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タイトルのままですが・・・。
何故ですか?
繁殖の為に必要というなら動物の様に発情期があって
も良いではないですか。
それなら期間も短いし欲望に苦しむ男性も少ないでしょう。

又一部の動物の様に交尾したら後は死が待っている状態なら
どれ程の人間が救われるでしょう。
大体この性欲(特に男性)がなければ世界の半分以上の犯罪
はなくなるのではないでしょうか?

ただ単に性犯罪がなくなるという意味ではなく
それに関連した物欲も減るのではないでしょうか?
俗的な言い方をすれば良い女を得る為に余計な
努力はしなくて良いとか・・・。

人は神に似せて造られのではないですか?
それなら何故煩悩を増長させる様なものを残したのですか?
それを乗り越えよ!というのが神の意思なのですか?

気楽に回答頂ければと思います。

A 回答 (23件中1~10件)

神という概念は 人間の歴史において、社会に秩序を必要とした時に作られた道徳に対してその権威化のために人間の中のそれなりの知恵者とかが 創作した概念とも言えます。



おそらく最初に「神」という言葉が生まれた源泉、つまりその語源をたどれば、そこにいきつくと思います。 

しかし、その中でも強力な権力と結びついてしまった一神教の神の概念は 創造主とか造物主とかいうこの宇宙を作った存在としての神という概念であったため、  この存在を科学する哲学者達が そういう存在は存在するかとう命題を真剣に考えるようにもなったわけです。

そこにて発見されてきた「神」の概念は、創作というよりも、謎は謎、わからない神秘はわからない神秘であり、 そういう地点の知的発見の歴史であり、  そのすごさへの驚きの世界であったはずです。

科学への畏敬の念とか 存在への感謝(自分で存在した人はいなくて、いつしか気がついたらここに存在自覚者として存在していただけです。 わたしもあなたも。)とか、 命への連鎖への感慨とか、 そう感じる心の存在自体への驚きとか、 そういう命どうしとしての 人間が私たちであることへのリスペクトとかとかの概念です。


神が存在するかどうかは また別の問題として考えたいところなのすが、そちらの質問が 動物も含めた性の姿を 神は何故?という地点で質問されているので、一応 神がすべてを作られたと簡単に考えておいて 話を進めることにしたわけです。 しかし神というとあまりにも擬人化もされてきました言葉でもあるので、 そのへんを簡単に解説してみたわけです。

そんな中で 人間の性や性欲の世界を 眺めなおすと性の世界は、まったく文明の社会の一般常識とはまた違った 新鮮な神からの贈り物の世界としても見えてくる世界です。

まず、こう考えてください。

五感がほとんど感じられないそういう病気にかかったとします。 (私は実は青年の頃、そんな感じの時期が何年かありました。)何をたべても、少しもおいしくないんです。 例えば どんなに昆布とカツオで 丁寧にしっかりと出しを取って、おいしい味噌汁を作ったり、 あるいはすぐれたスープを作ったとしても  全部 無味無臭の純水と同じでなんの味すら感じないとしたら、。   あるいは、視覚であれば、どんな美しい夕日を見ても、 青空を見ても、雲の流れを見ても、 何も何も感じず すべてが灰色に感じられたら、。

聴覚で言うならば、 どんな優れたクラッシックのオーケストラを聴いてもただ眠くなるだけ、 海の波の音も、 木々の風の音も、 これなどは聞こえてないに等しい感じであったとしたら、。

海の潮の香り、 草いきれ、 若さがムンムン息づいてくるような森の木々たちの香り、 そうしたものが たとえ森林浴をしたところで まったく感じられないとしたら。

…。

私の体験からは 感じるということが この命 この意識、 この心の世界でどれだけ大切なことなのか、 あまりにも明白なのです。

逆に 私は ある集団暴力下のおかれていた時に、都会の片隅のおんぼろアパートの二階にて、恐怖のために夜中にうなされては目を醒ますような神経であった只中にて、  風呂場件トイレの小さな湯船似使っていた時、 真冬にて、ふと何かを感じて窓を開けたら 二階まで延びていた大きな木の大きな葉っぱの上に、 たった今 雪が降り積もりだしたところだったのですが

keukegenさん、  なんといったらいいのか

たったそれだけのことなのに、 その葉っぱが たった一枚の葉っぱがどれだけ私の魂の奥深くまで癒し 心やすらげてくれたことか。

それは 今では想いでの一つにすぎませんが、 たった一枚の葉っぱですら、今でもその時の感動を思い出すと、ふつふつと涙がでてきそうになります。   静かでした  ただただ、静かで幸せでした。


