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 《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。
 もとに戻って この質問をします。
 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。
 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。
 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。

 以上について 成否・当否を おおしえください。

 なお 
 ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。
 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。
 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 
 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。

 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。
 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

A 回答 (44件中31~40件)

maimai.susです。



種子と趣旨間違えました。
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この回答へのお礼

 了解です。

お礼日時:2009/01/23 12:41

maimai.susです。



種子も何もないです、単に

存在=善(愛)では無く。

存在=善+a+b+c+d+e・・・・・・・・・だよ。って話な訳です。

 ☆ これに対して この質問趣旨では 次のように言っています。
 1~16
は、単に善悪基準の想定の話で、とても存在という意味において、足りない部分が多くて、意味をなしえていないと思うのです。
私が今まで回答内容で書かせて頂いたのは、その足りない部分の指摘です。(他の質問回答含む。)

1~16に対しての自分個人の意見を言えば、
皆さんが、そう認識すれば、それはそれで良いと思いますよ。
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この回答へのお礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。それでしたら
 ★ 存在=善+a+b+c+d+e・・・・・・・・・だよ。って話な訳です。
 ☆ における《+a+b+c+d+e・・・》の部分に何があるか ではないでしょうか。すなわち 《善》ではなく 善のほかに 善とは異質な何かが あるというふうに どうしても規定しなければならないかどうかです。
 そもそも われわれの言語習慣において 善だ悪だと使っているこの二つの言葉に関して その定義を しておこうという程度であるとも言えるわけです。
 《存在は 善である》 こう想定すると そこから 概念を捉えて行って 悪の概念にまで到り 全体が きれいに解釈できる。という仮説の検証作業において どうしても 《+a+b+c+d+e・・・》の部分が必要であるかというところに 焦点が当たります。
 つまり その部分は なくても 善と悪とを用いる言語慣習を説明できるとは 踏んでいるのですが いかがでしょう。

お礼日時:2009/01/22 22:38

返信ありがとうございます。

少し補足を述べさせていただきます。

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>>★ 絶対悪 
>>☆ この用語は 妥当ではありません。そもそも 哲学の用語として 不適切でしょう。

1.感覚的に率直に申し上げれば
私もそう思います。哲学とは私の印象では「絶対」を作らない考え方を基礎としている印象があるからです。
ただ、池田昌子さんにとっては普遍的な悪というものがあるという解釈が自然なようでした。
例えば宗教は死への恐怖=絶対悪に対抗する為の手段として考案された産物である。という考え方です。
私の説明下手で考えが曲解を呼んでは申し訳が立ちませんので池田昌子さんの名誉の為に添えておきますが、詳しくは書籍をどうぞ。

2.哲学的にお答えすれば
>>絶対、もしくは絶対悪は思考の産物に過ぎず具体的な現象に仮に当てはめようとした用語
というのはその通りだと思います。
ただそれを言うならあらゆる言葉は、人間が>>現象に仮に当てはめた物
に過ぎないですよね。
例えば善という言葉を例としても>>想像ないし思考の産物に 善という名をわたしたち人間が 仮りに あてはめようとした用語です。


<<こうなると 先に出た《絶対悪》というのは 次のような内容を持っていると解釈することが出来ます。すなわち ウソならウソという人間の悪について その判断を 最終的に=つまりは 人間にとって普遍的に 決めるのは 《絶対》という想定概念であるということです。また この《絶対》に対する背向きのことを あたかも――用語は 適切ではありませんが―― 《絶対悪》と言っているのではないかというものです。>>
これはその通り、意味は通じていると思います。


>>はじめの存在は 善である
多分brageloneさんの仰りたい所は掴めていると思います。人間の思考として自然であるからです。
質問で既に述べておられるように
>>《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそう
と存在を善と仮定することは手段であり、目的は哲学することなのですよね。

突き詰めてゆけば、ではそもそも善悪とは何であるか、さらに善で定義する「存在」とはどういうものなのか?という疑問に当たってゆく気が致します。
「存在」という仮定なしに、存在を善と仮定することは出来ないからです。

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>>★ 生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか?
>> ☆ ここまでは 手を伸ばしません
すこし外したようですね。自分で書いた文なのに引用だけみると何やら怪しい思考が背後にある気すらしてしまいます(笑)。
一応弁解しておくと
>>経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること
これはわたしにとってまさしく哲学の基礎である気が致します(簡単にではないので哲学される方は苦労されているようですが)。ロゴス主義という奴です。
brageloneさんはそれについて>>妥当性がない
と語られておりますが、偉そうにお答えするとある意味正しく、ある意味誤っているように見えます。経験も世界も一つの解釈にすぎず
仰るとおり非常に不完全で哲学には妥当性というものが存在しないのです(私の説明下手は除く)。科学なら基本的に「誰がいつどこで行っても同じ結果が出る」という前提の上に成り立つ学問ですが、哲学は人が自らの意識に基づいて ――多分全ての人の意識が異なるにも関わらず―― 考えて人間共通の真理に至ろうという矛盾を抱えた学問であるからです。

生前を悪、誕生を善、死後を悪としたのも、brageloneさんの「存在は善」という仮定を真として時系列で(少なくともあほな私にとっては)哲学してみただけの事です。
目的は、生前死後の世界を考える事ではなく、存在は善という仮定の真偽を確かめる事です。上のは思考の手段ですね。

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★逆に質問
またこれは個人的疑問で、brageloneさんは聖書も読まれているようなので逆に教えていただきたいのですが、
宗教は<<経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること>>
なしに存在し得るものなのですか?何やら哲学、科学、宗教がごっちゃになっており意を得なくてすみません(笑)。

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>>★ 3.<<善悪に優劣は無い>>
>> ☆ これは 何を言おうとしているのか よく分かりません。
一番説明をはしょった箇所なので案の定という感じです。私の不徳の致すところです。
単純な話で捕食行為で例えると、

食べられるほうから見たら=悪
食べるほうから見たら=善

となり同じ行為が見る人(生物)により善悪いずれにもなりうるという話です。

善悪は判断であり、判断は個体や状況によって変化するものですから
一つの事柄に二つの判断が下れば、立場が違うので善悪が真逆になり得ます。
ここで存在するのは一つの事柄と二つの判断だけで優劣はありません。

個体が自分にとって都合の良いほうを優、都合の悪いほうを劣とするならば優劣は有ります。
ですが、だから善と悪という概念に優劣があるという話にはならないわけです。

生物の一個体としての判断レベルでの定義では確かに善が先かもしれません。
動物にとって悪いは存在せず、善いと善くないがあるだけだという話ですね。
詰めてゆくと快不快の話になりますが、快――生命に異常なし――は時に、他の不快――生命に異常有り――になりますから

善悪の定義の対象が個体から複数体に変わった瞬間に、善悪は同時に発生し、優劣は無い事になってしまいます。
最も初期の善悪の定義に、他者の存在が組み込まれているとは思いませんが、人間にとって善悪とは他者(他生物)と密接に関わる事柄であり、
善悪の優劣も、自己としての視点からだけでは見えてこないのではないかという話でした。

