誰もが、個有のアイデンティティを持っています。
これらは、かなり決定的恒常的なものです。
ところが、役者は同じ顔をしていくつもの性格、人間性を演じますよね。言い換えれば、外見は同じなのに、中身を入れ替えることができる。これってかなりすごいことではないでしょうか。人間的運命に対する脱却といっても過言ではないのではないでしょうか?
もちろん、役者はその人間本来の人間性があって、職業上違うところに飛び立つというだけですけれども、それを地でやろうと思えばできるわけです。
このことをもっと一般人が試みてもいいのではないか、あるいは流行現象とか、カルチャーとして
「違う人間を演じてみよう」
「あなたの存在から脱却してもみよう」
というような分野があってもいいのではないでしょうか?

なぜ、人それぞれの「固有性」から脱却しようという試みはあまり省みられないのでしょうか?それはいわば、一種の自由を獲得することではないでしょうか?

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A 回答 (18件中1~10件)

>人間的運命に対する脱却といっても過言ではないのではないでしょうか?



確かに、演じたり、なりきったりしているかもしれません、しかし、それが出来るのは、それが、始まりと終わりが決まり、自分の役割も決まっているから出来ることだと思います。
と言う事は、別に脱却はしていないと思いますよ。
まあ、本来の人格からは、脱却していますけど。




>というような分野があってもいいのではないでしょうか?

あっても、いいと思いますが、それなりに色んな問題も多いと思いす。
何事も、上手く出来る人間と、出来ない人間がいるし、良い方向に、活かせる人間ばかりではないからです。
それなりの、準備や管理が必要だと思います。



>なぜ、人それぞれの「固有性」から脱却しようという試みはあまり省みられないのでしょうか?

そう言う風に考えていない人の方が、世の中、大多数だからだと思うのですが・・・・・・。
だって、他の事急がしでしょ。仕事の事とか、恋愛の事とか、趣味の事とか、その他もろもろ。
普通の人はそう言った事の、考え事を優先させるもんでしょ。




>それはいわば、一種の自由を獲得することではないでしょうか?

確かに、そうですが・・・・・・・。
同時に、危険な事であるとも思います。色んな意味で。
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この回答へのお礼

一時的であれ、仮の姿であれ、映像として脱却している姿が定着され、人々にあああのような性格だと認知される、それはすごいことだとい感じます。それがちょっとでもできているかということは、人間的成長に大きくかかわりませんかね。
考える優先順位が、自分を脱却するなんていう困難な、しかも液が少ないことを選ばないということなんじゃないでしょうか。それがどんなに「哲学的」であろうと。

しかし、危険ってどういうことなのでしょう。あまりピンと来ませんね。

お礼日時:2009/03/24 09:30

 No.14


 ★《自己を飾り立てようとも思わないし、演じようと尾も思っていないので、地が常に出ている状態で生きています。》
 回答欄等後者: 誰も普通は意識しないで自分で居るのでしょう。これが仰せの、「自己を飾り立てようとも思わないし、演じようと尾も思っていないので、地が常に出ている状態で生きています。」ではないですか。みんな意識的に自分などではありえないでしょう。
 きわめて当たり前のことですね。質問者さんだけではありません。
 意識している自分、自分を意識する、自分や意識を知覚する。
 それが出来るのは創造者(究極根源者、究極意識存在)だけでしょう。
 抜けるとかのことをそこらから、ご研究されたらいかがでしょうか。
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 回答番号:No.14


 懐疑論というお言葉ですが、私たちは、日常経験している内容やその中で認知している、或いは知覚している事件や物象を、時として自分と思っていますが、これは自分ではない。自分っていうものを問い続けると、日常では自分として居るものは経験作業や経験内容でしかなく、経験主格ではない。ということに気づきませんか。このことを申し上げただけで、懐疑論などでは全くありません。
 或いは質問者さんか私か、どちらかが伝統的なタームとしての懐疑論ということばの理解と使い方を逸脱しているのかもしれません。
 私は何も疑い、存在に疑問を持っては居ないのです。
 伝統的タームについての、私の理解に間違いがあればご指摘ください。
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この回答へのお礼

