラス瓶・金属缶類の分別にはやかましいですが なまごみとその他燃やしていいごみとは まだ 分別しなくていいようです。
 わたしは 何もしないたたかいを通じて――インタナショナルな井戸端会議をつうじて―― いつの日か 無血名誉革命が成ることを祈っています。

補足日時:2008/08/25 13:20
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 ヨハネの第一の手紙4:18よりもすばらしいです。

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この回答へのお礼

 アウグスティヌスの請け売りです。

お礼日時:2008/08/27 16:34

 ありがとう御座いました。

風が吹けば案山子の着物も動きます。見てもらいたい。お話してもらいたい。聞いてもらいたい。相手してもらいたい。茶の間の声がある。伝える内容は必要ない。バックミュージックが、心地よく流れている。伝える愛やメッセージは無関係、そしてその任務はない。声声声。お話が途切れてはさびしい、怖い、不安だ。
 本当にそうですね、みんなそうですね。用事はなかったのですね。
 私には私の用事があるので、ごめんなさいね。今までありがとう。
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この回答へのお礼

  
   愛には恐れがない。
   完全な愛は 恐れを締め出します。
     (ヨハネの第一の手紙4:18)

 けれども 愛には きよらかな恐れがある。
 わたしの愛は 全きものかとおそれる清らかな恐れがある。

お礼日時:2008/08/26 18:12

 brageloneさんありがとう。

一応全部、検討しました。
 いやはやありがとう。案山子のきものが風に飛んでいる。
 伝える内容がない。伝えねばならないものは何もなかったのでした。
 勝手に何かがあると思ったのが錯覚でした。
 ありがとう御座いました。風が吹けば案山子の着物も動きます。
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 どんな別様でもいいのです。

通じないだけです。許容しています。
 言葉と文章、表現は人間同士の共有のメディアでしょう。
 どんな言い方、どんな考え方も結構です。
 暗号でもいいです。そこには共有の約束事と、たどれる脈絡があるべきでしょう。
 誰しもこのことで万全ではないかもしれない。
 しかし、その努力、相手を見てください。
 どんな顔つきも結構です。どんなご気分も結構です。
 どんな修辞も結構です。私は受け入れることから開始しています。
 こんな考え、こんな顔だから、そのまま受け入れよ、それがこのkrya1998とやらが、自分の中で意味が分かるかどうかはいいのだ、ということなのですね。
 こんな表現、そしてこんなことだ。分からないやつには仕方がない、そんなものだ。ということですか。
 あなたがどんな考えでも、違う人でもいいのです。
 違う人だなとか、違う考えだということが分からないのです。
 つまりですね、あなたが眼前に居ないのですよ。
 何かが現れていないのですよ。
 無意味も意味もない。空気や虚空でもない。不顕現の尊い存在が見えないのとも、もちろん違う。
 樹間を、葉の後ろを風が通るのは、風だと分かる。
 単なる、日本の文字が並んでいるだけ。
 路傍の石でもない。
 古代の並では異常とされる意識が通じない脈絡とことばを、連ねているのは、それはそうだと分かるから、いいのです。
 どんな個性もいいし、差別の用語だが、気違いでもいいのです。
 そうだと分かりますから。内容がどうであれ、その通りに理解します。
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この回答へのお礼

 門から入って来ないからです。柵の向こうで 声が聞こえるので 応答しているだけです。

 無門関がいいのでしょうが かと言って 門は締めてはおらず 常に開いていますが 門としては そこにあります。
 土足で上がってくるというわけではないので 応答しているだけです。

お礼日時:2008/08/26 12:23

 允に苦労しております。

他の方々にはどうか存じませんが、私以外の多くの方の文章と違い、お書き込みいただいている文章は、私には辞書もなく、文法も不案内の異界のお便りです。
 ☆無明そのものが ~~
krya1998⇒仮にブッディズム系統のことをさしておられるとすると、私はブッディズムがそんなことをいっているとは、りかいしてきませんでした。
 ☆王とは~~
krya1998⇒私のいう俗権とは異なるようです。王は祭祀の生贄としてきているところもあり、この点でも私の浅学の知識とは異なっています。
 ☆何もしないたたかいである~~~
krya1998⇒たいへんなご高察なのでしょうが、私には理解できない文章でした。

 どうすればこの文章を理解できるのでしょう?
 
