X JAPAN×HYDE!林檎×エレカシ宮本!今秋のまさかの共演9選

最近太平洋戦争での日本兵・軍属の戦死者がほぼ50万人と、中国本土での戦死者45万人と較べても突出して多いことを知りました。 なぜ、フィリピンでこれほど多くの日本兵が亡くなったのでしょうか? 南方での戦死者は、戦闘による死者よりも、病死・餓死が圧倒的に多かったと言う話は聞いたことがありますが、実際50万人も戦死した原因は何か教えてください。

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A 回答 (6件)

アメリカ軍の進攻の軍事上の価値が高い地域だからです。

しらみつぶしに攻撃したわけではありません。
 グアム、サイパンでは、アメリカはグアムは必要とせずグアムの死者が少ないのに、サイパンを必要としたのでサイパンでは多数の日本兵の死者がでています。
「バンザイクリフ」にいってきましたが、崖から飛び降りたのはどんな思いだったのかと暗然たる気持ちになりました。
 南硫黄島では、爆撃と艦砲射撃で守備隊は全滅しています。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2009/03/08 22:05

日本はフィリピンは主戦場とも 重要支配地域とも意識していません


そのため、米軍撤退後も 残兵の徹底排除を行いませんでした
米軍の残兵は、ゲリラ的な存在として フィリピンに残り
現地情勢を本国へ逐次連絡しています
(隠し畑も作って、自給自足で生活していたそうです)

日本軍は フィリピンでの戦闘が始まる直前まで、2戦級の
軍しか配備していませんでした
戦闘が始まりそうになって、あわてて軍を送ろうとしますが、
バシー海峡で輸送船を次々沈められてしまい、大きな被害を出します
既に優良な輸送船は沈められていたので、鈍足な船に劣悪な
条件で詰め込まれていたため、死亡率は非常に高かったようです
なぜそんな状況で輸送を続けたか・・・ 人を送る手配をしたら
役割が終わる 役人仕事も一因だったようです
そして、輸送船で生き残った人間も、装備を失って到着しますので、
武器も食料もない 名ばかりの軍が出来てしまいます

戦闘が始まると、正面戦力ははやばやと壊滅させられ、
現地人を味方につけた米軍に、食うや食わずの 武器も持たない
人間が 狩られる状況になります
ガダルカナルほどではないにしても、ジャングルは不毛な地な為
病死・餓死も続出します

フィリピン戦線の悲惨さも 日本の軍・官僚の無責任、無作為の
結果です
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 フィリピンにおける戦闘は、ニューギニアのそれと同じく投入兵力の大部が飢餓と疫病により斃れた戦場でした。

いわゆる「人肉食」の話が出てくるのも共通しています。概数として投入兵力約60万名うち戦病没者47万6800名、生存者ものちにBC戦犯に問われて多くが有罪となり、うち獄死・自決70名を出しました。

 その理由としては次の点が挙げられます。

(1) 米軍の総司令官マッカーサーは、ルソン島のみならず日本軍守備隊がいる大小の島々を徹底的に攻撃したこと。最も激しい戦いであったレイテ島だけで日本軍約8万名が戦没、このほかミンダナオ・セブ・パラワン・ネグロス・ボホール・ミンドロ・ホロなどの島嶼も戦場となりました。

(2) 日本陸海軍も捷号作戦を発令し、多数の部隊・艦隊を投入し決戦を挑んだこと。当時フィリピンは陸海軍の兵站基地でもあったため、海軍は艦船部隊約4万名、南西方面艦隊司令部・菲島海軍航空隊・施設部・軍需部など地上部隊約8万が展開していましたが、マニラ陸戦隊が玉砕したほか地上部隊の大部はジャングル内で餓死しました。

(3) (1)に関連しますが、日本軍はルソン島以外の各島々で孤立した戦いを強いられたほか、ルソンでも三つの集団に分断された戦いを強いられたため、軍全体の決戦が出来なかったこと。クラーク飛行場北部ピナツボ山岳に追い詰められた建武集団、マニラ東方イポ山岳にて抗戦を続けた振武集団は飢餓のため実に悲惨な最期を遂げました。

(4) 陸軍も一般地上部隊のほか、砲兵・戦車・航空・船舶などあらゆる種類の部隊を投入しましたが、それに比例して後方支援部隊も多数に上ったため、地上戦に巻き込まれると戦死する率も高かったこと。たとえば第4飛行師団は一見飛行機部隊のようですが、飛行場大隊24個、飛行場中隊10個、飛行場設定隊9個などからなる地上勤務師団で、飛行場大隊が約700名であったことだけでもいかに戦没者が多かったか理解できると思います。とくに建武集団は航空関係地上部隊からなっていました。

