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形而上学というものがありますが、形而上学者も形而下の世界に住んでいます。
わたしたちが形而下の世界に住んでいる以上、形而下の世界の経験を通じてしか形而上の世界のことを知ることはできません。

しかし、形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
結局、形而下の世界のものごとは形而下の世界のものごとに過ぎない訳で
形而上の世界のものごととは、まったく性質の異なるものかもしれない、ということもあるんじゃないでしょうか?

形而上学に興味を抱いてみたものの、実証主義者が言うように、
形而上学はまったくのたわごとにすぎないんじゃないか?という疑問でかなり悩んでいます。

観測できる世界とは形而上学とは理論によって結ばれており、
理論の先にはもう何も存在していないと宣言できるような理論をつくることはできない、という指摘もありますが、
そもそも形而上の世界は形而下の世界の理論では理解できないのではないか?と悩んでいます。
そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

わかりにくい駄文ですみません。どなたか、詳細かつわかりやすい回答をお願いします。

A 回答 (8件)

経験を通して、、



例えば麻薬をすれば、脳内物質が変化して、快楽を感じたりしますよね。

古代の宗教関係を見ると、麻薬を使っていたと思えます。
快楽物質を人工的に起こすわけで、トリップして、通常感じないことを感じれて、ハイになったりする。

その人工的に脳の構造を変化させたときに見た幻影を、天国とかすばらしい精神世界とか捉えて、そこに行き着こうとしたのだと思えます。

麻薬をやればトリップでき、脳の思考回路を通常とは違うようにできる。

麻薬を摂取しなくても、側頭葉てんかんを起こす人の中には、別ワールドを知覚したと認識する人もいる。
一箇所に過剰な電流が放出され、別ワールドにトリップして快楽の頂点に達し、天国に行った気分になるのだそうです。

そういう体験をした人は、その幻を、現実体験した認識する。

「所詮 君らのような凡人にはわからんだろう」となる。

ええ、麻薬もやったことないし、てんかん発作も起こらないので、幻を見れませんから・・・。


我々は地上にいるとき、象3頭分くらいの重力を脳は受けているらしい。
その状態で認識したり思考している。

宇宙は無重力。
宇宙から帰った人は「私は神と出会った」とか言う。
民間宇宙飛行士として搭乗人も、「君らにはわからんだろう」みたいなことを言ってた。
彼は高尚な経験をしたと言っていた。

てんかん発作を起こした人も、似たようなことを言っている。
説明を求めるとごまかす。
説明できない。が体験したと主張する。
何をと聞いても説明しない。
「言っても所詮君らにはわからんだろう」とごまかす。

民間宇宙飛行士が体験したこと。高尚な世界? 神と出会った? 
無重力の中に長期にさらされたため、脳の思考が通常と違う回路になり、それで幻覚を現実体験したとしか思えなくなったのんじゃないかと。

ま ともかく、その人はそれ以降 庶民的な人だったが、なんか高みに上ったかのうな態度になってしまった。


脳が壊れた?
というより、気圧により、人間の脳の思考の範囲が決まり、通常ほとんどの人は1気圧の中で生活しているので、そんなにとっぴなワールドを認識しないのではないかと。


ところが、麻薬や気圧の影響を受けていないのに、特殊な認識をする人もいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA% …

この人は、その特殊な認識をする人を研究している人。

この人に影響を受けた人は「脳の中の幽霊」という本を書いた。
人間には神を認識するモジュラーがある とか推論を書いています。
あるというより、そう認識することになった理由を推定している。