 孔子と論語の話が、現代人同士で出されてきている中で、遠くしかも時代も世界もことなる一方のあなたが、諱を避けた字を呼び捨てで使用する必要があるのか、お教えくだされば幸甚です。孔子の方が人口に膾炙しているし、間違いでもないし、論語の話し手としての方は、仲尼ではなく、孔子として話され、書き留められ、長く影響し、研究されてきております。呼称や表現は私も未熟で奇を衒うことがありますが、人や歴史も大事ですので気になっているところです。
 表現の個性は重要ですが、人を見て法を説け、とかいう方もおられ、どうか私にも大事な内容が伝わるようにお書きくださるようお願いします。
 すごい聖典やノストラダムスみたいなことでは、いくら苦労して、何べんも読んでも、理解できなくて、滅入ってきます。
 異類同士ではないはずです。雀やカラスのサインは何とか少し分かるようにはなってきましたが。
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この回答へのお礼

 《異者の受容》が 目標です。

 いま《慈悲》とは何だとか質疑応答していますが 一様の解釈をなぜ繰り返すのでしょう。別様の解釈をなぜ持たないのでしょう。なぜ 同じ顔つきの回答ばかりが並ぶのでしょう。
 コンフシアニスムにしても なぜ別様の言い方をしないのでしょう。

お礼日時:2008/08/26 10:48

 イエス、山宣、リンカーン、そしてわがマハ・アートマ・ガンディー。


 彼ら聖の当為存在を権力は他の、口先と天頂鶴のようには泳がせておくことは出来なかった。
 今日本での俗権は全情報と環境の差配の中、泳がせられないものは、一定の仕方で排除するようにしている。
 スマートな選別という仕方で。これはまた残虐な様相を呈してはいるが。
 聖と俗の戦いはどこまでも続いてきた。これからこの展開はどのような様相になっていくか。本物たたちが躍り出るときは、文化と意志思想の一定の激動がある。
 今食事をあてがわれて、お利口にも無意志、無思考、無志向にされている中で、主の差配はどこにその杖をおろされるか。
 その時が地球のどこか。俗権にどのように向かうか。人たるものの意気地ですよね。
 (竜馬に心酔している方を多く知っているので、この偉大なたましいについて、権力は泳がせて置かれた、などとはいいません。傑出の人材であったことはその通りですから。)
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この回答へのお礼

 ひとが生まれ 世の中を生きるとき 生きづらいのは 無明(煩悩)によると言った者がいる。無明そのものが 人と人との相互の作用によって成り立っており この関係じたいが 明らかにされれば 明知そのものとなる。とだけ言って 澄ましているやからである。
 目覚めた者が増えれば 王法も 晴れやかな秩序を伴なうだろうと言って 澄ましてやがる。

 王とは そもそも 泣く子であり地頭である。いちばん上にいさせなければ 死んでやると言って だだをこねくり返した狂気であり 神輿の上にいさせなければ 大きくなっても 豚たちと一緒になって 泥の中を這い転げまわっていてやる ぜったい人となってやらないと言いくりからした人間である。
 わたしたちは このアマテラス族を 人間にもどす使命がある。
 何もしないたたかいである。狂気になることも 狂気をよそおうことも 人間の意志の自由によって起こっている。この自由意志を われわれは 他人が どうすることも出来ない。
 この不自由をすべからく明らかに見よというのは ブの系譜である。
 有効なる意志の無力としての不自由 つまり 有効が無力にされているという自由の状態のまま なお 生きているというのが キの系譜である。
 無効の狂気が現実に有力となっている世の中にあって 無力の有効を保つのが 自由意志である。この自由意志による生活の定着 その安定が確立(サンキーレ)すること これが 聖(サンクトゥス)である。 漢語の聖は知らないが 《俗なる現実の中にあって 無力のままでも有効を確保し その動態を確立した》なら 聖(サンクトゥス=セイント)である。
 

お礼日時:2008/08/25 23:48

 「山宣、ひとり孤塁を守る」と国会で演説し、その後、旅館で下級の(退職警察官の出刃包丁と凄惨な格闘をして虐殺された)山本宣治は、brageloneがいうような単なる言論(ジャーナルや学者)というよりも無産党の政治家政治家、活動家ですね。