ぶっちゃけて言えば、無人島で育った人に出会った事にない人間が居たとして、その人物に快不快は有っても善悪の概念が生まれるか疑問であるという事です。
人類は善悪が無い所から、善悪の概念を生みましたが、それ以前に他者の存在がありました。他者無しに善悪は生まれ得ない気がします。
そして他者と共に善悪の概念を保有したと考えると、有るのは優劣ではなく、二つの判断だけではないでしょうか

結論は、個体としては善が優、集団としては善悪同時、但し善悪という概念は集団なくしては生まれない。

自分の説明に自信がありません(笑)。話せば話すほどbrageloneさんの知りたい事からずれて行く気がします。
私の中で永井均さんのお話が未消化である証拠です。私もこれを機会に読み返してみようかと思います。

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>>★ 永井均
>>☆ というひとは いったい 何をおそわって どのように育ち 何を考え 生きて来たのでしょう? 

wikiによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95% …

哲学的に見ると独我論に近接する学説を論じておられる方です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91% …

話をお聞きして、どうやら「善悪に優劣があるか」がbrageloneさんの知りたいことのような気がしてきました。
私の知っているところではbrageloneさんの興味には多分永井均さんの著作が適している気が致します。
私が読んだのは〈子ども〉のための哲学という書籍です。まさしく永井均がどう育ってきたか書かれていました。
そもそも、よい・わるいとはどう言うことかとか、ぼくとは何かなどについて得意な方だと思います。

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失礼な言い方で恐縮ですが、brageloneさん返信を見て「話の通じる方だ」という印象を持ちました(笑)。
ここからは存在は善という仮定について非公式な雑談として思ったことを率直に語っておきます。

解らない事を解釈するのに仮定から入る方法は自然なことですが、人はその仮定をいつしか真理のように勘違いしてしまいがちです。
仮定から入り、得た結論は全て仮定の上に成り立ついわば空想であり、ある段階に至ったら今度は仮定を取り除く ――建築現場の足場を除くように―― のが望ましいですが、
現実には人間の考えは全てが仮定であり、仮定をどれだけ積み上げても本当には至れない気も致します。
大切なのは存在は善という仮定によって却って見えなくなるものもあることを心に置いて思考へと旅立つことではないか。
と書き込みを拝見していて思いました。

私が述べた<<絶対悪>><<善悪に優劣は無い>>.《存在は 自我(意識)を超えている》などは、
仮定を真理と思い込むことを防ぐ警笛として効果があるのではという意味も込めて選んだものです。もちろんそれ以上に有意義な考え方ですが。
哲学にとって真理の追究とは、分からないことを如何に分からないかを知る。という事だと(ある側面では)私は理解しています。
この辺の行き着く先は宗教とは異なるものですね。

この回答への補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ことばを概念として用いるときに その中身を どう定義しているか これは ひとによって違いますので そもそも 議論の初めには 互いのすり合わせと言いますか 確認が必要ですね。
 このことを やっておきましょうか。
 ○ 絶対: 相対ではないということですね。
 この経験世界は 相対の世界です。何一つ それ自体で 存在しているものはありません。すべて 移ろい行くものです。すべては 程度問題であって 何かそれだけが 他のものとは 次元が違うといったことは ありません。
 絶対は この経験世界あるいは ひとの経験思考を超えたところに ひとが 想定する領域です。いっさい それが 何であるか 分かりません。分かるか分からないかが ひとには 分かりません。不可思議であり なぞであり 表象も不可能です。
 無限も 絶対です。無限を 仮りに分割したとしても その仮りに言ってみるところの部分は やはり 無限です。これが 絶対です。

 したがって
 ★ 絶対悪
 ☆ という概念は 《悪》が 人間の判断つまり思考を介在させていますので 《絶対》とは 結びつきません。もし 想像という範囲内で 《悪》つまり《絶対悪》と言ってみるとすれば それは 《絶対善》と同じ内容を表わすということになります。すなわち 《絶対》の中身については ひとは いっさい 分からないのですから ひとの判断を加えてみても 中身に何の変化も与えないわけですし そもそも ひとの判断や思考を超えているものだったわけです。

 ★ 普遍的な悪
 ☆ これは もし悪が 善の欠如であるとすれば いくつもあります。《うそ》もそうですし 《存在の抹殺としての人殺し》もそうです。誰が見ても 誰にとっても どこでも いつでも 悪ですから 普遍的な悪です。《絶対悪》という用語は その事例では 別の意味になるでしょう。

 ★ >>絶対、もしくは絶対悪は思考の産物に過ぎず具体的な現象に仮に当てはめようとした用語
 ☆ これは 最初の《絶対》は 引用間違いでしょうね。そうでなければ 意味が通じません。《絶対》だけは 何か経験事物に当てはめようとするものではありません。当てはまりません。そういうもの(領域)を 絶対という言葉で 想定するのですから。
 ★ >>経験世界を超えた領域(* すなわち 絶対の領域)に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること〔は 妥当でない〕
 ☆ というときにも いまの議論が有効です。

 そして 《信仰》とは この《〈絶対〉に相い対する〈わたし〉の心のあり方》を言います。絶対を神と言いかえるなら 有神論としての信仰であり 無神論は 絶対と《わたし》との関係が――つまり 信仰が―― なにも無かったと捉えるものです。両者は 互いに対等であり どちらを選ぶかは ひとの自由です。
 《宗教》は この信仰を ひとにおしえようとする意志に発します。《絶対とのあたかも対面としての信仰》は あくまで 個人の内面に属します。なぜなら 絶対は ひとが考えても 分からない領域だからです。これを ひとにおしえようとするなら 必然的に ひとの内面を 他人が 詮索して 決定する(あるいは 裁く)という行為が 伴なわれて来ます。これは 信仰の自殺行為です。悪です。という考えを持ちます。

 ★ 善悪と優劣
 ☆ 善悪という判断は あくまで 人間がおこなう行為です。他の生物は おこないません。人間が 善悪判断するなら それは 具体的に決まって来ます。ウソや殺人の例を出しました。ウソでない誠が善で ウソなる悪に対して 優れています。いつでも どこでも 誰でもです。殺人の例の場合に 緊急避難といった例外的な事態もありますが それをしない善から見れば その善の欠如であり 悪です。社会的人間にとっては そう決まっています。
 その意味で
 ★ 永井均
 ☆ については その見識をうたがうという意味で 疑問を呈しました。わたしは 買いません。(数冊読みました)。

 ★☆ 存在は 善である。 
 ☆ という形でなく つまり 《善》という言葉を用いない形で 質問趣旨を No.11で 言いかえることを試みていますので よろしかったら 当たってみておいてください。《わたし》を 出発点に 置く説明の仕方です。

補足日時:2009/01/22 22:27
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この回答へのお礼