経験主格ではないとのお考えはよくわかったつもりです。その相対的自己の中にも日常的な性質があり、これに慣れ親しんでいるから、あたかも主格と呼んで差し支えない気がするのです

お礼日時:2009/03/26 18:24

「>固有性」がすでに社会に(たとえ細いものであっても)根を張っていて、脱却することによって存在が社会的に宙に浮いてしまう、と感じるからかもしれません。


たしかに自由ではありますが、再び安全に着地できるだろうか、という不安が伴なうからではないでしょうか。
役者さんの場合は、地面から伸びた命綱にしっかり体を結びつけた状態で演技するわけですから「>脱却」も不安ではなくなるのでしょう。
 
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この回答へのお礼

そうですね。
命綱があるのとないのとではずいぶん違います。
プロフェッショナルにはそういう土壌があるのでしょうかね。
ある、役割分担性格分担というのが、社会のほうも期待していて、その期待に沿わないことを行うことの抵抗感、あるいは実際やったときのアンチ反応が、逸脱することを抑えるのでしょう。

お礼日時:2009/03/25 07:37

No9kaitara1ですが、自己というのはフィクションですから常に塗りなおしというか立て直死というか絶え間ない修復が必要ではないかと思っています。

肩肘を張るというより、そうしていないと容易にくずれ去ってしまうのではないかという心配からです。そういう意味で職業としての俳優の意味と普通の個人における意味とは異なると思います。実際に昨日の自分と今日の自分なことなっていることを実感したら、それは恐ろしいことではないでしょうか。昨日まで頼りにしていた物すべてが失われますから、とても耐えられることではないだろうと想像します。
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この回答へのお礼

一生、独自性と付き合って逃れられないほうが耐えられないような気がするんですけどね、もちろん、気楽に考えればそれはそれでいいし、対人関係上都合もいいでしょう。でも、哲学的に運命的悲劇を引き受けて甘受していしまっている。そこから出てみましょうという試みです。
でも、自己がフィクションだとは私の感覚からはあまりないのです。そのまま地を演じていればそれが自己そのものだと思うからです。

お礼日時:2009/03/24 17:37

 回答番号:No.13さんの、役と自分性というお話は私たちヒンドゥの勉強と精進のものに示唆的です。


 芝居の役や多重的生き方、人格でないとしても私たちが自分だとしているものは、意識内容、行為や知覚の経験内容でしかりませんから。
 それを以って主格たる自分と思うと悲劇でもあり喜劇でもありましょう。
 本当の主格はそういう経験内容ではないわけですね。
 それは主格ですから経験としての内容の中で知覚いや弁証、論証の認識も、物証認識もできませんね。無論物象認識もできませんね。
 そういうことのご実感であると、かみ締めることが出来るわけです。
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この回答へのお礼

哲学的に考えると、そういう徹底的な懐疑論におちいるのかもしれないですね。私の思考は浅いので、しかも結構素直に生きている人間なので、自己を飾り立てようとも思わないし、演じようと尾も思っていないので、地が常に出ている状態で生きています。そうすると、ここから抜けられないことの悲劇性とかつまらなさ、凡庸性をどうしても意識しますね。

お礼日時:2009/03/24 17:40

garcon2000さん、こんにちは。


実は、ぼくはアマチュアですけれども役者をしているので、その感覚から再度回答させていただきますね。

もちろん、役の性格・人間性というのは、外からきたものなんですけれども、役者としてある役を演じていると、ではそれと対峙するものとして「固有のアイデンティティ」というものを自分が持っているのか、という事自体が実は揺らいでくる…という感覚があります。