本来神が 与えてくれた私たちの体は、 その葉っぱ以上に奥深く美しく心癒す存在であるはずなんです。  科学者や哲学者が発見した神の世界からは そういった世界が見えてくるはずなんです。

しかしながら、神話の神の世界は違いますよね。 

秩序のために 欲望を否定します。 欲の皮突っ張った欲張り爺になんかなるなよ。 みにくい争いはやめよう。 それは社会規範であると同時に道徳にもなっていきました。  心の中での規範です。  そこに性欲のような強い欲は、その悪の象徴のような感じになってしまったわけです。

不浄という概念の発祥です。

それは どの宗教からも生まれた概念ですが、一神教、なかでもキリスト教にてとくに強められてしまってもいます。

こうなると、 神から与えられたありのままの欲エネルギーとかの世界は「見つめる」以前に 最初から歪んで醜く見えるようにもなってしまいます。 それが不浄の概念の世界です。

ほんとうは すべて逆な現象が起こってしまっているということです。

キリスト自体は、 「野のユリを見よ、何もしないのにどんな着飾った人よりも美しいではないか。ましてあなた方は 何を着飾る必要があるのか」といった意味の事を それこそ実際に命をかけて語ってくれた人ではないですか?

そこを、 「山上に垂訓」という有名な 過去の教えへの反逆の教えの中で セックスについて彼がこんなふうに言ってしまったので、 いよいよ、へんな矛盾がキリスト教徒の中に起こってしまったんです。

「あなた方は 姦通はするなと教えられてきている しかし私は言う、心の中でも姦通するならそれは姦通したことになるのだ。」

実人生にては いろいろな深い意味合いがこれだけでも感じられる部分、そこを おそらくは弟子達が キリストの話のその続きを すでに不浄の概念を持って聞いていたので理解不能となってしまって記述漏れの形になってしまったのでしょうが、   なんと 後のキリスト教徒たちは、心の中でも つまりイメージの世界にてもセックスを想像してはならないというふうに受け取ってしまったんです。

いよいよ不浄感も膨らみますし、 逆な発情とかも歪んだ形でも起こってしまいます。   よく考えてみてください。 もしキリストの言った意味が、その部分だけ昔の教えへの反逆ではなく強調だったとするならそれも可笑しな文脈ですが、 それよりも何よりも、 キリストがすでに姦通の罪を犯してしまっているということになるはずなのですが、_?

なんでこんな簡単なことに弟子達やキリスト教徒たちは気がつかなかったのでしょう?

私有財産制の所有欲も ここにはまた絡んできたりして こうしてセックスはいよいよ汚らわしいというイメージのものとなってしまっています。
(このへんの詳しいことは 今は略しますが)

同じ 欲望でも支配欲とか所有欲(独り占めの欲、現代でのそのへんのごまかしの心)とか、権力欲とかが絡むと すべてが実際に醜くもなっていきます。

が、そういう心からではなく 男女が純粋にセックスを楽しむことが出きるときには それは なんと、まさに  どんな美しい山や川や、海や夕日や朝日や青空や雲や 草花より以上に すばらしい世界に気がつけるせかいなんです。

実は 神は 一切 誰をも助けない存在です。 哲学が発見したという神の世界とか キリストが語るような神の世界はそういう世界なんです。

人間がすべて発見してゆくしか無いんです。 あるいは自分の足で進んでいくしかないんです。 じぶんで考え 自分で乗り越えていくしかないんです。  助け合えるのも人間どうしだけ。

しかして、それが すでに実際に与えれていて この大地に私たちは今を生き そしてこれからを生きてゆく存在だということです。

だから、この問題は 経験者や正しい科学者とか哲学者とかに悩みがあったら質問してください。  また あなた自身が 悩みを解決してあげられるようになって欲しい課題です。  詳しく書くのはそのためです。

性欲で悩んでおられるとのこと、 もしそれが社会全体の問題としての悩みならば、大枠は上記の回答をさらに探ってゆけば、答えは見えてくるかと思います。

奥さんも子供の愛している でも男性としてほんとうは欲求不満な状態だ。   うーむ。 ということでも悩んでおられるならば  もう少し、具体的に深く突っ込んだ回答にもしてゆきたいのですが。

