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よく仏教では「願ってはいけない」と聞きますが、この場合の「願う」とは
どのような行為を指すのでしょうか。
神仏習合の立場から考えると、神道の心願とどのように関わってくるのでしょうか。
ありきたりの事を言えば、肯定のためと言われるのでしょうが、
現状肯定の上に願いがあるようにも思います。

私はこの分野のことについてまったく学んでいません。
どうか、分かりやすい言葉でご回答お願いいたします。

A 回答 (1件)

仏教で「願うな」というのは、「自分勝手に、自分の欲望を満たしてくれと願うことをするな」という意味でしょう。


皆さん、仏さまの前で、「お金が儲かりますように」とか「いい縁談に恵まれますように」とか、「自分の欲望を満たしてください」とお願いします。それは間違いでしょう。
仏教はそもそも、自分が仏になることが目的です。欲を捨て、何事にもとらわれずにしなやかに生きる、そういう自分になることが目的です。

自分がどう生きるか。仏さまという完成された方を前に、今の自分がどういう生き方をしているのかを問うのが仏教なのだと思います。仏さまを見て、自分をよき方向に導いてくださいと「願う」ことは間違いではないと思いますが。

神道の方は門外漢なので、「願い」についてはよく知らないのですが、江戸時代だったかの禅宗のお坊さん(名前などは失念)が、伊勢神宮へお参りした時に、
「神さまは清浄を喜ばれる。お金とは穢れであるから賽銭をあげたりしてはいけない。またすべての願いごとは私欲であって、穢れであるから、神前で訴えてはならない。くどくどとお願いごとなどしなくても、神さまは人間に必要なものはすべてご承知だから、『今日も無事暮らさせていただいてありがとうございます』とただお礼を申し上げて帰るのが、正しい神詣りの仕方である」
というような説明を受けたという逸話を読んだことがあります。

この説明が今の神道にも通じるものであるならば、仏教も神道も、人間の欲にかられた「願い」を否定するという意味で、同じなのだろうと思います。

ちなみに、このような宗教関係の質問ならば、このカテゴリーよりも「哲学」のカテゴリーで質問された方が、より多くの(的確な)回答が得られると思います。
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この回答へのお礼

分かりやすいご回答とアドバイス大変有難く思います。
がくっ、とされるかもしれませんが、成功できるよう正しき道へとお導き下さい、と考えてしまうのです。
「欲にかられた願い」がどうにも理解できない所があったのですが、その禅宗のお坊さんが聴いたことばを読むと、なにか理解でき始めたようで、しかしそう思うと遠くに行ってしまいます。
私ごときが神仏を前にしてあれこれ悩むのがそもそも間違いなんだろうな、と自分なりに決着できました。
ありがとうございました。
このようなサービスがあることにも感謝したいです。

お礼日時:2008/12/14 22:34

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