誕生日にもらった意外なもの

 時間というものの正体がどうやら相対的であることは
 それこそ釈迦以来の仏教哲学や最近ではアインシュタイン以来
 サイエンスの理論上も、真理であるようですが
 しかし、私には
 どうしてもその「相対性」が納得できません。
 
 詰め将棋や数学の例を借りて言ってみましょう。
 ここに、ひとつの問題があるとします。
 それが何分も「解けない」状態にあって、
 あるきっかけでやっと「解けた」とします。
 そうやって解けた後で、解けなかった過去を
 振り返ってみると分ることがあります。
 
 それは、解けない状態にある間は、
 xxxxという道筋をたどれば解けそうな気がする
 そういう道筋に自分の思考が空回りして
 しまっていたと言うことです。

 さて、時間という哲学的課題に関して
 私はどんなところで、どういう迷路に
 入り込んでしまっていてどんな空回りを
 しているのでしょうか?
 
 かつてこの問題をお考えになったことの
 ある方の回答をお待ちします。 
 
 

A 回答 (16件中1~10件)

批判だけなら誰にでも出来ますし、科学者は批判だけでは成り立ちません。

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物理学的な時間軸は原点をどこに取ろうと実在するものだと思いますが、人間の頭の作用による時間はあくまで現在脳の中で起こっている現象にすぎないのではないでしょうか。

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時間の相対性は、時間の同時性が否定され、ある地点の1秒は、他の地点の1億年に相当するというようなことなのですが、ご質問で問われているのは少し違うようです。



時間を認識する側で思考の空回りは、時間の停止、あるいは、外から見ると永遠を示唆していて、そこからの飛躍が「解けた」というそれまでとは異なるシナプスの発火があったということ。すなわち、状態の同一性を時間の停止、状態の変化を時間の進行と捉えているという見解です。
これがある意味で真理を突いていて、状態の変化こそが時間であるということでよろしいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

うーーーん。 
 すみませんがよく分りません。
 回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2009/04/03 23:50

相対時間に対して、絶対時間があります。

仏教ではこの世界を、仮の世界といいます。地球は、脳と自然の神が対立し交わるシュミレーションの世界です。だから相対時間の世界です。だから始めと終わりがあります。2012年が終わりとか言われています。これに対して絶対時間は、永遠に続く時間です。宗教で言えば神の世界、仏の世界です。宇宙の大元の、完全調和の世界です。宇宙が成長、拡大するために、不完全不調和を調和に変換する場所として、地球が創造されました。
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[さて、時間という哲学的課題に関して私はどんなところで、どういう迷路に入り込んでしまっていてどんな空回りをしているのでしょうか?]



時間と空間の認識の問題ということですね。時間は3次元空間が創造されたときに同時に創造されたものですね。つまり、時間は3次元空間と一対のものであってそれ以外のものではないということです。ところが意識的に認識できる空間というのは多次元であるところに時間と空間の認識のずれが生まれるのですね。時間の一点(同時刻)に複数の認識空間(多次元空間)が存在しています。思考・認識が3次元空間を離れたとき、多次元意識空間には、時間は存在せずただ原因結果の連鎖のみがあるということです。思考の過程(空回りなど)は原因結果の連鎖のみの状態(3次元以外の認識空間)に入っているわけです。それがどれほどの時間であったかは一度3次元空間の自身に戻らない限り測定できないということですね。一秒で一生涯の思考もできますし、短い思考の空回りが気がつけば1時間である場合もあるわけです。時間と空間の不思議ですね。
それから物理的な相対論は3次元空間限定の時空間の問題ですから特殊で限定的なものですね。それに比べて意識の時空間はるかに広大無辺ということで不思議な差異が生じるのですね。
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この回答へのお礼