つまり、芝居が終って楽屋にいる時が素か、というと、やはり役者仲間の視線に対して演じている自分がある訳ですし、では、ひとりきりで夜部屋にいる自分が素か、というと、それはそれで「誰とも関わっていない」時の自分の在り方が、固有の、根源的なものだと言えるか、という問題がある訳です。(後者は前の投稿で「怒りっぽい人」のたとえでお話した問題ですね)

ぼくの感覚では、役者に限らず大抵の人には固有のアイデンティティというのはむしろなくて、その場その時の「役割」を演じている、という方がイメージに近いです。

もう少しわかりやすい例で説明しますね。
たとえば、良妻賢母である主婦でありながら、週に一日だけ、妖艶な女として水商売をしている女性がいるとします。
こういう時、「本当は良妻賢母なのだが、仮面の女を演じて息抜きをしている。」とか、「本当は奔放な性格なのだが、日常は良妻賢母を演じている」とか、考えたくなりますが、どちらかが本当でどちらかが仮面という考え方には、あまり意味がないという事です。
どちらも、その場その時に置かれた場合のその女性の姿である事には変りがないからです。この二つのキャラクターに優劣はありません。

そういう意味では、人間存在というのは、常に脱却…というか、恒常性や確からしさといったものから、逸脱している存在なのかもしれないと思います。
garcon2000さんのご感覚は「そういうイメージなんだろうなあ」と、理解できるのですが、実際には、もう少し状況は悲劇的だということですね。
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この回答へのお礼

私の感覚とは違うんですよね。
私のは、個別のアイデンティティが恒常的にあると言う感じです。週一度の水商売の自分もない。怒りっぽい人なのかそうでないのかは、怒りが起こる場面に会う前からわかっています。大体ですけどね。自覚している自己と実際上の創意はほとんどありません。というか、経験から自覚している自己が来ているから。ほとんど、根源的といってもいい状態ですね。その「根源性」が、回答者さんのおっしゃることと違って、かえって悲劇的です。なぜなら、その中に捉えられてしまっている。

ですので、回答者さんのおっしゃる、自己というもののうつろいがあるとしたら、それは返って希望的状況ですね。

お礼日時:2009/03/24 17:45

 回答番号:No.11


 役者、自分でないものになってみる。
 そう。それは勉強になるかもしれませんね。
 普段、執着し、しがみつき、何より大事にしている自分を出てみる。
 これが、みなさんや回答番号:No.11で列挙している方法ですよね。
 要するに、しがみついている自分、現象としての自分、単なる経験内容として知覚している自分、主格ならざる自分。
 これを出てみる。その出方のことですね。
 役者も、いろんなさらけ出しも、いろいろありますが、その一つが仰せのロール・プレーということですね。そういうセラピーも研究と実践がなされていますよ。
 座禅などもそうなんでしょうね。私たちの行もこの禅に類似はしておりますが。
 まぁ役者もいろいろいますが、研究熱心な方はすばらしい人が多いですね。
 そういうひとは、得ている果実についても、自分のえらさも殊更には口にしませんが。
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 何か成りきることにご関心があるようなご質問とも受け取れますね。


 啓発セミナーやロール・セラピーなども例でのご回答もありますね。
 後、付加するとすれば、シャーマンや踊る宗教や、一定の勤行での成りきりでしょうか。
 いろんな人格を分析し、成りきる役者は人のこともよく理解しているのでしょうか。多分そうでしょう。
 どなたか、自分を全うするのも大変なことだよ、とご回答されております。
 その全うや自分性の理解や把握にも、一旦自分を出るとか、他人になる、ということは効果的でしょうね。
 私たちの行では、他人にもならず、シャーマン的にもならず、何かに夢中に成り切る事もしないで、自分とこの世界を出ることをしています。
 いろんなふうにして、普段の自分を出る遣り方があるのですね。
 そうやって、自分を知り、変革し、全うしていくのでしょうね。
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この回答へのお礼

「他人になってみる」ことで、自分をよりよく知れるのは確かです。それだからこそ、いろんなロールを演じることはすばらしい。人にみになってみる、あるいはなってみる試みをすることは、人間関係においても非常に重要なことです。人間的成長を促します。

お礼日時:2009/03/24 09:47

>なぜ、人それぞれの「固有性」から脱却しようという試みはあまり省みられないのでしょうか?



