「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

 QNo.4360319で同じ質問をしましたが、どうも誤解される文章のようですので、QNo.4360319を締め切り、ここに新たに起こします。

 「生きることは一種の狂である」 これは漢字学者の白川静さんのおことばです。
http://www.toonippo.co.jp/tenchijin/ten2004/ten2 …において拝読しました。質問者は何かこのことばに惹かれて、こんにち(今日)まで抱いてまいりました。
そして熱、情は受けているつもりでありますが、『他人には常軌を逸したかのごとく、夢中にのめり込み、まっしぐらにいくのだ』、という以上の表現ができないできております。情けないかな、人生の深さ、生き方の強烈の差を感じております。
 先の質問でもご回答にて、このことばの重要性と軽々しい聞き方を注意されました。
 私としては、ぜひとも更に意味の理解を広げ、且つ、深めたく、お教えを賜れますよう、質問しているのはもちろんであります。
 どうかなにとどうぞ、ご所論の一端なりともご披瀝賜れますようお願い申しあげます。
 (国語のカテかとも思いましたが、敢えてここで哲学にいたしました。無論哲学のご質問にありがちな、自己の意見を陳述したり、論議をの場にする意図はありません。お教えを賜りたいだけです。なにとぞよろしくお願い申しあげます。)

A 回答 (5件)

TVでしか拝見したことはないですが、白川さんは個性的なおじいちゃんというイメージがあります。


白川さんがどういうつもりで発言されたのかは、この文節だけでは読み取れませんが
「狂」という字を目にしたとき、日本人として最初に思い当たるのは
文中の弁証法でも中国の法でもなく、明治維新の萌芽となった吉田松陰の理論です。



松蔭は自ら「狂夫」と名乗りました。彼の理論によれば人間には精気というものが存在し
欲望のままに行動すれば、精気は衰え、最終的には常識で物を考える「惰」に陥ります。
精気を抑圧すれば人間はその状態から脱出しようとします。
この精気が蓄えられた状態、これを松蔭は「狂」と呼んでいるのです。



世界の哲学史を見ても、社会は真理を完全に体現していないこと、
にもかかわらず、大抵の人間は現状に満足しているため、むしろ真理を適用すれば
人々に疎まれること。この矛盾がソクラテスやデカルトなど、さらにはフランス革命を
否定し緩やかな統治を説いたイギリスの経験主義者達などにより指摘されています。


つまり、松蔭の「狂」は今日の我々がイメージするような物狂いや論理から外れた者、
あるいは理性を失った者を意味しません。
それは現代の我々にも解り易い言葉に言い換えれば「変革者」としての精神なのです。




そしてそれは創作活動を行う人間においては自分だけの独創性の獲得を意味します。
今となっては確認する方法はありませんが、
白川さん自身も文学者としての自己・個性を求め続けていたのかもしれません。

この回答への補足

 吉田松陰が多くの方をひきつけた、理由の一端に触れることができ、やはり質問を起こしてよかったと、ここに心底感謝を申し上げます。
 私も、小学校から、恩師からも母からも、変人とか、奇矯とか評され、呼ばれてきて常人にどうしたらなれるのかが、課題でもりました。

 白鳥蘆花の話も私みたいな騒がしい心では遠く、高い聖なる世界でした。吉田松陰がこのように仰せられていたのはとても嬉しいです。
 紹介申し上げているコラムでも、狂のことばは松蔭のお話にぴったり合致するような気がいたします。
 ありがとう御座いました。

補足日時:2008/09/28 14:45
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この回答へのお礼

お借りします。

ANo.4様 「自ら意識しないで」は、私は「意識的に意志しなで」、「つまり人間の宿命的あり様として」と経験し、思っています。
 「ものに執心すれば平凡を踏み外すが、そこには理想や志の高さもある。」⇒質問者、同感です。
 「狂は理性の対極」本当にそうなんだろうか。そもそも「理性」って何なのか。⇒質問者、すごいご指摘です。
 「権威主義の否定こそ狂の精神である。」⇒質問者、私も組織などでもずぅっと一応中心におかれながら、Odd、変わり者といわれて気持ちは、穏やかではありませんでして。(こんな理解だと、意味を取り違えていましょうかね)

ANo.3様 新質問を起こしましたので、ご恵読賜れば幸甚です。

ANo.2様 自分もつらいのに、そういう苦、迷妄になかなか気づけませんね、私たちは。

お礼日時:2008/09/29 08:14

>人生の深さ、生き方の強烈の差を感じております


自ら強烈な差を感じずにおれないほどであれば尚のこと白川静氏の発言の真意が知りたいのであれば御本人に訊ねるか、氏の思想や周辺に詳しい人に訊ねるのが一番いいのですが、こういう所で聞くというのは、私みたいに白川氏のことは何も知らない者なら全く勝手な感想にしかなりません、それでも宜しいのですね?

「生きることは一種の狂である」
これは、まさしく、哲学なんぞという思考をする人間だから言うことです。
単に字面の解釈を問うなら「国語のカテ」なんでしょうが、そうじゃないのでしょ?