(5) フィリピンの人民が一般に反日的だったこと。その民意を反映して米軍の工作要員によるゲリラ部隊の活動が盛んで、日本軍は米軍来攻前から常に戦闘状態にあり、しかもかれらの小火器は日本軍よりも優れていたため、歩兵連隊長以下多くの戦死者を出していました。パナイ島では巡視中の軍司令官一行がゲリラの銃撃に遭うほどでした。

 

 



 
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戦死の定義を軍隊活動中の戦闘、病気(飢餓)による死亡であるとしてですが、軍隊の戦死者のほとんどは陸軍でしょう。

フィリピンでは特攻隊の戦死もありますが、全体との比較では人数は少数でしょう。中国本土での戦死者と比べて多いのは、フィリピンでは陸上戦が行われたが中国は陸上戦が始まる前に軍隊が撤退したためではないでしょうか。もし関東軍が満州でソ連に徹底抗戦していたら戦死者の数はもっと多くなっていたと思います。もっとも関東軍の兵士はシベリア抑留されてそこで死亡されたかたもいらっしゃいますが、最大で34万人とされる抑留中に亡くなられた方はは中国本土での戦死者45万人にはカウントされていないと思います。したがって本土に復員できずに死亡されたか方の数の統計ではフィリピンより中国のほうが多くなるかもしれません。
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先のお二人の方の通りだと思いますが、付け加えるとすればマッカーサーの執念、恨み晴らしもあったのではないでしょうか。

米軍側でフィリピンを決戦場に決定したのもマッカーサーの主張が大きく影響したと言われています。(フィリピンは一部進攻にし台湾占領を主とする案に対して)また武器弾薬食料が尽きたルソン以外の日本軍に対して、放っておいても消滅したであろう軍隊に対しても、米軍は兵力を増強して徹底的に攻撃、根絶やしにしています。これもマッカーサーの命令であり、米軍上層部の考えではなかったと言われています。
 日本軍の準備不足(3年間何も防衛準備をしていなっかたという意見)、現地軍はルソン持久戦構想を持っていたが、急にレイテ決戦構想を上級機関から命令され、輸送中の損失も含め一層武器弾薬食料が不足、マラリアを初めとする病気など悲惨を極めたようです。
 私はかなり長期フィリピンに住んだ経験がありますが、特に春は憂鬱でした。国民の休日がこの戦争で起きたことを起源にして設定されています。
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この回答へのお礼

屈折したマッカーサーの恨みによる仕返しで殺されたのでは、日本軍兵士も浮かばれませんが、16歳のフィリピン少女を寵愛していた、ロリコンのマッカーサーならあり得ることかもしれませんね。 回答有難うございました。

お礼日時:2009/03/08 22:13

1 フィリピンへの移動の際、乗船が撃沈され、部隊が大損害を受けた。


2 フィリピンで決戦を企図していたので、兵力を集中したため、戦死者が増えた。
3 アメリカ軍の大火力による直接的な被害と、それにより指揮系統が崩壊し、少人数単位あるいは個人単位で逃避する際に、住民やゲリラ、アメリカ軍との戦闘になり戦死した。

と言うところだと思います。
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この回答へのお礼

フィリピンは重要拠点と言うことで派遣兵士の数が多い上に米軍の攻撃が激しかったと言うことでしょうか。 回答有難うございました。

お礼日時:2009/03/08 22:04

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Q戦死者名簿は閲覧できるか。

祖父の兄の事について調べています。
過去帳をみると、昭和12年7月21日・45歳に亡くなったと書いてありました。

父はその人は戦死したと噂で聞いたといっていましたし、なんとなくその年代、死亡の歳からして戦死であろうと思っています。

厚労省、沖縄の平和の礎、靖国神社のどれかで戦死者の閲覧ができますでしょうか。

ちなみに、その祖父が亡くなった後、弟である祖父が当家を相続しております。
戸籍謄本を提示すれば閲覧も可能かと思います。

Aベストアンサー

地域によっては戦死された方の名簿は出版されたものがあります。
これは市町村または県単位で遺族会とか戦友会といった団体が作成したもので、戦死した場所や日付が簡単に記載されています。この程度の内容でよいなら捜してみる価値はあるでしょう。
一般に明治10年の西南戦争以降の戦死者が掲載されています。戦死された当時の住所地(市町村)から出版されているので、そこの図書館に尋ねてみるとよいでしょう。「忠魂録」「英名録」など色々な名前になっていますし、市史や町史に掲載されていることもあります。通常、普通の図書と同じ扱いなので閲覧に制限はないはずですし、貸し出しも可能かもしれません。

Qフィリピンのマニラ市街戦で市民の死者が10万人も出たとはどうしてですか?

