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どうしても分からないものがあります。


(1)花魁道中ができるのは高級遊女屋のお職だけでしょうか?つまり一軒の遊女屋で一人だけだったのでしょうか?2番遊女、3番遊女くらいまでなら道中してたのでしょうか?

(2)花魁道中にはその花魁の禿や新造も一緒に参列するみたいですが必ず妹分だったのでしょうか?姉女郎ではない花魁の道中に妹分ではない新造は参列しなかったでしょうか?

(3)花魁は馴染み客が毎日来れば道中も毎日してたのでしょうか?
それとも何か特別な時だけ?


(4)高級遊女は引手を通さなければ遊べなかったそうで、馴染み客を迎えに行くことを花魁道中と言ったそうですが、迎えに行ってそのまま引手茶屋で宴会&床入りをしたんですか?遊女屋では遊ばないのですか?
映画の「さくらん」や「吉原炎上」は遊女屋で遊んでいますよね?
もし、迎えに行って遊女屋へ帰って遊ぶようであったなら帰りは道中したんですか?客も一緒に・・・・?


この4つがどうしても分かりません。是非教えてください。

A 回答 (6件)

江戸時代でも、初期と中、後期、京阪と江戸でもかなり遊郭の様子は違うのですが、


まず、「揚屋」というものが江戸後期にはなくなっていたようです。大阪には何件か残っていたようです。
「揚屋」というのは最高ランクの遊女である「太夫」を呼ぶだけのための場所ですが、後期にはこれがなくなって、ただの「茶屋」で遊ぶようになります。
というか、「太夫」という位そのものがなくなります。
「端店女郎」みたいな下級遊女は別として、「太夫」「天神」のようなクラス分けそのものがなくなります。デフレです(笑)。だいたい、どの遊女も同じような値段で遊べるようになります。
「お職」というのは、単に人気ナンバー1の遊女を指す言葉で、江戸前半期の遊女のランク付けとは関係ないと思います。
「揚屋」と「太夫」あっての「花魁道中」ですから、江戸中期以降には、やらなかったはずです。

「花魁道中」は、「太夫」が、使う布団や着替えの衣装など一式を持って、お供を引き連れてお客のところに向かう行列、とワタクシは理解しています。
「太夫」以下のクラスの遊女は布団を持っていかず、また、お供の人数も少ないので、「道中」というほど華やかなものではなかったでしょう。
「花魁道中」というイベントがあったわけではなく、「太夫」クラスの遊女が大人数、大荷物で客のところに向かうときのおおげさな様子を「道中」と呼んだのだと思います。
後にこれを「イベント」として客寄せに使ったかもしれませんが、元の意味合いは失われているかと。
少なくとも江戸ではワタクシの知る限りありません。
お芝居に出てくるのは絵的にきれいだからで、当時のシステムをリアルに映しているわけではありません。

字数の問題で細かいご質問の分まで書けません(分割投稿ダメらしい)。必要ならまた書きます。
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今思い出しました。

質問の「花魁道中」のことではなく「花魁」そのもののことですが、前回「花魁」とは「その揚屋のトップクラスの遊女」と申しましたが、トップクラスと言う意味で「松の位の太夫」ともいいます。「松竹梅の松ですね。」時代劇でも時々出てくると思われる表現です。

質問とはまったく関係のないことでもないので、一言豆知識としてご紹介しました。
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その通りですね。



私も説明が不足しておりました。いろんなことを書きすぎて制限字数を超えると思ったので触れませんでしたが、確かにフィクションの世界でも「初会」では床入りしませんし、馴染みの、たとえば「お大尽様」になって以降の話ですね。

2回目は「裏を返す」と言うのですか。質問者ではありませんが、勉強になりましてありがとうございました。
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(4)についてだけ少し。


