性格悪い人が優勝

善悪を徹底的に探究(哲学)する時、直ぐに善行悪行にすり替えてしまうのは、間違いではないかと気付きました。

善なる者である時、善行だけしていて、悪なる者である時、悪行だけしている?こんな単純モデルで充分理解しているとは、思えません。

「悪意の在る善行」、「善意の在る悪行」もあるかもしれないと思うわけです。何か分かりやすい例示があれば、教えてください。

A 回答 (14件中11~14件)

ひとことだけツッコミ。


【私は貝になりたい】は実話じゃなく小説ですよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AF% …
概要
理髪店を営む一人の男が、戦時中にアメリカ兵捕虜を殺害しようとした罪(実際には怪我をさせただけ)を軍隊から復員した後の裁判で問われ、BC級戦犯として死刑にされるという悲劇を描いた作品。テレビ草創期の時代に制作され、“ドラマのTBS”の礎となった作品として、日本のテレビの歴史に語り継がれている。

ストーリー自体は橋本による創作で、架空の物語である。しかし劇中の主人公の遺書が、元陸軍中尉で自らも戦犯として裁判を受けた加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」[1]の遺言内容と酷似していた。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AF% …
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この回答へのお礼

「本当の話」と書けば、実話と理解されてしまいますから、
架空の話、フィクションであると、はっきりさせておくべきだと
僕も思いますが、例示としては、フィクションでも有効です。

お礼日時:2009/01/03 11:30

mmkyです。

参考までに
「私は貝に成りたい」という映画がありました。戦時中、日本であった本当の話です。戦時中アメリカ人捕虜を殺せと上官に命じられ、それを素直に兵が実行しただけのことですが、戦後実行した兵隊は殺人罪で起訴され有罪・死刑になったという話ですね。実行した兵は自分に課せられた量刑を不当だと思い、結果として社会を理解できなくなったということが「私は貝に成りたい」ということなのでしょう。
この話を見聞きするたびに思うことがあるのですね。それが、何故、兵隊は「独善的」でなかったのかということなのです。上官の命令は絶対でそれを素直に実行することが「善」であったはずが翌日には「悪」になっているのですから混乱するのは当たり前と感じる人は多いかもしれませんが、これは当たり前ではないのですね。近代軍隊ではまず「独善的であれ」そして行為は「命令に絶対服従」「服従しなければ軍法裁判」ということが基本なのですね。国家間の戦争のよりどころは「最大多数の最大幸福」ですからそのための「善意なる悪行」ですね。それ故、個人には「独善的であれ」といっているのですね。 つまり「自身の心に忠実であれ」ということですね。つまり自身が善と感じたのであればそれを実行し、悪と感じたのであれば実行するなということです。当然命令違反に対する刑罰はあるということです。もし兵隊が独善的に善と思い、上官の命令も善と思い実行したのであれば官軍に裁かれても「私は貝に成りたい」ということはなかったと思いますね。潔く刑を受け入れたと思います。独善的でないゆえにすべて他人のせいにしたのでしょう。すべて他人のせいだからもう聞きたくない、わたしは貝になりたいということになってしまいますね。
つまり、全体(多数の総体)としての善悪(論理的善悪二元論)と個々人の善悪の基準(独善的)は異なるといいたいわけです。 わたしは、wiz0621さんのご指摘のように個人の善は独善的と思いますね。独善的であるからこそ、それを縛る法律が必要という立場ですね(多数間に副次的に「悪」がうまれる故)。聖徳太子は、人はみな(独善)独り善がりであるが自身は聖人ではないと思って相手の考えも尊重しなさいといってますね。ということで、善悪対称にも独善(善のみ)にもいろんな見方(正論)があるということを是とすべきですね。
参照:聖徳太子「十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。」

この回答への補足

>自身が善と感じたのであればそれを実行し、悪と感じたのであれば実行するなということです。当然命令違反に対する刑罰はあるということです。

命令違反に対する処罰を恐れ、安易に命令に服してしまう人間の弱さの方を映画は画(えが)きたかったのではないでしょうか?
また、独善を貫くほどの強さを根っからの武士(もののふ)ではない者に求めた時代があったと、この映画は知らせたかったのでしょう。