第二次世界大戦中、フィリピンのマニラ市街戦での死者は日本軍1万6555人、米軍1010人、マニラ市民10万人だそうです。
どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。
この場合、アメリカ側に逃げればよいわけで、逃げ遅れたにしても10万人は多すぎます。(東京大空襲と同じ)
逃げることのできない理由があったのでしょうか?
スターリングラードの戦いの場合は、ソ連軍が市民が逃げることを禁じていたと記憶しています。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>フィリピンのマニラ市街戦で~どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
 
 まず、マニラ市民の死者は、1945年2月の市街戦だけで発生したのではありません。それ以前の44年9月21日から始まったアメリカ軍の空襲からすでに生じていました。

>普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。

 つぎに、さかのぼって42年の日本軍進攻の時にマッカーサーがオープンシティ宣言をしたため、日本軍は平和進駐を行いました。そのマッカーサーが今度はマニラを徹底的に破壊するなどとよもや市民たちは思いもよらなかったので、疎開しなかったのでした。
 
 さらに、マニラ防衛の日本軍は、陸海軍とも寄せ集めの兵と歩兵火器中心の武装でしたから、よもや頑強に抵抗するようにもみえなかったでしょう。当初日本軍も、一定の抵抗をしたのちに東部の山中へ退却する予定でしたから、一方から歯磨きのチューブのように押し出せばどちらの側にも多くの犠牲者が出なかった可能性があります。しかし、実際には米軍は包囲作戦を採ったため、日本軍の退路は限られてしまい、また、日本軍自ら橋梁を破壊してしまったため孤立化したので多くの市民を巻き込んでしまった、というのが実情でした。

 大岡昇平は『レイテ戦記・下』(中公文庫版)にこう記しています。

 彼(註・マッカーサー)はフィリピン解放を十分に果たした。~軍事的拠点の徹底的砲爆撃という戦闘方式の結果、フィリピン人は家を焼かれ、多くの非戦闘員が死傷した。~マニラは徹底的に破壊された。~ニミッツによれば、彼は自分の赴くところ、常に激戦地にならなければ気がすまなかった男だ。この処置には、日本軍に強要された形式的なものであるとはいえ、対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒の意味が含まれていよう。~そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった。破壊と放火はこれらの日本の部隊が行なったものだ、ということになっている。そのため実際には責任がなかった山下大将が、不法な手続きによって絞首刑になったのだが、これは実際は米軍の行なったマニラ破壊を日本軍に転嫁するするためであった。(同書308・309頁

 昨年8月、NHKBSで『ハイビジョン特集 証言記録 マニラ市街戦』という長編ドキュメンタリーが放映されましたが、この中で赤十字のマークを掲げた病院を米軍が爆撃して多くの市民が殺されたとか、米軍がガソリンを流し込んだため地下に潜んだ市民が焼き殺されたという生存者の証言でも明らかです。

 日本軍によるマニラ市民殺害について。基本的に軍事基地の所在をシビリアンが敵軍に通報するのはスパイ行為に当たり、これは処刑の対象となります。米軍のフィリピン攻略は、殆どのフィリピン人の協力があったので、マッカーサーは「これほど楽な戦いはない」といったそうですが、マニラにおいても、住民が日本兵の潜むのを見付けるとすぐに米軍に知らせ、すぐに猛烈な砲撃が始まり、日本兵は逃げ場もなく物陰に隠れるだけだった、と当時の日本陸戦隊将校が回想しています。(峰尾静彦「マニラ海軍防衛部隊の悲劇」による)

 さきに回答のなかに「日本軍がマニラ市民を攻撃した」という表現がありますが、陸戦隊将校の回想を見る限り、市街戦で圧倒されるなか、個別の例はあっても組織的な余裕はなかったようです。こういう追い詰められた状況にあって、日本兵は市民の誰もが通敵者に見えたというのも無理がない部分があります。しかし、それで市民殺害が正当化されるわけではありませんが。

 日本兵の戦死が約1万6千に対して米兵はわずかに千名。市民が10万名。その数字を見ると米軍に協力して日本兵に殺され、米軍の無差別攻撃に殺され、また何の関係もない無辜のマニラ市民がさまざまな理不尽な理由で殺された、というのが事実に近い、と思います。
 


 

>フィリピンのマニラ市街戦で~どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
 
 まず、マニラ市民の死者は、1945年2月の市街戦だけで発生したのではありません。それ以前の44年9月21日から始まったアメリカ軍の空襲からすでに生じていました。

>普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。

 つぎに、さかのぼって42年の日本軍進攻の時にマッカーサーがオープンシティ宣言をしたため、日本軍は平和進駐を行いました。そのマッカーサーが今度はマニラを徹底的に破...続きを読む

Q第二次世界大戦の日本兵の死亡率

あの戦争で何人の日本兵が戦地に赴き、そのうち何パーセントぐらいが帰還したのでしょうか。ご存知の方、宜しくご教授ください。
(出典も教えて頂ければ幸いです〉

Aベストアンサー

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3万1358人のおよそ三分の一であった。戦死・行方不明は合わせて2万1138人、そのうち戦闘で死亡した兵士は5000人ほどと推定され、残りの1万5000人以上が飢えと病に倒れたのであった。
 