 ★ 《存在は 自我(意識)を超えている》
 ☆ これについて 前回 触れませんでしたが どうなんでしょう。
 意識は すでに 現実世界の意識として 世界そのものであるようにも捉えられます。存在をふくむ世界であるように です。
 意識において 行為するところの善悪 これを 存在が 超えているというのは ごくふつうの認識になると思います。(特に強く 言おうとしたものではないので 触れませんでした)。
 (つまり 《自我》であれば 《わたし》と言いかえて 《存在》のことを表わし得るのではないかと思ったということです)。

お礼日時:2009/01/22 22:30

こんにちは。



> おおむね 賛同いただいたと理解してよろしいでしょうか。
選ばれた言葉の意図を私が理解できているかという不安がありますが
概ね賛同したつもりです。

選ばれた言葉の意図を私が理解できているかを確認するためにも
以下を返答いたします。

> 《自然本性を曲げる悪》は《うそ》に発すると考えてよろしいでしょうか。
「うそ」というのはある種の「未熟さ」だと私は考えていたのですが
(善を自然本性とすれば、善の未熟な状態の判断が悪につながる)
意図するところは概ね同じでしょうか?
(善という語にも違和感があるのですが、代替案を思いつかないので放っておきます。)

> もしクリスチアニスムに合わせて
> ~なぜなら舞台は全世界であるゆえ~考えるなら
>「原罪」を取り上げないわけにはいかない。
原罪を背負うのは「人間のみ」ですよね?
(キリスト教理解が浅いので誤解や偏見を指摘頂ければ幸いです。)
私はここに「人間だけ」を「特別扱い」する思想を感じるのです。
ここでは「負の方向性を持った特別扱い」ですが
そもそも「人格神」を「絶対」化しているところから
人間を特別扱いしていますよね?
それは何でなんでしょう?
だいたい、何でキリスト教者は関係を主従で置きたがる、というか
何で位置や方向にあらかじめ序列をつけたがるのでしょう?

私は、これが分からない(アンフェアな姿勢を感じる)ので
原罪については言及しにくいです。

話のついでに、ちょっと思いつきを書くことを許して頂くと
> 《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?
古いよね、今は「共生」だよね。

この回答への補足

 CUE009さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 > 《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?
 古いよね、今は「共生」だよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この違いが 意外に 相当というよりも あたかも 根本的に 大きいようなのです。天ないし神の国より出て この経験世界に生まれ また 天に帰っていくというとき 高みから元の高みへ移る間にある低きこの世は 谷であると言うものです。あたかも谷に落とされ 自分たちは なるほど 光の子らであるが そうではない闇の子らの間にあって その人たちとの或る種のたたかいにおいて 生きなければいけない。したがって 涙の谷としての人生を送ると言います。
 これが 《寄留》です。白装束で 巡礼の旅を送るというものです。この消極性あるいは死のにおいを打ち破りたいと思っています。むろん 理論の問題としてです。

 ★ 原罪 および それにまつわるもろもろの思想の問題
 ☆ No.9補足欄で 《性善説》との比較によって 《悪は 存在しない》を説明したところは いかがでしょうか。
 問題は やはり
 ○ 自由意志 および それによる心の曲がり
 ☆ にあるはづです。《善》という言葉が どうも 目ざわりのようで 今回は 別様に
 ○ 《存在》の具体的なあり方として 《わたし》を 取り上げてみる。
 ○ そして この《わたし》は 数として 《一》とする。存在が 《有る》ゆえに。ゼロではないという意味において。
 ○ したがって 存在=生命の維持向上としての愛は――いま 善とは言わないかたちで―― 《わたしが わたしである》ことの愛(その持続)である。さらには 《わたしがわたしする》過程として 生きることの愛である。
 ○ 数としては わたしが 己れの心から逸れたとき ふたたび わたしに還ることは――つまり 善の減少を 元に戻す埋め合わせは―― 《一》の保持・持続である。
 ○ いわば《一》なるわたしに わたしなる《一》を掛ける。自己の自乗なる過程である。自己の冪を作る動態。そうして 一の連乗積は つねに 一である。

 ☆ さて 原罪は このわたしの自乗なる動態が 相対的な能力であるに過ぎない自由意志によって あやまちうることを前提しつつ おこなわれるということを 言っています。それだけだと言っても よいと思います。
 なぜなら 神は もし創造主であるなら そのように 人間が やがて原罪を侵し その結果 神のおぼしめしそのままに生きるものではないということを知っていたはづですから。
 早い話が 《原罪を侵した結果 うそを言わない人間は いない状態になった》。つまりは 原罪と言わずに 《自由意志が 有限で可変的で可謬的である》と言えば ほぼ 同じ内容になると思います。
 なぜなら そのときには 創造主を想定しない場合にも この果敢無い自由意志は それでも 自分たちの相対世界を超えた絶対の領域を 想定するという能力は持っていて この絶対は 取りも直さず 創造主なる神のことであるか それとも 無神論として無神であるか どちらかであるのですから。

 ★ 「うそ」というのはある種の「未熟さ」だと私は考えていたのですが(善を自然本性とすれば、善の未熟な状態の判断が悪につながる)
 ☆ 微妙にちがうと思います。《未熟 / 成熟》にかかわらず 《一なるわたし》を保持しうるかに 《うそ》をめぐる問題――すなわち 広く 悪の問題――はあると考えます。一般に社会性において未熟な子どものほうが 《うそ》とみづからの心との距離について 分かっているかも知れません。
 ★ 原罪を背負うのは「人間のみ」ですよね?
 ★ 人間を特別扱いしていますよね?
 ☆ そのとおりです。人間中心主義とは言わずとも 人間が つねに 思考や生きることの基軸として 捉えられています。つまりは 他の生物の生命を慮るにしても 人間の目から見てのことになると思います。
 これは 何にも増して 《自由意志》の存在によって 分かれるのだと考えます。さらに より良い考え方があれば わたしも 従いたいと思います。

 だいたい 重要事項に触れることができたでしょうか。
 キリスト信仰に立つ生活態度(思想)として述べた内容は むろんすべて わたし自身の思うところです。一般的な教義よりも すすんでいるとは 自負していますが その点 注意が必要であるかと思います。よろしくどうぞ。

 * キリスト教義には 《アンフェアな姿勢を感じる》のですが ほかの代替案を考えるに際しては 《自由意志》の扱い方を きちんと まとめることが 大事になると考えます。

補足日時:2009/01/22 16:10
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brageloneさんどうもはじめまして。

久しぶりに回答する気になったので少々お邪魔いたします。
哲学は半年ぶり位でなまくら頭のふつつかものですがどうぞ宜しく。

私は特に学校で哲学を学んだことも無く、少々興味がある程度読んだ本も池田昌子さん、永井 均さん、中島義道さんを少々位です。
ただ物理学も同様に少々興味を持ったことがあるのでそちらのアプローチ色が出やすい人間だと判断ください。