私にある固有性(個性、パーソナリティも含めたキャラクター)は精神的なものより肉体的な性別、体形、体臭、声、動作にあるものと思います。

なぜかというと、太古の昔の集落では価値観の相違というものがあまりなく、社会性如何の人格より、同類として全人格的に受け入れられる可能性が高かったからです。そう認識する遺伝子は今も引き継がれていて(動物フェチとか特殊な嗜好の方には当てはまらないが)固有性はあくまで実体のある私にあると思います。

しかし、脱却は常々見られます。人間は衣装や装飾品を纏い、衣装にまで性別が生まれますが、それも異性を惹きつけるための手段です。ところが手段が目的に逆転することもあって、俗にいう「形から入る」ことで役柄変更の区切りになり、役割認識を持ちやすくなって、衣装と場の影響でありのままの私もいろいろなドラマで成り切って演じます(笑)

あるときはいい人、またあるときは悪い女(?)通行人、従業員、等など。
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この回答へのお礼

確かに「肉体的」が一義的かもしれませんね。
いくら役者が七変化の人間性を演じたとしても、その土台になっている彼固有の肉体的条件は変わらない(アレルギー体質が、役によって出たり出なかったりはしない)です。もちろん、その前提はありますが、一方でそれこそが運命的宿命だとしたら、うまく演じれば人間性を変えるということで、少し、トータルで考えた固有性を動かす、そして、運命に挑戦するという、涙ぐましい努力ができるのだと思いますね。

つまりそんなことができるのは、才能と訓練を経たプロしかできないわけで、それだからこそ、常人ではない役者の存在感があるのでしょう。

それは、社会的儀式性の分担とはちょっと違った、自力的に獲得する「アート」なのではないかと。

お礼日時:2009/03/24 09:45

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こんにちは。

>そこで気になったのですが人間の臓器にはどれほどの価値があるのでしょうか?

↓参考動画をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=QFPzyzV-4SM

>また人間は臓器を抜かれても生存可能なのでしょうか?

生存可能な臓器もあるし、生存できない臓器もあります。
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そうして神は大きな海の巨獣と動き回るあらゆる生きた魂,すなわち水がその種類にしたがって群がり出させるもの,また翼のあるあらゆる飛ぶ生き物をその種類にしたがって創造してゆかれた。・・・ 次いで神は言われた,「地は生きた魂をその種類にしたがい,家畜と動く生き物と地の野獣をその種類にしたがって出すように」。するとそのようになった。そして神は,地の野獣をその種類にしたがい,家畜をその種類にしたがい,地面のあらゆる動く生き物をその種類にしたがって造ってゆかれた。そして神はそれを良いとご覧になった。-1章21~25。

 次いで神は言われた,「さあ,わたしは,全地の表にあって種を結ぶすべての草木と,種を結ぶ木の実のあるあらゆる木をあなた方に与えた。あなた方のためにそれが食物となるように。そして,地のあらゆる野獣と,天のあらゆる飛ぶ生き物と,地の上を動き,その内に魂としての命を持つすべてのものに,あらゆる緑の草木を食物として与えた」。そしてそのようになった。-1章29、30。

  ~この後、アダムとエバが楽園から追放され、地が暴虐で満ち、ノアの時代の洪水、その後~

 次いで神はノアとその息子たちを祝福してこう言われた。「子を生んで多くなり,地に満ちよ。そして,あなた方に対する恐れ,またあなた方に対するおののきは,地のあらゆる生き物と天のあらゆる飛ぶ生き物,地面を動くあらゆるもの,また海のすべての魚に引き続きとどまるであろう。それらは今あなた方の手に与えられる。生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。-9章1~4。