 精神論だけで勝とうとする日本軍の指導者について以下のように記載してあります。
 >またアルビン・クックス教授は、このノモンハン事件(死傷率70%)の失敗が太平洋戦争でも繰り返されたもう一つの大きな点は、事件の指導者(辻正信、服部卓四郎)が責任も取らずに再び太平洋戦争も指揮したことにあるとしている。

インパール作戦でも半数は補給作戦もなく、飢えと病で死んでいます。NHK取材班「責任なき戦場 インパール」(角川文庫)

 
 

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3...続きを読む

Q太平洋戦争のフィリピン・マニラでの戦について

 ビデオ「名将たちの戦場13マッカーサー対山下大将」の中で次のことがいわれていました。

1.米軍がマニラに迫ったとき、山下奉文は部下を守り、かつマニラの大規模な破壊を防ぐため、機を見てすぐに撤退をするように命じた。しかし守備隊司令官は命にそむいて、2万名を率いてマニラに踏みとどまった。
2.その結果マニラは戦場となり、10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。
3.米軍は当初重要な建物の砲弾攻撃を避けていたが、立てこもる日本兵のためそれもかなわなくなり、最終的にはほとんどの建物が破壊された。

 上官の命令にそむくことは重大な軍規違反となるのに、何故あえてそむいたのでしょうか?
 日本兵がマニラ市民を虐待したの理由はなにでしょうか?市民がゲリラとなって立ち向かってきたのでしょうか。
 そもそもマニラ市民はどうして疎開しなかったのでしょう?戦いは1ケ月続いたので時間はあったはず。
 映像では建物を破壊しているのは米軍のように見えます。米軍によって殺害された市民も多かったのではないでしょうか?
 太平洋戦争、日中戦争でマニラに匹敵するような激しい市街戦が行われた場所はありますか?

 

 ビデオ「名将たちの戦場13マッカーサー対山下大将」の中で次のことがいわれていました。

1.米軍がマニラに迫ったとき、山下奉文は部下を守り、かつマニラの大規模な破壊を防ぐため、機を見てすぐに撤退をするように命じた。しかし守備隊司令官は命にそむいて、2万名を率いてマニラに踏みとどまった。
2.その結果マニラは戦場となり、10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。
3.米軍は当初重要な建物の砲弾攻撃を避けていたが、立てこもる日本兵のためそ...続きを読む

Aベストアンサー

それぞれの質問についてお答えします。

1.守備隊司令官は命にそむいたのは何故か
 
 人間だからです、質問者さんは、納得できなくても上司の命令ならば、絶対に従いますか?それに、この時期は戦争末期で軍隊の規律は、随分と乱れていました。守備隊司令官は撤退する事を潔しとしなかったのでしょう。

2.10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。

これは、正直、言ってアメリカ側の視点ですよね。何か問題が起きたときは、責任者(悪者)を決めなければなりません。当時の日本軍は補給も途絶え米軍とまともな戦闘ができる状態では、ありませんでした。日本軍は自分の命を守るのに精一杯で、とても市民の防衛にまで手が回らないというのが実情でした。実際は戦闘中に巻き添えを受けて被害を受けたというのが本当の事です。

3.最終的にはほとんどの建物が破壊された。

市街戦では当たり前の事です。現代のイラク戦争でも多くの建物が破壊されて、1年以上経った今でも、電気、水道が使えず信号も点かないという地域が多数あります。イラク人のせいですか?微妙ですよね

当時のマニラ(フィリピン)は日本が占領する前まではアメリカが統治していました。当時のアメリカは裕福で、厳しいのですが、自由でした。(お金持ちはお金持ちの事しか考えず、普通の人がお金持ちになるのは、今よりずっと奇跡でした。)物がある事が幸せとは限りませんが、物とお金を使い、フィリピンをそれまでとは、まったく違う国に変えてしまっていました。それをフィリピンの人は素直に受け入れて喜んでいました。
ところがいきなり戦争が始まり日本軍が乗り込んできました。貧乏国の日本はフィリピンに対して行ったのは、学校教育を日本式にして八紘一宇の精神を教え、日本風の神社を作り、戦争に必要な資源を得るため、本来フィリピンの風土に合わない作物を栽培させました。そうです、貧乏な日本は、物資は何も与えられませんでした。そのくせ徴用といって食料等を現地の人から、むりやり取り上げました。
この事が、アメリカ=豊かな生活、日本=カツアゲというイメージを与える事になりました。どうして疎開をしなかったのか当時の日本の占領軍はフィリピンに対する知識を殆ど持っていませんでした。(アメリカと戦争する事すらまともに考えては居ませんでした。日本の敵は中国とソ連だったのです。)ですのでまともな統治はできずに、恐らく疎開の支持も出来なかったのだと思います。