初めてなのでbrageloneさんが当問題によって本当に知りたいことは何なのか正直全く掴めません。書いた後の読み直しもせず一発勝負です。
以下はその程度の話だとお考え下さい。
多分善悪と人の存在について興味おありなのだと思いますのでその辺の話をしておきます。
番号を振っておきますので関心を持っていただければもう少し掘り下げてお話させていただきます。

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1.《存在は 自我(意識)を超えている》

《存在は 善悪を超えている》は当然で、善悪は判断ですよね。

中島義道さんの書籍を読んでいて覚えたのは
《存在は 自我を超えている》と言うことでした。自我もまた判断であり、自我無き者も存在している(と言うことができる)訳です。
支離滅裂な例えしか出てきませんが、仮に私の自我が存在していなくとも、brageloneさんという他者は存在しているからでありますし、
生物の発生は自我無き存在から出発したと言われています。よって(少なくとも非生物は置いておいて)生物にとって自我(意識)は手段に過ぎません。

brageloneさんという生物は、brageloneさんの「自分と言う認識」=自我 を抜いても存在していると言うわけです。


しかし、自我無き自分(存在)を果たして「存在している」と言って良いものなのでしょうか?
そこにいるのは生存の為に肉体を動かす一固体であろうという定義以外の何者であるかすら想像付きません。意識があるかも定かではないです。

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2.<<絶対的な悪は存在する>>

これは池田昌子さんの書籍で見かけたものです。

善悪は判断であり、判断をする人間は無数であり、無数の人間同士は空間(場所)、時(時代)を超えて分かれている以上、絶対的な悪は無い気もします。

例えば戦争の時代では敵を多く殺せるものが英雄であるし、平和な世では狂人であるという程度の話です。

しかし、池田昌子さんが言うには(少なくとも人類が持つ「現在までの人類への知識」の範囲内では)全ての人間は共通して腹が減り、眠り、子孫を残したい。
そして自らの死への恐怖が有る。と言います。即ちごく自然な生物としての共通点です。(私はあほなので言われるまでこんな単純なことも分かりませんでした(苦笑)。)

この「絶対な人類の共通点」が有る以上、その依存の上に判断される悪にも「絶対悪」があると言うことです。
確か以前にも「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言った質問にお答えする際にこの話をしました。
今説明したようにそれは「絶対悪」に背くからだと。

この解釈に基づいてbrageloneさんの善悪への疑問(興味?)を眺めると、善悪とは自我を超えた生物としての人間から発祥している、より根源的な欲求に基づいたものであり、
人が自我という解釈によって善悪を判断し、その時空間及び自他という相対的別離を経ても、善悪判断の結論は(一般的な人が考えるよりも)ずっと共通なもの=絶対悪がある。という話になります。
よって《存在は 善悪を超えている》は、

=人を生物としてみれば可→(ぶっちゃけて言えばみんな死にたくないから)。
=自我としてみれば(善悪は自我(意識)という存在を)超えているので否。→(生物が意識を獲得する前から死は有った)

となります。
ちょっと話し手たる私の能力不足から分かりにくくなっているでしょうか?
もっと簡単にも書けるのですが意味を削らないといけないので、取り合えずこの位で勘弁を。


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3.<<善悪に優劣は無い>>

永井均さんの書籍では「悪い人も自分の子供は良い(善い)人に育てる」という話が印象的でした。
極悪人であっても、自分の周りの人は善い人の方が自分(の存在)にとって都合が良いからです。
即ち「良い悪い善悪とは、自分と他人どちらからみるかによって真逆になりうる」と言うことです。
別に取り立てて言うほどもない自然な話ですが(笑)、分かりやすく言うと
牛や豚、鳥などの家畜からしたら、「自らの死」という絶対悪ですが、我々人間たる捕食側からしたら良い食事です。

この話から、「悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。」というbrageloneさんの話を(私なり)眺めると、
悪は善の欠如ではなく、元々善悪は一つの価値基準(生存本能)によって判断されており、この世に生命が誕生した瞬間に共に生まれたと言うことになります。
つまり、自分に嫌な影響を与えるものは悪。良い影響を与えるものは善。両者に優劣はありません。

これは仮に生物の形態が時空間を超えて、何千、何万年先の宇宙の端っこで生まれた鉱物でできた生命体であったとしても共通だと言う話です。

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4.
3の補足にも当たります。まずbrageloneさんの言葉を引用します

>>『《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。』

3の結論を、こういう疑問で捉えるとどうなるでしょうか?。
「生命が生存すると言う事が既に善であるならば、存在=善なしに悪は成り立たないのだから、やはり善が優。先なのではないか??」

brageloneさんの言葉は多分こういった意味だと思います(違ってたらすいません)

生命と言う存在が「ある時点で誕生」したとして、(一般的に将来の)「ある時点で消滅」するとすれば、
誕生=善。消滅=悪。のように見えますが、その誕生の更に前、つまり生まれる前の時点では、生命は存在しなかったわけですから、消滅=悪、が先に有ったことになってしまいます。

生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか?

これは一番私にも説明が難しい箇所に当たります。

自分を生物として見た時、死が悪であることは間違いありません。
しかし、死とは実は「無」なのではないでしょうか?
(一般的には)誰も前世の事を覚えていませんし、死後生き返った人も居ません。そこには何も無い、まさに『「無」すらない「無」』があるだけです。(無宗教基準でのお話です)


我々は無から生まれ、無に帰るのだとして、無と悪はやはり違う気がします。その証拠に、人類史上、どの言語でも無と悪は違う単語で区別されているはずです(多分)。

では何故無を悪と呼ぶかと言えば、自らが有であるからです。

実はこれは勘違いに過ぎなくて、自分が有であるから無を悪と思い込んでいるだけだと思います。
つまり、

自分は善である前に既に自分である=《存在は 善悪を超えている》のだから

(かなり強引ですが)有とは善悪で無い以上、無もまた悪ではないと言うことです。

何か分かっている人が読めば分かる文の域を出ないダメ説明な気もしますが私のあほ脳では出来たほうです(笑)。

ちなみにこの辺の話は論客コミニュティという所で皆さんとお話して知りました。http://www.yamcha.jp/fnd/dsc/

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長文最後までお読みいただきありがとうございました。
最初にも書いたように興味があれば引き続きどうぞ。
自分の復習の為に書いただけなので興味をひか無ければ返信無しで構いません(笑)。

この回答への補足

 poipoi_saさん こちらこそ 初めまして。ご投稿いただき ありがとうございます。今後とも よろしくお願いたします。

 そうですね。今回のご回答の内容によっては 正直に申せば 説得されることは ありませんでした。せっかくの長文をいただいたのですが 結論は そうなりました。率直に わたしの受け取ったその内容を わたしの見方に立って 説明してみます。そういう出で立ちですが その文章について 再反論を よろしかったら お寄せください。