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ラットの食餌から推察すれば#3の方の仰るとおりに消化器系の違いも指摘できます。

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「標準的な人間像というのは個性的な人間を排除するためのものではなく、その個性を理解するために使う道具だ」

○ まあ、人間も松竹梅、それ以外で例えると、梅が9割ですから梅が松と竹、それ以外を見てどう思うかですね。松や竹は秀でてると見るのでしょうから目標や嫉妬の対象ですね。さてそれ以外については理解できますかね。
例えば、漫画の妖怪の世界の住人、宇宙人、幽霊、こんなの本当にいるのですね。これは漫画程度の知識なら笑い話で済むでしょうが、実は存在してますと現れたら梅人間は理解できますかね。こし抜かして逃げるだけでしょうね。
標準的な梅人間の人間像はそれほど軟弱で間違った知識に汚染されているという意味でしかないのですね。特級松人間がそれを教えても戯言にしかきこえないでしょう。そこでいろいろな個性的変わり者を少し標準的な人間のなかに投げ入れて混乱を起こすわけですね。羊の群れに狼を入れてみるわけです。羊も多いですから狼の一匹や二匹では群れはびくともしませんね。ほとんどの羊は無視しますね。一部の羊は興味をもって観察し、一部は持ちすぎて食べられてしまう。というのが大枠の動きですね。
さて本題の質問は、一部の羊は興味をもって観察する。にあたる部分でしょうか。
ということで羊が狼を観察しても理解までは無理ですね。つまり、梅が理解できるのは梅しかないのですね。また観察できるその他は、狼ぐらいしかいないといいたいのですよ。たけしとかお笑い芸人、詐欺師ぐらいかな。梅が松や竹になりたいのなら先ず何が自身を梅にしているかを知る努力が必要ですね。そういう意味では命題も意味があるのでしょうね。

「標準的な人間像というのは個性的な人間を排除するためのものではなく、その個性を理解するために使う道具だ」

○ まあ、人間も松竹梅、それ以外で例えると、梅が9割ですから梅が松と竹、それ以外を見てどう思うかですね。松や竹は秀でてると見るのでしょうから目標や嫉妬の対象ですね。さてそれ以外については理解できますかね。
例えば、漫画の妖怪の世界の住人、宇宙人、幽霊、こんなの本当にいるのですね。これは漫画程度の知識なら笑い話で済むでしょうが、実は存在してますと現れたら梅人間は理解できま...続きを読む

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参考までに。
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人間の社交本能も、

その根本は何も直接的な本能ではない。

つまり、社交を愛するからではなく、

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サークルもバイトも夢のためにやっているのなら全然すばらしいことですが孤独を恐れて友達と群れたりサークルにはいったりしてしまう。やはり、孤独と向き合うのはとても困難のことなのですか?
それとも社交的になることのほうが困難なのですか?
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夏目漱石や、ゴッホなどなど。
僕自身、辛いことから避けたくなるのは人間だとおもいます。今の時代は基本的に電動化した時代なので、孤独と十分向き合えるチャンスだと僕はおもっています。みなさんの感想をきかせてください
ちなみに高校まで野球をやっていました。連帯の世界で生きてきてとても楽です。しかしひとりはつらいです。
でも、連帯の世界にいると群れると大事なものをなくしてしまうきがします

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孤独の世界も通常の世界ですよ。社会人になっても一匹狼のひとってかなり多いです。
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恥ずかしながら私は政治には興味がない人間なのですが、臓器移植法A案可決には知りたいことがいくつかあります。

1)A案からD案まであったみたいですがどういう内容の案だったのか。
2)なぜ「脳死=死」と「臓器移植」は一つの案になってるんでしょうか?