太平洋戦争、日中戦争でマニラに匹敵するような激しい市街戦が行われた場所はスターリングラードヤレニングラードにくらべれば遥かに規模は小さいのですが、中国の南京、上海、沖縄などでしょうか

それぞれの質問についてお答えします。

1.守備隊司令官は命にそむいたのは何故か
 
 人間だからです、質問者さんは、納得できなくても上司の命令ならば、絶対に従いますか?それに、この時期は戦争末期で軍隊の規律は、随分と乱れていました。守備隊司令官は撤退する事を潔しとしなかったのでしょう。

2.10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。

これは、正直、言ってアメリカ側の視点ですよね。何か問題が起きたときは、責任者(悪者)を決めなければな...続きを読む

Qアメリカに戦争で最も人的被害を与えた国はどこ?

少し前ですが、テレビ特番の「世界サミット たけしJAPAN 2009日本を考えるTV」にて
町山智浩氏が、アメリカが戦争によって最も人的被害(死傷者の数)を出した国は日本であると発言していたのですが、
これは本当なのでしょうか?

なんとなく、一番は第二次世界大戦でのドイツだと思っていたので、日本というのは少し意外でした。
実際のところはどうなのでしょうか。
(南北戦争が最も死者は多いとは思いますが、内戦なので回答はアメリカ以外の国でお願いします。)

ソース元なども含めて教えて頂ければ幸いですが、大体でも教えていただければありがたいです。

Aベストアンサー

おいみんな、「第二次大戦 戦死者」とか「欧州戦線 戦死者」と検索すりゃ一発で出てくるじゃないか。

欧州戦線における米軍の戦死者が約18万人、太平洋戦線における米軍の戦死者が約10万人、合わせて約29万人です。ただし、欧州戦線ではドイツ軍の他にイタリア軍だって(一応)いたわけですから単純に対ドイツ戦のみというわけではありませんが。
投入した物資の量となると、イギリスやソ連への武器貸与分を含めると圧倒的に欧州戦線となります。アメリカがどのくらいソ連を支援したのかというと、ソ連軍が使ったトラックの約9割がアメリカ製だったくらいです。アメリカがトラックや弾薬、燃料をソ連に送ったので、ソ連はほとんど戦車とか戦闘機だけ作っていれば良かったのです。そもそもアングロサクソン人国家であるアメリカにとって大西洋と太平洋では圧倒的に大西洋のほうが重要であり(ワシントンDCは東海岸であることをお忘れなく)、太平洋戦線なんて言葉は悪いですが片手間でやっていたようなものです。

どうしても私たちは日本人なので自分たちを買いかぶってしまいますが、そもそもアメリカは対ドイツ戦に勝利してから太平洋戦線で反撃しようと考えていました。けれど、(欧州戦線でメインの)陸軍が反撃しているのに(太平洋戦線でメインの)海軍は反撃しないのでは国民への体裁も悪いことから主に米海軍が強く主張して太平洋戦線でも反撃することにしました(あとは国民的人気が高かったマッカーサーも主に自分の体裁から強く主張した)。だから、1943年まで太平洋戦線に投入された主な地上部隊というのは海兵隊一個師団程度です。

おいみんな、「第二次大戦 戦死者」とか「欧州戦線 戦死者」と検索すりゃ一発で出てくるじゃないか。

欧州戦線における米軍の戦死者が約18万人、太平洋戦線における米軍の戦死者が約10万人、合わせて約29万人です。ただし、欧州戦線ではドイツ軍の他にイタリア軍だって(一応)いたわけですから単純に対ドイツ戦のみというわけではありませんが。
投入した物資の量となると、イギリスやソ連への武器貸与分を含めると圧倒的に欧州戦線となります。アメリカがどのくらいソ連を支援したのかというと、ソ連軍が...続きを読む

Q第二次大戦死者数。ドイツ人、フィリピン、沖縄。

「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

(1)これは旧厚生省の資料が一番参考になるのでしょうか。財団法人千鳥ヶ渕戦没者墓苑奉仕会ホームページとの違いは何なんでしょう。

(2)長年の疑問だったのでよろしくお願いします。ドイツ人は帝国臣民より多く死んでいたのですか。それが感覚的に納得できないものがあります。多くの日本人は、日本の特攻や空襲や原爆や兵たん不足による病死などの印象が強く、やたら死んでしまったと認識しているように思います。ドイツの方は日本軍よりははるかに弾薬等も充実しており、弾が尽きれば玉砕などせず、白旗を振っていたように思われます。それなのに死者がドイツ兵が350万人、日本兵130万人。ドイツ兵はどのような形でこんなに死んだのでしょうか。日本軍のように突撃して米軍の連発銃のマトになったり、集団自決したりしなかったと思います。ソ連軍にそんなに殺傷力があったのでしょうか。さっぱりイメージできません。
さらに日本人はシベリア抑留などを大きく取り上げますが、ドイツ人の強制移住による死者は約240万人とあります。桁違いです。どうして強制移住でこんなに死んだのでしょうか。
民間人の死傷者もドイツの方が多く、総死者数ではドイツは日本の2倍以上死んでいます。
これはユダヤ人虐殺の数が含まれているのでしょうか
ドイツ軍は日本軍よりも規模が大きかったのでしょうか。捕虜の数も死者数も多いのです。