現在、独身なのですか?   私は現在61歳で、84歳の母と暮らしてる独身です。

ワーキングプアーの肉体利労働者ですが、 よろしければ、 お気楽に個人的な迷いとかも書いてみてください^^。
 
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この回答へのお礼

>感じるということが この命 この意識、 この心の世界でどれだけ大切なことなのか。

確かにそうですね。
全て何も感じない世界ならそれはそれで恐ろしい事かも
しれません。

>一枚の葉
う~ん何故かこの話を読んで、「夜と霧」という本の
話を思い出しました。
アウシュビッツでの過酷な生活の中でのある囚人の言葉。
この世は美しい・・・。

静かですね。
ひたすら静かです。

私の悩みと言っても俗的でとてもくだらない事なので。

現在妻はいます。
ただ現在何の宗教とは言いませんが求道者なので
余分な性欲が邪魔なのです。

御回答ありがとうございました。
なんかじーんときました。

お礼日時:2009/01/11 21:17

性欲の無い人生なんてつまらん。


性欲はあらゆるモチベーションの母ですよ
神様、性欲を与えてくれてありがとうございます。
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この回答へのお礼

私もたまにそう思う事もあります。
下品な話その最中は・・。
でも無くてもいいかなぁ。
私個人の感覚ですが。

御回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/15 19:33

 ★ それを乗り越えよ!というのが神の意思なのですか?


 ☆ 個人の問題としてでさえ 無理に乗り越えることはないと考えます。
 まして 教義化し組織化した宗教は 信仰としての神のおぼしめしとは 明らかに 別となります。なぜなら 個人の自由意志を超えて つまりは それを制約することになるのを初めから織り込んで 教義にのっとった思想なり行動なりが 集団として決定されるようになるのですから。
 宗教は あくまで個人の内面主観にとどまるものである信仰を ひとにおしえようとする行為です。表現の自由あるいは結社の自由に基づき その活動の自由はあるのでしょうが 組織化した時点で 個人の判断は 枠組みをはめられます。もしくは 独裁になって 独裁者は 自由であるかも知れませんが やはり一般に 制約を受けることになります。
 二人が集まったときから もし 信仰を 共通の 行動規範にしたならば 当然 相互に制約を受けます。(婚姻は この相互の自由を 相互に奪い合っても 成り立たせていこうとします)。
 この宗教組織のもとでは 《乗り越えよ 神のおぼしめしゆえ》という方針は まったく 当てはまりません。無理です。初めから 《乗り越えるかどうか》の前提を 別のものに変えてしまっているのですから。個人の自由意志による自由な判断から 集団による決定とそれによる相互制約というかたちに変えています。
 ちなみに わたしは ローマ教会に 自己解体を勧めています。なぜなら 集団による相互制約は 個人の信仰じたいのあり方について ついには 検閲を加え裁きを与えるというところまで のさばります。あえて言えば 研究会のごとくにまで 縮小して活動するのがよいでしょう。
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この回答へのお礼

>宗教は あくまで個人の内面主観にとどまるものである信仰を・・・。もしくは独裁になって・・・。

なるほどそういう宗教観もあるかもしれませんね。
確かに宗教は人を救う事が出来る力がある反面
危険な要素も含んでいる気もします。

御回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/15 19:30

>繁殖の為に必要というなら動物の様に発情期があっても良いではないですか。


>それなら期間も短いし欲望に苦しむ男性も少ないでしょう。

概して、定期的に突き上げる性衝動に苦しむのが男性の常だとすれば、男性の性欲にシンクロして時にその「代償」を払うのは女性の側ですよね。
古今東西を問わず、全ての妊娠が必ずしも祝福されるものばかりではないというのは周知の事。
子作りをする行為の末の、子を為した結果により、時と場合によってはそれが悩みを通り越して苦しみや死に至ることだって十分あり得ます。
男性の性欲というものは、ある意味気楽で羨ましい部分があるのです。
現に私は不妊治療の末の流産後に不感症を伴う性欲を感じましたし、出産時に一日意識不明の重体に陥り性欲を完全に失ったこともあります。
死に繋がるセックスなんて、あなおそろしや(笑)
今では完全に克服しておりますが。