ひそかに mmky さんの登場をお待ちしていました。
 仏教教理に造詣が深い方だと感銘していたからです。
 まずは、ご登場ありがとうございます。
 
 では、各論に行きますと、まず
 <<時間は3次元空間が創造されたときに同時に
 創造されたものですね。>>
 
 そうですね。難解とされるハイデッガーの「存在と時間」でも
 結局は、そのことを詳細に説いてあるように思います。
 
 <<ところが意識的に認識できる空間というのは多次元で
 ある・・・以下>>

 要するに、時間の流れというものも、それを認識する
 側(認識者)の数だけある → したがって限りなく多次元である
 ということでしょうか?
 そのことは個体における時間意識が違うことから
 うすうす類推は出来ます。
 ところがです。
 それを認めるならば、時間は「私」という認識者が誕生した
 → あるいは、認識を始めた瞬間から生じ、
 「私」という認識者が死滅した瞬間に消滅するということにつながるのでは
 ないでしょうか?
 
 ところが一方では、「私」という個体が消滅した後でも
 絶対空間が存在し続けるようにも思えますし、
 現に300年前に生きた人間が死滅した後にも(現に)
 「私」という存在が出現している以上、
 やはり相対認識を超えて、絶対空間が存在しているのが
 「当然」のように思えます。

 もちろん
 そうなると、問いの立て方を変えなければいけないのかも
 しれません。
 そもそも私という「認識主体」は個体の消滅後
 どこに消えるのでしょうか?
 あるいは、3000年前に生きた仏陀の意識は
 今でもどこかに生き残っているのでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 

 
 

お礼日時:2009/04/04 17:01

物理で飯を食っている者の立場から一言。



物理学でも、時間には2種類在ります。一つは、時空の幾何学のパラメターとして、ガリレオやアインシュタインの相対性理論で語られている「時間」のことです。これは、摩擦が無視できるような単純な振り子運動のような周期運動の繰り返しの数で計られる時間です。例えば、ここに異なる時間に撮った数枚の振り子の写真があったとします。その写真をトランプのように十分に切って順番を混ぜこぜにしてから、貴方に、元通りの時間の順序に並べてくれ、と言ってもそれは無理ですね。このように、相対性理論等に現れる時間には、特別な時間の向きが存在していません。実際、物理学の基本方程式呼ばれている物は、全て、時間の符号をブラスからマイナスに入れ替えても、方程式の形が変わりません。このことを、物理学の専門用語では、物理学の基本方程式は時間の向きにの反転に対して対称である、と表現します。

ところが、何年間か離れた何枚かの貴方の顔写真をデタラメに並べても、すぐに時間の順番通りに並べられますね。この場合、たった一枚の一瞬の「時間」の断面の中に、その人の歴史としての「時間」が刻み込まれております。これは、物の繰り返しによって計られる時間ではなくて、物理系の構造の複雑さを基準にして計られる時間で、熱力学でいうエントロピー増大の法則と呼ばれる法則に関係した「時間」のことです。エントロピーとは乱雑さを表す量のことです。物理学の一部である熱力学では、時間は常に過去から未来へと一方方向に流れ、その向きとは、その物理系を放っておくと、崩壊して乱雑さが増大する方向に向かっている事を主張しております。そして、それと同時に、その時間に向きが在るために、もしその物理系が外界に開かれていて、物質や情報の遣り取りが出来ると、その物理系に自発的に複雑な構造が現れて来ることも主張しております。

質問者さんの言う詰め将棋や数学で解けたときなどの創造的な営みで計られる時間は、相対性理論で言う「時間」のことではなく、この熱力学的に認識されている「時間」のことです。創造的な営みは、それが達成した時に明らかに、それ以前と以後で状態が完全に違っているので、この場合の「時間」の符号を入れ替えた時の数学的な表現は同じになりません。このことを、物理学の専門用語では、熱力学に表れる運動方程式は、時間の向きの反転に対して、時間の対称性が破れている、と表現します。そして、この創造のなされた瞬間にいきなり大きく時間が進むのです。さらに、ここで言う「時間」とは時空の単なる幾何学のパラメータではなく、物語の語り口としての事象の流れを記述する物理量のことです。