 ★ 絶対悪
 ☆ この用語は 妥当ではありません。そもそも 哲学の用語として 不適切でしょう。
 ○ 絶対: これは この相対世界を超えたところに 人間が 想定する領域です。それは 経験世界の一切を超えており 経験思考の及ばないところです。不可思議であり 非思考です。
 ☆ そのとき この《絶対》について 悪あるいは善といった判断ないし思考をおよぼすことは 想像の範囲内でという条件において あり得ますが きちんとした定義としては あり得ません。ですから 
 ○ 提出なさった《絶対悪》は 想像ないし思考の産物として 経験的で具体的な行為や現象に わたしたち人間が 仮りに あてはめようとした用語です。

 これを 別の思考経路から 別様の見方において 説明してみます。
 さて 《うそ》の話から始めます。そもそも 《うそ》と言うからには そのウソとは別の何らかの内容が 心にはあると言わねばなりません。この《まこと》と《うそ》との差異に 心のゆがみが出ていると ここでは 言っているのですが そうして この嘘や真事を表象する主体である存在が もし善であるとすれば ウソは 善の減少だと考えられます。ウソ一個分 善が減る このことを 悪とも呼ぶというわけです。
 ところが この悪について 人間の能力と努力とでは 最終的には どうにも することが出来ません。謝る・償いをするなどの行為によって 他者とにせよ自己とにせよ 和解することは出来ますが 最終的に ウソから自由な存在であろうとしても 人間の力では 無理であるでしょう。
 そのとき 《絶対》が 人間の心にも 現われるのです。自己の力によっても 人間どうしの和解によっても 最終的なウソからの自由は 得られないというとき それは つまりその悪は 《絶対》への背向きであるという思想が 現われます。つまり いわゆる《罪》という概念です。
 こうなると 先に出た《絶対悪》というのは 次のような内容を持っていると解釈することが出来ます。すなわち ウソならウソという人間の悪について その判断を 最終的に=つまりは 人間にとって普遍的に 決めるのは 《絶対》という想定概念であるということです。また この《絶対》に対する背向きのことを あたかも――用語は 適切ではありませんが―― 《絶対悪》と言っているのではないかというものです。

 すなわち ここでも 《悪》あるいは《絶対悪》というモノが 初めに 存在するというようなことは ないわけなのです。同じく ここでも 《うそ》は マイナスの善であり それとして 悪と呼ぶというに過ぎないわけです。
 どうしても 《善》という概念で 《存在》のことを 捉えるという必然性もないかも知れませんが 存在の良さ・好ましさ・望ましさがあって それが 減ったとすれば その減った分は マイナスです。マイナスゆえに 人間の言語習慣では この現象を 《悪》と呼ぶとすれば はじめの存在は 善であるという想定になります。おかしくありません。

 このいきさつから言えば 悪が起こって それが マイナスであるゆえ はじめのプラスを 善と呼ぶというふうに順序が 逆であるように見えますが 考え方の上から行けば やはり 善があって その減少として 悪が 起きるのです。

 ★ 生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか?
 ☆ ここまでは 手を伸ばしません。この世界において 善悪という言葉が どういう意味で使われているかの解明だけでじゅうぶんです。仮りに おつきあいすれば 生命存在のさらに以前というのは 《有》でも《無》でもありません。有・無というのは この経験世界において ものごとを捉える言葉ですから その経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いることには 妥当性がないと言わねばなりません。
 仮りに 《絶対無》と想定するとするなら それは 《絶対有》と同じような概念になります。つまり 有無には ほとんど 関係なく 《絶対》のことなのです。(有神論では この絶対ないし絶対者を むろん――その自分たちの物語として――《善・至高の善》と呼びます。無神論では 《無記(善とも悪とも規定しない)》というところでしょう)。

補足日時:2009/01/22 11:23
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この回答へのお礼

 ★ 3.<<善悪に優劣は無い>>
 ☆ これは 何を言おうとしているのか よく分かりません。
 存在が善であり その善の中身の減少が 悪であると規定しておけば
 ★ 「良い悪い善悪とは、自分と他人どちらからみるかによって真逆になりうる」と言うことです。
 ☆ などということは 起こり得ません。定義は 持続しますから。(ただし 人間から見てという前提は あります。人間存在を 不遜にも 善だと 人間じしんが 規定しているからです)。しかも 《善悪どちらかに見ている》というのなら 《優劣》はあるはづです。人それぞれであっても あるはづです。

 ★ 元々善悪は一つの価値基準(生存本能)によって判断されており、
 ☆ 生存本能を超えて 人間の知性によって 生命存在を善とする初めの想定から出発して 判断するということでしょうね。機械的という意味での本能的ではないでしょう。生命存在が善だという想定には いわば先験的なその想定の持つ判断も 含まれているようですが だからと言って この判断を ひとは 鵜呑みにして 条件反射として反応するようには 無思考ではないでしょう。

 ★ 永井均
 ☆ というひとは いったい 何をおそわって どのように育ち 何を考え 生きて来たのでしょう? 

 これで おおむね お応えできたかと思います。すでに 断定して述べているところもありますが 率直に 思っているところを訴えました。あしからず どうぞ。

お礼日時:2009/01/22 11:28

maimai.susです。



>どうしても いまの想定がまずいということでしたら もう少し その不都合について 批判を展開していただけないでしょうか。ただ 無理があると言われているようなのです。

ですからね。

>★☆ 酒類が 存在のことだと喩えるのなら その種類のすべてが 存在であり 善です。

を例で挙げるとですね。

お店で「ワイン下さい」て言ったら、「うちのお酒、悪い物無いですよ」って答えてるみたいな話ですよね。

石があるとします、大きさ・重さ・色・成分を調べて下さいと言われているのに、大きさを測る道具だけで、大きさ何センチ・重さ何センチ・色何センチ・成分何センチ見たいな事、言われてもね。

>★ 人間目の前にいる人間に対して、この人間は何の為にここにいるのか、何を考えているのか、どうゆう能力があるのか、そういった事を考える
 ☆ のではありません。うそなら嘘 そういう表現行為を扱っているのみです。人間について その存在は 善であると規定し そこから繰り出される表現行為(そして そのための内的な思惟も 含みますが)については 善に即した内容としての善か または その善を減らすような内容としての悪かに分けるというものです。

っも、そうですがどうも大切な部分を理解して下さってようですね。
~必要を感じるけど、善か悪かと言う事を見ようとするのは偏見の元にしかならんと思うのですよね。が抜けてますよ。ココ大事な意味あるんですけどね。

そもそも、嘘がどうこうの話で、この部分の話をあてはめること自体、過ちですね。


悪気は無いのですが、何か批判的な回答になってしまい、すいません。

この回答への補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 批判は 歓迎なのですが その主旨が どうも飲み込めません。
 ☆ (No.3お礼欄) 作業仮説
 ☆ という点について むしろ maimaisusさんのほうが 飲み込めておられない。こう捉えて 以下に 説明します。