>ただ現在何の宗教とは言いませんが求道者なので余分な性欲が邪魔なのです。

実在とされる聖アウグスティヌスが自らの過分な性欲をもてあました末に、後の神学教義に多大なる貢献を果たしたと言うのであれば、伝説とされる女教皇ヨハンナが経験したであろう「性欲とその代償」とはいかなるものであったのかと、私はとまどいをおぼえるのです。

今もバチカンに現存する法王のためのアンティークな「穴開き椅子(セッラ・ステルコラリア)」。
一説には「男性であること」を確認するために中世の教皇就任式の一環として約6百年間もの間用いられたと伝えられる道具。
カトリック教会ではこの穴開き椅子の存在自体まで否定はしていないようです(下記に参考図書を挙げておきます)。

男性の如く剃髪して求道者として修道院内にて勤める日々。
女性であることを周囲にひた隠しつつも、持前の利発さと才気で後に中世キリスト教世界の頂点にまで登りつめたとされる人物。
そののち秘密裏に子供を身ごもり、僧侶のドレープにて膨らんでいくお腹をひた隠しにしつつも、ついにミサに赴く道中に産気づいて死産し自らも出血死してしまったと伝承される謎の女教皇。
暗黒の9世紀というヨーロッパの混沌とした時代性からも、今では荒唐無稽とも思える何ともおおらかな言い伝え(または創作?)ではありますが、
あながち平民の女性にとっては相当に生きるに忍び難い困難な時代であったに違いありません。
食糧事情などの物質的な側面だけでなく、性的待遇を含めた処遇に関しても。

仮に彼女が実在していたと仮定して話を進めます。
聖職者たる彼女にとって「神の思し召し」とはいったい何だったのか。
彼女に一体何を乗り越えよ!と神は期待したのでしょうね。

この世のあらゆる権力を掌握するまでに登りつめた彼女が、それを用いて若き僧侶をかどわかしたのか、はたまた、どこぞの幼馴染か思い人と秘かに通じ合いありのままの性欲に身を委ねた末の運命なのか。
神に仕える最高位者としての彼女の性欲とは一体いかなるものだったのでしょうね。
そしてそれははたして「堕落」と断言出来るものでしょうか。

言い伝えとして彼女の通った道「ヴィア・サクラ(現サン・ジョヴァンニ通り)」は歴代の法王が教皇行列として意図的に避けるようになった経緯があるそうです。
一司教が、ある教皇が慣例を打ち破ってヴィア・サクラの道を通ったときのことを日記に記している、と伝承上でさえも「教皇として不適切な人物」との烙印を押されてしまった人物の行動とは。

彼女の「死産の末に迎えた死」は神の思し召し「それを乗り越えよ!」に叶うものとは私には到底思えません。
女性として男性に迎合する性欲を抑えることができなかったばかりか、あってはならない妊娠までしてしまい、民衆の面前で「神の奇跡によって男性たる法王が出産」してしまったのですから。
ですが、その非業の死ゆえなのか、彼女のあまりに人間らしい不器用さからなのか、彼女がさぞや魅力的な女性であったのではないか、と耽美な妄想が尽きないのです。

神は…必ずしも神の意思通りに則り行動することができなかった人間、煩悩に苛まれ苦しむ人間を、はたしてどのように処遇するつもりなのでしょうか。
件の彼女の場合、生前に求道者として成しうること全てを行ってきたとするならばなおのこと、彼女が例え伝説上の人物であろうとも、その後どのように神から召されたのか私はこんこんと想像にふけってしまうのです。
神ははたして彼女に天罰を下したでしょうかね。

性欲を邪魔とみなすように諭すのは、実は神そのものではなくて、神のしもべ達側、ということは考えられないだろうか、そして
性欲を過分で邪魔な存在とみなすも、この上なく人間らしく素晴らしい営みの原動力とみなすも、心一つにかかっているのではないか、という気も私はするのですが…。

参考図書:『女教皇ヨハンナ』(上下巻)ドナ・W・クロス 草思社刊
また、wikipediaでは完全に「女教皇ヨハンナ」をフィクションと断定しきっていますので、あまりにも夢がありませんがご参考になさって下さい。
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この回答へのお礼

>性欲を邪魔とみなすように諭すのは、実は神そのものではなくて、神のしもべ達側、ということは考えられないだろうか、そして
性欲を過分で邪魔な存在とみなすも、この上なく人間らしく素晴らしい営みの原動力とみなすも、心一つにかかっているのではないか、という気も私はするのですが…。