無知な私は単純に「臓器移植」だけを可決すればいいのに、と思いそれからこの事を詳しく知りたいと思うようになりました。

わかる方教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

1)A案
脳死は人の「死」とする。本人に拒否の意思がなく家族が同意すれば移植可。臓器提供者は年齢0才から。
B案
本人に臓器移植の意思がある場合のみ脳死を死とする。移植には本人の意思表示と家族の同意が必要。臓器提供者は12歳以上。
C案
本人に臓器移植の意思がある場合のみ脳死を死とする。脳死判定を厳格化する。移植には本人の意思表示と家族の同意が必要。臓器提供者は15歳以上。
D案
本人に臓器移植の意思がある場合のみ脳死を死とする。15歳以上の移植には本人の意思表示と家族の同意が必要。15才未満では家族の同意と第三者期間の確認が必要。臓器提供者は0歳以上。
2)については#1様の回答の通りでしょう。
付け加えれば、「脳死」になると脳の機能が完全に停止するので、自発的な呼吸ができず、心停止する。そこで人工呼吸器で生命を維持する状態になる。脳死になっても「心臓がドキンドキンと打って・・」といってもそれは機械的に生かしているだけの状態と言えるのではないか。さすれば、それは人間として「生きている」といえるのだろうか。その状態ではもはや「死んでいる」のではないか。ということです。

1)A案
脳死は人の「死」とする。本人に拒否の意思がなく家族が同意すれば移植可。臓器提供者は年齢0才から。
B案
本人に臓器移植の意思がある場合のみ脳死を死とする。移植には本人の意思表示と家族の同意が必要。臓器提供者は12歳以上。
C案
本人に臓器移植の意思がある場合のみ脳死を死とする。脳死判定を厳格化する。移植には本人の意思表示と家族の同意が必要。臓器提供者は15歳以上。
D案
本人に臓器移植の意思がある場合のみ脳死を死とする。15歳以上の移植には本人の意思表示と家族の同意が必要。15...続きを読む

Q人間は「言葉」を獲得したのだが、もしそれがなくて違う伝達方法であったら?

人間が人間であるための条件として、「社会性」と言うものが真っ先に来るかと思います。集団的秩序を作ることによって、生物的な弱点を補って余りあってここまできた。
そのための媒介物が「言葉」であろうと思います。
しかし、「言葉」ってなんでしょうか?それは分解してみれば、発音音声の集合体、物理現象です。動物の鳴き声と同じです。この人間に備わった固有の発音器官と聴覚器官によって、「意味」というものを伝達しようと言うことを発見したわけです。「意味」が物理的音声によって伝達できることを発見しました。それが言葉の起こりではないでしょうか?

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仮に、人間の音声器官聴覚器官がこれほど器用でなかったらどうなのでしょうか?そのかわり体から光を発して船舶の伝達信号のようにコミュニケートしたら?臭気を発してそれを言葉に代えたら?あるいは皮膚の味を変化させて舐めあって情報伝達をしたら?どれもうまくいかないでしょうか?おそらくだめじゃないでしょうか。発音器官を用いた聴覚伝達が一番適していたのです。人間の活動範囲をすべてカバーする材料をこの方法は持っているのです。光通信では音声通信よりはるかに原始的な情報しかやり取りできないと思う。

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人間が人間であるための条件として、「社会性」と言うものが真っ先に来るかと思います。集団的秩序を作ることによって、生物的な弱点を補って余りあってここまできた。
そのための媒介物が「言葉」であろうと思います。
しかし、「言葉」ってなんでしょうか?それは分解してみれば、発音音声の集合体、物理現象です。動物の鳴き声と同じです。この人間に備わった固有の発音器官と聴覚器官によって、「意味」というものを伝達しようと言うことを発見したわけです。「意味」が物理的音声によって伝達できることを...続きを読む

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中国で死刑囚の臓器移植をやめるよう警告している某人権団体は死刑制度そのものにも反対しています。10年前、そして少し前にも日本の死刑執行に抗議しています。
質問です。