したがって、相対性理論で言う時間と熱力学で言う時間の間には、明らかに矛盾が在ります。この矛盾をどう解決するかは、未だに物理学の大問題の一つになっています。相対性理論も、熱力学も、両方とも数限りなくその正当性が確認されているので、一方が正しく、他方が間違っていると言うような問題ではなく、この矛盾は深刻なのです。

そのことに関していろいろな意見が在りますが、極端なのはアインシュタインの意見です。アインシュタインは自分の相対性理論に魅せられた方ですので、彼は「時間は幻想である」と主張しております。しかし、相対性理論を発見した彼の創造的な営みの結果、それの発見前と発見後に世界は全然変わってしまったので、彼の主張には内部矛盾が在るようです。

先ほどの例で、人の顔写真による瞬時の断面から、我々は、顔の部分と他の部分の位置関係、専門語で言うと「空間的な相関」を感じ取っております。その相関の違いを、時間の経過として我々は「時間」を認識することも出来るのです。これは、周期運動が何回起こったかと言う認識とは、また別の認識の仕方です。ところが、「相関」と言う概念は確率論的な要素を含んでおり、物理学では現在のところ、「力」や「相互作用」という概念程には徹底的に論じ尽くされてはおりません。力や相互作用ではなく、相関の中を流れる「時間」は、我々が通常直感的に感じている生物の進化や歴史の中を流れる時間や、複雑系の構造とは何か、あるいは創造性とは何かと言う問いに直結しているものですので、これからの若い方に是非チャレンジして頂きたい、物理学の大問題の一つなのです。
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質問の意味が理解しかねますので、補足してください。



>どうしてもその「相対性」が納得できません。
質問にある「相対性」とは自然科学的なものですか、それとも哲学的なものですか?

>それは、解けない状態にある間は、
 xxxxという道筋をたどれば解けそうな気がする
 そういう道筋に自分の思考が空回りして
 しまっていたと言うことです。

 この場合、思考が空回りしたというよりも、考えられる限りの解を考えていたということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 「相対性」とは、自然科学的なものであり、同時に
 哲学的なものです。
 自然科学も哲学も起源は同じであるように
 「真理」であれば、同じものであるはずです。
 

 <<この場合、思考が空回りしたというよりも、
 考えられる限りの解を考えていたということではないでしょうか。>>
 そのとおりです。
 考えられる限りの解を考えていたわけです。
 ところが、そのことが「解けた後」から
 考えると、空回りだったという意味です。
 
 よろしくお願いします
 
 

お礼日時:2009/04/05 11:41

物理学での有限領域を持った唯物的局在の概念では、マクロ系でも相対性理論において時間遅延が発生することになるが、


これは完全な誤りである。  私的意識において、この “ 今 “ が特定されねば過去も未来も成立しない。

この、過去 ・ 現在 ・ 未来という時間の流れについてその本質を探究する。 これは人間に意識というものが存在して、
それが “ 他から影響されない自律性 “ であることで初めて、時間ということが認識される。
その自由意志なるものが “ 決定論的な物質作用の連鎖 “ から独立しており、その独立する意識が “ 個 “ であるためには、
それが認識される “ 求心性 “ をどこかに作る必要がある。

時間とは、独立した個体においてその個体から発現するとみなせる “ 意識的な自律性 “ を有する生物系では、
未来とされる複数の現象可能性の中から、その自律性ないしは自由意志によって一つの可能性が選択されることで、
その個体において決定された一つの世界となりこれが過去とされる。
また一つの可能性が選択される瞬間は、その個体において “ 一瞬間である現在 “ となる。

これは私的意識での “ 絶対的な今の瞬間 “ であり、その瞬間が “ 自己 “ であるための求心性である。
このように時間とは、状態変化を単なる一定率で計るようなものではなく、意識を有する生物系においてこのような
劇的な変化を “ 自ら参加して作り出す “ ことで認識される。 これは “ 自由意志 “ が在ることで初めて可能になる。