この言葉は納得します。
心一つですか、そうかも知れませんね。
御回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/15 19:20

人間とは本能が壊れた動物であると評した学者もいたように思いますが、ご質問内容に即して人間とは(本来の)本能が変質した動物である、と表現することも可能ではないかと推測します。


進化論的立場に立つわけですから、人間は神が作ったわけではない、という前提に基づく見解になりますが、気楽に、ということなので感想を少し述べてみたいと思います。

発情期の有無も確かにそうですが、人間が動物と最も大きく異なるのはやはり、理性・善性といったような感覚を認識できる能力だろうと思います。
これらの能力を超自我と呼ぶ場合もあるので、以下そのように表記することにします。
性欲は本能の一部ですが、そのメカニズムを見れば、生命力に直接的に連動している欲求であることは確かだろうと思われます。
(純粋の=本来の)性欲とは、生命力の一環として、DNAを子孫へと引き継ぐ目的のためだけに存在していたものなのでしょう。

そのような動物であった只の猿が、あるとき何らかのきっかけで(あるいは何らかの理由で)超自我性を生来的に付与された人間という種に進化することになった。
進化ということは変質にすぎませんから、超自我性といえども本能の一部が変質したものと考えるのが順当だと思われます。
この場合、超自我性に変質した部分だけが変質したわけではなく、本能の他の部分にもなんらかの影響が生じたと考えるのが科学的でしょう。

超自我というのは心理学的には本能の抑圧によって成立している機能と言われているようです。
そうすると、超自我誕生の際には、性欲に対しても一旦は抑圧的な力が働いたのではないでしょうか。
性欲としてはそれを受け入れることはできませんから強い反動的抵抗を示した。
反動が大きすぎて、それまで発情期にのみ発動するようにプログラムされていた性欲が常時スタンバイできるものに変質した。
かくして人間は、高邁な理想や文化文明を築く超自我的第一歩と共に、野放図な性欲をも手中にした。
このように「妄想」しております。
以上、内心では満更見当外れとも思ってはいないのですが、少し気楽すぎましたかね。
 
 
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この回答へのお礼

なるほど。
神は抜きな考えかも知れませんが、
理性的で的を得ている様に思います。

>人間は、高邁な理想や文化文明を築く超自我的第一歩と共に、野放図な性欲をも手中

相反する嫌なものを背負ってしまったかなといった感じですね。

御回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/11 21:00

神は人間に性欲を「残した」のではなく、「与えた」のです。



男女がその情交の最高潮に到達するとき、無我の境地、神の領域
に誰でも到達できる手段として神が与えたのものが性欲です。

古代より人々は男女の情交に神と一体になることを体得してきました。
インドにはセックスそのものを教典とした「カーマスートラ」が
あります。

「殺して」「死んでも良い」「いく・・」
クライマックスを迎えるとき男女が発する言葉は魂の発露でも
あります。古代人はその瞬間を神との出会い、神との一体化と
捉えたのです。

性欲は神様が人間のみに与えた尊い贈り物です。
そして人類が続く限り問われ続ける永遠のテーマです。
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この回答へのお礼

なるほどなるほど。
残したのではなく与えたのですね。

詳しく分かりませんが
インド・・・ヒンズー教とかの神
は確かに性描写が露骨な感じかな?
性欲は神からの贈り物と。

御回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/11 20:53

 No.8&12&16です。



 No.16で 《参考までに》 書き込みましたが きちんと 正面から 述べるべきだと考えなおしました。

 アウグスティヌスは 『情欲論』で たしかに情欲を罪と規定しています。
 問題は 《道徳規範は 愚の骨頂》(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html)だということです。
 《文字は 殺し 霊が 生かす》ということです。
 罪だという規定――これが 妥当であるかどうかは 議論の余地があります――を持っていても その文字規定に ただ 従うことは 自由意志を殺されることです。霊にしたがって つまりいわば神のおぼしめしにしたがって 考え行動してください。固定観念が 《文字》ですよ。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。