(3)これも一般常識になっていないように思うのですが、フィリピンの犠牲者は非常に多いですよね。中国戦線についで2番目に多く、ほぼ同じ数だけ死んでいると言えますよね。フィリピンの方は非常に短期間にそれだけ死んだのですよね。ものすごく簡単に次々と死んだ事になると思います。非常に胸が締め付けられます。しかしながら、この情況も具体的にイメージできませんので、なぜそうなったのか、その様子を教えて下さい。ちなみに中国でもフィリピンでも約50万人死んだと把握しておいて宜しいでしょうか。

(4)これは意外なのですが、沖縄戦で米兵の死者・行方不明者は12,520人。結構死んでいますよね。どうやってこんなに死んだのでしょうか。同士撃ちでしょうか。日本側がどうやってそんなに殺せたのかイメージできません。

(5)データ上はドイツ人の方が悲惨だったように思いますが、実際ドイツは日本より悲惨だったのでしょうか。ナチスに対しては反省しているでしょうが、日本のような国民全体に戦争反対や大戦の悲劇化がないのではないでしょうか。

改めていい資料等ございましたら、ご紹介下さい。

以上、長くなりましたが、どうかよろしくお願いします。

「第二次世界大戦等の戦争犠牲者数」
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

(1)これは旧厚生省の資料が一番参考になるのでしょうか。財団法人千鳥ヶ渕戦没者墓苑奉仕会ホームページとの違いは何なんでしょう。

(2)長年の疑問だったのでよろしくお願いします。ドイツ人は帝国臣民より多く死んでいたのですか。それが感覚的に納得できないものがあります。多くの日本人は、日本の特攻や空襲や原爆や兵たん不足による病死などの印象が強く、やたら死んでしまったと認識しているように思います。ドイツの...続きを読む

Aベストアンサー

#2です。

ええっとね、どうもまだよく戦史をご存じないみたいだからいくつか書いてみますね。
まず太平洋戦線の有名な戦い、主に地上戦のものをあげてみましょうか。
タラワ島の戦いが、日本軍約5千で、米軍が1万6千。
ペリリュー島の戦いが、日本軍約1万で、米軍が約5万。
硫黄島の戦いが、日本軍約1万3千で、米軍が約11万。
大規模な戦いとなると、
サイパン島の戦いが、日本軍約3万で、米軍約6万6千。
フィリピンの戦いが、日本軍約30万で、米軍が約40万。
沖縄戦が、日本軍約12万で、米軍が55万です。

それに対して独ソ戦をあげてみましょう。
開戦のバルバロッサ作戦で、独軍は300万の兵力となっています。ソ連軍は信用できる資料が残っていないらしくよく分りません。
キエフ攻防戦では、ソ連軍は独軍に包囲されなんと65万人もの捕虜を出しています。秋口にはヴァジマ・ブリャンスクで50万人包囲されました。
モスクワ攻防戦が、独軍100万に対して、ソ連軍は125万か、それ以上。
スターリングラードの戦いにもなったブラウ作戦が、前回回答したように独軍130万で、ソ連軍はそれ以上。そのスターリングラードがソ連軍によって包囲されたのが、ウラヌス作戦でソ連軍は少なくとも114万以上。独軍にいたっては負け戦のせいもありどの程度の兵力か不明です。
独軍最後の大反撃、クルスク作戦が独軍80万、ソ連軍130万です。
ソ連軍の大反撃、バグラチオン作戦となると独軍85万に対してソ連軍は125万になります。
最後のベルリン攻防戦では、独軍は100万をなんとか集めますが、ソ連軍は200万を超える将兵が参加しています。

ソ連軍のすごさをイメージしたければ、昔のソ連の戦争映画を見るといいんですけどね。多分にデフォルメされていますけど、見渡す限りの大平原を戦車が埋め尽くす光景(CGナシ)はスケールありまっせ。とにかく独ソ戦は鋼鉄と鋼鉄の激しいぶつかり合いです。まさにヘビー級ボクシングの壮絶な打ち合いですね。