遊女はそう簡単に床入りしません。
たとえば私がある花魁を呼んだとすると、
一度目は「初会」といって飲んで遊ぶだけ。
二度目は「裏を返す」といって飲んで遊ぶだけ。
三度目に「馴染み」となり、床入りです。
昔の遊びはお金も手間もかかっていたのですね。
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ただいまの回答で「朋輩女郎(花魁)」と申しましたが、彼女たちが「揚屋」のお座敷に上がるのは、お客さんが団体の時です。



単独の時は、(多分ですが、)お客さんは「自分の贔屓の花魁一人」しか呼ばないでしょうから、勿論朋輩は付きません。花魁当人だって、余計な朋輩が同じ部屋に居たら焼きもちを焼いて、それこそ歌舞伎で有名な「愛想尽かし」をするんじゃないですか?

吉原ソープの「二輪車コース」なら別ですけど・・・。だってその場合は、お店の女の子も承知の上で朋輩ソープ嬢を呼ぶわけですからね。焼き餅は焼きません。やきもちを焼く子なら、最初から「二輪車コース」は担当しないはずです。

現在の吉原だってそうなのですから、「元祖吉原」は「一対一」なんじゃないでしょうか?
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はじめまして。

こういうことに興味を持つ方っていらっしゃるんですね。私も父の影響で子供の時から時代劇を見慣れていたり、その延長線で歌舞伎もみますので、史実上の正確さはともかく、あくまでも時代劇や歌舞伎から見た私なりの感想を申し上げたいと思います。ただ、史実の江戸風俗や大衆文化について大変お詳しい日本史マニアの方から、所々間違いを指摘される点もあろうかと存じますので、それをご承知の上でお聞きいただければと存じます。

そもそも「花魁」や「遊女」と言うものは「置き屋」に所属しており、「引手茶屋」でお客と待ち合わせをし、彼ら二人とそれに連なる禿衆や男衆・幇間(たいこ持ち)・朋輩女郎(または花魁)衆と共に「揚屋」に入って、宴や床入りをするものと私は理解しております。

従って質問とは違う順でお答えすることになりますが、(4)のご質問にある「引手茶屋」では宴会&床入はしないものと存じます。そこから「揚屋」に行ってからお客と楽しむわけですね。

今、NHKの朝ドラ『だんだん』では「京都の花街」が舞台になっておりますね?ご覧になってますか?これを見るとよく分かるし、台詞でも言っているのですが、「花むら」と言うお店(「おたな」です)は「置屋」と「お茶屋」を兼ねていますね。だから「花むら」の場合は、よその「置屋」から「茶屋」に芸舞妓を呼ばなくても賄えるわけですね?

しかし江戸時代の吉原では分業化されていました。「置屋」は今の芸能界でいえば「芸能プロダクション」みたいなものです。そして「引手茶屋」に当たるものがテレビ局などのマスコミ、そして「揚屋」に当たるものが「現場」と言うことになるでしょうか?

順不同になりますが、(1)のことについて申します。あくまでも歌舞伎の話です。「花魁や遊女」は「置屋」に所属していますが、置屋によっては花魁が一人しかいない所と、何人かいるところがいたのではないかと思います。それこそ現在の吉原のソープでも、看板娘が1人しかいない店と、お薦めコンパニオンが何人もいる店があるようなものでしょう。「高級遊女屋」と言うよりも、「その遊女屋(つまり揚屋)のトップの位にいる遊女」のことを「花魁」といいます。

(2)は私も分かりません。

(3)正しくは分かりませんが、いくら何でも毎日はしないのではないでしょうか?一回の道中で必要な金子(きんす)はさぞ高額だったと思います。そんな大枚を毎日のように「揚屋」だけが出せるとは思いません。もちろんご贔屓衆からの援助もあるでしょうが、毎日はどうでしょうね?経営的にも精神的にも無理なのではないでしょうか?
ただ、何か特別な時にはもちろん道中したでしょうね?

ちなみに、花魁のことを「傾城(けいせい)」と言います。
文字通り「城が傾くほど大金を払って貢がなければ遊べないトップクラスの遊女だからです」

私が答えられるのはこの程度です。
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