>霊にしたがって つまりいわば神のおぼしめしにしたがって 考え行動してください。

うう~ん
これが出来れば。
出来ればですね・・・。

お礼日時:2009/01/11 20:49

 ★ (No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 


 アウグスティヌス・・・。
 自分はやりたい放題で
 収まったら罪と攻撃。
 う~んなんて勝手な奴だ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 朝起きたら ふとんが汚れていた あぁ なんて なさけない男か おれは・・・というようなことを 書簡の中でだったか 書いていたのではないですか。
 《閨(ねや)の信実を尽くした》とも言っています。相手を裏切らなかったということです。
 参考までに。
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男性は種の保存のために闘争本能。

自己保存のために女性よりも広い受容可能領域と妥協可能性により多くの雌と交わろうとする本能があります。
同じ理由であっても人間の子育ては長期に亘ることと、食料確保の都合により女性は多くの子孫を育むより、限定した出来るだけ強い雄の子孫を宿し、生命を維持する防衛線として肉体的、時間的にも出産と子育てのリスクを軽減させるため性欲が母性に移行する営巣本能があります。

社会に適応するために男性は出世や名誉を望みますが、出世を望むのも多くの女性に「男を立てて」もらいたいからで、女性は男性の経験値の多さをも強さの判断基準に、することがあるからともいえるでしょうね。男性の強さの基準といっても財力であったり、知力であったり、社交性、体力であったり女性にも好みの個体差はある。

男性の「受容能力」が広いこと=「繁殖能力」が優れていることともいえそうです。神レベルな受容能力(?)が人間にあるとなると、前提とする目的や後の責任能力も問われるものとなり大変です。

なので、必要以上の盲目的な性欲も、恋愛が生じる前に、Hする前に法的、倫理的というより、優先すべき拘束とするものであろうか、とか本当に相応しい相手なのかを見直し、自らが切磋琢磨して充実感、達成感を得ることと採択の余地があればこそ、強い性欲も糧となります。

自省能力を芸術にまで高める優れた人間には「禁断の果実=羞恥心、罪悪感」ある煩悩を快楽のスパイスにし喜びを香らせ、俗物も引き立ち、熟成(抑性?)の後、紳士淑女となるのだと思います。私(♀)はまだまだその点でお子ちゃまなのですが。
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この回答へのお礼

なるほど。
理性的な話ですね。

>自省能力を芸術にまで高める優れた人間には「禁断の果実=羞恥心、罪悪感」ある煩悩を快楽のスパイス

芸術はある意味自己のフラストレーションから
発するものと私は考えます。
特に性欲・・・こう言っては俗的ですが。
異性に対する愛も重要ですよね。

御回答ありがとうございます。

お礼日時:2009/01/11 20:44

No.6です。




>>>年中発情していれば、種付けできる
>これは動物学的に理解出来る気がします。

でしょ~。
農耕の発明以降、人類は急激に増えたらしいんですね。
動物は、授乳期間中は妊娠をしないのだそうです。
余計な体力を消耗しないように、身体のメカニズムがそうできているのか。

確かめたのかどうか知りませんが、人間もかつてそうだったとなんかの本で読んだことがあります。
で、人間の場合も古代は、3年くらいは次の子供妊娠しなかったとか。
どういうメカニズムだったか忘れましたが、授乳している期間は、なんかが出無いから受精しなかったとか なんとか。
(すいません 忘れました。)


ところが、農耕の発明で、計画的に食物を得られるようになると、食べ物の関係からか、これまた忘れましたが、赤ん坊を育成するために必要な食べ物だったかなんだったかが取れれば、次の子供を妊娠できるように、体がなったとかなんとか。
んーー 授乳をやめると、妊娠する体に戻るんだったんだか、、、駄目だ 記憶が、、、、すいません 忘れました。


動物の場合、メスも強いので、オスが発情期になっていても、メスの体が受け入れ態勢がまだできていないと、ガブっと食いついて追い払って、オスはハアハアがやんでしょぼーんとするしかない。
また ハアハアって近づくと、メスは前以上に威嚇して、オスを寄せ付けない。
「今 子育て中なの! しっ!」って感じですね。

古代のまだ農耕が起こっていないグループの女性は、どうだったんでしょうね。
男の相手はしても、妊娠しなかったでしょうし、第一 うっとーしー とガブって噛み付いて追い払っていたかもしれないし、女性は大切にグループに守られていたようで、力づくでレイプされるということも無かったと想像します。


で、こんな伝承がある。
<アダムがまだ一人だった頃、動物と性交していて、それを見た神は「男が一人でいるのはよくない」として、リリスを派遣した。
ところがアダムは動物とやったときのような性交をしようとしたので、リリスはアダムを拒否。
それで次は従順なイヴを送り込んだ。>


