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板垣退助は自由民権運動で有名です。
自由民権運動といえば、日本史教育では「日本の民主主義発展のさきがけとなった」といった好意的評価をされてる印象があります。

しかし、板垣自身は明治維新直後は政府の要職についていて、下野したきっかけは征韓論政変です。
下野翌年に「民撰議院設立建白書」を出したことで有名な愛国公党のメンバーも、同じく征韓論政変で下野した人たち(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が多いみたいです。
征韓論政変自体は、政策の衝突、もしくは派閥争いでしかなくて、自由民権というテーマとは関係がないですよね。

ということは、征韓論政変による下野直後にはじまった「自由民権運動」というのは、
板垣達にとって単なる政治的な地位を得るために政府を攻撃する手段でしかなかった、ということはないのでしょうか。

それとも板垣は元から「民衆に自由と参政権を保障するべきだ」という思想の持ち主で、
もし征韓論政変がなかったとしたら、明治政府の中枢という立場からそのような整備を進めていこうと考えていたのでしょうか。

権利を求める運動なのだから「政治的地位を得るための攻撃」で当たり前で、
そのことにより自由民権運動の評価が下がる、というものではないと思いますが
運動と板垣本人の思想との繋がりが気になったので質問しました。

A 回答 (1件)

板垣退助は自由民権運動の象徴みたいに思われていますが、


同じく指導的な立場の民権家で、
自由党の機関紙「自由新聞」で先鋭な理論を展開した馬場辰猪からは、
厳しく批判されています。
明治十四年十月に自由党が誕生。翌十五年、改進党の結成。
このころまでは自由民権運動は上げ潮でした。ところがです。
自由党の結成からわずか半年ほどのちに、
党首の板垣が「ヨーロッパに行く」と言い出した。
結成されたばかりで、党が政治問題に忙殺されているこの時期にです。
一年ちかい一般的な視察と観光に終始したその遊の費用はどこから?
政府からでした。
藩閥政府は自由民権運動に弾圧と懐柔をくりかえしたのですが、
板垣の外遊もそうした懐柔策の一環だったのです。
ヨーロッパ滞在中にすでに自由民権運動から隠退する意向の板垣は、
帰朝歓迎会の席上で、突然、
自由党は解散したほうがよいという趣旨の演説をしました。
結成から三年、自由党は解党しました。

萩原延壽「馬場辰猪」を参考にしました。
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この回答へのお礼

信念に基づいた運動~のイメージとは程遠い現実ですね。
でも、それだけ当時の政治家にとって海外視察は魅力的で重要だったんでしょうね…。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/02 00:38

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