>全体(多数の総体)としての善悪(論理的善悪二元論)と個々人の善悪の基準(独善的)は異なるといいたいわけです。

違いが分かりにくいかもしれませんが、僕は、二元論的な善悪ではなく、一元的な対存在なる善悪なのです。ひとつひとつが自立していない、相互依存的な、陰陽大極図的なイメージです。ただし、正直なところ、あまり良く分かっていません。どのように表現すべきか思案中です。その思案は、一生かかるかもしれません。

補足日時:2009/01/03 09:33
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この回答へのお礼

なるほど。リメイク映画のことは知っています。タイムリーな例示ですね。
ありがとうございました。

悲しいことに、個人の善は、独善的であるというmmkyさんのご意見は、全くそのとおりだと思います。そして、多少の微調整、修正作業によって、独善を弱め、理想的な善に憧(あこが)れるのも、人間の基本的な心情だとも思うのでした。

いい回答が続出しています。甲乙付けがたい状況です。

お礼日時:2009/01/03 09:27

およそ善行というものは「道徳」という基準によって定義されます。





一方で道徳は「悪意ある善行」を『偽善』であるとして認めていません。
最近の例で例えるなら、「自分が良く見られたいから、弱い人には優しい
ことを言う。でも、自分はお金を出さないよ。お金を出すのは
他の人がやったら?」という人は間違いなく居るでしょうね。
多くの場合、世の道徳者はそういった人間を『偽善者』であるとして
蔑んでいます。とはいえ、そのどう見ても嘘の言葉に実際に救われる人が
少なからず居るわけです。



一方で「善意ある悪行」は道徳の観念上、場合により
認められることが多いのではないでしょうか。
上記の例とは逆に、口で厳しいことを言っても現実に救う方法を提示できる人
のほうがより道徳という基準には合致していそうです。
ただし、これももちろん裏にある善意が伝わればの話であって
相手がそれを理解していない場合、単なる暴言となる可能性もあるわけです。
結果、真摯に道徳を行っている人間は誰も救わない可能性すらあります。





ここに矛盾が生じます。
道徳に反する『悪意ある善行』は庇護を受けるものに歓迎され
道徳に従う『善意ある悪行』は全く歓迎されないでしょう。
実はそこに本質的な改善や、真の解決などが介在する必要すらないのです。





それでも世の道徳者が、一時的な救済を拒否してまで
前者の偽善を否定する理由はなんでしょうか?
もちろん本質的な改善を求めるという一面もあるでしょう。

ですが、より突き詰めて考えるならば、道徳とは心の在り様を定義したもの
であってその心から導かれる行動であれば許容される、ということ
なのではないでしょうか?

ここで善であるとは心の在り様に実直であることだとするならば、
その上で、『悪意ある善行』や『善意ある悪行』は存在しえるのでしょうか。






一概に道徳や心といっても人により千差万別です。

もし『結果をもたらすことが善』と定義する人ならば
『しない善よりする偽善』を優先して評価することもあるでしょう。
例え実はそれが誰も救わない主張だとしても。

または『数式や規律に従うことが善』と定義する人ならば、
やはり前述の善意ある悪行を進んで行うこともありそうです。
例えその主張が受け入れられない事が解っていたとしても。

あるいは『聖典に書いてあることが善』と定義する人ならば
聖書に従わない異教徒のはらわたを引き裂いて、無抵抗の市民が
飲み込んで隠した宝石を持ち帰ることも善でしょう。
逆側から見れば明らかな悪であるとしても。







実際、多くの人が眉をひそめるようなこれらの行いは
全て善と言えるのではないでしょうか。
彼らは全て自らの信ずる基準に従っただけです。

『悪行』という言葉自体、見る人によって信じる基準が違うという
事実の証明でしかないのではないでしょうか。
『悪行である』と評価するのは全て他人です。
ですが、それは『俺の基準とは違う』という宣言に過ぎません。
行為者が『一般的な基準では悪だが、それを行うことは善である』
と判断し、自らの信に絶対を置く行為は必ず『善行である』とさえ
言えるのです。







つまり、実は全ての人は『善行』しかしていないのです!