 ● ヰキぺディア:《性善説》〔=α とする〕
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84% …
 ☆ これを出汁に使います。
 まづ
 ▲ 「性」とは、人の本性やものの本質のこと。字書的にいえば、「性」という字は生まれながらの心という意味である。
 ☆ だそうですから ここでの《自然本性》にあたります。これが 人間の《存在》にそなわると言い また この存在が善であるという仮説ですから ほとんど 同じであるようです。
 ただし 《悪 ないし その起源》については 分かれるようです。

 ちなみに その前に 性悪説 あるいは 《「性無記説」(性には善も悪もないとする告子の学説)や「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、「人の中で善悪が入り交じっているのだ」とする諸説》(α)もあるわけです。要は どの仮説にせよ それによって 人間ないし社会のありようをよく説明し得たかが 問題です。

 もうひとつ ちなみに いくら性善説と言っても
 ▲ 孟子も朱子も、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要であると説いている。
 ☆ とも知られます。この点は 《悪》の定義によって すなわち 次に取り上げる 悪の起源にかんする仮説内容によって 違ってくるようです。

 さて 悪の起こりについてです。
 ▲ (α) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 孟子は以下のように説明する。
 悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。
 すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これに対して この質問趣旨では 次のように言っています。
 1. 善であると想定される存在が備える自然本性 その行為能力である内のひとつの《自由意志》 これによって 思惟や行為としての善と悪が起こる。
 2. すなわち われらが意志は 悲しいかな 喜ばしいかな みづからの存在に内在するおのれの心に 従うのも 従わないのも 自由と来ている。
 3. おのれの心に従う場合――それは 基本的に 存在の愛(維持向上)である――が 善であり 従わない場合が 悪である。
 4. これは とりもなおさず 悪とは その内容が 存在の愛に反することである。
 5. 意志が おのれの心に従わないというのは 心を 曲げるということである。
 6. 人間の意志は 悲しいかな 喜ばしいかな 心に へそ曲がりを持つ自由を持っている。それは 自由意志である。
 7. すなわち 善はもとより 悪も 存在の内から 自由意志によって 起こる。
 8. ただし それは 善のへそ曲がりであって 本性は 善が 基礎となっている。そうでなければ 《へそを曲げることすら 出来ない》。
 9. つまりは 《悪》というものが どこかに 存在していて それが 現象としても 現われるというものではない。
 10. たとえば 善なる心が 悪にさそわれるというとき その悪は すでに歴史事実として継承してきた現実に見られるものを言っている。
 11. それを取り上げるならば 孟子の言うように 《悪は外在する環境にある》と言えるかも知れない。
 12. ただし おそらくは その起源は そうではなく 内在する自由意志のへそ曲がりにある。
 13. すなわち 《存在は善である》と言っても それは 想定であり しかも 悲しいかな 喜ばしいかな 相対的な善なのである。有限であり 可変的である。ゆえに あたかも光のごとく 曲がり得る。
 14. 自然本性の持つ知性・理性は あたかも 光のごとくであるが いかんせん それは 経験事物としての太陽であるに過ぎない。朽ちるべき光である。
 15. しかも 存在とその自由意志は 曲がりなりにも 善である。悪でもなければ 善と悪との混在でもなく 存在するのは 相対的な善のみである。
 16. この善がなければ 悪は存在しない。

 以上のような仮説です。さらにご批判をどうぞ。

補足日時:2009/01/21 10:12
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ショウクロス(聖書根本主義者のウイルス学者)は言い放った。


「今度は、罪人は誰も逃れられない!誰一人としてもだ!!」
女(娼婦)はショウクロスの手をどけた。
「あんたの神とあたしの神は、共通点はあまりないようね」
「おまえの神だと!!」ショウクロスは吐き捨てるように言った。
「それって、あたしには神をもつ資格がないってこと?
そりゃ失礼。国連憲章のどっかに書いてあると思ったけどな。
誰もがその人自身の神とともに生まれるけど、
生きていくうちに神を捨てたりなくしたりしたら、
ただでは取替えがきかない、みたいなことが」
「さて、罰当たりなのはだれだね?」
女は肩をすくめた。
「まあ、あたしの神はまだ機能しているけど、あんたのはちょっと災害っぽい感じ。
あたしのは世界の全ての問題を取り除いてはくれないけど、
少なくとも逆の極端に走って事態を悪化させたりはしない。」
(グレッグ・イーガン「道徳的ウイルス学者」より。「しあわせの理由」に収録)

++++++++++++++++++++++++++++++++

私はキリスト教幼稚園に通っていました。
だから、幼い頃から「原罪」のことなどは
一応聞いておりました。

ただ、何と言うか「許しを得るために生まれてきたのか」と
反感を持ったのですよ、子供心に。
原罪理解に対する解釈論を交わす気はありませんが
無邪気な心に罪悪感を刷り込むなよ、何か、陰険だな、と。

嘘をついたら、嘘をついた相手にあやまればイイだろう
嘘をついた相手に謝ることの方が大事だろう
神が許してくれれば‘That's All Right’なのかよ、と。

難しいのは、自分に嘘をついた場合だが
神が許してくれれば、それで良くなっちゃうのかよ、と。

(まだ子供だったんで、こんなふうには語れませんでしたが。)

++++++++++++++++++++++++++++++++

グレッグ・イーガン「道徳的ウイルス学者」の続き。

(中略)

「あたしが何を考えていようとも、あんたにはどうでもいいのは分かっているけど、
それでも言うよ。あんたは今週目にしたうちで、一番悲しくて、
一番わけわかんなくなっている男だよ。
だから、あんたは特定の道徳律を生きる指針に選んだ。
それはあんたの権利で、頑張りなと言うほかない。
でも、あんたは自分のしてることに、本物の信念をまるで持っていない。
自分の選択にどうにも自信がないから、自分は正しいと自分に証明するだけのために、
他の選択をしたあらゆる人に地獄の業火を浴びせる神を必要としている。
神が願いを叶えてくれないと、自然災害をあさりまわって”罪人たちへの罪”を選びだす。
神が自分の味方だと証明したとでも思ってる?
あんたが証明したのは、自分の自信のなさだけなんだよ。」

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 おおむね 賛同いただいたと理解してよろしいでしょうか。