 彼は国会出席のため、確か京都の旧家か旅館でしょうか、から出てきて、好きな日本酒で寛いでいたところを、一労働者だとだ偽る、直前に退職した腕力のある巡査に頚動脈を切断されて、殺されました。
 相当に戦いましたが、力が付きました。多喜二も数箇所の警察署の留置を転々とされながらの虐殺です。死体の睾丸や腿は二倍になり、手足の骨は砕かれ、その前に手の指には釘を打ち込まれ、虐殺されました。
 今は自白剤や拷問の仕方も別に研究はされているそうですね。
 いやらしい話ですが。西洋の魔女などの刑務所などから西洋的外科学も発達したとのことですが、人間はいやな面もあるものですね。
 聖者の背骨に七つの穴があるそうだ。聖者を殺して確認しよう、として聖者の背骨を調べさせた、シナの君主がいるそうですね。
 俗権は聖には残虐です。「山宣、ひとり孤塁を守る」というあのお方は確かキリスト教に触れていると存じます。でも左翼に献身された、そして多くの今献身されている方は、たくさんの宗教の方と人間としての質性は通じるところがあっても、キリスト教の教えそのものには、傾倒してはいないと存じます。
 理論武装では、キリスト教は論外としておられると存じます。
 同志と思われるものに刺殺された、かの竜馬の死に状況的に似てはおりますが、竜馬はある意味で性格からの招いた状況でもありますが、山宣の場合は明らかに権力系統の意図的な差配を感じられますね。
 質問者の言葉の、単なる言論活動などではなく、社会、政治活動ですね。イエスと同じ、権力は存続・安泰のために黙過できない存在なのですね。
 リンカーン、そしてわがマハ・アートマ・ガンディーに通じております。東亜細亜の片隅の小さな開発国での事件ですが、性格的には明らかに聖と俗の戦いでしょう。宗教の教えは掲げていなくても。俗権は許せなかったのですね。つまり聖なるものと俗権との確執を垣間見ております。隠された歴史真実でしょうね。
 竜馬は違いますね。組織としての都合だと存じます。聖と俗の確執は見えません。私はそう見ます。半島や岬はいいな、それは外に出ている、という竜馬の傑出と表裏の事件ではないかと存じます。権力は働いていない。

 なお、brageloneさんが使われた仲尼という呼称について質問があがっており、示唆にに富むご回答がありました。大変勉強しました。http://kikitai.teacup.com/qa4276673.html質問は締め切られましたが、何かの機会に、bragelone様からもお教えをいただけるとありがたいです。
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議論が難しくて、ついていけませんでした。


NHK大河ドラマ「篤姫」を毎回楽しみに見ています。
生きている、ということは、もっと単純でいいのではないでしょうか?
朝、起きて、新鮮な空気を深呼吸して、今日も一日、生きることの幸せを
感謝します。今から、「なまごみ」を出しにいかなければなりません。
毎日の積み重ねが、大きな変化を生み出すのでしょう。
地球と日本の激動の時代に、bragelone様、krya1998様と共に生きることができて、幸せです。私が思うように、他人も社会も動きません。でも、いつのまにか、私を置いて、みんなが先にいってしまいました。
十年を一日にしたような日々が始まっています。
なかよく、お酒(焼酎)をのんで、楽しく生きていきましょう。
今日のことは、今日でおしまい。
明日は、明日の風が吹く。
皆様、夏の疲れがでないように、ご自愛ください。
論語の「たとえばやまをつくるがごとし」庭の築山をつくるためにもっこで
土をはこぶようなもの。あと一杯で、築山が完成するのに、やめるのは、自分の意志です。
「至誠にして動かざるは、未だこれあらざるなり」孟子
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この回答へのお礼

 仲尼のことは知りませんが

 ごめんなさい。
 こちらこそ。

 これでおしまいじゃないの?

お礼日時:2008/08/25 09:21

 ☆自分の真意に忠実であり誠実であるのと 相手との対話において 全体として 誠実であるのとでは 微妙に違います。


 ごまかしがないから 誠実であったかという問題です。
 わたしは 自分に対する誠実を超えて 自分をだましてまでも 譲歩しまくりました。という問題です。
krya1998⇒誰しも仰せの通りのことをやろうとして、そうであろうとして、一生懸命、お相手しているのではないだろうか。
 何をいまさらここで、自身の主観的範囲の誠実を超えることを、自己を押さえ、超え、我慢して、大道理、相手との会話をしようとしてない人間があろうか。
 関係の存在としての人としても当たり前の宿命ではないであろうか。
 そういう宿命も措いている方もおられようが、私もあなたからここで不肖未熟なことを思い知らされなければならない、事の流れではあるまい。
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この回答へのお礼

 ★★(No.10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  いまさらいうまでもなく、自分の真意に忠実であり誠実であり、且つ、相手との対話において全体として誠実であってきました。ごまかしがないし、誠実であってきました。
 自分に対する誠実を超えて自分をだまして(ということばではないが)までも、譲歩してきました。いまさらいうまでもなく。
 いろいろありがとうございました。
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お礼日時:2008/08/25 09:55

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