さて、そんな戦場で最も恐れられているのが臼砲も含む大砲です。臼砲と大砲による死傷者は全体の2/3にもなります。つまり大砲がいちばん怖いんですね。その後に軽機関銃がきます。空襲されるなら、爆弾による死傷もあります。つまりまあだいたい戦場の負傷か戦死は大砲か爆弾か軽機関銃によるものでほとんどだというわけです。
この砲撃の威力と技術の双方が第二次大戦参加国中最も優れていたのが米軍です。実はこれは独軍もかなわない。大砲も弾も質が良かったし、無線機を中心とした通信網が優れていました。観測兵の無線で臨機応変な砲撃ができたのです。
一方、最も貧弱だったのが我らが日本軍。砲も弾も質が悪く(同じ口径なら独ソ米の大砲に比べて射程距離が短い)、数も不十分で、しかも通信技術が遅れていたので効果的な支援砲撃ができませんでした。

だから日本軍が善戦したケースは、タラワやペリリュー、硫黄島のように要塞化されていた陣地に篭ったときでした。まあ戦国時代の昔から、篭城する相手に正面から攻撃するのは損害が多く出ますからね。
しかし篭城戦でも、水際防御戦術に固執したサイパン島の戦いでは戦艦の上陸支援砲撃に水際陣地がやられてしまい有効な戦いができませんでした。その戦訓を取り入れてペリリューでは戦艦が支援砲撃しづらいやや内陸に陣地を構えたので米軍は大変な出血を強いられました。沖縄戦でも、南部は要塞化されていた上内陸の戦いになり戦艦の支援砲撃を受けられなくなったので苦戦しました。

日本軍の病死者が多いのは、逃げられないのですから当たり前です。米軍の兵士が負傷したら、後送され応急手当を受け、重傷ならさらに後方の病院に送られて治療が受けられます。病気のときも同じで、後方の救護所で手当てを受けられますし、重病ならさらに後方に送られます。ついでに連合軍にはペニシリンもあります。
しかし島に立て篭もる日本軍では、負傷しても手持ちの薬が尽きたら終わりです。重傷だからといって後方の病院には送られない。病気も同じで、病気にかかったら極端な話自分で治すか死ぬかどちらかです。
フィリピンでは大軍を送ったものの、それを維持するだけの食料が確保できず、将兵は飢えと病気でばたばたと倒れていきました。
ガダルカナル島が飢島と呼ばれた話はご存知でしょうが、日本軍の上陸地点であったルンガ岬にはかなり食料があったそうです。しかし、それをジャングルの奥にいる前線に送る術がなかった。例えば前線とルンガ岬との中間に兵站基地を置いてそこに食料や弾薬を集め、そこから前線に配るというようなロジスティクスの思想もノウハウもなかったので食料が後方で山積みになった挙句に腐らせてしまっていたそうです。
先日の東関東大震災のときは、ヤマト運輸が素早く動き、全国各地から野放図に送られるボランティアの支援物資を速やかに拠点倉庫で中身を仕分けして、必要なところに必要なものが送れるように構築されたそうです。そもそもこのロジスティクスという考え方は第二次大戦中にアメリカによって開発されたものでした。

あと最後に空襲による民間人の死者は、日本が66万8千人、ドイツが59万3千人といわれています。家屋の損害はドイツが25万5千に対して日本は225万となっています。ただし、家屋の損害はダントツトップがやはりソ連で、最も控えめな数字でも300万を超える家屋が損害を受け、民間人の死者は1700万人かそれ以上(日本は67万、ドイツ245万。ところでソ連にはまともな統計がないので損害はすべて推測となっています)となっています。ちなみに民間人の死者が最も多いのは実はソ連ではなくて中国だそうです。2000万人を超えるともいわれていますね。

#2です。

ええっとね、どうもまだよく戦史をご存じないみたいだからいくつか書いてみますね。
まず太平洋戦線の有名な戦い、主に地上戦のものをあげてみましょうか。
タラワ島の戦いが、日本軍約5千で、米軍が1万6千。
ペリリュー島の戦いが、日本軍約1万で、米軍が約5万。
硫黄島の戦いが、日本軍約1万3千で、米軍が約11万。
大規模な戦いとなると、
サイパン島の戦いが、日本軍約3万で、米軍約6万6千。
フィリピンの戦いが、日本軍約30万で、米軍が約40万。
沖縄戦が、日本軍約12万で、米軍が55万です。

それ...続きを読む

Q第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由は?