 (あ) 次のように 《自然本性を曲げる悪》は 《うそ》に発すると考えてよろしいでしょうか。
 ☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (4) 己れの心をいつわって うそをついたとき それは 存在に内在するはじめの何か――心のありかのようなもの――をゆがめたことになる。これが 悪である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (い) もしクリスチアニスムに合わせて――なぜなら 舞台は 全世界であるゆえ――考えるなら 《原罪》を取り上げないわけにはいかない。そのとき 次のように解釈することに 違和感はありましょうか。
 ☆ (No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリスト・イエスの出現・・・の後の《原罪》は いわば痣やほくろや蒙古斑のような母斑にすぎないと理解します。ただし まだまだ その後遺症は 大きいとも言わなければならないようではあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (う) No.7のプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に関して 引用した箇所では 核心に触れ得なかったと気づいたところが さらに あります。掲げます。
 ▲ (大塚久雄:社会科学の方法 pp.179-180) ~~~~
 ピュウリタニズムが資本主義の精神の生誕にあずかって力があったというのは ・・・一見逆説的です・・・。
 単なる貪欲からおこなわれる 他人の損失も不幸も考えていないような金儲け・・・こうした営利欲をピュウリタニズムはみごとに否定してしまった。その結果として 生産力を高め 民衆の生活を豊かにするような 自己の倫理的要求と一致するようなタイプの営利が生まれてくることになった。・・・
 この資本主義経済が成長し その営利主義が前面に出てくると しだいにピュウリタニズムの精神から離れることになる・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち はじめは 《隣人愛》の実践から出発したとも言います。
 わたしたち日本人も 《道徳的ウイルス学者ショウクロスと そして 女との討論》に割って入るくらいに 仮構としてでしょうが 理論を持って 世界に生きることも 必要なのではないでしょうか。

 原罪〔という概念のあること〕は 困ったもののようですね。

補足日時:2009/01/20 21:17
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こんにちは、brageloneさん。



ちょい、休みがとれたんでおじゃまします。

うーん、ここのところ人と話していてどうもわからんのですよ。

話の何がわからんのかといえば、個々人が発する「ファンド」ということば。

猫も杓子口を揃えたかのように「ファンドはハゲタカだから」と

確信したかのようにいいます。

「ファンドの意向がそうだから」と。

その話を黙ってきけばきくほど???ハテナが飛びます。

誰一人ファンドの者と直接言葉を交わしたこともないなかで

なぜにファンドの意向がわかるのかが正直疑問。

で、きいてみました。「ほんとうにそうなの?」と。

すると、「ファンドとはそういうものよ」と、言葉が返ってきました。

で、またきいてみました。「そういうものって?」

こんどは少々あきれたような顔で言葉が返ってきました。

「安く買い叩いて買い取ったら数年したらまたどっかに売っ払う、

高く買い取ってくれるならあとは野となれ山となれとばかりが常。

ファンドは利のことしか考えてないよ。それが、ファンドの仕事。

買い取られた会社の自分たち社員やら会社の行く末など考えるわけがない」と。

こう応える人の言葉の端々にファンドへの期待のなさを感じました。



どうして、見たことも会ったことも話したこともない

相手の意向というものがわかるんだろう?

人が口を揃えたかのように言い放つことばが

いつのまにかに虚像をうみだし実体と化す。

似て非なるものもあるというのに…

【企業再生ファンドとは】
http://www.h7.dion.ne.jp/~shindan/saiseifund.html

この回答への補足

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《 vulture fund 》とか言うのでしょう?一部分か二部分か知りませんが そういう金儲けのための投機資金が《活躍》しているのも 実際なんでしょうね。
 むろん そうでない企業育成のための基金があります。参照サイトは 自治体や地方銀行が主体となった基金のようですね。

 ちょうど こういう一節を いま 読んでいたところでした。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ピュウリタニズムの徹底的な現世拒否の態度・・・それは・・・何よりも ピュウリタンたちが現世を完全に拒否したがゆえに かえって それを楽観的に肯定した儒教とは比べものにならぬ程の強さで現世に働きかけ それを根本的に変革してしまうという たいへんな精神的エネルギーを生み出す そうした逆説的な結果を歴史の上にのこした・・・。

 神の栄光を増すために この現世を神の国に近づけようと努力する。これは信徒たちの最大の義務であるばかりでなく またそういう現世をよくしようという仕事をおしすすめる行為そのものが 自分自身が神によって救われていることの証しとなるというわけです。
 こうして 永遠の時の流れからみれば ほんのわづかの やがては終わるべき旅路である現世の生活に ひじょうないきおいで精神的エネルギーが注ぎ込まれることになる。・・・
 (大塚久雄:社会科学の方法――ヱ゛ーバーとマルクス―― 1966)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まだまだ このような勢いが アングロサクソン系などには じゅうぶん 残っているのでしょうか。

 もっとも そもそも 投機的な行動というのは どのスーパーで買えば 安くつくかというそのような利益機会をねらっての行為と同じだとも 言われますけれど。
 あるいはまた わたしは 資本主義でも 勤勉キャピタリスムと ガリ勉キャピタリスムとに分かれるのではないかとも考えたことがあります。勤勉じたいが 目的となったなら ガリ勉になると。
 あるいはそもそも 資本主義経済は 見込み生産で 販売をしていくわけですから 需要が減って 売れずに 在庫投資がたまると 生産も落ち 景気の上げ下げやその循環が 避けられないと言います。今回の不況も ただ その波が大きかっただけだとも一部で 言います。
 ただし もはや 人口の増加も 先進国では止まり いわゆる後進国地域も 経済成長への離陸が始まったとするなら どこまでも 成長一筋の発展というわけにも行かず 一定の転換期を迎えているということになるのではないかと思えて来ています。これからは 中身を充実させていくという行き方なのでしょうね。
 《最先端を行くハゲタカ・ファンド》の投機的な資金運用によって 景気が引っ張られて来た部分もあるとかで ますます 中身の充実という路線が 現実になってくるのではないでしょうか。

 悪は 存在しない。どこに絡ませたらよいか。ううーん。

補足日時:2009/01/20 19:34
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この回答へのお礼

 補います。
 
 《雇用》の問題で ひとつの情報を得ました。
 《民間企業でもない 政府セクターでもない 中間組織》が イギリスで現われたそうです。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 英国の《社会的企業( social enterprise )》は 一般の民間企業と異なり 利益は追求するがそれを株主ではなく地域社会に還元することを目的に設立された企業体である。
 寄付や補助金に頼らずに事業活動で安定的な資金を集める。一方 特定の社会問題解決を目的に出資した投資家は 企業から元本だけを返済され 配当の代わりに社会貢献したという満足感を得る。利益が出れば 事業の改善や拡張に使われる。
 英国では バスの運行やリサイクル 地域再生 学校の課外活動の運営 家具や装飾品製造など多岐にわたる事業が行なわれ 長期失業者や障害者などに座学や現場訓練を実施し 自ら雇用したり 他社へ就職あっせんし 《教育訓練つき社会的企業》として自立支援を行なったりしている。
 民間企業に比べ給与が低いわけではなく 経営能力にたけた人も多く 労働者の意欲が高い分 一般の民間企業よりも生産性は高いという。
 英国政府の調査では 社会的企業は 06年には従業員を雇っている全企業の5%にのぼり 働く人は05年に78万人に拡大した。
 (樋口美雄:均等待遇強化こそ本筋――日経《経済教室:雇用・・・非正規の論点 上》1月20日)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《従来 日本企業は 所得や生きがいを社員に保障し 人づくりを進める役割を果たしてきた。だが グローバル競争が激化する中 その機能が弱体化した》うんぬんと つづきます。
 覚書ほどですが。