聖書には獣と交わってはならない と書いてあるんですね。
つまり 交わっている人間が多かったので、人間は獣と性交しないように とわざわざ掟を作ったんじゃないかと。

というわけで、授乳期間で男の相手を女がしない間も、人間の男は発情しっぱなしだったので、動物を使って性処理をしてたってわけですね。


アブラハムの宗教の歴史は、男の性欲との戦いの歴史のように思えます。
クムランって宗団があって、性交は定められた時までやらないという規定があり、結婚をしてもしばらく性交しないという定めがあり、何年かたって、定められた時に初めて性交が許されていたらしい。
性欲に負けたわけじゃなく、神の祝福を得るために、性交をしたってことの証明なわけです。
確かその月は一番聖なる月とされる9月だったような。
結婚は12月だったかな?
12月に結婚し、数年後の9月の初夜ってわけですね。


この宗教は神の祝福とは、子沢山のことなのですが、神の祝福=性欲とは考えず、神が祝福をしたら子供ができるって考え。
やったかやらないかは問題じゃなくて、子供がいるかいないかが大問題だった。

イエスを産んだマリアの両親は、子供ができずに、神殿に行って神様に御願いしようとしたら、祭祀は「子供ができない夫婦は神に呪われている。呪われた者を神殿内に入れるわけにはいかない」と二人を追っ払った。
という話があります。
それくらい子供ができるかどうかは、重要なことだったわけです。

クムランになると、キリスト教に近い考えで、独身制。
頭の中でエッチな想像をすることも禁止で、もし頭でエッチなこと考えただけでも、沐浴をして清めなければならない とされた。

なので、キリスト教になると、クムラン寄りな考えなので、エッチは穢れたものという考えが根強いのですが、キリスト教ほど 重大な罪だとは捉えておらず、沐浴して清めれて、定められた日数 聖所に地近づけない という程度。


キリスト教になると、清めというのがあまり重要視されず、 罪 罪 罪 罪 罪 と断罪することに喜びを感じたようです。
キリスト教の確立に貢献した一人、アウグスティヌス。
猛烈な絶倫男で、たくさんの女性と年中無休でセックスをしていたらしい。
自分でもほとほと困り果てるほど性欲がすごかったらしい。
そうなると苦痛だったんでしょうね。
何もやれなくなるでしょうし。

彼は神にすがって助けてください と祈ったのですが、神は助けてくれなかったようです。
ところが、ある時、性欲が止った。
奇跡というより、あまりにもやりすぎたので種が尽きちゃったと考えるのが、動物学的にまっとういかと。

しかし、彼は性欲から解放されると、自分を苦しめた性欲を敵として、攻撃しだした。
人々に性欲は邪悪なものだと教えた。

女性を見るといちもつが動くのは、女性が魔女だからだとして、魔女がいちもつを動かしているとか、言い出した聖職者もいて、だんだんエスカレートして、永遠の命をアダムから奪った女は悪魔だ として、魔女の鉄槌など とんでもないことを考え出した。

男の性欲=魔女→魔女狩り(性欲狩り) かな?
見えないものなので、見える魔女を焼き殺すことで、自分の性欲を抑えようとしたの かも。


あるいは女性さえ見なければ性欲が起きないだろうと、男だけの集団を作り、建物にひきこもった。

アトス山は動物のオスすらいない山。
一生 女という生き物を見ないで終える人が住む山。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88% …


これで楽園かというと、修道院は同性愛のメッカか?となるくらいで、女を見なくても、男の性欲は年中無休なわけで、どこにいっても無駄。

ある聖職者は、去勢をした。
やっと性欲に翻弄されず、信仰に没頭できるとなったらしい。


まあ そういうわけで、インドとは違って、キリスト教は重度の強迫神経症になっていったわけです。
あげくに殺人まで起こした。(性欲が原因で人間を魔女だとして殺すってすごいですが・・・・実際あったんですねぇ・・・・)



もともとは、神の祝福があったから、子供がたくさん生まれた、性欲は喜ばしいこと だったと思えるのですが、だんだん厳格になり、とうという去勢することが神の羊になることだってなっちゃった。