ご質問中のコラムに出てくる
「自ら意識しないで」
この「意識」って何のことを指すのか。「意識しない」って、どういうことを指すのか。
「ものに執心すれば平凡を踏み外すが、そこには理想や志の高さもある。」
ここ、大事なんじゃないですか。このコラムの筆者自身
「白川さんの狂字論は、そこから展開する。」と言ってますね。しかし
「狂は理性の対極」本当にそうなんだろうか。そもそも「理性」って何なのか。
「権威主義の否定こそ狂の精神である。」
ところが世間には「狂」を「権威」にしちまってるようなスノッブどもがワンサカいる。芸術やアートの名を免罪符にしたがるのと同じように。
そこにあるのは、まさに「意識しないで」自動的にやってる小賢しい計算だ。


存命中は世間から認められることなく、かずかずの作品だけを残して、ひっそりと世を去った一人の日本画家がいた。絵に狂い通した凄まじい人生だった。彼の妹さんは一言ポツリと言った。「きちがいでございました」。
だが、誰に大きな迷惑かけるでなく静かな、つましい地味な一生でもあった。

静謐にして凄まじい。冷ややかにして熱。狂気と理性。それらが、すべて作品のうえに出ている。
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この回答へのお礼

 権威に何でもするのはいただけませんね。

 仕事って、自分って、やっていくって、どうしても狂ですね。

 示唆に富むすばらしいお話をありがとう御座いました。

お礼日時:2008/09/28 07:37

こんばんは、krya1998さん。




【第1章 1.「風呂」の語源と歴史】
http://homepage2.nifty.com/sakura-saryou/dai1-1. …

【アイヌと和人と旧古倭語】
http://www.k5.dion.ne.jp/~kamide/sub7.html#saru

【QNo.491585 人が人を超えるとき(SFチック)】
ANo.7
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa491585.html
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この回答へのお礼

 littlekissさん、ありがとう。
 私は2時起床ですから、今、朝食前。7:38でしょうか。
 おはよう御座います。難しいし、面白そうなので、もう一度読み返します。ありがとう御座いました。

 超えるですか。完成への意志ですか。
 白川先生は、私が思うに、つまり経験から、超えることも、完成や完璧も眼中にお有りとはご拝察しておりませんが。
 超えるも、完璧への意図も、失礼ですが、所詮は亜流ですね。
 第二次ですね。これは私の経験と思いですので、ごめんなさいね。
 私は、ANo.1さんのご回答への、お礼に書いたように、幕末三舟やせごどんの≪そんなもの目じゃねぇや。金も命も、完璧も、名誉も、一体そんなもん、なんだぇ。超える必要はねぇよ。俺でやるだけさ。≫なんです。
 超えるなら、意識のsimulacraでできている、とりとめない地上のfractalの中の、Droste効果的存在でしかない、堂々巡りの人間を超えて、見つめることで造っている創造者になることが、私の究極の意図です。
 超える価値のものや超える価値は、世界と自分には存在しておりません。
 そんな頑固でいるから、表面は交際上手で日常生きているのですよ。
 ですから、狂には惹かれるのです。
 お教えありがとう御座いました。失礼の段、どうかお許しください。
 今後もどうかお願いします。

お礼日時:2008/09/28 07:33

「生きることは一種の狂である」 


心と身(体=肉体)を持つということがこの世に生きるということです。「この世に生きる」の対比語は「あの世に生きる(肉体の死)」を意味しています。また、この世で肉体を持つということは肉体から生ずるあらゆる欲望(煩悩)を持つことにもなるわけですね。食欲、睡眠欲、性欲、出世欲に名誉欲などなどきりがないですね。このようにいいますと「生きることは一種の狂である」というのがなんとなく理解できますね。釈尊は生きることはすなわち「苦」であると喝破しましたが、肉体に焦点を当てると、地上で獣の王になることですから「狂」であるともいえますね。自身の肉体から発する煩悩を心が何とか制御すべく日々苦闘している有様でしょう。それを鳥瞰すれば「生きることは一種の狂である」のかもしれませんね。
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この回答へのお礼

 ありがとう御座いました。

 肉体具有と欲、そして苦。それを脱した境地からは、世俗のうごめきは迷いと狂い、そしてくるいとして見ることができるでしょうね。

 確かにそういう狂気が今、なくなった自分は、何かに執着したり、欲望したり(変な日本語を許されよ)することがなく、空ろではないが、死と生の区別を付けられなく為りました。

 でも白川先生は、そういう次元ではなく、自分の仕事、義務はしなさいよ。それは人のどうのという常識や常軌を超脱した世界だよ、とおおせられているように思えるのです。先生の場合は、あの漢字のご研究でしたね。
 すばらしいですね。ご研究、ご著述は、法律しか勉強してなかった私にはとても目を啓くものでした。それは先生のご狂気の成果なのでしょうか?
 しかし、生きるという狂気がなければ、地上は全うできませんね。
 所詮肉体を着て、地上で呼吸し、地面を歩くには、ある程度は狂気を受け入れることもしないといけませんね。ありがとう御座いました。

お礼日時:2008/09/28 07:10

素人のおもいつきにすぎませんが、ひょっとしたら先生は虚無的思想をお持ちだったのではないでしょうか。

人生の意味を表面的な栄誉、名利などに求めない一方、人生の意味を虚無的という逆説を狂という表現で認められたというのは無理でしょうか。
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この回答へのお礼

 早速にありがとう御座いました。

 本当に仕事をする人は、幕末の若者たち、西郷、鉄舟、勝さんたちみたいに、≪命も、金も、名誉、毀誉褒貶も眼中にない≫、いわゆる始末に負えないやつ(西郷の述懐)ですよね。
 それは、常識やordinary menの世界にない、こちらとは通じ合えない狂気の界ですよね。

 虚無的境地というのは、もっと思いをこらしてみたいと存じます。
 西洋人の虚無(Nihilismですか)とは異なる基盤と内容なのでしょうね。
 小器なのに、私も世間性を蹴飛ばして、というより判らない性質(たち)ですが、虚無を想像することが出来ません。
 虚無主義、ヒンドゥ的空、ナーガルジュナの、ともちがうのでしょうね。難しいです。
 老子の空かもしれませんね。

 とても嬉しいご指摘です。

お礼日時:2008/09/28 06:56

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