臓器移植を待つ善良なる一般市民の治療の機会

凶悪犯罪者の人権

はどちらが大切ですか?
ネットでは死刑制度に賛同するときは臓器提供や身体刑を支持する人間が多いのに中国の話が出ると一転して人道云々おっしゃる方が多いのでどちらが本音なのか一貫した考えを知りたいです。
日本で法律改正して死刑囚からの臓器提供を認めるべきか否か教えてください。

Aベストアンサー

死刑についてですが、文化の違いによって考え方も違ってきます。
古代の中国では、髪の毛を斬る刑罰は、四肢切断と同等の酷刑とされていました。儒教の理論によると、髪の毛は親より授けられたもので、大事にしなければならないからです。つまり、その文化の中で一番大事だと考えられているものを罰として奪うことは、刑罰の基本的発想です。
西洋では、自由を命より大事なものと考えているので、自由を奪うだけで十分だとされています。しかし、中国などの東洋の国では、伝統的に命を一番大事としてきたので、罪を犯した者に対して、命を奪う刑罰を科するのは当然だと思う人のほうが多いようです。
しかし現代では、国々の間の文化交流によって、西洋的な考え方に賛成する東洋人もできてきて、中国や日本で死刑廃止を提唱する人も現れてきました。
でも、法律は、国の根本的な文化と一致しなければならないと思います。大部分の国民が死刑が正当だと考える限り、廃止するわけにはいけません。
死刑囚の臓器移植についてですが、人を救えるから反対はしませんが、やはりその死刑囚本人も同意したほうがよいではないかと思います。

死刑についてですが、文化の違いによって考え方も違ってきます。
古代の中国では、髪の毛を斬る刑罰は、四肢切断と同等の酷刑とされていました。儒教の理論によると、髪の毛は親より授けられたもので、大事にしなければならないからです。つまり、その文化の中で一番大事だと考えられているものを罰として奪うことは、刑罰の基本的発想です。
西洋では、自由を命より大事なものと考えているので、自由を奪うだけで十分だとされています。しかし、中国などの東洋の国では、伝統的に命を一番大事としてきたので、...続きを読む

Q挑発的に振舞う人間は、賢くて優れた人間、または環境によく適応した健全な人間ですか?

こんばんは。

私の知人が、挑発的に振舞う(相手の怒りや暴力を誘うかのように、ルールを破ったり、嘘をついたり、騙したり、陥れたり、馬鹿にしたりするような)人間を肯定します。
その大略は以下の通りです。


○その行動に違法性が無ければ問題ない。違法性があっても、捕まらなければ問題ない。捕まっても、それに見合った適正な処罰を受ければ良いだけの話。

○そのような人間は、法律に守られながら、そのように振舞うことによって、(精神的または物質的に)何らかの利益を得ている訳だから、それは賢くて優れた人間、または環境によく適応した健全な人間だ。
逆に、それによって被害を被るような人間は、愚かで劣った取るに足りない人間だ。


この知人の言っていることは正しいのでしょうか?(実際、この知人は、そのように行動しているようです)

真面目に生きるのは馬鹿なの? という嫌な思いが過ぎった為、質問させて頂きました。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

この知人氏の様な人は、結局は損をします。

人間、法律などと言う以前に、相手を尊重しなければ自分も尊重されないものです。尊重されない人間が、どうして賢くて優れた人間なのでしょうか、どうして環境によく適応した健全な人間なのでしょうか(この辺り価値観の違いかも知れませんが)。


歴史を繙くと、たとえば柴田勝家という人が居ます。彼は越中の国(現在の富山)の攻略を命じられた際、その守備隊(上杉家と越中の地侍)をだまし討ちにしています。
その結果、本能寺の変の際に京都へ兵を出すことが、背後を狙われているために出来ず、距離的に遙かに遠くにいた羽柴秀吉が明智光秀を討ち、天下を取り逃がしてしまいました。

結局、この世の中は人間同士で成り立っているのです。真面目すぎるのも考え物ですが、この知人氏の様な生き方も考え物です。


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