激凹みから立ち直る方法

神社は人を奉ってあるようですが、お稲荷さんはどんな意味があるのでしょうか?
あと、狐の飾り物がよくありますが、狐ではないそうです。
あの正体はなんでしょうか?

A 回答 (4件)

狐の飾り物が狐ではないというのは、狐の石像は実は狼だったという説でしょうか?


狼説は、伏見稲荷にゆかりのある秦大津父という人が、山で争っていた2頭の狼に向かって「あなたたちは貴い神様なんだから、けんかはおやめください」と言ったと『日本書紀』に書いていることから、出てきた説みたいですね。

伏見稲荷のホームページ
http://inari.jp/b_shinko/b01a.html
稲荷神は狼だったのか
http://www6.ocn.ne.jp/~kanpanda/kitsune.html
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 稲荷の文献上の初見は『山城国風土記』で、それによれば



 秦伊呂具が餅を的にして矢を射ると、餅は白鳥になり山へと飛んでいった。その鳥が下りたところには稲が成っていたので、伊呂具は神を祭った。

とあります。
 この伝承にあるよるに、稲荷(いなり)の語源は「稲成(いねなり)」であり、稲荷神は食物、穀物、農耕をつかさどる神霊を祭ったものです。現在の神社では『日本書紀』『古事記』に登場する食物神である、ウカノミタマノカミやオオケツヒメノカミ、トヨウケヒメノカミなどを稲荷として祭ります。
 また山の神、海の神も里へ豊穣を授けるという信仰から変化して、山間や海辺にも稲荷は多く祭られ、そして後に豊穣の意義からも財宝神、福徳神としての性格を増し、都市部の商人、職人層へも信仰が拡大し、商売繁盛の神として人気を集めます。

 稲荷が国家から祭祀を受けるきっかけとなったのは、平安時代に東寺を建立する際、稲荷山の木を切りました。すると淳和天皇が病気となったため、稲荷の怒りであろうと考えられて、朝廷が祭りを行います。
 また前述のことから、稲荷は東寺を守護する神として真言宗でとらえられ、そこから鎌倉時代には弘法大師空海が東寺で稲荷と出会い、伏見に社を建立したという伝説も生まれます。
 このように稲荷は真言宗のみならず、天台や禅宗など仏教とも深く結びつきます。また仏教守護神であるダキニ天が平安時代には霊弧信仰と結びついたことで、この霊弧との関わりから鎌倉後期、室町にかけてダキニを稲荷として祭る信仰が生まれます。
(なお、愛知の豊川稲荷や岡山の最上稲荷は、ダキニを稲荷として祭る寺院であり、神社ではありません)

※ちなみにネットや三流本、駄本では、インドのダキニはジャッカルを眷属とするから、このジャッカルが日本ではキツネになったなどという珍説がまことしやかに流布していますが、まったく根拠はありません。

 キツネは稲荷の眷属ですが、その理由として諸説あります。一説には、キは食べ物を意味する古語「け」の音韻変化。ツは接続詞、ネは根と同意で根源の意味。つまり動物の狐という名称が、「食の根源」という意味を表す「けつね」という言葉と通じるから、食物神である稲荷の眷属、化身とされたという説です。
 なお、狐は中国から霊力のある動物であるという信仰が早い時期に伝わっていたので、そのような霊狐信仰と結びついたのでしょう。

いずれにしろ、稲荷信仰はさまざまな信仰が重層的に積み重なっているので、あくまでもこの回答はさわりに過ぎないことを留意下さい。
(なお、wikiの記述は信用できないものが多く、特に宗教関係は珍説のたぐいもまことしやかに書かれているので、キーワードを調べる程度でよいでしょう)

参考
山陽新聞社『稲荷信仰の研究』五来重(編集)
伏見稲荷大社『稲荷大社由緒記集成』信仰著作篇・祠官著作篇
伏見稲荷大社機関誌『朱』
岩田書院『稲荷信仰と宗教民俗』大森恵子
戎光祥出版『稲荷信仰事典』山折哲雄(編集)
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たしか、ウカノミタマノミコトという神様だったと思います。


元々は、山城(現京都府)一帯に勢力を持った秦氏が祀ったのが始まったはずです。農耕神としての性格は次第に持つようになったようですが、稲に害をなすスズメを食べる狐が使役獣になったことから、狛犬替りに狐の像を置くようになったとか。

さらに、インドのダキニ天という神様と習合されることになります。
インドではジャッカルか何かが使役獣だったと思いますが、日本では狐とされたようです。

結果、使役獣でしかなかった狐も神様の眷属とされるようになったと思います。
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