お礼日時:2009/01/20 21:34

 あぁヨガの種類で、もう一つありました。


 ハタ、もしくはハサです。最初、私はこれからはじめました何もわかりませんでしたが。50年も前、十数年やりましたが、結局今のラージャになりました。
 ハタは、いわゆるストレッチや美容、健康にも応用されたりはしていますが。これは体操ですね。

 でも本来のハタ・ヨガは理論の認識が不可欠とされます。
 ハタの理論なくして、ハタをしても、それはちょいとした体操やマッサージよりすごいですがね。
 理論をしっかりそのときに適用すると、意識や生命性、それを超えたものが齎されます。確かに病気など治癒はしますが、それが目的ではありません。
 普通、こういうのだけがヨガだと思っていますね、多くの人は。
 どの分野のヨガも、一応こういうのをやりますがね。
 理論もありますよ。宇宙論、身体論、意識論とね。
 オーム真理教って、何なのでしょうね。
 最初にそういうのに走ってしまうと、それはそれなりにあるものがあるから、夢中にさせられるのですね。
 人間の動機や契機は大事ですね。それは人間の姿勢の問題、何に自分を置くかの問題ですよね。
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この回答へのお礼

 なるほど ヨーガの場合には
 ★ 理論
 ☆ も つねに ついているのですね。それは どうなんでしょう 座禅との違いなんでしょうか。

 ★ 意識
 ☆ これは 意識された現実 という意味で むしろわたしは 現実として捉えて来たように思います。むしろ 他者や外側であるという感じが 強いですね。すなわち その他者や外側のこととの関係が つねに あるわけですから その側面では やはり つねに 《わたし》が 参画しているということは 実際なのです。

 ちょっと 質問者として 質問との関係を どのように つけていくか 分からなくなってまいりましたが――つまり この禅定と言うのでしょうか その実践については からっきし 知らないということですが―― そうですね 特別に 深追いすることはしないと 一応 決めることにしました。ですから 逆に そちらから この質問に こういうかかわりがあるのだよということでしたら どしどし ご回答を寄せていただければと思います。
 ★ オーム
 ☆ については けっきょく こう考えたことがあります。一人だけに完全な自由が与えられる。しかも そのグルの命令は絶対だと決める。この条件のもとに 参加者は 自由を たのしむ。ただ それだけだ。というものです。
 ヨーガに似たことも やっていたのでしょう? 果たして どうなんでしょうか。例のチベット仏教から採ったというポアの論理は いただけないですね。

お礼日時:2009/01/20 13:51

 ヨガということばもいろんなことに使われ居ますね。


 何も私たちのを専売特許と主張などしませんが。
 
 バクティ(信仰)、カルマ(行為・勤行)、ジャニューナヤ(叡智)、そしてラージャ(総合━根本的ですから総合になります)とあります。
 それぞれオーヴァー・ラップする部分があります。截然と区切ることはできません。ヨガの語義は自身の本性を再度奪回するといういみであります。その方法であり、目的であるわけです。そういう状態です。

 ★ 禅・座禅 (あるいは ヨーガでしょうか)
 私たちの理論の中でで、ラージャのヨガだな、と思っていてもいいけれど、その道の方はそういう名称では括れないと、思っておられるはずですので、勝手にそうなんだなどとは失礼です。

 ☆ については 分からないわけですが 心身ともに また 脳の活動をも合わせて 調(ととの)えるのでしょうか。
 そういう説明もいえるでしょう。でもこの説明でイメージをつかめないと存じます。イメージしても内容にはなりえないでしょう。

 ☆ちなみに 愚問と言いますか 素人の質問ですが 座禅やヨーガのときには 脳ははたらいていないのですか? はたらかせないのですか? 休めるということは 放っておくのでしょうか?
 意識というのを、意識してないはずですよ、どなたも。経験や知覚、意識のしたそういう行為の結果だけを認知しているのでしょう、みなさんは。
 意識自体を分析し、把握し、コントロールして、それを創造界から引き上げ、本来に差し向ける修行です。

 ☆そのとき 悪についてどうこうといった意識は むろん ないのですね。悩みだとかの意識は なくすのでしょうか。自然にあるがままに放っておくのでしょうか。
 そういう説明になると存じます。でもそれで、万感の納得するには行の経験が必要です。

この回答への補足

 krya1998さん ご回答ご教授をありがとうございます。

 そうですね。もしわたしが――ヨーガは 体を動かすでしょうから いまこれを措いて―― 座禅をするとすれば どのようになるだろうかと考えてみました。
 まったく指導もなしに 坐ってみるということです。思ったことは たぶん わたしが 毎日 一日を終えて 床に入って 眠りにおちいるまでの間に いくらか 脳のうごきを意識するあいだがありますが この場合のことでした。
 その一日にあった出来事で まだ 済みになっていないことや それまでにも長いあいだ 関心をもって考えてきたことや 実際に相手がいて その関係においても 課題がつづいて来ていることなど これらの事柄が 思い浮かんでくるのですが そのあと どうか。
 あるとすれば 自分の言ったこと行なったことについて 反芻するように考えなおすということも する場合があります。相手がある事例については 意識の動きが落ち着かない場合さえあります。
 一件落着するものもありますし あとは 保留として 落ち着くこともあるわけです。
 こうして いわば元の白紙の状態に こころは 戻ります。そして 寝入るのでしょう。

 考えてみると 
 ☆☆ 心身ともに また 脳の活動をも合わせて 調(ととの)える
 ☆ というのは わたしの場合 以上のようなことだけのようです。それ以上の《ととのえ》は 座禅としては しないと思います。あとは 同じく 眠るのではないかと思います。

 まぁ こういうなまぐさなことを あらためて 確認してどうするんだ?ということになってしまいましたが 愚問でしたね。
 ★ 意識自体を分析し、把握し、コントロールして、それを創造界から引き上げ、本来に差し向ける修行です。
 ☆ たぶん こうおしえられるとき この
 ★ 意識自体の分析
 ☆ これを わたしは やらない と言いますか やりたくないと言うのでしょうか これについて 分からなさを 逆に 深くするという結果になってしまいました。
 ○ わたしは いま 意識としてある。意識が 意識じたいを 意識している。
 ☆ というような中身を 予想して いいのでしょうか。とにかく 白紙なのだから――つまり つねに 消されてしまう黒板なのだから―― その意識について意識するということは しないと わたしは 思ってきました。この点は 入門以前のわたしにとっての疑問といったことになるのでしょうか。

 善という元のふつうの状態―→その善の減少・損傷―→その悪の状態を 元に戻す こういうふうな行為とその修復過程について ヨーガや座禅は どうなのかなと思ったものですから お聞きしてみました。何とも頼りない生徒で すみませんでした。
 もう一件 ご回答をいただいています。

補足日時:2009/01/20 13:06
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