ユダヤ教では、神の祝福とは子沢山のことなので、聖職者も早いうちに結婚して子供をもうけていた。
キリスト教の聖職者も、同様に結婚していたのですが、だんだん性を堕落だと捉えるようになって、聖職者の結婚の禁止をしたんです。

既に結婚をしている人は、離婚するよう求められた。
それに従わなかった聖職者を、イエスのように公開鞭打ちにして、辱め、暴力に屈して離婚をするように仕向けた。
暴力でも屈しなかった聖職者に教会は、結婚は最初から無かったものと、結婚の無効を宣言し、妻子を聖職者から奪った。

それがカトリックの性遍歴なわけです。
だからカトリックの聖職者は全員童貞のまま死に、永遠に神の祝福は降りてこないし、神が祝福を与えようとしても、教会が阻止してきた。


まあ、肉体的に健全であれば、性欲は起こるのが正常。
不能な場合、治療をする。

ただし、理性がぶっとぶほど、性欲に翻弄されてしまう人もいて、女性を襲ってしまった場合、ブレーキがききずらい人なわけで、これは今でも問題になっています。
去勢手術をすれば、性欲により女性に暴行を加えるということは無くなるのですが、倫理の問題がからみ、性犯罪を何度もやる人を去勢するというのは、問題だとされ、今もってどうそういう性欲のために暴力を振るう人を扱うか、まだ解決策が見出されていません。

今は体に発信機をとりつけ、監視しようということが検討されています。
まだそれは、実行されていないようで、今の段階では出所後に住む町の警察署に、性犯罪者として情報を流し、監視するように依頼する程度。


日本は性に対しておおらかな民族だったって知ってました?
夜這いなどあり、男の方が両親と住む娘のところにいって、性交をして、子供ができたらめでたいとして結婚する という感じだったらしい。

それが西洋の強迫神経症的な歪んだモラルが入ってきて、性が堕落だとか、穢れたものだとか、そういう価値観が日本にもたらされ、それで、日本の性の価値観も 神経症に変わってしまったようです。


日本史を書いたフロイスは、日本の女性が両親に断りもなく、一人旅をしていたことに驚いたそうです。
恐らく、特権階級の女性だと身なりからわかったでしょうから、そうそうならずものは手を出さなかったと思います。

その人たちは帝に神託を与え、性の秘儀を与えていたらしいです。
やがて、中国から律令制かなにかが日本に入ってきて、特権階級の地位を剥奪されたが、旅籠で、泊り客に性の秘儀を売っていたらしいです。


支配階級は、誰にも支配されないこの元特権階級の女性たちをどう扱うか考えたあげく、一箇所に集めた。
それが吉原。
といっても、元特権階級の女性と偽り、旅籠で性を売っていた女性もいたようで、吉原に集められた女性の中には偽者もいたでしょうし、誰が元特権階級か誰もわからなかったのかも。

まあ、客に知恵を授けることができる女性な場合、本物だったのかも。
客に知恵をもたらし出世させるという幸福を与えたでしょうから、これは手放せないと、身請けされたでしょうね。


日本神話でも 性にまつわる話はあります。
天照が天の岩戸に隠れ困ったので、ストリップショーを開いた。
それで神々が うはははと宴会になり、その騒ぎを聞いて、「なんか 楽しそう」とドア開けて外の様子を見た天照をひきずりだした。

楽しいストリップショーの開催 成功。

これが海外の病的な性文化に侵される前の、日本のもともとのおおらかな性文化です。
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この回答へのお礼

非常に興味深い話ですね。
リリスは初めて聞きました。
てことはアダムが強要した性交の形態
が今の人間のものと考えていいんですかね。
もっと簡単で良かったですね。
リリスがどの様な性交を望んだか分かりませんが・・・。
ボールを渡す様にハイて感じで1秒で終わるとか。
そうしたら面倒じゃないのに。

アウグスティヌス・・・。
自分はやりたい放題で
収まったら罪と攻撃。
う~んなんて勝手な奴だ。

>ある聖職者は、去勢をした。
やっと性欲に翻弄されず、信仰に没頭できるとなったらしい。

これですよ。
堂々巡りになってしまいますが、何故信仰に妨害のもの
を神は残したのか。
まぁ皆様から回答を頂いて、逆に考えれば信仰に必要
なものだから残したとも思ってきました。

なんとなくぼんやりですが自分なりの答えが
見つけられそうな気がしてきました。

多くの興味深い御回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/10 07:34

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