つまり人工知能での、求心点を持たない “ 継続的変化の記録あるいは記憶 “ だけでは “ 永遠の今現在 “ となって
しまう。 ここに、過去 → 現在 → 未来という時間の流れが生じるには、この求心点という “ 今という瞬間 “ が、
何によって決定されるのかを考える必要がある。
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*** 自己という “ 自 “ の起原について ***     睡眠時には意識は無になるだろうか



この指摘は重要だろう。 睡眠する個体は生体活性を有しており死亡してはいない。 死亡することは生体活性が停止
して機能や構造の崩壊が本格的に始まることだが、死亡した時点において初めて “ その個体の個有の意識 “ は無に
なったと言えるのではないか。
生存中の個体の睡眠時の意識の在り様と、死亡した個体の意識の在り様とは明らかに違うと言える。

量子力学からの知見に元づく微細領域の様相として、その極限域では何の差異も無い全平衡に “ 限りなく近づく “ ことで、
それが “ それ自体の自 “ の起原でもあり、人間が知り得る現象は、マクロ領域の “ 現象の一意性 “ だけではなく、
微細領域ではそれと共にその固有状態が薄れて、連続性を持った共同同一体でもあるような “ 汎関係性 “ が同時同在している
ことが、“ 意識 “ の起原であると思われる。

現実として存在する全ての形象での微細領域の極限域では、そこでの全ては他と何の差異も無い “ 完全平衡 “ であり、
このような状態が “ 存在の始原 “ として在るからこそ “ それ自体の自 “ として、個体行為での主体と成りえる。

生体の覚醒時でも睡眠時でもこの完全平衡な領域は存在しており、脳活性による覚醒時ではそれが在ることで “ 主体 “
としての自己意識が生じる。 この意識活動ではその個体の履歴によって生じる現象可能性が在り、個体の意志選択に
よって可能性は一つの現象に決定され、この瞬間に “ その個体での “ 不確定な未来と決定された過去を峻別する現在
が生じて “ その個体での “ 時間となる。
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*** マクロ系において相対論の時間遅延は生じない ***



双子がいて、高速運動系は高速A ・ 静止系にいるのは静止Bとして、高速Aが10時間経過したのに対して
静止Bは20時間経過したとする。  高速Aは、高速運動するロケット内部を記録するため20時間位
記録可能なビデオテープを使用して、発進から帰還までの10時間を撮影して帰還した。
さてここで問題です。
・ その記録テープを、元々静止系にあった同じ撮影機器で再生して全部見ると何時間何分かかるだろうか。

答えは10時間です。 例えば運動系と静止系のそれぞれは同じ細長いテープを持ち、テープには1分単位ごとに一マスの
区切りがあり、そこへ1分に1回づつ一マスに点を機械作業として打っていくとすれば、その作業遂行に要する時間は
双方で差違が生じるが、帰還した時点で ” テープ自体に伸縮などの変化は起きない “ ので10時間ぶんの点の数がある。

それではもう一度問題です。 上記と同じ設定で、
高速Aは、高速運動するロケット内部を記録するため、 “ 撮影と同時に生成されるビデオテープ “ を使用して、
発進から帰還までの10時間を撮影して帰還した。
・ その記録テープを元々静止系にあった同じ撮影機器で再生しようとするとそれは可能か。

実際には “ 撮影と同時に生成されるビデオテープ “ なるものは有りませんが、これは人間の記憶を考える場合に、
容貌には相応の変化が生じるように脳も同様に “ 時間差異 “ による変化が生じるなら、記憶などの生化学的過程は
機械のような“ 固定構造 “ ではないから、それを喩えれば、
記録機器の内部構造やテープの長さであっても刻々と変化していることになり、運動系と静止系での、脳の思考遂行時
での脳の各部分の状態は同一ではなく、その中での思考速度や記憶内容には相違が生じるように思われる。
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