その本の中で名前は忘れましたが、ある人は自分の両親を、自分の親とそっくりだが、偽者だとしか思えない症状があった。

声だけ聞かせると、親だと思うが、対面すると、親とそっくりだが別人だと言い張る。

その人は親だけに対してそういう反応をする。
他の友人には「そっくりだがお前は偽者だ」と言わない。


どうして声だと親だと認識できるのに、視覚でも親と同じだと認識できるのに、偽者だと思うのだろうか この作者は考えた。

で、仮説として、人間は特別な親しみ」を感じるかどうかで、親だと認識するのではないか という。

その特別な親しみを感じる部分が障害によりうまく機能しないと、親に会っても、特別な親しみを感じないので、親だと認識できなくなるのではないかと考えた。

じゃあ、人間はどの部分により親しみを感じ、どの器官が壊れると、親しみを感じなくなってしまうのか ってことになるんですね。


親しみを感じるってのは、精神的なものですよね。
親しみを感じる機能が壊れるって現象は、物質界ですよね。

脳科学は物質界ですが、それを研究することで、精神世界のなりたちがわかるようになるのではないか と研究されだしている。

それが盛んになったのは、皮肉なことに湾岸戦争とかが起こってから。
化学兵器は、外的損傷を与えず、脳にダメージを与えることができる。
湾岸戦争から帰ってきた人は、外傷が無いのに、精神病患者にそっくりな症状を起こしていた。

それで、脳科学が注目されるようになったらしいです。



>そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

親しみを感じたり、憎しみを感じるって意味があるか?
あるとしか思えません。
物事に対して、何にも感じないのなら、植物と一緒じゃないですか。
オリンピックで日本人は日本を応援するが、日本が負けたら、他のアジア諸国を応援したくなるでしょ?
人によってはサッカーで日本が早くから負けていたら、サッカー王国に挑む国を応援したくなる。
植物はそんなことしないです。
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存在するものは、可能性として、知覚することができます。


しかし形而上なるものは、存在しません。
つまるところ、形而上学は、形而上の物事を知ることができないのです。

例) フロギストン
フロギストン説という学説をご存知でしょうか?
燃焼素・燃素と訳されることがありますが、酸素が発見される前に使われていた燃焼プロセス理論です。酸素が見つかったことで、破棄されました。いまでは、間違った理論も体系的構造を持つことができるということの「たとえ」としてよく使われます。

心理学や物理学を信じたい人・心の糧にしたい人が多いようです。それは自由。でも、なぜ形而上学と現代人が信じている理論を無理やり結び付けようとするのでしょう。「形而上」という言葉が、なぜそんなに大事なのか正直理解しかねます。

アリストテレスを研究する前に形而上学を云々するのはどうかと思います。

質問自体の意味を問い直す為自問します。

「アリストテレスは、形而上という言葉をみずから用いたのでしょうか?」

傾向として、ゲームやら映画やらで神の存在を前提とする考え方(ここでは形而上学)が、無意識のうちに広がってきたことも事実でしょう。

キリスト教的な考えにも、学ぶことは多いのかなとは、思いますが、まわりのひとに目を配って改めて考えてみると、「西洋的神」云々が、大事なのは、結婚のとき/オンラインゲームのプレイ中だけだというのが、どうも頭から離れません。

「形而上学がなにげなく存在している」ということ自体が、必ずしも「形而上なるものが存在する」ということへの証明には
ならないでしょう。

この事実は、この場を借りて確認しておきたいなと想っています。
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> 詳細かつわかりやすい回答をお願いします。


そんな、難しいことを・・・

ご質問の趣旨からそれますが
少々思いついたことがあるので書かせてください。

> 形而上の世界のものごととはまったく性質の異なるものかもしれない、
> ということもあるんじゃないでしょうか?
例えば、量子力学の世界では今
(私の量子力学知識は書籍の受け売りですが)
5次元で物理学を考えている人たちが多いそうですね。
でも、量子力学者だってわたしたちと同じ3次元の世界に住んでいます。
3次元に住んでいる以上、3次元の世界の経験を通じてでしか
5次元以上の世界のことを知ることは出来ません。
量子力学者たちは、観測した素粒子の振る舞いを
5次元運動する物質が、3次元+時間の4次元時空を通った「軌跡」と捉えるそうです。
既知の事例かも知れませんが
平面上では球体は円として姿を現します。
球体(3次元)が平面(2次元)を横切ると、その軌跡は
最初は点、徐々に大きな円になり、再び小さくなり、最後に点になり消えます。
このような事例を発展解釈し、素粒子の振る舞いの観測結果から
5次元の時空間の在り様を想像しているそうです。