つまり、偽善だろうがなんだろうが、自分がやりたいと思ったらどんどん
やっちゃって良いと思います。反対にやりたくないことは、いくら世の人が
善行と言ってもやらない方がいいですよね。

この回答への補足

なるほど。
大変論理的で、明快なご回答ですね。
ありがとうございました。

No.2のお礼欄に書いた定額給付金は、『偽善』であるかもしれないから、評判が悪いのかなあ と読んでいて思いました。

さて、
>およそ善行というものは「道徳」という基準によって定義されます。
>一概に道徳や心といっても人により千差万別です。
>全て善と言えるのではないでしょうか。・・・全て自らの信ずる基準に従っただけです。
>『悪行』という言葉自体、見る人によって信じる基準が違うという事実の証明でしかないのではないでしょうか。
>『悪行である』と評価するのは全て他人です。
>ですが、それは『俺の基準とは違う』という宣言に過ぎません。
>行為者が『一般的な基準では悪だが、それを行うことは善である』と判断し、自らの信に絶対を置く行為は必ず『善行である』とさえ言えるのです。
>つまり、実は全ての人は『善行』しかしていないのです!

他者の評価など気にせず、行為者を中心に置いてみると、「自ら信ずる基準」=道徳であり、その基準・道徳・信念に従う限り、すべて善であり、善行だと要約できそうですが、これでよろしいでしょうか?

僕の感想としては、「自己中」つまり自己中心主義的な結論だと思いました。
独我論的でもありそうです。単なる個人主義の系譜かもしれませんが・・・。
基準・道徳・信念に従う規約主義的な面もありそうです。

>反対にやりたくないことは、いくら世の人が善行と言ってもやらない方がいいですよね。

「共存在」的な発想ですら、なさそうですね。反社会的なのかな?

偽善かもしれない定額給付金も、首相本人の基準では善・善行だよと言われているように感じました。党内の反論や野党の批判も、単なる他者の評価に過ぎず、善だと信じている限り、聞く耳持たずに突っ走れと言われているようでもあります。
随分、乱暴な結論のようです。曲解だったら、御免なさい。

「小さくされている者」のそばに居て、寄り添う行為。
(これがなかなか難しく、誰でもできるものではありません。)
他者との共存。コンセンサスの尊重。
(こちらは比較的に簡単だと思います。)
「自ら信ずる基準」が、これらのような社会的な内容の時は善だと思いますし、独善的な内容の場合には、支持されないと思うのですが・・・。

善を知るのは、悪があるからで、善悪は必ず「対存在」です。
「善しかない、善行しかない」には、論理的に隠れた瑕疵があります。
ただし、「独善しかない、独善の行為しかない」者は、直ぐに見つけられそうです。

補足日時:2009/01/03 02:47
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この回答へのお礼

(補足欄から続きます。)

>実は全ての人は『善行』しかしていないのです!
ではなくて、
「実は全ての人は『独善の行為』しかしていないのです!」
「実は全ての人は『独善』(的)でしかないのです!」
だったら、悲しい現実として、正確な現状描写として受け入れなければならないのでしょう。
また、かつてそうであり、これからもそうであろうという真理として・・・。

独善;自分だけが正しいと信じて、周囲を無視して振舞うこと。
他者の利害や立場を顧みず、自分一人だけが正しいと考え、自分だけ有利に優位にすること。独り善がり。
(広辞苑参照・一部修正の上、転載)

お礼日時:2009/01/03 06:41

悪意のある善行:鼠小僧(実在人物)の場合



 鼠小僧次郎吉が商家から盗んだ千両箱を【中身の金が重たいので】
 屋根伝いに逃げる際に中身の小判を(自分の必要分以外を)ばら撒いて逃げた為に
 通り道の住民に臨時収入があった。
 この場合住民にとって次郎吉の行為は善行だが被害者にとっては悪行。


善意のある悪行:鼠小僧(講談:フィクション)の場合

 鼠小僧次郎吉が【住民に施しを与える為に】商家から千両箱を盗み
 屋根伝いに逃げる際に中身の小判をばら撒いて逃げた為に
 通り道の住民に臨時収入があった。
 この場合だが行為自体は悪行だが動機は善意。
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