先日、池上彰さんのテレビ番組で「第2次世界大戦のソ連の戦死者は2000万人を超えている」「その恐怖からスターリンは、隣国を共産国にした」ということを知りました。

日本の太平洋戦争での戦死者は300万人くらいと聞いてますが、日本の戦死者と単純に比較できるのかどうかわからないのですが、日本の7倍の戦死者の数には、とても驚きました。

第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭...続きを読む

Q旧日本軍は、フィリピンでも住民を大虐殺したのですか?教科書に載っていません。

高校生です。
よろしくお願いします。


先日、NHKのニュースを見ていたら「今から70年前の今日は、旧日本軍とアメリカ軍によってフィリピンで行われた市街戦が終結した日です」という内容を放送していました。

NHKのナレーションで「日本軍は現地住民を体育館に集め、手榴弾で虐殺しました」と言っていました。

また、日本軍の悪行を旧日本兵から直接聞き取り調査している団体の人物が出てきて、その人が旧日本兵のおじいさんを取材している様子がありました。

その団体の人物は、旧日本兵の人がフィリピンの人達へ謝罪する映像を記録し、その映像をフィリピンで現地の子供たちに見せていました。

少ししか映像が流れなかったので、詳しくわからないのですが、「日本軍がフィリピンの人達に本当に酷い事をした。本当に申し訳なかった。」という感じの内容でした。

それを見たフィリピンの子供たちに対して、取材陣が感想を聞いていましたが、「日本人はフィリピン人に対して、そんな酷い事をしたんですね。今まで知らなかったです。」のようなコメントでした。

わたしは、フィリピンで旧日本軍が住民を大虐殺した歴史を知りませんでした。
学校でも習っていませんでした。

ニュースの内容的には「日本軍がフィリピンを侵略して酷い事をしていた。しかし日本の戦局が悪化し、ついにアメリカ軍がフィリピンを助けに来た。その時に日本軍は住民を大虐殺した。日本人はフィリピン人にも謝罪していかなければならない。」というイメージの内容でした。
アメリカ軍に付いては一切触れていませんでした。

公共放送局であるNHKのニュースが報道しているのだから事実ですよね?

でも学校で「日本軍はフィリピンで現地住民を虐殺しました」なんて事は習いませんでした。
教科書にも載っていなかったと思います。

かなり前の事ですが、日本と台湾の間に起きた戦争「日台戦争」という話題をNHKでやっていました。
こんな戦争も学校で習ったことがないです。


なぜ、日本の歴史教科書には日本に不利になる内容が削除されているのでしょうか?

NHKの報道や番組で、旧日本軍がアジア各国で行った蛮行を初めて知るケースが多いです。

NHKが報道してくれなかったら、日本軍がアジア諸国に対し、どれだけ酷い事をしてきたのかを知る事が出来なかったです。

NHKのニュースや番組で日本軍の蛮行を知るたびに、日本人であることに誇りが持てなく無くなってきました・・・。

高校生です。
よろしくお願いします。


先日、NHKのニュースを見ていたら「今から70年前の今日は、旧日本軍とアメリカ軍によってフィリピンで行われた市街戦が終結した日です」という内容を放送していました。

NHKのナレーションで「日本軍は現地住民を体育館に集め、手榴弾で虐殺しました」と言っていました。

また、日本軍の悪行を旧日本兵から直接聞き取り調査している団体の人物が出てきて、その人が旧日本兵のおじいさんを取材している様子がありました。

その団体の人物は、旧日本兵の人が...続きを読む

Aベストアンサー

■乙未戦争(いつびせ戦争)※日台戦争
日清戦争の残敵掃討戦であるため、日本政府はこの戦闘を日清戦争の一部としています。
当然、わざわざ歴史教育で取り上げる内容でもありませんが補足します。
教えていないということですが、中学以上の歴史授業で教えていますし、許可書に記載されています。
なので認識不足でしょう。

■マニラの戦い 1945年
これは、日本軍が虐殺云々以前に、アメリカ軍指導で、マニラの70万人という市民がゲリラ化して、日本軍と戦闘した死者数が10万人という話です。
虐殺ではなく”戦死者週”です。

話を戻しますが、そもそも下関条約を守らない清の残存勢力が日本軍に襲撃したのが乙未戦争であり、台湾に独自の国があったわけではありません。
ただのテロ組織との戦いです。
いちいち歴史授業で教えることでもないと思います。

日本軍の手榴弾で~のくだりも、NHKのいつもの偏向報道です。
ま~事実ではありますが、全体像ではない一部分です。
そこだけ取り上げればそうともいえなくもないレベルですが、虐殺は大げさだと思われます。
もちろんNHKは中国でも放送されるので、無駄な配慮というやつですね。

あなたが日本軍悪い悪いいうのは自由ですが、それだと白人植民地のままの方が良かったとでも言いたいのでしょうか?









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■乙未戦争(いつびせ戦争)※日台戦争
日清戦争の残敵掃討戦であるため、日本政府はこの戦闘を日清戦争の一部としています。
当然、わざわざ歴史教育で取り上げる内容でもありませんが補足します。
教えていないということですが、中学以上の歴史授業で教えていますし、許可書に記載されています。
なので認識不足でしょう。

■マニラの戦い 1945年
これは、日本軍が虐殺云々以前に、アメリカ軍指導で、マニラの70万人という市民がゲリラ化して、日本軍と戦闘した死者数が10万人という話です。
虐殺ではな...続きを読む

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。


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