> そもそも形而上の世界は形而下の世界の理論では理解できないのではないか?
これは「大前提」だと私は考えます。
5次元の時空間は、3次元に住むわたしたちには
数学的な抽象概念としてでしか考えることが出来ません。
量子力学者たちでさえ、直感的には理解できない空間だと言います。
なぜ量子力学者たちがこのような空間を考えるかといえば
素粒子の振る舞いが3次元世界の物理法則(ニュートン物理学)では
説明できないからです。
例えば(例えが悪いかも知れませんが)
神をわたしたちの理解の範疇で解釈するのは間違い、すなわち
神をわかりやすく説明する行為は間違っていると思います。

> 形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
知る、というのは難しい概念だと思います。
他人の心を知ることは出来るのでしょうか?といった視点からの発言です。
まあ、細かいことはさておき
量子力学者たちは実験結果から5次元時空間を仮説づけ
その仮説に基づき新たな実験手法を編み出し、仮説検証をする
といった行為を続けています。
仮説どおりの結果が出たからといって、時空間の本当の姿を知ることには
まだまだ至らないでしょう。
概ねこの方向で考えていってイイのではないか?ぐらいのことですよね。

> そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?
意味、というのも難しい概念だと思います。
実益を生まない行為は無意味だ、といった前提があるのでしょうかね。
例えば(またたま例えが悪いかも知れませんが)
子作りを目的としない快楽のためのSEXには意味があるのでしょうか?

わたしたちは抽象概念が発達した生物種だと言われますが
よって、抽象思考に快楽を感じることが出来ます。
極論すれば「たわごとを楽しむ」ことが出来ます。
漫画を楽しむことも出来ます。
漫才を楽しむことも出来ます。
こうやって意見交換?を楽しむことも出来ます。
楽しむことは意味のない無駄な行為なんですかね?
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  形而上学は存在とか絶対者についての学問でり、生の根本構造についての学問です。

それは生きている存在なので、我々の生としての精神の経験を還元しながら把握していくことになります。形而上学には原理があります。善のイデア(プラトン)、現実態(アリストテレス)、モナド(ライプニッツ)、自然の合目的性(カント)、自然と理性の同一性(シェリング)、弁証法(ヘーゲル)など、それらは生の原理であり、魂の原理です。違った表現を用いていますが、同一のリアリティーに根差し、共有集合をもっています。つまり我々自身の精神の基本構造に基づいて、目的論的に運動する生の構造を反省的言語で模倣しようとします。
  私たちは生きている間にいろいろな経験をしますが、生の目的論的運動の視点から見ると、実はある一定の普遍的な経験をしています。ある一定の運動の中で、善悪の極性の中でのいい経験だったり、嫌な経験だったりします。形而上学はそのような生の経験を自覚化する過程で、いい経験に近づけるヒントを与えてくれるものなのです。そして、生を統合させるような根本的自覚が入ると、絶対者との一体化に近づくわけです。哲学はそれを把握する主体の活用の仕方で生きてくるものです。
ただ現在までの形而上学はまだまだ不完全で、漠然としてしか捉えられないので、もう一歩論理的にならないと実用困難な面があります。形而上学を学ぶ人は生の全体性の統合の相を把握するようにアプローチするとよいでしょう。

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/mk6/
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 《やわらか(和)》は 手で触ったり雰囲気で感じたりする知覚としての形而下のことがらです。

そこから そのモノや人間の実在する情況を捨象して 概念だけを取り出せば 形而上のこととなります。
 次のように言うときは すでに 形而上の世界に〔も〕 足を踏み入れています。
 ● (十七条憲法)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たっと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
 (日本書紀の書き下し文 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《和》は 人間の考え方や接し方が 柔軟であることを意味します。仮りにたとえ極端な見解を出したりそのような行動を取ったりしても それによって自己の態度や立ち場が 固定してしまうものではなく あくまで相手との関係において やはり柔軟に あくまで対話において 対処するという内容を示します。
 (ちなみに こういうことを 上から宣(の)りたまうのは いかがなものかと思います)。

 ところで 形而上学は このとき
 ○ なぜ 柔軟になるのか。なる必要があるのか。
 ○ なぜ 柔軟な考え方から ひとは 逸脱するのか。それに対して どうすればよいのか。
 ○ 柔軟と言っても 相手によって いろんな対処の仕方として 幅があると思われるが それについては どうか。等々。
 ☆ これらのことを考えます。

 ★☆ 〔むしろ〕実証主義者が言う〔ことのほうが〕・・・まったくのたわごとにすぎないんじゃないか。
 ☆ と言ってもいいのではないでしょうか。
 ☆ いくら形而上学を展開しても 世の中 ちっとも よくならないのじゃないか? という反論に対しては そうかも知れないと答えておけばよいでしょう。自分が 実践をつづけていけばよいのです。研究の実践だけではなく 人生として・生活としての実践です。
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 No.3のkigurumiさんのご回答は非常に示唆的で、私も納得です。


 そういう中で、形而下の研究で形而上のこと(麻薬も使わず、気圧の異なる世界にもいかないものでも)を扱うことがずいぶん進んできているのでしょう。脳科学とか神経とか、心理学とか。
 出てきた知見というのは形而上のことではなく、形而下の内容ですよね。そういう研究と結果ですね。
 形而上のことを形而下で、申し述べていることですね。
 それもそれで意義のあることですが、形而上の内容ではないですね。
 したがって形而上の認識・経験自体は、形而下の研究ではもてないということなのではないでしょうか?
 虫のいろいろな研究は成果として出てきます。
 虫自体の経験は研究成果としては出てきません。
 人間における形而上の経験や認識は、それをすることに意味性、つまり存在性があるのだという考えもありえるのではないでしょうか。
 価値の問題、理念の問題。それをこういう状況と歴史、心理、そして階級の中の生成であるということ、そういう分析はそれでいいでしょう。
 しかしそれは価値を生きる中のことにはなっていない。
 形而上というのは、形而下の研究で済まないのだという思考の人もいると思います。それに対しては形而下の研究は意味がもてないとぞんじます。
 このことは、いつも冷たい分析思考の対象されてきた、私の中学からの経験でした。50年も続いてきております。
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アインシュタインが「最も理解しにくいことはこの宇宙が理解可能であうことである」という意味のことを書いていると聞いたことがあります。

形而上学の究極の対象は自分(とは何か)だとするとアインシュタインが言っている意味が理解できるような気がします。対象を理解しようとしている自分(という対象)だけは理解できないということだろうと思います。自分という対象を除けば対象が形而上とか形而下かという区別は理解の対象という点で考えればあまり意味がないのではないでしょうか。
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>>形而上学には本当に意味があるのでしょうか?


おもしろくかつロマンチックな質問です。w

本質な哲学者および科学者は常に形而上学者である。
私はそう思っていますが、この議論はとりあえず置いといて。

この場では柄谷行人のカントについての言説を私なりにまとめてみます。
例えば、物自体という概念。
人間は、もの(もの事)を認識するとき完璧にはそのものを認識することはできない。
物自体(形而上学)をだから決して人は認識することはできない。

これは二元論そのものだという通説に対して、柄谷行人が唱えるのは次の点です。

物自体とは倫理に関わることである。

これはどのようなことかと言うと、
例えば、ある科学者が「~はaである」と定義する。
しかしそれに対して反論するものがいる。
だが定義した科学者は絶対的に私が正しいと反論者の意見を徹底的に退ける。

この例を例えば遺伝子組換え食品は大丈夫だとする科学者に対する市民の声としてもいいでしょう。
つまり、確かに遺伝子組換え食品は安全かも知れないが、「本当に未来において」大丈夫かは誰も分らない、ということです。
この「本当に未来において」というのは私達の子孫であり、「他者」です。

もう一度まとめると、
私たちは常に物事を判断しなければならないが、

その判断は常に正しいとは限らない。
なぜなら物自体を知ることはできないから。

つまり、思考するということは同時に「他者」を想定すること。
それは同時に倫理にも関わることである。

形而上学とは、
自己言及性に基づいて物事を追及していく本質的な思考だと思います。

参考文献 『トランスクリティーク カントとマルクス』 柄谷行人 
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この回答へのお礼

素人のわたしにはむずかしすぎました。内容も難しいのでどう返事したらいいか迷っていました。
この場を借りてみなさんにお礼と謝罪をさせていただきます。
とりあえず、わたしなりにお礼をさせていただきます書かせて頂きます。

お礼日時:2008/12/11 08:17

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